時は享保五年(一七二〇年)。
江戸の町が夜の帳に包まれた頃、とある旗本屋敷では二人の男が上機嫌で酒を酌み交わしていた。
「備中屋、お主も悪よのう」
「いえいえ、柿沼様こそ」
二人は顔を見合わせて笑う。
上座に座るのは幕臣・柿沼外記。
向かいに座るのは廻船問屋・備中屋宗右衛門。
どちらも人前では善人を装っているが、その実態は金と権力に取り憑かれた悪党であった。
柿沼が杯を傾けながら言う。
「廻船問屋であることを利用し抜け荷を行い、賂いをわしに渡して抜け荷の証拠をもみ消させた上に、現場を見た漁師を殺めたお主ほどではないわ」
備中屋は悪びれもせず笑う。
「商売とは時に決断も必要にございますれば」
「その決断のおかげで、わしも随分と潤わせてもらった」
二人は再び声を上げて笑った。
座敷の周囲には護衛として雇われた侍や浪人、用心棒たちが控えている。
その中に一人だけ、ひときわ冴えない浪人がいた。
赤墨色の着流し。
伸びた月代。
痩せこけた顔。
腰には刀が一本。
どう見ても食い詰めた素浪人である。
男の名は橋本清十郎。
備中屋に雇われた用心棒の一人だった。
その時だった。
中庭から鋭い声が響く。
「お主らの悪事、聞かせてもらったぞ!」
座敷の空気が一変した。
「何奴!?」
柿沼が障子を開け放つ。
そこに立っていたのは一人の武士。
堂々たる立ち姿。
鋭い眼光。
ただ者ではない威圧感がある。
柿沼は咄嗟に叫んだ。
「曲者じゃ! 出合え! 出合え ーっ!」
備中屋も慌てて立ち上がる。
「先生方! お願いします!」
それらを聞きつけ、廊下や庭先から侍や用心棒たちが次々と集まってくる。
武士は一歩も退かず言い放った。
「柿沼外記。貴様が賂いを受け取り、備中屋の抜け荷を見逃していた事は既に明白! また、備中屋宗右衛門。貴様が抜け荷の現場を見た漁師を殺害せし事も忠相の調べで明白!」
柿沼外記は怒鳴る。
「何を無礼な! 貴様は何者だ!?」
武士は静かに返した。
「金に目が眩んで主の顔を見忘れたか?」
その言葉を聞いた瞬間、柿沼の顔色が変わった。
見覚えがある。
忘れるはずがない。
「う、上様!?」
柿沼は慌てて平伏した。
備中屋も額を畳に擦り付ける。
侍たちも用心棒たちも次々と平伏する。
武士は時の征夷大将軍、徳川吉宗であった。
「柿沼外記!目付でありながら不届き千万!腹を切れ!」
吉宗の声が響く。
しかし追い詰められた柿沼は血走った目で叫んだ。
「ええい!上様とて構わん!切り捨てい!」
その瞬間だった。
侍たちが一斉に立ち上がる。
刀が抜かれる。
座敷を殺気が満たした。
誰もが将軍に斬りかかろうとした、その時。
「拙者は御免被る!」
場違いな声が響いた。
侍も用心棒も思わず動きを止める。
柿沼外記が目を剥いた。
「何っ!?」
声の主は、先ほどまで座敷の隅で黙っていた痩せた浪人だった。
浪人はゆっくり立ち上がる。
「上様とて構わんだと?冗談ではない。拙者はやめさせてもらう」
備中屋が怒鳴った。
「何を言う!貴様!私が雇った用心棒ではないか!」
浪人は懐から小判を取り出し、備中屋の前へ放った。
「こんな、はした金で上様が切れるか」
小判が畳の上を転がる。
「返すぞ。しかも聞けば貴様ら、悪事を働いているというではないか。その様な者に加担したとあっては、一人娘や亡くなった女房に顔向けが出来ん」
そして近くにいた侍の腰へ手を伸ばす。
誰も動きが見えなかった。
気が付けば侍の脇差が消えている。
浪人は脇差を構えた。
「上様、及ばずながらご加勢致します」
吉宗は口元にわずかな笑みを浮かべた。
「それは助かる。しかし、裁きは忠相に任せる故、無暗な殺生はするなよ」
「心得まして」
吉宗は刀を抜き、刃を上に向けて構える。
清十郎も奪った脇差を同じように持ち替えた。
柿沼外記が怒鳴る。
「ええいっ! 二人とも切り捨てぇい!」
次の瞬間、侍たちが一斉に襲い掛かった。
先頭の一人が吉宗へ斬りかかる。
吉宗は半身になってこれを躱し、返す刀で肩を打った。
侍は悲鳴を上げて畳へ転がる。
一方、清十郎へも三人の侍が殺到した。
清十郎は下がらない。
むしろ一歩前へ出る。
刀の間合いが消える。
侍たちが驚く間もなかった。
清十郎の脇差が一閃する。
峰が最初の侍の手首を打った。
刀が床へ落ちる。
返す動きで二人目の肩を打つ。
三人目が慌てて斬りつけるが、清十郎は身体を半歩ずらしただけで躱し、そのまま脇差の柄頭で顎を打ち抜いた。
三人とも畳の上へ崩れ落ちる。
それを見た備中屋は青ざめた。
「な、何だあの浪人は……!」
次々と侍や用心棒が襲い掛かる。
しかし清十郎は慌てる様子もない。
刀を振り回すでもない。
相手が動いた瞬間には既にそこにいない。
斬撃を紙一重で躱し、峰打ちで打ち倒していく。
まるで相手の動きが見えているかのようだった。
吉宗もまた感心していた。
(なるほど。上段者だな)
剣の道に通じた者なら分かる。
この浪人は強い。
しかもただ強いだけではない。
無駄がない。
必要最小限の動きだけで相手を制している。
気付けば座敷に立っている者はわずかになっていた。
清十郎はゆっくりと備中屋へ歩み寄る。
備中屋は腰を抜かしながら後退った。
「く、来るな!」
近くにあった鉄瓶を掴み、必死に身を守ろうとする。
清十郎は脇差を振り下ろした。
甲高い音が響く。
鉄瓶に当たった脇差が折れた。
備中屋は一瞬だけ希望の表情を浮かべる。
しかし次の瞬間。
清十郎の手刀が後頭部へ落ちた。
備中屋は白目を剥いて気を失う。
残るは柿沼外記のみ。
柿沼は半狂乱になって刀を振り回した。
「この浪人風情が!」
清十郎は静かに歩み寄る。
柿沼が斬りかかる。
躱す。
再び斬りかかる。
また躱す。
まるで子供の棒振りでも相手にしているようだった。
そして三度目。
柿沼の刀が空を切った瞬間だった。
「き、貴様、わしの脇差を!?」
いつの間にか脇差が抜かれている。
清十郎は脇差を軽く振って見せた。
柿沼は顔を引きつらせながら後退る。
だがもう遅い。
清十郎は半歩踏み込み、脇差の峰で柿沼の側頭部を打った。
柿沼はその場へ崩れ落ちる。
座敷に静寂が戻った。
吉宗は刀を納める。
「助太刀、大儀であった。かなり腕が立つようだが何者だ?」
浪人は脇差を床へ置き、深々と頭を下げた。
「某、橋本清十郎と申しまして、日本橋北の長谷川町の甚兵衛長屋に住む浪人でございます」
吉宗は清十郎の腰へ目を向ける。
戦いが終わった今も、そこに差された刀は抜かれていない。
「そちは自分の刀を抜いていないようであったが、それは大事な名刀か?」
清十郎は少し困ったように頭を掻いた。
「いえ、これは竹光に御座います」
吉宗は思わず目を瞬いた。
「それほど腕が立つのに竹光か?」
「得物など、二本差しなら一本奪えば済むことですし、相手が複数なら倒した相手から奪えば済むことです」
吉宗は声を上げて笑った。
「はっはっはっ!なかなか面白い奴だな」
そして少し真面目な顔になる。
「今回の件で町奉行から近々呼び出しがあるであろう。忠相にはそちのことは申しつけておく。悪い様にはせぬからありのままを包み隠さず話すがよい」
「承知仕りました」
吉宗は満足そうに頷く。
「では、また会うこともあろう」
そう言うと供も連れず夜の闇へ消えていった。
清十郎はしばらくその背中を見送る。
やがて大きく息を吐いた。
「まったく、とんでもない仕事を引き受けてしまったな」
誰に言うでもなく呟く。
そして腰の竹光を軽く叩くと、月明かりの下を長谷川町へ向かって歩き始めた。
家では娘の千代が夕餉を用意して待っている。
今夜は少々帰りが遅くなってしまった。
だが、それ以上に気になることがある。
南町奉行、大岡越前守忠相。
どうやら近いうちに、その名奉行と顔を合わせることになりそうだった。
江戸の町が夜の帳に包まれた頃、とある旗本屋敷では二人の男が上機嫌で酒を酌み交わしていた。
「備中屋、お主も悪よのう」
「いえいえ、柿沼様こそ」
二人は顔を見合わせて笑う。
上座に座るのは幕臣・柿沼外記。
向かいに座るのは廻船問屋・備中屋宗右衛門。
どちらも人前では善人を装っているが、その実態は金と権力に取り憑かれた悪党であった。
柿沼が杯を傾けながら言う。
「廻船問屋であることを利用し抜け荷を行い、賂いをわしに渡して抜け荷の証拠をもみ消させた上に、現場を見た漁師を殺めたお主ほどではないわ」
備中屋は悪びれもせず笑う。
「商売とは時に決断も必要にございますれば」
「その決断のおかげで、わしも随分と潤わせてもらった」
二人は再び声を上げて笑った。
座敷の周囲には護衛として雇われた侍や浪人、用心棒たちが控えている。
その中に一人だけ、ひときわ冴えない浪人がいた。
赤墨色の着流し。
伸びた月代。
痩せこけた顔。
腰には刀が一本。
どう見ても食い詰めた素浪人である。
男の名は橋本清十郎。
備中屋に雇われた用心棒の一人だった。
その時だった。
中庭から鋭い声が響く。
「お主らの悪事、聞かせてもらったぞ!」
座敷の空気が一変した。
「何奴!?」
柿沼が障子を開け放つ。
そこに立っていたのは一人の武士。
堂々たる立ち姿。
鋭い眼光。
ただ者ではない威圧感がある。
柿沼は咄嗟に叫んだ。
「曲者じゃ! 出合え! 出合え ーっ!」
備中屋も慌てて立ち上がる。
「先生方! お願いします!」
それらを聞きつけ、廊下や庭先から侍や用心棒たちが次々と集まってくる。
武士は一歩も退かず言い放った。
「柿沼外記。貴様が賂いを受け取り、備中屋の抜け荷を見逃していた事は既に明白! また、備中屋宗右衛門。貴様が抜け荷の現場を見た漁師を殺害せし事も忠相の調べで明白!」
柿沼外記は怒鳴る。
「何を無礼な! 貴様は何者だ!?」
武士は静かに返した。
「金に目が眩んで主の顔を見忘れたか?」
その言葉を聞いた瞬間、柿沼の顔色が変わった。
見覚えがある。
忘れるはずがない。
「う、上様!?」
柿沼は慌てて平伏した。
備中屋も額を畳に擦り付ける。
侍たちも用心棒たちも次々と平伏する。
武士は時の征夷大将軍、徳川吉宗であった。
「柿沼外記!目付でありながら不届き千万!腹を切れ!」
吉宗の声が響く。
しかし追い詰められた柿沼は血走った目で叫んだ。
「ええい!上様とて構わん!切り捨てい!」
その瞬間だった。
侍たちが一斉に立ち上がる。
刀が抜かれる。
座敷を殺気が満たした。
誰もが将軍に斬りかかろうとした、その時。
「拙者は御免被る!」
場違いな声が響いた。
侍も用心棒も思わず動きを止める。
柿沼外記が目を剥いた。
「何っ!?」
声の主は、先ほどまで座敷の隅で黙っていた痩せた浪人だった。
浪人はゆっくり立ち上がる。
「上様とて構わんだと?冗談ではない。拙者はやめさせてもらう」
備中屋が怒鳴った。
「何を言う!貴様!私が雇った用心棒ではないか!」
浪人は懐から小判を取り出し、備中屋の前へ放った。
「こんな、はした金で上様が切れるか」
小判が畳の上を転がる。
「返すぞ。しかも聞けば貴様ら、悪事を働いているというではないか。その様な者に加担したとあっては、一人娘や亡くなった女房に顔向けが出来ん」
そして近くにいた侍の腰へ手を伸ばす。
誰も動きが見えなかった。
気が付けば侍の脇差が消えている。
浪人は脇差を構えた。
「上様、及ばずながらご加勢致します」
吉宗は口元にわずかな笑みを浮かべた。
「それは助かる。しかし、裁きは忠相に任せる故、無暗な殺生はするなよ」
「心得まして」
吉宗は刀を抜き、刃を上に向けて構える。
清十郎も奪った脇差を同じように持ち替えた。
柿沼外記が怒鳴る。
「ええいっ! 二人とも切り捨てぇい!」
次の瞬間、侍たちが一斉に襲い掛かった。
先頭の一人が吉宗へ斬りかかる。
吉宗は半身になってこれを躱し、返す刀で肩を打った。
侍は悲鳴を上げて畳へ転がる。
一方、清十郎へも三人の侍が殺到した。
清十郎は下がらない。
むしろ一歩前へ出る。
刀の間合いが消える。
侍たちが驚く間もなかった。
清十郎の脇差が一閃する。
峰が最初の侍の手首を打った。
刀が床へ落ちる。
返す動きで二人目の肩を打つ。
三人目が慌てて斬りつけるが、清十郎は身体を半歩ずらしただけで躱し、そのまま脇差の柄頭で顎を打ち抜いた。
三人とも畳の上へ崩れ落ちる。
それを見た備中屋は青ざめた。
「な、何だあの浪人は……!」
次々と侍や用心棒が襲い掛かる。
しかし清十郎は慌てる様子もない。
刀を振り回すでもない。
相手が動いた瞬間には既にそこにいない。
斬撃を紙一重で躱し、峰打ちで打ち倒していく。
まるで相手の動きが見えているかのようだった。
吉宗もまた感心していた。
(なるほど。上段者だな)
剣の道に通じた者なら分かる。
この浪人は強い。
しかもただ強いだけではない。
無駄がない。
必要最小限の動きだけで相手を制している。
気付けば座敷に立っている者はわずかになっていた。
清十郎はゆっくりと備中屋へ歩み寄る。
備中屋は腰を抜かしながら後退った。
「く、来るな!」
近くにあった鉄瓶を掴み、必死に身を守ろうとする。
清十郎は脇差を振り下ろした。
甲高い音が響く。
鉄瓶に当たった脇差が折れた。
備中屋は一瞬だけ希望の表情を浮かべる。
しかし次の瞬間。
清十郎の手刀が後頭部へ落ちた。
備中屋は白目を剥いて気を失う。
残るは柿沼外記のみ。
柿沼は半狂乱になって刀を振り回した。
「この浪人風情が!」
清十郎は静かに歩み寄る。
柿沼が斬りかかる。
躱す。
再び斬りかかる。
また躱す。
まるで子供の棒振りでも相手にしているようだった。
そして三度目。
柿沼の刀が空を切った瞬間だった。
「き、貴様、わしの脇差を!?」
いつの間にか脇差が抜かれている。
清十郎は脇差を軽く振って見せた。
柿沼は顔を引きつらせながら後退る。
だがもう遅い。
清十郎は半歩踏み込み、脇差の峰で柿沼の側頭部を打った。
柿沼はその場へ崩れ落ちる。
座敷に静寂が戻った。
吉宗は刀を納める。
「助太刀、大儀であった。かなり腕が立つようだが何者だ?」
浪人は脇差を床へ置き、深々と頭を下げた。
「某、橋本清十郎と申しまして、日本橋北の長谷川町の甚兵衛長屋に住む浪人でございます」
吉宗は清十郎の腰へ目を向ける。
戦いが終わった今も、そこに差された刀は抜かれていない。
「そちは自分の刀を抜いていないようであったが、それは大事な名刀か?」
清十郎は少し困ったように頭を掻いた。
「いえ、これは竹光に御座います」
吉宗は思わず目を瞬いた。
「それほど腕が立つのに竹光か?」
「得物など、二本差しなら一本奪えば済むことですし、相手が複数なら倒した相手から奪えば済むことです」
吉宗は声を上げて笑った。
「はっはっはっ!なかなか面白い奴だな」
そして少し真面目な顔になる。
「今回の件で町奉行から近々呼び出しがあるであろう。忠相にはそちのことは申しつけておく。悪い様にはせぬからありのままを包み隠さず話すがよい」
「承知仕りました」
吉宗は満足そうに頷く。
「では、また会うこともあろう」
そう言うと供も連れず夜の闇へ消えていった。
清十郎はしばらくその背中を見送る。
やがて大きく息を吐いた。
「まったく、とんでもない仕事を引き受けてしまったな」
誰に言うでもなく呟く。
そして腰の竹光を軽く叩くと、月明かりの下を長谷川町へ向かって歩き始めた。
家では娘の千代が夕餉を用意して待っている。
今夜は少々帰りが遅くなってしまった。
だが、それ以上に気になることがある。
南町奉行、大岡越前守忠相。
どうやら近いうちに、その名奉行と顔を合わせることになりそうだった。



