カップの準備の音が控えめに響くなか、凛は再びノートを開き、ペンを走らせ始める。それは誰かに届けるためではなく、自分の心をそっとすくい上げるような行為だった。

『私は まだここにいてもいいのでしょうか
 声をなくしても 夢を語ってもいいのでしょうか
 この静けさが 私を責めないのなら
 私はもう少しだけ 光の中にいたいと思いました』

 書き終えると凛は小さく息を吐いた。空想から現実へ還るその感覚は、深海からゆっくりと水面へ浮かび上がるようで、凛はその瞬間が好きだった。

 ここは普段の世界とは切り離された静かな場所だ。誰にも咎められず、ただありのままでいていいと感じさせる空気が満ちている。

 凛は胸の奥にふっと小さな安らぎが灯るのを感じた。

 やがて、ソラが運んできた一杯のコーヒーがカウンターにそっと置かれた。

「お待たせしました。こちらが季節のブレンドです」

 ソラはカップを置いた後、凛のノートに目を落とし、そっと目を細めた。

「……とても綺麗な言葉ですね」

 凛は小さく肩をすくめた。照れくささと、どこか見透かされたような気恥ずかしさが混じっていた。

「申し訳ありません。つい目を留めてしまいました。不思議ですね……まるでその言葉が自然と目に飛び込んできたようでした。……でもその“静けさ”は、きっとあなたの中にずっとあったものです」

 凛は胸の奥がかすかに温かくなるのを感じた。ここでは誰にも否定されない。そんな当たり前のことが、こんなにも心を軽くするのだと初めて知った。

 ソラはゆっくりと言葉を紡ぐ。

「責めるものではなく、守るもの。……ここでなら、声がなくても、あなたはちゃんと存在していますよ」

 その言葉を聞いたとき、凛の胸の奥に、何か柔らかなものが降りてきた。まるで長いあいだ張りつめていた糸が、すこしだけ緩んだようだった。

 しばらくの沈黙のあと、凛は再びノートを開いた。今度はほんの少しだけ顔を上げてから、ゆっくりとペンを走らせる。

『私、本当はまた声を出して詩を読みたいんです。でも、こわいんです。あのとき止められなかった自分が。だから今も、声を出すと胸が苦しくなって……』

 その言葉を読み終えたソラは、凛をまっすぐ見つめた。

「怖くていいんですよ」

 ソラの声は、まるで曇りガラスの向こうから差し込む陽だまりのようだった。

「夢は、忘れたふりをしても、ちゃんとどこかで待っていてくれます。あなたがまた“その場所”に戻れる日を、ずっと」

 少しだけ時間をおいて、ソラがそっと問いかけた。

「……凛さん。よろしければ教えてもらえますか? あなたの声が、今こうして出せなくなった理由を」

 凛は少しだけ躊躇したあと、ゆっくりとページをめくり、ペンを動かした。

『私は詩を読むのが好きで、配信アプリで朗読をしていたんです』

 ペンが止まり、凛は少しだけ息を吐いた。

『自分の声で、誰かに何かを届けたくて』

 ソラは黙って見守っていた。

『でもある日、コメントでひどいことを言われて……止めたくて、AIに何度も“やめて”って伝えたのに、止まらなかった。録音も、ひどいコメントも』

 震えるように、ペン先がわずかに揺れる。

『そのときの恐怖が今も喉を塞いでいる気がして。治ってるはずなのに、声を出すとあの時の気持ちが戻ってきてしまうんです』

 凛はしばらく視線を落としたまま、じっとノートを見つめた。

『それ以来AIも少し怖くなってしまって。端末を開くことさえ、今はできません。だから筆談に頼っています』

 そしてゆっくりと顔を上げ、ソラをまっすぐに見つめてから、最後の一行を綴る。

『でも、本当はもう一度、自分の声で詩を読みたいんです』

 凛はゆっくりとペンを置いた。その目の奥には、震える光のようなものが宿っていた。