夜も更けた頃。
橋本清十郎は日本橋北の長谷川町にある甚兵衛長屋へ戻ってきた。
江戸の町は昼間こそ賑やかだが、この時間になると人通りも少ない。
提灯の灯りがぽつぽつと並び、どこからか夕餉の残り香が漂ってくる。
清十郎は自宅の戸の前で足を止めた。
将軍に加勢し、悪党どもを捕らえた直後だというのに、本人は至って普段通りである。
「千代、今帰ったぞ」
戸を開けた瞬間だった。
「おとっつぁん! こんな時間までどこ行ってたのよ!」
娘の千代が飛び出してくる。
まだ十八歳だが、その美しさは近所でも評判だった。
もっとも本人はそんなことを少しも気にしていない。
今も父親を叱りつけることに夢中である。
清十郎は草鞋を脱ぎながら答えた。
「どこって、仕事だよ。用心棒の」
それを聞いた千代は呆れたような顔になる。
「大黒屋さん以外にも、おとっつぁんみたいな役立たずを雇う人がいるんだ」
「役立たずとは酷い言い様だな」
「だってそうでしょ。刀は竹光、腕っぷしは弱い、瘦せこけて見た目も弱そう。用心棒としては役立たずじゃない」
清十郎は苦笑した。
江戸中に正体を隠しているのだから、娘にすら信じてもらえないのも当然である。
もっとも、その状況を作ったのは他ならぬ清十郎自身だった。
「それにしても、どうして大黒屋さんじゃないことが分かったんだ?」
「夕刻、大黒屋さんの手代の喜助さんがおとっつぁんに用があるって呼びに来たのよ」
「そうだったのか。何の用かは言ってたか?」
「何の用かまでは言ってなかったわ。明日にでも、おとっつぁんの方から出向いてみれば?」
清十郎は少し考えた。
大黒屋宗右衛門は数少ない得意先である。
わざわざ使いを寄越したということは何か用事があるのだろう。
しかし明日は別の問題があった。
「明日は御番所(奉行所)からお呼びがあるかもしれんから、なるべく出かけたくはないのだ」
すると千代が目を丸くした。
「御番所!?おとっつぁん!何やらかしたの!?」
長屋中に聞こえそうな大声だった。
清十郎は慌てて口元へ指を立てる。
「大声を出すな」
千代は慌てて口を押さえる。
清十郎は周囲を確認してから小声で続けた。
「実は今回の用心棒の依頼主の備中屋が悪事を働いていてな。それで、将ぐ……いや、それで、お奉行様の詮議があるだろうという事でな。一応、関係者としてお呼びが掛かるであろうという事なんだ。俺は悪事には加担してないから心配するな」
危うく「将軍」と口にしかけたが、どうにか誤魔化した。
千代は気付いていないらしい。
「もう……驚かせないでよ」
そう言って胸を撫で下ろす。
だが次の瞬間には再び父親へ説教を始めた。
「どうせ役にも立たないんだから用心棒なんて危険な仕事は辞めて、傘張りだけしてれば良いじゃない。お金にも困ってるわけじゃないんだし」
すると清十郎は珍しく真顔になった。
「バカ者!傘張りは俺の唯一の趣味だ!傘張りを仕事にしてしまっては趣味が無くなってしまうだろ!」
「いいじゃない。趣味と実益を兼ねれば」
「趣味は趣味、仕事は仕事。趣味を仕事にするとろくなことが無いぞ」
「そんなもの?」
「そんなものだ」
清十郎は妙に自信満々で頷く。
千代は理解できないという顔をした。
実際、理解できる者は少ないだろう。
この男にとって傘張りは生き甲斐なのである。
もし仕事になってしまえば、納期や値段に追われて純粋に楽しめなくなる。
それだけは絶対に嫌だった。
「そんな事より、腹が減ったから飯にしてくれ」
清十郎がそう言うと、千代は呆れたようにため息を吐いた。
「はいはい。趣味で傘張りやってる浪人なんて聞いたことないわよ」
そう言いながら台所へ向かう。
しばらくすると味噌汁の香りが漂ってきた。
清十郎はその匂いに顔を綻ばせる。
将軍に会おうが悪党と斬り合おうが、この長屋へ帰って娘の作る飯を食う。
それが橋本清十郎の日常だった。
そして翌日。
その平穏を少しだけ揺るがす客人が訪れることになる。
南町奉行所の同心、谷川助左衛門であった。
橋本清十郎は日本橋北の長谷川町にある甚兵衛長屋へ戻ってきた。
江戸の町は昼間こそ賑やかだが、この時間になると人通りも少ない。
提灯の灯りがぽつぽつと並び、どこからか夕餉の残り香が漂ってくる。
清十郎は自宅の戸の前で足を止めた。
将軍に加勢し、悪党どもを捕らえた直後だというのに、本人は至って普段通りである。
「千代、今帰ったぞ」
戸を開けた瞬間だった。
「おとっつぁん! こんな時間までどこ行ってたのよ!」
娘の千代が飛び出してくる。
まだ十八歳だが、その美しさは近所でも評判だった。
もっとも本人はそんなことを少しも気にしていない。
今も父親を叱りつけることに夢中である。
清十郎は草鞋を脱ぎながら答えた。
「どこって、仕事だよ。用心棒の」
それを聞いた千代は呆れたような顔になる。
「大黒屋さん以外にも、おとっつぁんみたいな役立たずを雇う人がいるんだ」
「役立たずとは酷い言い様だな」
「だってそうでしょ。刀は竹光、腕っぷしは弱い、瘦せこけて見た目も弱そう。用心棒としては役立たずじゃない」
清十郎は苦笑した。
江戸中に正体を隠しているのだから、娘にすら信じてもらえないのも当然である。
もっとも、その状況を作ったのは他ならぬ清十郎自身だった。
「それにしても、どうして大黒屋さんじゃないことが分かったんだ?」
「夕刻、大黒屋さんの手代の喜助さんがおとっつぁんに用があるって呼びに来たのよ」
「そうだったのか。何の用かは言ってたか?」
「何の用かまでは言ってなかったわ。明日にでも、おとっつぁんの方から出向いてみれば?」
清十郎は少し考えた。
大黒屋宗右衛門は数少ない得意先である。
わざわざ使いを寄越したということは何か用事があるのだろう。
しかし明日は別の問題があった。
「明日は御番所(奉行所)からお呼びがあるかもしれんから、なるべく出かけたくはないのだ」
すると千代が目を丸くした。
「御番所!?おとっつぁん!何やらかしたの!?」
長屋中に聞こえそうな大声だった。
清十郎は慌てて口元へ指を立てる。
「大声を出すな」
千代は慌てて口を押さえる。
清十郎は周囲を確認してから小声で続けた。
「実は今回の用心棒の依頼主の備中屋が悪事を働いていてな。それで、将ぐ……いや、それで、お奉行様の詮議があるだろうという事でな。一応、関係者としてお呼びが掛かるであろうという事なんだ。俺は悪事には加担してないから心配するな」
危うく「将軍」と口にしかけたが、どうにか誤魔化した。
千代は気付いていないらしい。
「もう……驚かせないでよ」
そう言って胸を撫で下ろす。
だが次の瞬間には再び父親へ説教を始めた。
「どうせ役にも立たないんだから用心棒なんて危険な仕事は辞めて、傘張りだけしてれば良いじゃない。お金にも困ってるわけじゃないんだし」
すると清十郎は珍しく真顔になった。
「バカ者!傘張りは俺の唯一の趣味だ!傘張りを仕事にしてしまっては趣味が無くなってしまうだろ!」
「いいじゃない。趣味と実益を兼ねれば」
「趣味は趣味、仕事は仕事。趣味を仕事にするとろくなことが無いぞ」
「そんなもの?」
「そんなものだ」
清十郎は妙に自信満々で頷く。
千代は理解できないという顔をした。
実際、理解できる者は少ないだろう。
この男にとって傘張りは生き甲斐なのである。
もし仕事になってしまえば、納期や値段に追われて純粋に楽しめなくなる。
それだけは絶対に嫌だった。
「そんな事より、腹が減ったから飯にしてくれ」
清十郎がそう言うと、千代は呆れたようにため息を吐いた。
「はいはい。趣味で傘張りやってる浪人なんて聞いたことないわよ」
そう言いながら台所へ向かう。
しばらくすると味噌汁の香りが漂ってきた。
清十郎はその匂いに顔を綻ばせる。
将軍に会おうが悪党と斬り合おうが、この長屋へ帰って娘の作る飯を食う。
それが橋本清十郎の日常だった。
そして翌日。
その平穏を少しだけ揺るがす客人が訪れることになる。
南町奉行所の同心、谷川助左衛門であった。



