岡野の屋敷を後にした清十郎が甚兵衛長屋へ戻った頃には、すっかり夜も更けていた。
長屋の戸を開ける。
「今戻ったぞ」
すると奥から足音が聞こえてきた。
現れた千代は腕を組み、頬を膨らませている。
どうやら相当機嫌が悪いらしい。
「おとっつぁん!」
案の定、怒鳴られた。
「こんな時間まで何処に行ってたの!?」
清十郎は草履を脱ぎながら答える。
「ちょっと一仕事あったんでな」
「一仕事って何よ」
千代は疑わしそうな目を向ける。
「まさか悪事じゃないでしょうね?」
清十郎は呆れたように眉をひそめた。
「俺が悪事など働くわけなかろう。言っただろ。荷物を運んできただけだ」
「でも最近、御番所だの、同心の方が迎えに来たりだの、何だか怪しいじゃない」
「内容は話せんが、お奉行様直々の御用だ。心配するな」
千代はじっと父の顔を見る。
嘘をついている様子はない。
もっとも、昔から清十郎は嘘をつくのがあまり上手くなかった。
「本当でしょうね?」
「本当だ」
清十郎は頷く。
「証拠に、明日お奉行様からご褒美を頂けることになっておる」
千代が目を丸くした。
「ご褒美?」
「うむ」
「おとっつぁんが?」
「俺では不服か?」
「だって、おとっつぁんだし」
「何だその理由は」
千代はくすりと笑う。
どうやら少し機嫌が直ったらしい。
清十郎は続けた。
「南番所まで受け取りに行くことになっておる。着いてくるか?」
千代は少し考えた後、首を横に振った。
「ううん。そこまで言うなら信じる」
「そうか」
「でも変なことして捕まったら承知しないからね」
「だから何もしておらん」
「それも怪しいのよ」
父娘のやり取りに、ようやく長屋の空気が戻る。
千代は台所へ向かった。
「ご飯にするわ」
「助かる」
「今日はもう間に合わないけど、明日ご褒美を頂いたら鯛にでもする?」
清十郎は思わず顔をしかめた。
「鯛など贅沢な」
「だって、ご褒美なんでしょ?」
「秋刀魚で良い」
「鯛じゃなくて?」
「秋刀魚だ」
「せっかくなのに?」
「秋刀魚だ」
千代は肩をすくめた。
「分かったわ。明日は秋刀魚を用意しとくわね」
その顔はどこか嬉しそうだった。
清十郎も自然と頬が緩む。
豪華な料理などなくても良い。
娘とこうして飯を食える。
それだけで十分だった。
翌日。
岡野成旭は切腹。
表向きには病死と発表された。
井筒屋利兵衛は死罪。
賊の頭目と配下の者たち、そして岡野に加担していた者たちには遠島が申し付けられた。
数日後には越後屋が引き続き御用達を務めることも正式に決まった。
江戸の町には、そんな裏事情など伝わらない。
人々はいつも通り働き、笑い、暮らしている。
そして、その日の昼過ぎ。
橋本清十郎は約束通り南番所を訪れていた。
大岡忠相は清十郎を見るなり笑みを浮かべる。
「来たか」
「ご褒美とやらを受け取りに参りました」
「うむ」
大岡は脇に置いてあった包みを差し出した。
清十郎は受け取る。
思ったより軽い。
「開けてみよ」
言われるまま包みを開く。
中から出てきたものを見て、清十郎は固まった。
「これは……」
そこに入っていたのは、高級な傘張り道具一式だった。
上質な小刀。
細工用の錐。
竹を削るための鉋。
どれも職人が見れば垂涎ものの逸品である。
大岡は笑った。
「上様がお主なら金子よりそちらの方が喜ぶだろうと仰せでな」
清十郎はしばらく道具を見つめていた。
そして珍しく心の底から嬉しそうな顔をした。
「これは……実に良い」
「気に入ったか」
「はい」
即答だった。
大岡は思わず吹き出した。
「千両より喜んでおるな」
「当然です」
真顔で答える。
「千両箱は手に入りましたので」
大岡は再び笑った。
やはり変わった男である。
だが、その変わり者がいるおかげで、今日も江戸の町は少しだけ平和になったのかもしれない。
その日の夕餉は秋刀魚だった。
千代は文句を言いながらも少しだけ豪華な味噌汁を作り、清十郎は新しい道具を眺めながら酒を一杯だけ飲んだ。
竹光を差した浪人と、その娘。
江戸の片隅の小さな長屋で、今日も穏やかな夜が更けていく。
長屋の戸を開ける。
「今戻ったぞ」
すると奥から足音が聞こえてきた。
現れた千代は腕を組み、頬を膨らませている。
どうやら相当機嫌が悪いらしい。
「おとっつぁん!」
案の定、怒鳴られた。
「こんな時間まで何処に行ってたの!?」
清十郎は草履を脱ぎながら答える。
「ちょっと一仕事あったんでな」
「一仕事って何よ」
千代は疑わしそうな目を向ける。
「まさか悪事じゃないでしょうね?」
清十郎は呆れたように眉をひそめた。
「俺が悪事など働くわけなかろう。言っただろ。荷物を運んできただけだ」
「でも最近、御番所だの、同心の方が迎えに来たりだの、何だか怪しいじゃない」
「内容は話せんが、お奉行様直々の御用だ。心配するな」
千代はじっと父の顔を見る。
嘘をついている様子はない。
もっとも、昔から清十郎は嘘をつくのがあまり上手くなかった。
「本当でしょうね?」
「本当だ」
清十郎は頷く。
「証拠に、明日お奉行様からご褒美を頂けることになっておる」
千代が目を丸くした。
「ご褒美?」
「うむ」
「おとっつぁんが?」
「俺では不服か?」
「だって、おとっつぁんだし」
「何だその理由は」
千代はくすりと笑う。
どうやら少し機嫌が直ったらしい。
清十郎は続けた。
「南番所まで受け取りに行くことになっておる。着いてくるか?」
千代は少し考えた後、首を横に振った。
「ううん。そこまで言うなら信じる」
「そうか」
「でも変なことして捕まったら承知しないからね」
「だから何もしておらん」
「それも怪しいのよ」
父娘のやり取りに、ようやく長屋の空気が戻る。
千代は台所へ向かった。
「ご飯にするわ」
「助かる」
「今日はもう間に合わないけど、明日ご褒美を頂いたら鯛にでもする?」
清十郎は思わず顔をしかめた。
「鯛など贅沢な」
「だって、ご褒美なんでしょ?」
「秋刀魚で良い」
「鯛じゃなくて?」
「秋刀魚だ」
「せっかくなのに?」
「秋刀魚だ」
千代は肩をすくめた。
「分かったわ。明日は秋刀魚を用意しとくわね」
その顔はどこか嬉しそうだった。
清十郎も自然と頬が緩む。
豪華な料理などなくても良い。
娘とこうして飯を食える。
それだけで十分だった。
翌日。
岡野成旭は切腹。
表向きには病死と発表された。
井筒屋利兵衛は死罪。
賊の頭目と配下の者たち、そして岡野に加担していた者たちには遠島が申し付けられた。
数日後には越後屋が引き続き御用達を務めることも正式に決まった。
江戸の町には、そんな裏事情など伝わらない。
人々はいつも通り働き、笑い、暮らしている。
そして、その日の昼過ぎ。
橋本清十郎は約束通り南番所を訪れていた。
大岡忠相は清十郎を見るなり笑みを浮かべる。
「来たか」
「ご褒美とやらを受け取りに参りました」
「うむ」
大岡は脇に置いてあった包みを差し出した。
清十郎は受け取る。
思ったより軽い。
「開けてみよ」
言われるまま包みを開く。
中から出てきたものを見て、清十郎は固まった。
「これは……」
そこに入っていたのは、高級な傘張り道具一式だった。
上質な小刀。
細工用の錐。
竹を削るための鉋。
どれも職人が見れば垂涎ものの逸品である。
大岡は笑った。
「上様がお主なら金子よりそちらの方が喜ぶだろうと仰せでな」
清十郎はしばらく道具を見つめていた。
そして珍しく心の底から嬉しそうな顔をした。
「これは……実に良い」
「気に入ったか」
「はい」
即答だった。
大岡は思わず吹き出した。
「千両より喜んでおるな」
「当然です」
真顔で答える。
「千両箱は手に入りましたので」
大岡は再び笑った。
やはり変わった男である。
だが、その変わり者がいるおかげで、今日も江戸の町は少しだけ平和になったのかもしれない。
その日の夕餉は秋刀魚だった。
千代は文句を言いながらも少しだけ豪華な味噌汁を作り、清十郎は新しい道具を眺めながら酒を一杯だけ飲んだ。
竹光を差した浪人と、その娘。
江戸の片隅の小さな長屋で、今日も穏やかな夜が更けていく。



