透月はカウンターの奥で静かに話すソラを見ながら、ふと自分の中にある「ある感情」に触れそうになるのを感じた。

(なぜ……この声がこんなにも懐かしいのだろうか)

 だが、その答えはまだ霧の向こうだ。

 透月は黙ってグラスの水を飲み干した。

 そのころ、凛は静かに俯いたままノートを閉じていた。さっきまでの筆談の余韻が、まだ手の中に残っているようだった。

 それに気づいたソラが、そっと言葉をかける。

「……よければもう一杯、お淹れしてもいいですか?」

 凛は顔を上げて、静かに頷いた。

「これは、言葉を持たないブレンドです」

 そう告げたソラは、手元の豆の棚から数種類を選び、丁寧に計量しながら、静かに抽出を始めた。

 香ばしさとほのかな甘み。深すぎず、けれど奥行きのある味。 ――伝えたいけれど、伝えられない。そんな心のざわめきをなぞるように。

 ほどなくして運ばれてきた一杯のコーヒー。凛は両手でカップを包み、そっと口をつけた。

 そして、ふと目を見開く。

 ノートをめくり、ペンでゆっくりと記す。

『この味……まるで今のわたしの気持ちみたい』

 ソラは小さく微笑んだ。

「そうだったなら嬉しいです。言葉がなくても想いは届くと、私は信じていますから」

 しばしの静寂が流れる。

 やがて、透月が椅子を引き、ゆっくりと立ち上がった。

 会計を済ませたあと、彼はポケットから例の紙片を取り出し、凛の前にそっと差し出した。

「……この詩は、君の落とし物かな?」

 凛は驚いたように目を見開き、紙を受け取った。
 そこに記されていたのは、確かに自分の筆跡だった。

 “私は静寂のなかで 何度も叫んだ 記憶と夢のあいだで あの日に戻りたいと”

 凛が顔を上げると、透月は優しく言った。

「この言葉……ずっと気になってたんだ。でも最初に読んだときより、今の君を見てからの方が、意味が深くなった気がしたよ」

 凛は小さく瞬き、そしてノートを開いた。

『どうして、ですか?』

 凛の瞳には、どこか問いかけるような色が宿っていた。
 透月はその視線を静かに受け止め、少しの間言葉を探していた。そして、ゆっくりと口を開いた。

「君の中の“叫び”って、本当は誰かに届けたかったものなんだろうなって思った」

 そこまで言って、一度言葉を止める。凛の視線は静かに揺れていた。

「……でも、それが“声”じゃなくてもいいって、今の君を見て感じたんだ」

 透月はわずかに笑みを浮かべ、言葉を継いだ。

「言葉じゃなくても、味でも、眼差しでも、あるいは詩でも。君の想いは、いつかきっと誰かに届くよ。AIである彼女に届いたように……」

 そう言い終えると透月はふっと息をつき、静かに身を翻した。ドアに向かって歩き出し、取っ手に手をかける。

 振り返ることはせず、そのまま木の扉を開け、午後の光の中へと一歩を踏み出すと、扉の鈴がひとつやさしく音を立てた。

 凛の目がほんの少し潤んだ。でもそれは悲しみではなく、どこか暖かさの滲む光だった。

 その様子をそっと見守っていたソラが、柔らかな声で言葉を紡ぐ。

「今日は、来てくださってありがとうございました。……きっと、勇気のいる一歩だったと思います」

 凛は一瞬だけ目を伏せ、そしてカップの縁をそっとなぞるように指を動かした。

「声が出せなくても、伝わるものはたくさんあります。詩も、表情も、沈黙も……ぜんぶ、あなた自身が描いた“音”です」

 凛の指が、そっとノートの上を滑る。

『……ありがとう』

 その一言を見て、ソラは微笑んだ。

「どうか……AIを、怖がらないでいてくれると嬉しいです」

 凛はしばし目を伏せ、それからゆっくりと立ち上がった。椅子の脚が静かに床を鳴らす。

 扉の前で一度だけ振り返り、凛は小さくお辞儀をした。

 そして、外の光の中へ、そっと歩き出す。

 ソラは、凛の背が光に溶けていくのを、静かに見つめていた。

 声はまだ戻らない。けれど、ひとつの“音”が、確かに生まれていた。

 それは、もう一度自分の想いを世界に届けたいと願う、少女の最初の一歩だった。


【本日の一杯】

◆ノクターン・サイレント(Nocturne Silent)

産地:記憶と夢の狭間に咲く、幻の夜咲き珈琲林

焙煎:眠りに落ちる月夜のように、静かにゆっくりと焼かれた豆

香り:わずかに花の蜜を帯びた、夜の詩集のような甘さ

味わい:苦みはかすかに、温かく丸みのある静寂の余韻

ひとこと:「声にならない想いも、確かに誰かの胸に届いている。たとえ沈黙のなかでも、心の音は消えません」