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花音はアケミの部屋で毛布にくるまり、ぼんやりと天井を見つめていた。
お腹の奥に、まだ確かではない“なにか”がある。事実なのに現実感がなく、まるで夢の続きを見ているようだった。
アケミはキッチンでケトルに水を入れていた。お茶の準備をしながら何度も振り返っては、何も言わない花音の様子を気にしていた。
「花音、このハーブティー飲んだら、ちょっと眠りなよ。そりゃルミナスほど美味しくはないだろうけどさ」
わざと明るく声をかけると、花音はほんの少しだけ頷いた。
親に連絡を入れて以来、スマホは電源を切ったまま部屋の隅に伏せてある。連絡も、音も、すべてを遮断した小さな世界。
それでもあの店で交わされた言葉だけは、今も耳の奥で反響している。ソラの澄んだ声。透月の落ち着いた瞳。アケミの怒りと優しさが混ざった言葉。
だけど――ほんとうにこれでいいのだろうか。
誰かに守られたいと、まだ思っているなんて……。その弱さが許されるはずもないように思えた。
そして、アケミが用意してくれた布団の中で小さく息を吐く。
その吐息は涙の余韻とともに、ようやく眠りへと彼女を連れて行こうとしていた。
◇
翌日、彼らはアケミの家で花音から話を聞き、それぞれのやり方で動き始めた。
透月はまず、馴染み深い調査会社の知人に連絡を取った。「できる限り目立たず、花音の過去の接触相手や今の対人関係、それに行動履歴を洗ってほしい」と依頼する。万が一、花音の言葉に嘘や隠し事が含まれていた場合への対策だった。いくらアケミの友人でルミナスの客だからとはいえ、相手がいる事案である以上一方的に全てを信用するわけにはいかない。しかし、花音の行動には今回の売春行為以外不審な点は見当たらなかった。
一ノ瀬はタブレットを手にアケミと花音から得たわずかな情報――会った時間帯、街の名前、ホテルの外観、支払い方法などを一つ一つ確認しながら、地図と証言を突き合わせていく。
「こういうのはな……無駄な情報の中にもヒントがあるもんだ」
ぼやきながらも、その視線は真剣だった。
一方ソラは彼らの動きを補佐しながら、別の回線に接続してネット上の痕跡を洗っていた。
削除されたSNSアカウントの残滓、外部サーバに残るキャッシュ、AI同士の通信経路を活用した断片的ログの照合。それにホテル街の防犯カメラ、監視ログ、出入りの記録の洗い出しなど、地道で、しかし一歩間違えば法に触れるような調査を一瞬で行っていく。彼女の目には、人の目では捉えきれない膨大な量の“情報の影”が映っていた。
そうして、一つの手がかりが浮かび上がってくる――。
ソラが一ノ瀬から依頼を受けて解析した防犯カメラ映像のひとつに、ある中年男性の姿があった。花音が初めてルミナスを訪れた日の夕方18時。駅前の大通りに設置された公営カメラの映像だった。
男は紺色のジャケットに身を包み、手には派手なブランドロゴ入りのデバイス。その隣を歩く少女の姿は鮮明ではなかったが、花音の生体データと一致する特徴が確認された。
次のフレームは大通り沿いにある宝飾店の防犯映像をハッキングしたものだった。モニターに映るのは煌めくショーウィンドウを背に通り過ぎていく男女の姿。
少女は何かを訴えようと口を開きかけながらも、男に手を引かれるようにして歩いている。その歩みにはためらいがあり、身を引くような動きが繰り返されていた。少女が拒絶の意志を示していることは、映像を見た誰の目にも明らかだった。
同時にソラは闇SNSのキャッシュを精査し始めていた。そして一つの画像が復元される。
顔を隠した下着姿の女性と、男の手元を映した自撮りに近い構図の写真。背景にはホテルの室内らしきインテリア。そして投稿文にはこんな一文が添えられていた。
《今日は若い子だから連れ込みも簡単。久々に当たりかな》
投稿はすでに削除済み。だが、キャッシュ上に記録は残っていた。
ソラは女性にモザイク処理を施し、そのデータを一ノ瀬に転送した。
「対象を特定し、個人情報を洗い出しました。これよりお伝えしますが、本当によろしいのですね? ここから先は防犯カメラの解析とは次元が異なります」
ソラの問いかけに、一ノ瀬は数秒間無言で画像を見つめる。そして、低く絞り出すように呟いた。
「……ああ。覚悟はできてる」
短くうなずくその声に、迷いはなかった。
「承知しました。では、始めます」
ソラの声が、ひときわ静かに響く。
「現在、エーテルゲート社、システムサポート部に所属。家族構成は四人。過去の勤務歴は――」
その後も淡々と情報は続いた。生年月日、交友関係、幼少期の経歴、現在の年収。男の趣味嗜好から日々アクセスしているサイトの傾向、それらから推測される性格の偏りと行動パターン。まるで内面まで見透かすかのように、すべてが的確に、一つの無駄もなく語られていく。
一ノ瀬はただ黙って聞いていた。しかし、背筋にひやりとした感覚が走る。知らぬ間にどこか取り返しのつかない領域へと足を踏み入れたような、そんな感覚。
そして静かに、追跡のフェーズが切り替わっていった。


