夜の街には、どこか冷たい匂いが漂っている。スーツ姿の男たちが群れを成して歩く駅前を、花音は小さく息を潜めるようにして抜けた。
パンプスの音がアスファルトに吸い込まれていく。コンビニの前を通るたび、明るすぎる光が目に刺さった。
この道を彼女は何度も歩いたことがある。けれど今夜ほど足取りが重たかったことはなかった。
『十万出すから、次は朝まで付き合ってよ』
スマホに届いたその一文が、頭にこびりついて離れない。
初めて会った、ひと回り以上も歳上の男は、終始笑みを浮かべていた。約束の時間ぴったりに現れ、食事もそこそこにホテルへと誘われ、帰り際にはタクシー代を手渡してきた。
最初はもちろん断った。しかし──、
『メシだけで金がもらえると思っているのか?』『社会を舐めるな』『金が欲しいと言ったのはそっちだ』『時間を無駄にした責任をとれ』
返す間も無く次々と飛んでくる言葉に得体のしれない恐怖が込み上げ、断ることができなくなった。そして私は、心を殺した。
まさかこんなことになるなんて思っていなかった。ただ同じ時間を共有して、一緒に食事をするだけでお金がもらえると考えていたのが甘かった。
──私は、何をしてるんだろう。
ひとりごとのような言葉が、喉の奥でくぐもった。
自分の意志で、何かを手放したような気がしてならない。それが何か、言葉にするのが怖かった。
◇
大学四年の秋。花音は就職の内定を辞退した。親には当然のように反対された。
『これからどうするつもりなの?』
『就職してから考えなさい』
──そんな言葉を何度も浴びた。
でも花音には、どうしても諦めきれない夢があった。
音大に行きたい。もう一度、音楽と向き合いたい。私のピアノで、人の心を動かせたなら──。
高校時代からずっと胸の奥にあったその想いをやっと声にしたけれど、もう遅すぎた。家族は取り合ってくれなかった。
『大学を出てまで、今さら何を言ってるの』
『お金のこと、少しは考えて』
もちろん分かっている。音大は学費も時間もかかる。でも一度きりの人生だ。このまま夢を手放していいのか、答えが出なかった。
貯金をかき集めても到底足りない。バイトだけで賄える額ではない。奨学金も、新卒で就職を蹴った人間には難しいと知った。
そんなとき、ある友人が口にした。
──パパ活、って知ってる?
最初はそんなの無理だと笑った。でも夜ベッドに横たわったとき、スマホでその言葉を検索している自分がいた。
スクロールした画面の向こうで、現実が静かに形を変えていく気がした。


