翌日、昼四つ――今の時刻で言えば午前十時頃。
長谷川町の甚兵衛長屋では、橋本清十郎が縁側に腰を下ろし、一本の傘を仕上げていた。
細く割った竹を組み上げ、糸を張り、和紙を貼る。
その手つきは熟練の職人そのものである。
もっとも、本人は決して職人を名乗らない。
あくまで趣味だと言い張っている。
その時だった。
「先生!先生!」
長屋の外から大きな声が聞こえてくる。
清十郎が戸を開けると、そこには傘屋の上州屋勘兵衛が立っていた。
「上州屋さん、どうしました?」
勘兵衛は愛想よく頭を下げる。
「近くに用事がありまして、ついでに先生のところに寄って、出来上がった分があれば持っていこうかと」
清十郎は入口脇を指差した。
「そこに十本ほどあるから持っていってくれ」
勘兵衛は並べられた傘を一本手に取る。
傘を開き、骨組みを確かめる。
紙の張り具合を見る。
そして感嘆の声を漏らした。
「流石、先生!いつもながら見事な出来栄えです!青山百人町の職人たちに勝るとも劣らない!」
さらに別の一本を開く。
「軽いのに丈夫だ。先生の傘は町娘たちにも評判でしてな。これを目当てに店へ来る客もおります」
清十郎は苦笑した。
「いやいや、某は趣味でやっているだけ。本職の方には敵わんよ」
「またそのようなことを」
勘兵衛は呆れたように首を振る。
「趣味でこれだけの物を作る方を私は他に知りませんぞ」
そう言って代金を渡すと、十本の傘を抱えて帰っていった。
その様子を見ていた千代が言う。
「おとっつぁん、本当に傘張りが好きなのね」
「ああ」
「好きだけでそこまで出来るものなの?」
「好きだから出来るのだ」
清十郎は真面目な顔で答えた。
千代は理解できないという顔をした。
それから半時ほど後。
再び来客があった。
戸を叩く音に気付き、千代が玄関へ向かう。
「はい」
戸を開けると、一人の侍が立っていた。
二十代後半ほどの若い男である。
侍は千代の顔を見るなり言葉を失った。
(なんと美しい娘だ……)
思わず見惚れてしまう。
日本橋界隈では知らぬ者のないほどの評判の娘である。
その美しさは、初めて見る者なら誰しも足を止めてしまうほどだった。
「あのう……?」
千代に声を掛けられ、侍は慌てて我に返った。
「せ、拙者、南町の同心で、谷川助左衛門と申す。橋本清十郎という浪人がここに住んでいると聞いて参ったのだが間違いないか?」
千代は家の中へ振り返る。
「おとっつぁん、南番所の方よ」
清十郎は立ち上がり、千代に代わって戸口へ出た。
「某が橋本清十郎でござる」
谷川は一礼する。
「南町の同心、谷川助左衛門と申す。お奉行がお召だ。南番所まで同行して頂きたい」
やはり来たか。
昨夜の件を思い出しながら清十郎は頷いた。
「承知仕った」
そして千代へ声を掛ける。
「それじゃ、行ってくるぞ」
千代は不安そうな顔をした。
「おとっつぁん、大丈夫?」
「心配するな。大丈夫だ」
清十郎はそう言うと谷川へ向き直る。
「では、参ろう」
二人は長屋を後にした。
奉行所は北町奉行所と南町奉行所に分かれていた。
もっとも、それは管轄地域によるものではない。
月番制と呼ばれる制度によって、一か月ごとに北と南が交代で町政や裁判を担当していたのである。
非番だからといって休みになるわけではなく、内部の事務や調査などは引き続き行われていた。
なお、“奉行所”という呼び方は役職の“奉行”から来ているもので正式な故障ではない。その為、町人たちは奉行所とは呼ばない。
北番所、南番所、あるいは単に御番所と呼ぶことが多かった。
道中、清十郎が尋ねる。
「お奉行からお召があるとは思ってましたが、同心の方がわざわざ呼びに来て下さるとは思いませんでした」
谷川は苦笑した。
「人手不足でな」
「御番所ほどのところでもでございますか」
「三年前に上様が『目明し廃止令』を出されてから大っぴらに目明しを使えなくなった。その上、昨年は中町奉行も廃止されたからな」
目明しとは岡っ引きとも呼ばれる存在である。
元は盗人や博徒などの咎人(とがにん=罪人)であることが多く、罪を減じられる代わりに御用聞きを務めていた。
町の裏事情に精通しているため重宝されたが、その一方で奉行所の威光を笠に着て悪事を働く者も少なくなかった。
吉宗はこれを問題視し、享保二年に目明し廃止令を出している。
また、中町奉行は北町奉行所と南町奉行所の補佐役とも言うべき役職であったが、享保四年、倹約政策の一環として廃止された。
結果として町奉行所の負担は以前より増している。
「おかげで皆、てんてこ舞いよ」
谷川は肩を竦めた。
そんな話をしているうちに南番所へ到着した。
清十郎は詮議部屋へ連れて行かれるものと思っていた。
しかし案内されたのは客間だった。
(これは意外だな)
座って待っていると、一人の侍が入ってくる。
年の頃は四十代前半。
柔和な顔立ちだが、その目には鋭い知性が宿っている。
男は上座へ腰を下ろした。
「私が南町奉行、大岡越前守忠相だ。その方が橋本清十郎か?」
清十郎は頭を下げる。
「はい。橋本清十郎に御座います」
大岡は頷いた。
「上様に助太刀してくれたそうだな。礼を仰ってたぞ」
清十郎は慌てて平伏した。
「ははっ!有難き幸せに御座います」
「ただし、上様がお一人で城の外に出て悪人を直接成敗するなど、本来はあり得ぬ事。この事は内密にしてくれ」
「承知仕って御座います」
「清十郎、頭を上げよ。今回の件について詳しく話してくれぬか」
清十郎は備中屋から用心棒の依頼を受けた経緯から、昨夜の出来事まで包み隠さず話した。
大岡は途中で口を挟まず最後まで聞く。
そして話が終わると満足そうに頷いた。
「よく分かった。手数をかけたな」
少し間を置いて続ける。
「ところで、お主に一つ相談があるのだが」
「何でございましょう?」
「上様に限らず、実は私も一人で悪人の取り締まりに向かう事がある。番所は人手不足でな」
それは決して大袈裟な話ではない。
町奉行は裁判、行政、警察、消防など幅広い職務を担っていた。
その業務量は膨大である。
しかし奉行所に勤める者は一所につき与力二十五騎、同心百人ほど。
南北合わせても与力五十騎、同心二百人。
百万人都市へと成長しつつあった江戸を支えるには決して十分な人数とは言えなかった。
現在の東京都庁の職員が三万人を超える事を考えれば業務内容の割に人手がかなり少なかったことは想像に難くない。
大岡は続ける。
「そこで相談なのだが、今後、お主には色々と力を貸してほしいのだ。浪人という身分であれば用心棒として潜入したり等、我々には出来ない事が色々とできるであろう」
清十郎は少し考えてから口を開いた。
「ひとつ、質問がございます」
「何だ?」
「この様な人手不足な状態で、何故、上様は目明しの廃止令を出したのでしょう?」
大岡は頷いた。
「目明しのほとんどが咎人なのだ。改心してお上の御用を務める者もいるが、お上の威光を笠に着て、ゆすりたかり、袖の下、罪人の隠匿等、やりたい放題の者が多いのもまた事実。それを憂慮しての目明し廃止令なのだ」
清十郎は静かに頷く。
「なるほど、分かりました。江戸の町の治安が良くなればそれだけ娘も安心して暮らせます。その為でしたら、某の力、存分にお役立て下れませ」
大岡は満足そうに笑った。
「それは有難い。では宜しく頼むぞ」
そして、ふと思い出したように言った。
「ところで、私からも質問があるのだが」
清十郎は首を傾げる。
「何でございましょう?」
客間に一瞬の沈黙が流れた。
長谷川町の甚兵衛長屋では、橋本清十郎が縁側に腰を下ろし、一本の傘を仕上げていた。
細く割った竹を組み上げ、糸を張り、和紙を貼る。
その手つきは熟練の職人そのものである。
もっとも、本人は決して職人を名乗らない。
あくまで趣味だと言い張っている。
その時だった。
「先生!先生!」
長屋の外から大きな声が聞こえてくる。
清十郎が戸を開けると、そこには傘屋の上州屋勘兵衛が立っていた。
「上州屋さん、どうしました?」
勘兵衛は愛想よく頭を下げる。
「近くに用事がありまして、ついでに先生のところに寄って、出来上がった分があれば持っていこうかと」
清十郎は入口脇を指差した。
「そこに十本ほどあるから持っていってくれ」
勘兵衛は並べられた傘を一本手に取る。
傘を開き、骨組みを確かめる。
紙の張り具合を見る。
そして感嘆の声を漏らした。
「流石、先生!いつもながら見事な出来栄えです!青山百人町の職人たちに勝るとも劣らない!」
さらに別の一本を開く。
「軽いのに丈夫だ。先生の傘は町娘たちにも評判でしてな。これを目当てに店へ来る客もおります」
清十郎は苦笑した。
「いやいや、某は趣味でやっているだけ。本職の方には敵わんよ」
「またそのようなことを」
勘兵衛は呆れたように首を振る。
「趣味でこれだけの物を作る方を私は他に知りませんぞ」
そう言って代金を渡すと、十本の傘を抱えて帰っていった。
その様子を見ていた千代が言う。
「おとっつぁん、本当に傘張りが好きなのね」
「ああ」
「好きだけでそこまで出来るものなの?」
「好きだから出来るのだ」
清十郎は真面目な顔で答えた。
千代は理解できないという顔をした。
それから半時ほど後。
再び来客があった。
戸を叩く音に気付き、千代が玄関へ向かう。
「はい」
戸を開けると、一人の侍が立っていた。
二十代後半ほどの若い男である。
侍は千代の顔を見るなり言葉を失った。
(なんと美しい娘だ……)
思わず見惚れてしまう。
日本橋界隈では知らぬ者のないほどの評判の娘である。
その美しさは、初めて見る者なら誰しも足を止めてしまうほどだった。
「あのう……?」
千代に声を掛けられ、侍は慌てて我に返った。
「せ、拙者、南町の同心で、谷川助左衛門と申す。橋本清十郎という浪人がここに住んでいると聞いて参ったのだが間違いないか?」
千代は家の中へ振り返る。
「おとっつぁん、南番所の方よ」
清十郎は立ち上がり、千代に代わって戸口へ出た。
「某が橋本清十郎でござる」
谷川は一礼する。
「南町の同心、谷川助左衛門と申す。お奉行がお召だ。南番所まで同行して頂きたい」
やはり来たか。
昨夜の件を思い出しながら清十郎は頷いた。
「承知仕った」
そして千代へ声を掛ける。
「それじゃ、行ってくるぞ」
千代は不安そうな顔をした。
「おとっつぁん、大丈夫?」
「心配するな。大丈夫だ」
清十郎はそう言うと谷川へ向き直る。
「では、参ろう」
二人は長屋を後にした。
奉行所は北町奉行所と南町奉行所に分かれていた。
もっとも、それは管轄地域によるものではない。
月番制と呼ばれる制度によって、一か月ごとに北と南が交代で町政や裁判を担当していたのである。
非番だからといって休みになるわけではなく、内部の事務や調査などは引き続き行われていた。
なお、“奉行所”という呼び方は役職の“奉行”から来ているもので正式な故障ではない。その為、町人たちは奉行所とは呼ばない。
北番所、南番所、あるいは単に御番所と呼ぶことが多かった。
道中、清十郎が尋ねる。
「お奉行からお召があるとは思ってましたが、同心の方がわざわざ呼びに来て下さるとは思いませんでした」
谷川は苦笑した。
「人手不足でな」
「御番所ほどのところでもでございますか」
「三年前に上様が『目明し廃止令』を出されてから大っぴらに目明しを使えなくなった。その上、昨年は中町奉行も廃止されたからな」
目明しとは岡っ引きとも呼ばれる存在である。
元は盗人や博徒などの咎人(とがにん=罪人)であることが多く、罪を減じられる代わりに御用聞きを務めていた。
町の裏事情に精通しているため重宝されたが、その一方で奉行所の威光を笠に着て悪事を働く者も少なくなかった。
吉宗はこれを問題視し、享保二年に目明し廃止令を出している。
また、中町奉行は北町奉行所と南町奉行所の補佐役とも言うべき役職であったが、享保四年、倹約政策の一環として廃止された。
結果として町奉行所の負担は以前より増している。
「おかげで皆、てんてこ舞いよ」
谷川は肩を竦めた。
そんな話をしているうちに南番所へ到着した。
清十郎は詮議部屋へ連れて行かれるものと思っていた。
しかし案内されたのは客間だった。
(これは意外だな)
座って待っていると、一人の侍が入ってくる。
年の頃は四十代前半。
柔和な顔立ちだが、その目には鋭い知性が宿っている。
男は上座へ腰を下ろした。
「私が南町奉行、大岡越前守忠相だ。その方が橋本清十郎か?」
清十郎は頭を下げる。
「はい。橋本清十郎に御座います」
大岡は頷いた。
「上様に助太刀してくれたそうだな。礼を仰ってたぞ」
清十郎は慌てて平伏した。
「ははっ!有難き幸せに御座います」
「ただし、上様がお一人で城の外に出て悪人を直接成敗するなど、本来はあり得ぬ事。この事は内密にしてくれ」
「承知仕って御座います」
「清十郎、頭を上げよ。今回の件について詳しく話してくれぬか」
清十郎は備中屋から用心棒の依頼を受けた経緯から、昨夜の出来事まで包み隠さず話した。
大岡は途中で口を挟まず最後まで聞く。
そして話が終わると満足そうに頷いた。
「よく分かった。手数をかけたな」
少し間を置いて続ける。
「ところで、お主に一つ相談があるのだが」
「何でございましょう?」
「上様に限らず、実は私も一人で悪人の取り締まりに向かう事がある。番所は人手不足でな」
それは決して大袈裟な話ではない。
町奉行は裁判、行政、警察、消防など幅広い職務を担っていた。
その業務量は膨大である。
しかし奉行所に勤める者は一所につき与力二十五騎、同心百人ほど。
南北合わせても与力五十騎、同心二百人。
百万人都市へと成長しつつあった江戸を支えるには決して十分な人数とは言えなかった。
現在の東京都庁の職員が三万人を超える事を考えれば業務内容の割に人手がかなり少なかったことは想像に難くない。
大岡は続ける。
「そこで相談なのだが、今後、お主には色々と力を貸してほしいのだ。浪人という身分であれば用心棒として潜入したり等、我々には出来ない事が色々とできるであろう」
清十郎は少し考えてから口を開いた。
「ひとつ、質問がございます」
「何だ?」
「この様な人手不足な状態で、何故、上様は目明しの廃止令を出したのでしょう?」
大岡は頷いた。
「目明しのほとんどが咎人なのだ。改心してお上の御用を務める者もいるが、お上の威光を笠に着て、ゆすりたかり、袖の下、罪人の隠匿等、やりたい放題の者が多いのもまた事実。それを憂慮しての目明し廃止令なのだ」
清十郎は静かに頷く。
「なるほど、分かりました。江戸の町の治安が良くなればそれだけ娘も安心して暮らせます。その為でしたら、某の力、存分にお役立て下れませ」
大岡は満足そうに笑った。
「それは有難い。では宜しく頼むぞ」
そして、ふと思い出したように言った。
「ところで、私からも質問があるのだが」
清十郎は首を傾げる。
「何でございましょう?」
客間に一瞬の沈黙が流れた。



