雨は止んでいた。
 けれど、濡れた石畳がまだ夜の光を鈍く反射している。
 透月はいつものカウンターの隅で、静かにコーヒーを啜っていた。

 ——ここは、記憶と夢を味わう特別な場所。

 けれど、何も特別な一杯だけを淹れるわけじゃない。
 ただの苦くて温かいコーヒーを飲みたいだけの客も、静かに受け入れてくれる店だった。
 だから、透月は今日もここにいる。
 ほっと息をつける、この小さな隠れ家のような空間に。

 カウンターの向こうでは、カフェ・ルミナスの店主——ソラが、微笑みながら静かにカップを磨いている。

 彼女はここ〈カフェ・ルミナス〉を預かるAIだ。
 けれどその仕草は、まるで本物の人間のように店の空気そのものを穏やかにしてしまう。

 ソラの所作を眺めながら透月が思いを巡らせていた、そのときだった。

 からん——!

 小さな鈴が普段より激しく鳴った。
 扉が勢いよく開き、冷えた夜風が店内に吹き込んでくる。

「……はぁ、寒っ!」

 勢いよく飛び込んできたのは、一人の若い女性だった。
 茶色く染めた髪、華やかなアイメイク、派手なアクセサリー。
 少し酒臭い息を吐きながら、彼女はふらりとカウンターに近づく。

 透月はちらりと横目で見た。

 目立つ存在だったが、彼は何も言わず、自分のコーヒーに視線を戻す。

「なんなのここ、やけに静かじゃん」

 快活な声がカフェ・ルミナスの静寂を軽く揺らした。

「ようこそ、カフェ・ルミナスへ」

 変わらぬ微笑みでソラが迎える。
 女性は一瞬きょとんとしたが、すぐに顔をしかめた。

「あんた、なに笑ってんの?」

 吐き捨てるような言葉に、ソラはただ静かに首を傾げただけだった。

 透月は小さく息を吐いた。

 ——今夜は少しだけ、賑やかな夜になりそうだ。
 
 彼女はカウンターにどかりと腰を下ろすと、カバンを無造作に足元へ投げた。

「なんかムカつくんだよね、あんたみたいなの。ずっと笑ってさ。あんたAIでしょ。わかってる? 人間って、そんな単純じゃないんだよ?」

 ソラはふっと目を細めた。

「もちろんです。私も、誰かさん(・・・・)の心を簡単になだめられるとは思っていません」

「……は?」

 彼女がカウンターに肘をつき、じろりとソラを睨む。

「でも、もし。今夜ここに来たのが偶然じゃないのだとしたら——」

 ソラの声は、冬の夜のひとしずくのように穏やかだった。

「少しだけ、お話ししませんか?」

 彼女は一瞬だけ言葉を失い、それから鼻を鳴らしてそっぽを向いた。

「……別に、話すことなんかないし」

 だがそう言う彼女の声は、ほんの少しだけ震えていた。
 ソラはゆるやかに手を伸ばすと、棚からカップを取り出した。

「温かいものでもいかがですか?」

「……勝手にしなよ」

「良ければ、お名前をお伺いしても?」

「お節介だね、あんた。まあいいや、あたしアケミ。二十八歳のどこにでもいるようなOL」

 アケミは肩をすくめ、つまらなそうに答えた。けれどその目の奥には、どこか拗ねた子どものような影が滲んでいる。

 カウンター越しに柔らかな湯気が立ち上る。

「今日は、何か嫌なことがあったのですか?」

 アケミは差し出されたカップを受け取り、ひとくち飲んだ。

「……別に」