とある日の午後。ルミナスの扉がいつになく激しく開いた。それと同時に女性が倒れ込むように店内へ飛び込んでくる。カウンターにいた透月は、その姿を見て一瞬言葉を失った。
「花音さま。そんなに慌てて、どうされましたか?」
ソラも驚いたように顔をあげ、接客中だった客に「ちょっと失礼します」と言い残してから花音のもとへと駆け寄る。
透月は花音という名に聞き覚えがあった。確か以前アケミが話していた、音楽の道を志しているという女の子だ。
花音は以前来たときとは別人のように目を真っ赤に腫らし、髪は乱れ、手を震わせていた。立つこともままならない様子の彼女は、駆け寄ってきたソラへ縋るように突然しがみつく。
「……たす、けて……」
声にならないほどの掠れた声だった。
花音はソラの肩にしがみついたまま声を上げて泣き始めた。しゃくりあげるような嗚咽。店内にいた客たちがざわりと視線を向ける。
ソラは花音の背中にそっと手を添えて、優しく声をかけた。
「大丈夫です、花音さま。……私は、ここにいますから」
それでも花音は泣き止まない。息が詰まりそうなほど涙を流し続けている。
ソラは透月の方に目をやり、小さく頷いた。
「透月さま。温かいおしぼりとお水を、お願いしてもいいですか?」
「……わかりました」
透月はカウンターの内側に入ると、ホットボックスからおしぼりを取り出し、手際よくグラスに水を注ぐ。そして奥のテーブル席へそれらを運ぶと、花音を座らせられるよう椅子を引いた。
「ソラさん、こちらへどうぞ」
ソラは花音の肩に腕をまわし、そっと彼女を導くように席へと連れていく。花音はぐずぐずと泣きながらもされるがままに従い、椅子に腰を下ろした。
彼女は透月から差し出されたおしぼりを受け取り、小さな声で「……ありがとうございます」と呟くと、それを顔に押し当てた。そして差し出された水を口に含んで、また大粒の涙をこぼした。
透月とソラは、しばらくのあいだ何も言わずにただ花音を見守っていた。やがて泣き疲れたように花音の呼吸が浅く静かになっていく。
そして少しの沈黙のあと、彼女はぽつりとつぶやいた。
「迷惑かけて……すみません」
「いえ、花音さま。どうか、ご自分を責めないでください。そのままで大丈夫です。今は、ここにいてくださるだけで。……けれど、もしお話できそうでしたら、何があったのかを聞かせていただけますか?」
ソラの言葉に少しだけ安心したのか、花音は一度大きく息を吸い込むと、軽く頷いてから続けた。
「……妊娠、してました」
透月の指先がかすかに止まる。ソラは何も言わずに花音の手を両手でそっと包んだ。
そのときだった。扉が再び開く。勢いよく現れた女性の姿に、透月が目配せをした。
「早いですね、アケミさん」
「そりゃ飛んで来るでしょ。この状況聞いたらさ。偶然近くにいてよかったよ」
アケミは息を切らしながら花音のそばへ駆け寄ると、しゃがみ込んで彼女の頬を両手で優しく包み込んだ。
「花音……なにがあったの?」
花音は目を伏せたまま、ソラの手を強く握る。
その様子を見て、アケミは透月を見上げて小さな声で尋ねた。
「透月、なにがあったの?」
透月はアケミの耳元に顔を近づけて、そっと囁く。
「妊娠……されたそうです。おそらく、望まないものだったのだと思います」
アケミの目がかすかに鋭く光る。
「相手、誰なの? まさか……」
花音は答えられない。ただ震える唇が何かを言いかけて、また閉じた。そして取り乱したように何度も頷く。
沈黙ののち、花音は掠れた声でつぶやいた。
「……わたし、あのとき、頭真っ白だったから。でも、他に身に覚えなんてなくて」
アケミが息を呑む。
「……わたし、嫌だったのに。でも、全部わたしが悪くて……もう、どうしたらいいか」
花音は俯いたまま震える声で続ける。呼吸は荒く、過呼吸になりかけていた。
「相手の連絡先も、やりとりも、全部消しちゃったし。怖くて……何もかも、忘れたくて……」
沈黙が落ちる中、なにかを察した透月が少しだけ呼吸を整えるように目を伏せて、静かに言う。
「……じゃあ、痕跡など何も残っていないんですね」
花音は小さく頷いた。
「だけど、なんとかなるかもしれません」
透月の視線がソラに向けられる。彼女はゆっくりと頷いた。
「ええ。たとえ記録が消されていても、世界にはまだ、誰にも気づかれていない証拠が眠っていることがあります」
その言葉は静かで、けれど確かな意思を含んでいた。
アケミが立ち上がり、拳をぎゅっと握る。
「本気でもないくせに妊娠までさせるなんて、許せない……。なんて無責任なの」
静かな怒りに満ちた声。それを止めるかのようにソラがそっと告げた。
「花音さま。よく打ち明けてくださいましたね。ですが今日のところは少し休まれたほうが良いかもしれません。アケミさん、お願いできますか?」
アケミはすぐに頷いた。
「もちろん。そうだ、今日はうちにおいで。お風呂に浸かってさ、一緒にあったかいものでも食べよう、ね」
花音が力なく頷き立ち上がろうとしたところで、透月が声をかける。
「花音さん。酷な言い方ですが、起こってしまったことについては、もう元には戻せません。ですが我々でできる限りのサポートをします。あなたがひとりで抱え込む必要はありません」
その言葉に花音の瞳がわずかに潤み、そしてそっと頭を下げた。
そのやり取りを黙って聞いていた男がいた。奥のカウンター席で彼は微かにため息を吐くと、読んでいた文庫本をぱたりと閉じた。
男の名は、一ノ瀬悠。
かつて大手物流企業の現場管理に携わっていたが、AI導入により職を失い、ふらりとルミナスを訪れた客の一人だった。AIという存在に強い不信感を抱いており、初めて訪れたこの店で、荒木とソラによってその壁を少し崩された過去を持っている。そして今、花音の泣き声に向き合う人々とひとつのAIの姿に、心のどこかが揺さぶられていた。
一ノ瀬は飲み掛けだったコーヒーを飲み干し、ゆっくりと腰を上げた。
「話は聞かせてもらった。俺も手伝ってやるよ」
「一ノ瀬さま……」
ソラが少し驚いたように一ノ瀬に目を向ける。
「ご協力いただけるのは心強い限りです。ただ、これから行うことの中には、おそらく境界を越えるものも含まれます」
「……たとえば?」
ソラは一瞬言葉を選ぶように黙し、やがて静かに告げた。
「もし私が対象の行動履歴や通信記録、SNSの削除データを追跡・解析する場合、人権・倫理の観点から、私単独では実行できない制約がかかっています。私はあくまでもAIという道具です。道具に責任は取れませんから」
一ノ瀬の眉が動く。
「つまり、それをやるには“誰か”の承認がいるってことか?」
「はい。一定以上の権限と明確な意思をもって、それを認めた人間の許可が必要です。記録は残さず、情報は目的外使用せず、花音さまを守るためだけに行うと、私が誓約した上で。そして、ここから先は、私のしたことに対して、許可を出した周囲の人間に“責任”が生じる可能性があります」
沈黙の中、一ノ瀬は腕を組みわずかに目を細めた。
「……俺達にそれを委ねるってわけか。AI嫌いの、俺も含めて」
ソラはほんのわずかに頭を下げた。
「はい。ですが、もちろん私は皆さまにご迷惑をかけないように配慮します」
一ノ瀬はしばしのあいだ天井を仰ぎ、深く息を吐いた。
「仕方ないな……面倒なことにならなきゃいいが」
そう言って、彼はソラをまっすぐ見つめる。
「だけど、今のあんたは少しだけ“人間”に見えたよ。やってくれ。責任は全部俺達が取る。あんたもそれでいいんだよな?」
「……透月です。もちろん。僕はソラさんを信用し、信頼していますから」
「決まりだな。俺は一ノ瀬。あんたと違ってAIにはまだ懐疑的だけど、よろしくな」
その夜、ルミナスの扉にCLOSEの看板が掛けられたあと、ソラと透月、そして一ノ瀬の“追跡”が始まった。


