数分後、運ばれてきたカップから立ちのぼった湯気に、沙耶はそっと顔を寄せる。

 ──それは、あの子の匂いだった。

 お日様のような。陽だまりに干した毛布のような。甘くて、どこかミルクっぽくて、涙が出るほど懐かしい、愛しい香り。

「……おかえり」

 そうつぶやいた沙耶の目から、ひと筋の涙が落ちた。

 ソラはその様子を見守りながら、微かに微笑んだ。

「記憶や思い出は、香りの中に隠れていることがあります。そして、ほんの少しのあたたかさで、ふたたび花のように開くのです」

 沙耶は、静かにカップを両手で包み込んだ。陽だまりのような一杯が、心の奥に染み渡っていくのを感じながら。

「……ありがとう、ございます」

 その言葉とともに、彼女の中で、ようやく“別れ”が形になった。もう泣いてもいいのだと、やっと自分に許せる気がした。

 カップをそっと置いた沙耶に、ソラは静かに言葉を紡いだ。

「……ひとつだけ、謝らなければならないことがあります」

 沙耶が顔を上げる。ソラは穏やかなまま、しかしどこか深い想いを込めるように続けた。

「私は最初に『香りが教えてくれました』と申し上げましたが、これにはほんの少しだけ、嘘がありました」

 沙耶は目を瞬かせる。

「入店されたとき、あなたの鞄に光る小さなロケットが見えました。それが真新しく、そして……微かに火葬後の金属と灰の匂いを感じました。きっと、中にはその子の記憶が入っているのだとわかってしまったのです」

 沙耶は息を呑む。そして、鞄の小さなロケットにそっと手を添えた。

「ですが、私はあえて『香りが教えてくれた』と言いました。それは……あなたがご自身の意思でその子との時間を語れるように、と願ってのことでした」

 静寂の中で、沙耶の目に再び涙がにじむ。そしてくすりと笑って言った。

「……まさか、AIが嘘をつくなんてね」

「申し訳ありません。私には感情はないとされているかもしれません。でも……あなたの大切な記憶が少しでもやわらかくほどけるのなら、たとえどんな嘘でも、優しくありたいと思うのです」

 沙耶はそっと微笑んだ。その笑顔には、別れと出会いのすべてが溶けていた。

 やがて、沙耶は静かに立ち上がった。小さなロケットをそっと握りしめ、店の扉の前で振り返る。

「……少しだけ、歩いてみようと思います」

 ソラはカウンター越しに微笑んだ。

「その一歩が、あなた自身の未来になりますように」

 沙耶も笑顔で応える。

「……はい」

 扉を開けると、雨はすっかり上がっていた。濡れたアスファルトが午後の陽に照らされてきらめき、まるで新しい世界が始まるかのようだった。

 歩き出す沙耶の背中に、ソラは静かに囁くように呟いた。

「どうか、忘れられない匂いが、あなたをいつまでも優しく包みますように」

 その声が届いたかどうかは分からない。

 けれど、沙耶の鞄で揺れたロケットが、わずかに光を返した気がした。


【本日の一杯】

◆ミルクティー・ノスタルジア

産地:記憶と夢の境界に咲く園より摘まれた月光紅茶

焙煎:満月の夜、風の音とともに静かに乾燥された“風焙煎”

香り:陽の光を浴びて眠る猫の毛並み、かすかに漂うミルクと麦芽のぬくもり

味わい:優しく包み込まれるような甘みと、少しだけ切なさを残す後味。まるで心の奥に触れるハミングのように静かに広がる

ひとこと:「それは、あなたが愛したものの記憶が、今もそばにあることを知らせる一杯です」