夜五つ(午後八時頃)。
日本橋からほど離れた旗本屋敷。
岡野成旭の屋敷では重苦しい空気が流れていた。
上座に座る岡野成旭は不機嫌そうに酒をあおる。
「此度の、越後屋の献上米を奪って越後屋からお上御用達の権利をはく奪し、わしが井筒屋を次のお上御用達に推挙するという計画は失敗の様だな」
向かいに座る井筒屋利兵衛も苦い顔をしていた。
「まだお城へ運ぶまでの間がございます」
「そうだな」
岡野は盃を置く。
「何か手はあるのか?」
利兵衛は身を乗り出した。
「はい。私に考えがございますれば……」
その時だった。
庭から声が響く。
「そうはいかんぞ!」
二人は飛び上がった。
岡野が立ち上がり障子を開け放つ。
「何奴!?」
月明かりの中、一人の浪人が立っていた。
痩せた身体。
赤墨色の着流し。
腰には一本の刀。
そして相変わらず貧相な風体。
浪人は静かに名乗った。
「橋本清十郎……人呼んで竹光侍」
岡野は顔をしかめた。
聞いたことのない名だった。
だが、その直後。
「これは先を越されたようだな」
別の声が響いた。
今度は正面玄関から一人の武士が入って来る。
清十郎が驚く。
「こ、これは……」
岡野は怒鳴った。
「何だ貴様は!ここが旗本九百五十石、岡野成旭の屋敷と知っての狼藉か!」
武士は鼻で笑う。
「旗本だというのなら俺の顔は知っておろう」
その瞬間。
岡野の顔色が変わった。
「う、上様!?」
慌てて庭へ飛び降り平伏する。
利兵衛も転がるように後へ続いた。
そこに立っていたのは徳川吉宗だった。
吉宗は冷たく言い放つ。
「貴様らの悪事は、この橋本清十郎によって全て露見した」
岡野の顔から血の気が引く。
「岡野成旭。旗本らしく潔く腹を切れ」
一瞬の沈黙。
しかし次の瞬間。
岡野の目に狂気が宿った。
勢いよく立ち上がる。
「こうなれば上様とて構わん!」
そして絶叫した。
「曲者じゃ!出合え!出合え!狼藉者を斬れ!」
侍たちが次々と駆け込んでくる。
十人。
二十人。
あっという間に中庭は人で埋まった。
すると今度は門の方から聞き慣れた声がした。
「どうやら間に合ったようですな」
清十郎が振り向く。
「お奉行!?」
大岡忠相だった。
吉宗は苦笑する。
「なんだ、忠相。遅かったな」
「申し訳ございません」
大岡は井筒屋を睨みつけた。
「井筒屋利兵衛!貴様は白州で裁く!大人しくいたせ!」
しかし岡野は叫ぶ。
「構わん!まとめて切り捨てい!」
侍たちが一斉に襲い掛かった。
吉宗は刀を抜く。
「やれやれ」
大岡も続く。
「手間をかけさせる」
二人とも峰打ちで次々と侍を打ち倒していく。
さすがに将軍と町奉行だけあって腕は立つ。
だが人数が多い。
清十郎も近くの侍から脇差を奪った。
そして戦いに加わる。
侍たちの多くは吉宗や大岡を避けた。
将軍や奉行に斬りかかるのは気後れする。
それならば。
痩せこけた浪人の方が楽そうだった。
「まずはあいつだ!」
「浪人風情を片付けろ!」
三人が同時に襲い掛かる。
だが次の瞬間。
三人とも地面へ転がっていた。
「なっ!?」
周囲の侍が驚く。
清十郎は何事もなかったように立っている。
さらに二人。
さらに三人。
次々と倒されていく。
気付けば中庭で一番多く侍を倒しているのは清十郎だった。
岡野の額に汗が浮かぶ。
「ば、馬鹿な……!」
利兵衛も青ざめていた。
そして二人は最後の望みをかける。
清十郎へ向かって走った。
「浪人風情が!」
岡野が斬りかかる。
しかし刀は空を切った。
清十郎は紙一重でかわしている。
次の瞬間。
峰打ち。
岡野は白目を剥いて倒れた。
「お、岡野様!」
利兵衛が叫ぶ。
だが次の瞬間には自分も峰打ちを受けて昏倒していた。
やがて全員が倒れる。
静かになった中庭へ吉宗、大岡、清十郎が集まった。
大岡が満足そうに頷く。
「清十郎。此度の働き、大儀であった」
「有難きお言葉」
すると吉宗がふと思い出したように聞く。
「そういえば清十郎。越後屋からはいくらもらった?」
清十郎は即答した。
「箱一つ」
吉宗は目を丸くする。
「何!?千両もか!?」
「いえ」
清十郎は首を振った。
「文字通り空の千両箱の箱だけを頂きました」
吉宗と大岡は揃って沈黙した。
数秒後。
「……何故だ?」
吉宗が真顔で聞く。
「傘張りの道具を入れるのに丁度良いと思いまして」
あまりにも自然な答えだった。
吉宗は天を仰いだ。
大岡は思わず吹き出した。
「はっはっはっ!」
吉宗もつられて笑う。
「無欲な奴だ。気に入った!」
そして清十郎を指差した。
「俺から褒美を取らす」
清十郎は慌てる。
「いえ、その様なことは……」
だが大岡が横から言う。
「上様からの褒美、受け取らぬは失礼だぞ」
清十郎は観念した。
「それでは有難く頂戴いたします」
吉宗は満足そうに頷く。
「よし。それでは明日の午前中に忠相へ預けておく故、午後にでも南番所へ取りに来い」
そして踵を返した。
「では俺は町方が来る前に消えるとするか」
振り返って大岡へ言う。
「忠相、後は頼むぞ」
「承知致しました」
吉宗は夜の闇へ消えていった。
清十郎も頭を下げる。
「では某もこれにて失礼仕ります」
そう言って屋敷を後にする。
その背中を見送りながら大岡は苦笑した。
「上様も、面白い男を見つけられたものだ」
そして倒れた岡野たちへ視線を向ける。
「さて、こちらはこちらで忙しくなりそうですな」
日本橋からほど離れた旗本屋敷。
岡野成旭の屋敷では重苦しい空気が流れていた。
上座に座る岡野成旭は不機嫌そうに酒をあおる。
「此度の、越後屋の献上米を奪って越後屋からお上御用達の権利をはく奪し、わしが井筒屋を次のお上御用達に推挙するという計画は失敗の様だな」
向かいに座る井筒屋利兵衛も苦い顔をしていた。
「まだお城へ運ぶまでの間がございます」
「そうだな」
岡野は盃を置く。
「何か手はあるのか?」
利兵衛は身を乗り出した。
「はい。私に考えがございますれば……」
その時だった。
庭から声が響く。
「そうはいかんぞ!」
二人は飛び上がった。
岡野が立ち上がり障子を開け放つ。
「何奴!?」
月明かりの中、一人の浪人が立っていた。
痩せた身体。
赤墨色の着流し。
腰には一本の刀。
そして相変わらず貧相な風体。
浪人は静かに名乗った。
「橋本清十郎……人呼んで竹光侍」
岡野は顔をしかめた。
聞いたことのない名だった。
だが、その直後。
「これは先を越されたようだな」
別の声が響いた。
今度は正面玄関から一人の武士が入って来る。
清十郎が驚く。
「こ、これは……」
岡野は怒鳴った。
「何だ貴様は!ここが旗本九百五十石、岡野成旭の屋敷と知っての狼藉か!」
武士は鼻で笑う。
「旗本だというのなら俺の顔は知っておろう」
その瞬間。
岡野の顔色が変わった。
「う、上様!?」
慌てて庭へ飛び降り平伏する。
利兵衛も転がるように後へ続いた。
そこに立っていたのは徳川吉宗だった。
吉宗は冷たく言い放つ。
「貴様らの悪事は、この橋本清十郎によって全て露見した」
岡野の顔から血の気が引く。
「岡野成旭。旗本らしく潔く腹を切れ」
一瞬の沈黙。
しかし次の瞬間。
岡野の目に狂気が宿った。
勢いよく立ち上がる。
「こうなれば上様とて構わん!」
そして絶叫した。
「曲者じゃ!出合え!出合え!狼藉者を斬れ!」
侍たちが次々と駆け込んでくる。
十人。
二十人。
あっという間に中庭は人で埋まった。
すると今度は門の方から聞き慣れた声がした。
「どうやら間に合ったようですな」
清十郎が振り向く。
「お奉行!?」
大岡忠相だった。
吉宗は苦笑する。
「なんだ、忠相。遅かったな」
「申し訳ございません」
大岡は井筒屋を睨みつけた。
「井筒屋利兵衛!貴様は白州で裁く!大人しくいたせ!」
しかし岡野は叫ぶ。
「構わん!まとめて切り捨てい!」
侍たちが一斉に襲い掛かった。
吉宗は刀を抜く。
「やれやれ」
大岡も続く。
「手間をかけさせる」
二人とも峰打ちで次々と侍を打ち倒していく。
さすがに将軍と町奉行だけあって腕は立つ。
だが人数が多い。
清十郎も近くの侍から脇差を奪った。
そして戦いに加わる。
侍たちの多くは吉宗や大岡を避けた。
将軍や奉行に斬りかかるのは気後れする。
それならば。
痩せこけた浪人の方が楽そうだった。
「まずはあいつだ!」
「浪人風情を片付けろ!」
三人が同時に襲い掛かる。
だが次の瞬間。
三人とも地面へ転がっていた。
「なっ!?」
周囲の侍が驚く。
清十郎は何事もなかったように立っている。
さらに二人。
さらに三人。
次々と倒されていく。
気付けば中庭で一番多く侍を倒しているのは清十郎だった。
岡野の額に汗が浮かぶ。
「ば、馬鹿な……!」
利兵衛も青ざめていた。
そして二人は最後の望みをかける。
清十郎へ向かって走った。
「浪人風情が!」
岡野が斬りかかる。
しかし刀は空を切った。
清十郎は紙一重でかわしている。
次の瞬間。
峰打ち。
岡野は白目を剥いて倒れた。
「お、岡野様!」
利兵衛が叫ぶ。
だが次の瞬間には自分も峰打ちを受けて昏倒していた。
やがて全員が倒れる。
静かになった中庭へ吉宗、大岡、清十郎が集まった。
大岡が満足そうに頷く。
「清十郎。此度の働き、大儀であった」
「有難きお言葉」
すると吉宗がふと思い出したように聞く。
「そういえば清十郎。越後屋からはいくらもらった?」
清十郎は即答した。
「箱一つ」
吉宗は目を丸くする。
「何!?千両もか!?」
「いえ」
清十郎は首を振った。
「文字通り空の千両箱の箱だけを頂きました」
吉宗と大岡は揃って沈黙した。
数秒後。
「……何故だ?」
吉宗が真顔で聞く。
「傘張りの道具を入れるのに丁度良いと思いまして」
あまりにも自然な答えだった。
吉宗は天を仰いだ。
大岡は思わず吹き出した。
「はっはっはっ!」
吉宗もつられて笑う。
「無欲な奴だ。気に入った!」
そして清十郎を指差した。
「俺から褒美を取らす」
清十郎は慌てる。
「いえ、その様なことは……」
だが大岡が横から言う。
「上様からの褒美、受け取らぬは失礼だぞ」
清十郎は観念した。
「それでは有難く頂戴いたします」
吉宗は満足そうに頷く。
「よし。それでは明日の午前中に忠相へ預けておく故、午後にでも南番所へ取りに来い」
そして踵を返した。
「では俺は町方が来る前に消えるとするか」
振り返って大岡へ言う。
「忠相、後は頼むぞ」
「承知致しました」
吉宗は夜の闇へ消えていった。
清十郎も頭を下げる。
「では某もこれにて失礼仕ります」
そう言って屋敷を後にする。
その背中を見送りながら大岡は苦笑した。
「上様も、面白い男を見つけられたものだ」
そして倒れた岡野たちへ視線を向ける。
「さて、こちらはこちらで忙しくなりそうですな」



