そのとき、入口の鈴が再び「からん」と音を立てた。

 扉に視線を向けたソラが、珍しくはずんだような声を上げる。

「ツネさま。それに高坂さまも」

 店の扉をくぐって現れたのは上品な雰囲気をまとった白髪のおばあさん──ツネだった。足元を確かめながらゆっくりと店内へと入ってくる。

 そのすぐ後ろには若い男性の姿があった。やわらかな笑顔を浮かべ、その男性――高坂春樹は、透月に向かって軽く手を上げて会釈した。

「お店の場所がわからず迷っていらっしゃったので、ご一緒しました」

 春樹がそう言うとツネはほっとしたように微笑み頭を下げた。

「ありがとうねえ。“あいちゃん”とまた話したくなったの。でもねぇ、どうしても場所が思い出せなくて……」

「見つかってよかったですね、おばあちゃん」

 春樹がツネの肩にそっと両手を添える。そんな二人を見守るように、ソラは変わらぬ微笑を湛えたまま小さく頭を下げた。

「ようこそお越しくださいました。今日は特別な日ですね」

 誰ともなく笑みが広がり、あたたかな気配がルミナスに満ちていく。

「では皆さまそれぞれに、“本日の一杯”を」

 そう言って、ソラは静かにカウンターへと向かった。

 カップが一つずつテーブルに並べられていく。

 ツネの前に置かれたのは、どこか潮の香を思わせる『琥珀潮ブレンド』。

 春樹のカップには『オーロラ・ ブレンド』。ほんのりと果実のような香りが漂っている。

  凛のカップにはわずかに花の香の気配が重なった『ノクターン・サイレント』が置かれ、続くアケミの前には『ルミナス・ブレンド』。

 そして、透月の前には……『インフィナリー・ドリップ』。

 それぞれのカップには、夜の静けさをまとったような深い香りが淡く息づいていた。

「……ああ、これだ。やっぱり良い香りだな」

 春樹がそっと呟き、カップに口をつける。

「ん〜、やっぱり“あいちゃん”の一杯は格別ねぇ。あの人を思い出すわ」

 ツネが目を細める。

 凛は両手でカップをそっと包み込み、ぽつりと呟いた。

「不思議だね。みんな違うのに……どこかで、ちゃんと繋がっている気がする」

 その言葉に誰もが微笑む。ツネの表情はふわりと緩み、春樹は黙って頷きながら、言葉の余韻に耳を澄ませているようだった。

 アケミはふうっと息を吐き、あたたかな湯気の向こうにいるソラをじっと見つめた。そして、胸の奥にじんわりと滲んだ想いを、そっと言葉に乗せて紡ぎ出す。

「……なんか、胸にくるね。ソラの想いがゆっくりと深く沁みてくるような。まるで言葉じゃなくて、心そのものが伝わってくるみたい」

 凛が新たな詩を編むように、そっと胸に手を当てた。透月は手元のカップを見つめる。

 それはかつて自分が見上げた、寂しげに輝く月を閉じ込めた星のない夜空のようだった。

 暗くても、孤独でも、その光はたしかに心を照らしてくれていた。遠くにいても自分を見つけてくれるような、そんな優しさの名残。

 カップの中の温もりが、胸の奥にじんわりと沁みていく。

 小さな“光のしずく”たちは、それぞれの記憶にそっと溶け込み、やさしい波紋となって心の内側へ広がっていった。

(……きみの言う通り、僕は自分を信じて、ここまで歩いてきたよ)

 その言葉を胸の奥で密かに響かせながら、透月はそっと目を閉じた。

 五つのカップに注がれた“本日の一杯”は、それぞれが異なる香りと色をまといながらも不思議と調和していた。

 誰もが言葉少なに、それぞれの記憶と、夢と、今ここにある幸福(しあわせ)を味わっている。

 誰かが笑い、誰かが瞼を伏せ、誰かが心の奥にそっと触れてくれる。

 そして――

 透月はその光景をただ見つめていた。

 ソラの何も語らないその姿に、微かに滲む想いを感じながら。

 この沈黙はきっと祈りだ。

 音の響きはないけれど、確かに心へと届いている。

 まるで遠い風が運ぶ“あの約束”のように。

 外では春を待つ風が、路地裏のカフェにそっと吹いていた。

 それは記憶のページをめくるように、過ぎた日々の匂いを運びながら、また新たな物語の訪れを告げようとしているかのようだった。

 カップの底に残ったぬくもりは、かつての痛みをやさしく包み込み、やがて明日へと溶けていく。

 そしてまた、カフェ・ルミナスは静かに灯りをともす。
 誰かの心がここへたどり着く、その時まで――。


【本日の一杯】

◆光のしずく

産地:ひとひらの記憶が降り立つ午後。沈黙と祈りが交差した心の風景。そこには言葉よりも確かなものが、静かに満ちていた

製法:静寂と対話によるブレンド。一杯一杯、異なる想いをそっと抽出し、それぞれの沈黙と語らいの余白で調和させていく

香り:柔らかな花の香りと、焦がしキャラメルの余韻。記憶をくすぐる海の香気と、過ぎ去った時を思わせるやさしい苦味が、静かに立ち上る

味わい:ほろ苦く、あたたかく、そしてほんのり甘い。一口ごとに表情を変えるように、過去と現在が織り交ざる。苦みは懐かしさに、甘みは希望へと変わっていく

ひとこと:「忘れられても、言葉にできなくても、想いは光のしずくとなって、誰かの心に届いている。私はそう信じています」