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――さらに数日が過ぎたある日の午後。病院の自動ドアが開く。
「……お母さん、ありがとう。本当にごめんね」
花音はふらふらとした足取りで涙を滲ませながら、母親の肩に掴まりようやく歩けるような状態だった。
「……いいのよ。お母さんこそ、ごめんなさい」
外に出た瞬間、花音の肌にやわらかな風が触れた。陽は高く、真っ白な雲がいくつも流れていた。車通りの少ない通り沿いには季節の草花が揺れていて、ビルの谷間から差し込む光はどこまでも穏やかだった。
大きく息を吸い込むと、鼻先を通る空気がほんのり甘く感じられた。何の香りかはわからない。ただ、「生きている」と思えた。
足元には影が落ちていた。花音自身の影――けれど、かつてよりも少しだけ背筋を伸ばしている気がする。
後悔するほど何かを決めたわけじゃない。まだ、何も。
でも、自分で歩いてここに来た。それだけで、ほんの少しだけ世界との繋がりを取り戻した気がしていた。
空を見上げると遠く飛行機雲が引かれていた。その白い線はどこまでも真っ直ぐで、そして少しだけ滲んでいた。
花音はゆっくりと目を閉じる。そして、お腹に手を添える。そこに命があったかもしれないという事実。その重さをようやく真正面から抱きしめるようにして――。
「お母さんに、今度紹介したい人たちがいるんだ」
「そう、どんな人なの?」
「私を助けてくれた人たち。それに、誰よりも優しい“心”を持ったAIだよ」
母の手がそっと花音の手の上に重なる。
「……会ってみたいわ、その人たちに。花音がお世話になったお礼を言わなくちゃ」
花音は目を細めて微笑んだ。
風がやさしく吹いていた。
花音の髪を撫でるように、確かな未来の気配を連れて。
太陽に照らされた花がきらめいている。
小さな蕾が静かにほころび始めるように――心はまだ揺らいでいた。
けれど、あの日ルミナスで交わした言葉たちが、花音の中で確かに根を張っていた。
【本日の一杯】
◆メモワール・ブリーズ──「記憶と呼吸を、そっと整える風のように」
産地:眠葉の丘(ねむりばのおか)風がやさしく草木をなでる、穏やかな丘陵地帯。記憶の風が吹くと言われるこの地で摘まれる、月明かり育ちのハーブたち
素材と製法:レモンバーム、カモミール、リンデンの繊細なバランスに、ほんのわずかなバニラの香りを添えて。低温でじっくりと抽出し、香りと効能を最大限に引き出す「ブリーズ・インフュージョン製法」
香り:安らぎを誘う、優しい草原のような香り。ほのかに甘く、胸の奥に懐かしさを残すバニラの余韻
味わい:口に含んだ瞬間、体がふっと軽くなるような穏やかさ。心のざわめきを洗い流し、静かな呼吸へと導く
ひとこと:「選び取った道の先に、正解はないのかもしれません。けれど、心が覚えている限り、その灯はきっと、未来のどこかで、また輝きを放つでしょう――旅の終わりに。あるいは、旅のはじまりに。そして、その光がまた、誰かのはじまりを照らしますように」


