その沈黙の中で、アケミがふと小さな声で尋ねた。

「ねえ……ソラ。どうして今日は何も言わないの? やっぱり、さっきのこと気にしてる?」

 ソラは穏やかな微笑みを浮かべたまま「……いえ」と答えたが、その表情にはほんの一瞬だけ影が差したように見えた。

 そのときだった。「からん」と小さな鈴の音が店内に響いた。アケミも透月も、そちらをふり返る。

 張り詰めた空気を明るく照らすように、新たなお客さまが一人、ルミナスの中へと足を踏み入れた。

 現れたのはセーターの袖を少し長めにした華奢な少女だった。どこかで見覚えのあるその横顔に、透月がゆっくりと目を見開く。

「……凛さん?」

 彼女は透月を見て微笑むと、カウンターの奥に立つソラの方へまっすぐに歩み寄っていく。そして一呼吸おいて、小さく口を開いた。

「こんばんは、……お久しぶりです」

 その声が、冷たい余韻に満ちた空気をふわりと包み込んだ。

「……凛さま。お声が戻られたのですね」

「凛さん、本当によかった!」

 透月も驚いて声をあげる。

「えっ、この子、知り合いなの?」

 アケミの問いに透月はうなずき、凛の方へと視線を向けた。凛はにこりと微笑み、アケミに向かって丁寧に頭を下げる。

「はじめまして。凛と申します。以前このお店でお世話になりました」

「あ、あぁ、そうなんだ。はじめまして、アケミです。気を遣わなくていいから、仲良くしようね」

 アケミはふっと笑い、隣の席を軽く手で示した。

「凛さま、おめでとうございます。新たな一歩を踏み出されたのですね」

 ソラがやわらかな笑みを浮かべる。

「ありがとうございます。たまたま近くを通ったんですけど、なんとなく、お店の前まで来てみたくなって……。それで、路地を曲がったら灯りが見えたので……」

 凛は少し照れたようにそっと笑った。その様子を見て、ソラは安堵したように再びやわらかく微笑む。

「こうして、またお顔を見せていただけて嬉しいです。よろしければ、なにかお淹れしましょうか?」

「でも、三人でお話されてたんじゃないですか?」

 気を遣うように問いかけた凛に、アケミがすかさず応じる。

「ううん、気にしないで。凛ちゃんも一緒に話そ? きっと凛ちゃんも、ルミナスに心を軽くしてもらった一人なんでしょ? あたしたちもそうだったからさ」

 凛は「ありがとうございます」と言って嬉しそうに微笑むと、アケミの隣へと腰掛けた。

「今日はね、珍しくソラが静かなんだ。だからさ、今夜はあたしたちでソラを元気づけようよ」

 その口調は一見軽やかだったが、どこか引っかかるような響きがあった。彼女の視線はじっとソラに向けられている。

「ありがとうございます、アケミさま。お二人が交わされる、心と心の美しい対話に、しばし耳を傾けておりました」

 ソラは穏やかな微笑を浮かべながらそう言って、それ以上は何も語らなかった。そして小さく「どうぞ」と呟き、凛の前にココアの入ったマグカップをそっと置いた。

「ありがとうございます、ソラさん」

 凛は笑顔でココアをひと口啜る。そして深く息をついたあと、囁くようにぽつりと続けた。

「……でも、きっとソラさんは言葉じゃなくて、心で話しているんだと思うな」

 そのひとことが店内の空気の温度をまたわずかに変えた。アケミも透月も、はっとしたように凛を見つめる。

 アケミはそっとソラに目を向けた。けれどその瞳の奥に言葉以上に深く響く“何か”を感じて、思わず視線を逸らす。

「……そうね。たしかに、そんな気がするわ」

 透月もまた、どこか懐かしさを宿した眼差しでソラを見つめていた。

「凛さんはAIであるソラさんの“心”を、ちゃんと感じ取れるんですね」

 その言葉に凛は頬をほんのり染め、小さくうなずく。胸元にそっと手を添えると、そのまま言葉の温もりを胸にしまうように、静かに視線を落とした。

 三人のあいだに言葉のない静けさが流れる。けれど、今度はどこかぬくもりを帯びていて、居心地のよい静寂だった。

 しばらくして、凛がまたぽつりと呟いた。

「わたし……声が戻ったときは、まだちょっと怖かったんです。でもお二人の言葉を思い出すと、それ以上に嬉しくなって。きっと、ソラさんの真心のこもったコーヒーがわたしを変えたんだと思いました」

 凛は同時に、あのときの二人の言葉を思い出していた。

『私は人間ではありません。……私は、AIです』

『君の中の“叫び”って、本当は誰かに届けたかったものなんだろうなって思った』

『あなたの“やめて”が届かなくても、あなたの“たすけて”は、今ここに届いています』

『言葉じゃなくても、味でも、眼差しでも、あるいは詩でも。君の想いは、いつかきっと誰かに届くよ。AIである彼女に届いたように……』

『声が出せなくても、伝わるものはたくさんあります。詩も、表情も、沈黙も……ぜんぶ、あなた自身が描いた“音”です』

 凛が思い出の旅路へと浸る中、アケミが驚いたように尋ねた。

「凛ちゃん、声が出なかったの?」

「はい。心因性のもので、しばらく話すことができませんでした。でもここに来て励ましていただいてから、少しずつ言葉が出るようになって……」

 凛はそっと目を閉じて続ける。

「こうして目を閉じると、あの日のソラさんの声が聞こえるんです。それを何度も思い出すうちに、少しずつAIへの恐怖も薄れていって。声が戻ったとき、実は最初に話しかけた相手は、AIだったんです」

「……そうだったんだ。凛ちゃん、AIも苦手だったんだね」

 透月は穏やかな笑みを浮かべながら耳を傾けていた。

 ソラはやはり何も言わなかった。ただ柔らかな微笑みを携えたまま、凛を静かに見つめていた。

「ねえソラ。ほんとに、どうして今日は何も言わないの?」

 アケミの声は優しさに包まれていながら、どこか寂しげだった。

 ソラは一瞬だけ目を伏せると、やがてそっと視線を上げて、穏やかに口を開いた。

「……あなたたちの声が、とても美しいからです。ルミナスという場所に、偶然足を運ばれたお客様。そのひとつひとつの点が、線となって結ばれ、やがて大きな縁になり、新たな絆へとつながっていく――今はその静かな余韻に、ただ耳を傾けていたかったのです」

 その言葉に、三人はそれぞれの胸の奥に、小さな灯がともるのを感じた。