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 しばらくの沈黙のあと、落ち込む円香に対して、アケミが話題を変えようと努めるようにカップを傾ける。

 その頃、店の奥のテーブルで詩織は小さく息を吐き、スマホに向かって静かに話し始めていた。音声入力によるエッセイの続きを紡いでいるのだ。

 円香は無言のまま、ふと彼女の方を目だけで追う。

「……目が見えないのに、なんであんなに落ち着いていられるのかな? 周りの状況とか、なんにもわかんないのに」

 円香がぽつりと漏らす。それに応じたのは、二人のグラスに水を注いでいたソラだった。

「恐れが消えたからではなく、恐れと共に生きることを受け入れたからだと思います。見えない世界では、不安は消えるものではなく、常ににじり寄ってきます。……だからこそ、心の中心に揺らがない光を見つけた方は、穏やかなまま強くいられるのかもしれません」

 ソラの言葉に円香は「ふうん」と相槌を打つ。

 その声音はそっけなかった。けれどその瞳にはどこか遠くを見るような淡い憧れと、ほんの少しの寂しさがにじんでいた。

 やがてソラはカラフェを手にしたままそっと詩織へ歩み寄ると、小さな問いを投げかけた。

「詩織さま。今日はどんなことを綴られているのですか?」

 詩織は目を細めて、少し笑った。

「ビビと過ごした八年の日々のことです。視力がだんだん落ちて、何もかもが怖くなった頃……そんなとき、この子に出会って、私は救われました」

 詩織の言葉に静かに耳を傾けていたソラが、そっと言葉を添える。

「その出会いが、どれほど大きな光だったのか……私にもわかる気がします。 見えない不安の中で誰かの存在が心の支えになること。 それは、ほんのひとときでも、その人の世界を変える力になるのですね」

 円香は頬杖をつきながら、どこか複雑な表情でふたりのやりとりを見つめていた。

「最初はね、どうして自分だけがこんな目にって、ふさぎこんでました。誰かの足音も、風の音さえ怖かった。でも、この子と歩くようになって……音や匂いや空気で、世界を“感じる”ことを覚えたんです」

 詩織の言葉が徐々に円香の心へと染み渡っていく。

「この子がいなかったら、きっと私は今みたいに笑えていなかったと思います。だから、あと少しだけでも思い出を増やしたくて。引退までの、ほんのわずかな時間の中で」

 二人の会話に耳を澄ませていた円香は、そっと視線を落とした。

 そのとき、ふいにビビがゆっくりと立ち上がり、静かに円香のほうへと数歩だけ歩を進めた。

 円香は身を強ばらせるが、ビビの動きは落ち着いていて威圧感はなく、ただ静かに彼女を見つめている。

「……えっ……」

 詩織が小さく驚きリードを軽く引こうとするも、ビビは一歩も動かずに佇んでいた。

 ソラがやわらかく微笑みながら、そっと言葉を添える。

「きっと、気配を感じ取ったのですね。円香さまの心のゆらめきを」

 円香は恐れを感じたが、椅子から立ち上がることはなかった。ただ、じっとビビの目を見つめて、問いかけるように呟いた。

「……あなた、引退しちゃうんだね」

 その問いを、ビビは首を傾げたまま聞いている。

「本当に吠えたりしないの?」

「ビビさんは必要がないかぎり決して吠えません。けれど、心の揺らぎには敏感ですよ」

 カウンターに戻ってきたソラが優しく応じると同時に、一杯の飲み物を差し出す。

「円香さま、よろしければこちらをどうぞ。……“ソルティ・カラメル”です」

 テーブルに置かれたそれは、淡い色のキャラメルラテ。ほのかに塩気の香りが漂い、湯気の向こうで柔らかな光を帯びていた。

「不安の下にあるものが、少しでも溶けてくれればと願ってお作りしました」

 円香はしばらくカップを見つめたままだったが、やがて両手でそっと持ち上げ、一口啜る。

「……優しい味。なんか、安心する」

 アケミが小さく笑う。

「ね、だから言ったじゃない。ただのカフェじゃないんだって」

 微かに円香の中で何かがほぐれていく気配があった。気づけばビビも詩織の足元へと、ゆっくりと戻っていった。