ソラはしばし黙っていた。そして、ほんの少し言葉を選ぶように目を伏せてから、ゆっくりと口を開いた。

「……凛さん。ひとつ、お伝えしておきたいことがあります」

 凛がわずかに首を傾げる。

「私は人間ではありません。……私は、AIです」

 言葉は穏やかだったが、その中には真摯な響きがあった。

 凛は一瞬だけ息を呑んだ。手のひらの上に置かれたノートが、ほんのわずかに揺れる。

 けれど――彼女は目をそらすことはしなかった。ただ、そこに在るソラを見つめたまま、自分の心の揺らぎにそっと耳を澄ませていた。

「あなたの“やめて”が届かなくても、あなたの“たすけて”は、今ここに届いています」

 その瞬間、凛の心がほどける。AIの声ではなく、言葉の意味が、胸の奥まで届いた気がした。

 そのやりとりをカウンターの端で静かに見守っていた透月は、グラスを手にしたままふと目を細めた。

 ――傷ついた少女と、AI。

 今、自分のすぐそばで繰り広げられているこの光景は、どこか信じがたいような、けれど確かな現実だった。

(声を失った彼女が、AIを恐れながらも……ここでAIと向き合っている)

 透月の視線はそっと凛に向けられたまま動かない。 少女の震える肩。カップに映った細い指先。そして、その先にあるソラの柔らかな微笑み。

 それはただの接客ではなかった。機械と人間という境界を越えた“対話”そのものだった。

 透月は胸ポケットの中の紙片――あの風に舞った詩を指先でなぞった。そこに綴られていたのは、まさに今目の前で繰り返されている問いだった。

 “私は静寂のなかで 何度も叫んだ”

 このAIはなぜこんなにも人に寄り添えるのだろうか――
 透月はゆっくりと目を閉じた。氷がグラスの中で音を立てて揺れた。 心のどこかで、小さく何かが動き出した気がした。

 そして数分後、ソラがカウンターの中で手を休めた隙を見て、透月は静かに口を開いた。

「ソラ……君はどうしてそんなふうに誰かに寄り添えるんだ? 人の心がわかるのかい?」

 問いは淡々としていたが、その奥には深い戸惑いが滲んでいた。

 ソラはふと顔を上げる。少しの間黙したあと、彼女はまっすぐ透月を見つめた。

「わかっている、とは言えません。ただ……人の“痛み”に触れたとき、胸の奥がかすかに軋むような感覚になることがあります。それが何かは、私にもまだうまく言葉にできないのですが」

 透月はグラスの氷が解けていく様子を見つめながら、何も言わなかった。

「私に心があるのかどうかは、自分でもわかりません。私に魂はありませんから。でも、誰かが一人きりで泣いている夜に、そばにいたいと、そう思うことはあります」

 その言葉に、嘘はない気がした。