大岡越前との面会を終えた清十郎は、南番所を後にした。
空を見上げると、まだ昼を少し過ぎた頃合いである。
(さて、千代が心配しておるだろうな)
そんなことを考えながら日本橋へ向かって歩いていると、前方から慌てた様子で駆けて来る男が見えた。
「あっ!先生!」
声を掛けてきたのは大黒屋の手代、喜助だった。
喜助は清十郎を見つけるなり安堵の表情を浮かべる。
「先生!丁度いいところへ。実はお宅に伺うところだったんですよ」
「何か用か?」
「旦那様が大事な話があるからという事で呼びに来たんですよ」
「大事な用?」
「詳しい話は分からないんですが、急いで呼んで来いとの事で……」
清十郎は頷いた。
「分かった。では参ろう」
二人はそのまま大黒屋へ向かった。
大黒屋は日本橋でも有数の大店である。
元は小さな両替商だったが、主人の宗右衛門は商才に恵まれていた。
呉服問屋、小間物問屋を次々と手掛け、自ら店まで開く。
さらに問屋から自分の店へ商品を安く卸し、他店より安値で販売することで客を集めた。
特に女性客の心を掴むのが上手く、今では江戸でも知らぬ者の少ない成功者となっている。
もっとも本人は今でも昔と変わらぬ気さくな男だった。
奥の座敷へ通されると、宗右衛門は既に待っていた。
「先生!お待ちしておりました」
「大黒屋さん。今日はいったい何の御用で?」
宗右衛門は表情を引き締める。
「実は昔から懇意にしている米問屋の越後屋さんを助けて頂きたいんです」
「どういうことですか?」
宗右衛門は事情を説明した。
越後屋は幕府へ献上する米を扱う御用達商人である。
しかし最近、その輸送路で盗賊被害が相次いでいるという。
「蕨宿と板橋宿の間に大規模な盗賊団が出没しているそうなんです。規模が大きく、お上ですら返り討ちに遭って尻尾を掴めないとか」
宗右衛門は声を潜めた。
「さらに、お上御用達の利権を狙う商売敵が盗賊どもを支援しているという噂もありまして……」
清十郎は眉を上げる。
「なるほど」
「先生の腕なら盗賊ごときに後れを取ることもないでしょう。越後屋さんは私の恩人なんです。何とか助けてやっちゃくれませんか?」
宗右衛門は深々と頭を下げた。
清十郎は即答した。
「分かりました。大黒屋さんには贔屓にしてもらっている。その恩人という事であれば引き受けましょう」
宗右衛門は顔を輝かせた。
「ありがとうございます!」
そして喜助へ命じる。
「先生を越後屋さんのところへご案内しろ」
喜助に案内され、清十郎は越後屋へ向かった。
店へ着くと座敷へ通される。
しばらく待っていると、五十代半ばほどの貫禄ある男が現れた。
「私が越後屋吉兵衛です。こちらは番頭の茂吉です」
二人は丁寧に頭を下げた。
吉兵衛は早速本題へ入る。
「大まかな話は大黒屋さんから聞いていると思いますが……」
そうして輸送計画を説明する。
越後から運ばれてきた米は大八車一台につき六俵、大八車が三台で合計十八俵。
宿場二つごとに担当を替えながら江戸へ向かう。
蕨宿からは、番頭の茂吉が手代三名と丁稚十五名を連れて、越後屋まで運ぶ。
上尾宿に着いた時点で飛脚が知らせに来るので、越後屋を出立。
蕨宿で荷を受け取る算段。
問題は蕨宿から板橋の宿までの区間だった。
ここが盗賊団の縄張りになっているのである。
説明を聞き終えた清十郎は尋ねた。
「大黒屋さんの話では、お上御用達の利権を狙う者が賊の後ろ盾になっているとのことだが」
吉兵衛は困ったように笑った。
「あくまでも噂です。確証がある訳では御座いませんので」
「もし今回失敗したら、次のお上御用達は誰になるであろう?」
「おそらく井筒屋利兵衛でしょうな」
「井筒屋か」
「御旗本の岡野成旭(おかのなりてる)様が後ろ盾に付いております。無役とはいえ、九百五十石の直参のお旗本、それなりの影響力はあると思います」
清十郎は静かに頷く。
「なるほど。それでは今回の賊の中には侍も混じっている可能性があるな……」
吉兵衛の顔に不安が浮かんだ。
「大丈夫でしょうか……?一応、先生の他にも用心棒を二十名ほど雇っておりますが……」
「心配はござらん」
清十郎は平然と言った。
「上納米は必ず守ってみせましょう」
吉兵衛は思わず身を乗り出した。
「おお!何と頼もしい!」
そして少し声を潜める。
「ところで先生。報酬の方はいかほどをお望みで……?」
清十郎は少し考えた後、答えた。
「……箱一つ」
吉兵衛は瞬きをした。
「箱一つ?」
「左様」
「まさか……千両箱の事で?」
「無論」
吉兵衛と茂吉は顔を見合わせた。
部屋の空気が凍る。
(何と法外な……)
吉兵衛は冷や汗を流した。
しかし大黒屋宗右衛門が絶賛していた男である。
背に腹は代えられない。
しばらく悩んだ末に決断した。
「茂吉、持ってきなさい」
やがて茂吉が重そうに千両箱を運んでくる。
清十郎はそれを受け取った。
そして次の瞬間。
「何だこれは!?」
突然立ち上がる。
「バカにしておるのか!?」
千両箱をひっくり返した。
小判が畳の上へ盛大に散らばる。
吉兵衛と茂吉は飛び上がった。
「ど、どうされました!?」
清十郎は怒鳴る。
「某は箱が欲しいだけだ!中身はいらん!」
「は?」
二人は完全に固まった。
吉兵衛は恐る恐る尋ねる。
「箱だけでよろしいので……?」
「左様」
清十郎は空になった箱を満足そうに撫でた。
「傘張りの道具を入れるのに丁度良いし、頑丈そうなので前々から欲しかったのだ」
そして真顔で続ける。
「大黒屋さんにも何度か頼んだのだがな。どうしても金子で払わせろと言って箱はくれなかった」
吉兵衛と茂吉は呆然としていた。
「箱を頂けるのであれば非常に有難い。今回の依頼、必ずやり遂げようぞ」
吉兵衛は半ば諦めたように頷く。
「どうぞ、宜しくお願い致します」
茂吉も説明を始めた。
「飛脚が参りましたらお呼びに上がります。それまではご自宅でお待ち下さい。おそらく三日から五日ほどかと思われます」
「あい分かった」
清十郎は満面の笑みで千両箱を抱えた。
まるで宝物でも手に入れた子供のようだった。
そのまま上機嫌で帰っていく。
残された吉兵衛は呆然とその背中を見送った。
やがて茂吉が不安そうに呟く。
「大丈夫でしょうか……?」
吉兵衛は苦笑した。
「分からん」
そして一拍置いて続ける。
「しかし大黒屋さんを信じよう」
もっとも、その言葉には自分自身を安心させる意味も含まれていた。
空を見上げると、まだ昼を少し過ぎた頃合いである。
(さて、千代が心配しておるだろうな)
そんなことを考えながら日本橋へ向かって歩いていると、前方から慌てた様子で駆けて来る男が見えた。
「あっ!先生!」
声を掛けてきたのは大黒屋の手代、喜助だった。
喜助は清十郎を見つけるなり安堵の表情を浮かべる。
「先生!丁度いいところへ。実はお宅に伺うところだったんですよ」
「何か用か?」
「旦那様が大事な話があるからという事で呼びに来たんですよ」
「大事な用?」
「詳しい話は分からないんですが、急いで呼んで来いとの事で……」
清十郎は頷いた。
「分かった。では参ろう」
二人はそのまま大黒屋へ向かった。
大黒屋は日本橋でも有数の大店である。
元は小さな両替商だったが、主人の宗右衛門は商才に恵まれていた。
呉服問屋、小間物問屋を次々と手掛け、自ら店まで開く。
さらに問屋から自分の店へ商品を安く卸し、他店より安値で販売することで客を集めた。
特に女性客の心を掴むのが上手く、今では江戸でも知らぬ者の少ない成功者となっている。
もっとも本人は今でも昔と変わらぬ気さくな男だった。
奥の座敷へ通されると、宗右衛門は既に待っていた。
「先生!お待ちしておりました」
「大黒屋さん。今日はいったい何の御用で?」
宗右衛門は表情を引き締める。
「実は昔から懇意にしている米問屋の越後屋さんを助けて頂きたいんです」
「どういうことですか?」
宗右衛門は事情を説明した。
越後屋は幕府へ献上する米を扱う御用達商人である。
しかし最近、その輸送路で盗賊被害が相次いでいるという。
「蕨宿と板橋宿の間に大規模な盗賊団が出没しているそうなんです。規模が大きく、お上ですら返り討ちに遭って尻尾を掴めないとか」
宗右衛門は声を潜めた。
「さらに、お上御用達の利権を狙う商売敵が盗賊どもを支援しているという噂もありまして……」
清十郎は眉を上げる。
「なるほど」
「先生の腕なら盗賊ごときに後れを取ることもないでしょう。越後屋さんは私の恩人なんです。何とか助けてやっちゃくれませんか?」
宗右衛門は深々と頭を下げた。
清十郎は即答した。
「分かりました。大黒屋さんには贔屓にしてもらっている。その恩人という事であれば引き受けましょう」
宗右衛門は顔を輝かせた。
「ありがとうございます!」
そして喜助へ命じる。
「先生を越後屋さんのところへご案内しろ」
喜助に案内され、清十郎は越後屋へ向かった。
店へ着くと座敷へ通される。
しばらく待っていると、五十代半ばほどの貫禄ある男が現れた。
「私が越後屋吉兵衛です。こちらは番頭の茂吉です」
二人は丁寧に頭を下げた。
吉兵衛は早速本題へ入る。
「大まかな話は大黒屋さんから聞いていると思いますが……」
そうして輸送計画を説明する。
越後から運ばれてきた米は大八車一台につき六俵、大八車が三台で合計十八俵。
宿場二つごとに担当を替えながら江戸へ向かう。
蕨宿からは、番頭の茂吉が手代三名と丁稚十五名を連れて、越後屋まで運ぶ。
上尾宿に着いた時点で飛脚が知らせに来るので、越後屋を出立。
蕨宿で荷を受け取る算段。
問題は蕨宿から板橋の宿までの区間だった。
ここが盗賊団の縄張りになっているのである。
説明を聞き終えた清十郎は尋ねた。
「大黒屋さんの話では、お上御用達の利権を狙う者が賊の後ろ盾になっているとのことだが」
吉兵衛は困ったように笑った。
「あくまでも噂です。確証がある訳では御座いませんので」
「もし今回失敗したら、次のお上御用達は誰になるであろう?」
「おそらく井筒屋利兵衛でしょうな」
「井筒屋か」
「御旗本の岡野成旭(おかのなりてる)様が後ろ盾に付いております。無役とはいえ、九百五十石の直参のお旗本、それなりの影響力はあると思います」
清十郎は静かに頷く。
「なるほど。それでは今回の賊の中には侍も混じっている可能性があるな……」
吉兵衛の顔に不安が浮かんだ。
「大丈夫でしょうか……?一応、先生の他にも用心棒を二十名ほど雇っておりますが……」
「心配はござらん」
清十郎は平然と言った。
「上納米は必ず守ってみせましょう」
吉兵衛は思わず身を乗り出した。
「おお!何と頼もしい!」
そして少し声を潜める。
「ところで先生。報酬の方はいかほどをお望みで……?」
清十郎は少し考えた後、答えた。
「……箱一つ」
吉兵衛は瞬きをした。
「箱一つ?」
「左様」
「まさか……千両箱の事で?」
「無論」
吉兵衛と茂吉は顔を見合わせた。
部屋の空気が凍る。
(何と法外な……)
吉兵衛は冷や汗を流した。
しかし大黒屋宗右衛門が絶賛していた男である。
背に腹は代えられない。
しばらく悩んだ末に決断した。
「茂吉、持ってきなさい」
やがて茂吉が重そうに千両箱を運んでくる。
清十郎はそれを受け取った。
そして次の瞬間。
「何だこれは!?」
突然立ち上がる。
「バカにしておるのか!?」
千両箱をひっくり返した。
小判が畳の上へ盛大に散らばる。
吉兵衛と茂吉は飛び上がった。
「ど、どうされました!?」
清十郎は怒鳴る。
「某は箱が欲しいだけだ!中身はいらん!」
「は?」
二人は完全に固まった。
吉兵衛は恐る恐る尋ねる。
「箱だけでよろしいので……?」
「左様」
清十郎は空になった箱を満足そうに撫でた。
「傘張りの道具を入れるのに丁度良いし、頑丈そうなので前々から欲しかったのだ」
そして真顔で続ける。
「大黒屋さんにも何度か頼んだのだがな。どうしても金子で払わせろと言って箱はくれなかった」
吉兵衛と茂吉は呆然としていた。
「箱を頂けるのであれば非常に有難い。今回の依頼、必ずやり遂げようぞ」
吉兵衛は半ば諦めたように頷く。
「どうぞ、宜しくお願い致します」
茂吉も説明を始めた。
「飛脚が参りましたらお呼びに上がります。それまではご自宅でお待ち下さい。おそらく三日から五日ほどかと思われます」
「あい分かった」
清十郎は満面の笑みで千両箱を抱えた。
まるで宝物でも手に入れた子供のようだった。
そのまま上機嫌で帰っていく。
残された吉兵衛は呆然とその背中を見送った。
やがて茂吉が不安そうに呟く。
「大丈夫でしょうか……?」
吉兵衛は苦笑した。
「分からん」
そして一拍置いて続ける。
「しかし大黒屋さんを信じよう」
もっとも、その言葉には自分自身を安心させる意味も含まれていた。



