「あたしアケミ。ここの常連。ねえ、よかったら話そうよ。他に誰もいないし、女同士だし」

 花音には、その言葉が不思議と責めるでも詮索するでもなく、ただそこに“居てくれる”もののように感じられた。

「あっ、無理に話さなくてもいいけどさ」

 花音はうつむいたまま、ぽつりとこぼした。

「……花音です」

「へえ、かわいい名前じゃん。で、今日はどうしたの? なんかあった?」

「ただ……夢を、追いたかったんです。でも……現実は、甘くなくて」

「そっか……。どんな夢だったの?」

 花音はすぐに答えない。コーヒーが淹れられる音が、しばらく二人のあいだを満たしていた。

「……音楽です。子どもの頃からずっとピアノを練習してきて、高校の頃までは、ずっと音大に行きたかったんです。……だけど親からは無理って相手にされなくて。だから……、いったんは諦めて、大学も音楽とは関係のない学部に進みました」

 言葉を選びながら花音は続けた。そのあいだ、ソラは静かにアケミ専用のマグカップにコーヒーを注ぎ、そっと手渡す。アケミは小さな声で「ありがと」と言い、両手で包み込むように受け取る。

「でも……やっぱり忘れられなくて。どうしても、もう一度挑戦したくなって。自分の力で学費を貯めようって思ったんです」

「なるほどね……それで、無茶したんだ?」

 花音はうなずいた。一粒の涙が頬を伝う。

「少しでも早くお金が必要だったから……普通のバイトじゃ追いつかなくて、アプリで知り合った男性と……。わかってたんです、こんなことしちゃいけないって。でもわたし、どうしても音大に行きたくて、気づいたら……」

 声がかすれ、言葉が喉の奥でほどけた。

 アケミはそれ以上何も聞かなかった。自分のカップを両手で包みながら、静かにうなずいた。

「……全部、わたしが悪いんです。自分で選んだことだから……。だから、もう、音楽だって……」

 花音の声はわずかに震えていた。そのとき、カウンターの奥でお湯を沸かしていたソラが、ふと視線を上げた。

「花音さま。自分を責める心も、きっと何かを守りたかった証なのだと思います。悪いことだと、全部自分で抱えてしまう心こそ、優しさの裏返しなのかもしれません」

 花音はかすかに眉をひそめた。
 それは傷口をそっと撫でられたような痛みに似ていた。けれど、同時にその声に救われるような気がして、胸の奥がじんと熱くなる。

「人の心は、ときに言葉をなくして、静かに沈んでいくことがあります。きっとあなたのように、何かを大切に想いすぎる人ほど、心は深く静まってしまうのです」

 花音は指先をぎゅっと握りしめたまま、ゆっくりと顔を上げた。

「あんなふうに、自分を傷つけてまで音楽にしがみつこうとした自分が……すごく醜く思えて。もう、わからないんです。わたしが何をしたくて、何を捨てたのかさえ……」

「迷いも傷も、花音さまが真剣に生きてきた証です。遠回りに見える道も、きっとあなたの音楽に必要な何かを連れてきてくれる。傷ついた手でしか奏でられない音があると、私は信じています」

「でも……わたし、これからどうすればいいのか、わからなくて」

「わからなくなることは自然なことです。人の心は、指先で地図を辿るようにうまくはいきません。今はただ止まっているのではなく、遠回りの道を歩いているだけなのです」

 ソラはやさしく微笑み、湯気をまとったケトルを持ち上げた。

「心の音が聴こえなくなる瞬間もあります。でもそれは壊れたからじゃなくて……きっと、静かに呼吸を整えているだけなんです。まるで陽だまりの片隅で、体力を取り戻している小さな猫のように」

 その言葉に、花音の肩がわずかに震えた。

「……私、音楽が好きでした。自分で曲を作って、ピアノの前に座る時間が、一番落ち着けた。でも……あんなことをしておいて、こんな気持ちでピアノに向き合うなんて許されない気がして。それで……もう弾けないって、思ってしまって」

 ソラはそれを遮らず、静かに聞いていた。 花音は視線を伏せたまま、返ってくる言葉をどこか怖がっているようにも見える。 けれど、ソラの声は穏やかだった。

「音は、誰かの許可がなければ鳴らせないものではありません」

「……でも、自分が許せないんです」

「ならば、まずは小さく。許すことより、ただ思い出すことから始めてみませんか」

 ソラはそう言って、棚からひとつのカップを選び取った。白と青が混ざった陶器のカップ。その縁には、まるで波のような模様があった。

「花音さまに合うと思った一杯を、ご用意します」

「え……私、まだ何も頼んでません」

「はい。けれど少しだけ……花音さまの心に触れた気がしました。あなたの感情に合う一杯を、お作りいたします」

「でも……」とつぶやいた花音の肩に、アケミがそっと手を添える。花音は目を伏せ、こくりと小さくうなずいた。