プロローグ
——忘愛症候群
ある日突然、そう言われた。
漆黒の闇に包まれたような図体に見合わぬ服を身に纏った男に。
忘愛症候群?何それ。ファンタジー系アニメとか漫画に出てくるやつ?それともおとぎ話?
ちちんぷいぷいでフリフリのドレスが着れて、ガラスの靴が履けて、かぼちゃの馬車に乗れる、シンデレラのお話みたいな。
能天気な私はそういうふうに軽ーく受け流していた。どうせいつものようにファンタジックで非リアリティな夢を見ているんだと。
小説の見過ぎだと思い込ませていた。十代から人気を集める感動恋愛小説でよく見かける、“神様”や“死神”を名乗る者から「お前はもうすぐで死ぬ」「死にたくなければ、今までの記憶を全部消せ」的なことが現実であり得るわけがないと思っていたから。
そんなこといきなり言われたらきっと、誰だって信じるはずがない。信じれるわけがない。
私だって同じ気持ちだった。こんなの信じてたまるかって。君のことを忘れるなんて。絶対、絶対嫌だ。
そうやって“言い訳”してたんだ。
第一章
「優美!優美っ!おっはよー!」
「優美ちゃーん!ごめーん!寝坊したー!」
無邪気で明るい声たちが私、北村優美の名前を読んだ。
ぴょんぴょんとうさぎのように弾み、空高く舞うシャボン玉が軽快に弾けるような朗らかな声はいつもと変わらず私の背後から飛んできた。
朝は嫌い。目が覚めてちゅんちゅんと小鳥の鳴き声が聞こえたら「また朝がきたなぁ。頑張らないとなぁ」って思う。カーテンの隙間から入ってくる薄明るい光を見るのは眩しい。頭もぼーっとして冴えないし、真っ白なブラウスの袖に腕を通す瞬間が嫌で嫌で仕方ない。起きるのが憂鬱。別に精神的な病気にかかってるわけではないけど、なんとなく。学校でいじめられてるわけでもないし、学校が嫌いというわけでもない。理由として挙げられるなら私が典型的な夜型人間だからかもしれない。
でも、やっぱり朝は好き。
「彩葉!咲!おはよ〜!」
「優美ぅ〜!昨日徹夜でテスト範囲のワーク終わらせようと思って夜更かししちゃったらさぁ二時過ぎてて」
「あぁ〜!だから寝坊したってことね!」
「そうそう!頑張ったんだよ〜!うち、赤点回避しないとヤバいんだよね〜…」
語尾をゆったりと伸ばしながら頭を掻く仕草をする彩葉に私と咲は首を傾げた。いつもの彩葉を思い返してみるとテスト期間、手元にあるのはスマホ、何みてるのかなぁと思って覗いてみたらインスタ。テスト前の口癖「ちょっとぐらい点数悪くても大丈夫でしょ!」なんてピースサインして余裕ぶっかましてるあの彩葉が、今回は焦っているからだ。
「彩葉大丈夫?赤点回避しないとヤバい感じ?」とこれはただ事ではないと察した咲が彩葉に訊いた。
「実はさぁ、うちのお父さんが一つでも赤点取ったら一ヶ月スマホ触るの禁止!とか言っててぇ……」
「あーね、なるほど。そういうことね」
「ヤバーい!」と手で顔を覆う彩葉。確かにそれはヤバい。いや、赤点を取る彩葉もどうかと思うような気がするけど、女子高校生、SJK(高校二年生の女子)真っ最中でスマホ没収はキツイ。
「やっぱり青春にはスマホがないとね。特に女子。何にもできなくなるよね〜」
「だからって言って、徹夜なんかしたら体調崩すよ?睡眠は大事」
「そうそう、咲の言う通り!でもよく頑張った!偉いぞぉ!」
「優美ぅ!もぉー!優しいんだからぁ!」
自分で言うのもなんだけど褒めて育てるタイプの私が彩葉の高めのポニーテールが崩れない程度に優しく撫でると、ピョーンと私に飛びついてきた。
勉強嫌いで提出物溜めまくり徹夜してよく寝坊するけど、お茶目でかわいい永富彩葉
普段と部活中のギャップがすごくて、中学のときからずっーと私に寄り添ってくれてる茂森咲
彩葉も咲も、私の親友。たまにケンカするけど、ケンカするほど仲がいい。
「ほんとその通りだなぁ」
「何が!?何がその通りなの?」
ついついポロッと溢れた私の独り言を聞き逃すことなく反応した咲。耳がいいのは前世が聖徳太子だったかららしい(自称)。
「べっ、別に!何でもないよ!ただ考え事してただけだから…」
「ふーん…?あっそうそう!最近どうなの?咲、ずっと気になって気になって仕方なかったんだけど」
「最近どうなのってどういうこと?体調は何ともないけど…勉強もいつも通り…」
頭の中にクエスチョンマークを浮かべて首を傾げる私に、二人は「全然わかってないねぇ〜」「恋愛音痴、鈍感すぎる〜。でもそういうところも可愛いよ〜」と私の頬を突いた。
恋愛音痴?鈍感……。あっそういうことね。
「琉嘉とは最近話せてないんだ。テスト期間だし、向こうもちゃんと勉強モードに入ってると思うから邪魔かなぁって思って」
「寂しいとか話したいとかないの?うちだったら寂しいな〜。彼氏がいたらの話だけど笑」
「彩葉に同感。話したいなら話せばいいじゃん。倉橋のことだし気にしないと思うよ。むしろ向こうのほうが寂しがってたりして笑」
「それはそれでウケる笑」と彩葉がニヤけた。
「んー…。琉嘉のことだし寂しがってないと思う。それに大事なテストだし、集中したいだろうから悪いなぁって思って」
「それ話さない理由にならなくない?」
と咲が眉間にシワを寄せた。
そりゃ話せるなら話したいし、会いたい。私も全く寂しくないわけじゃない。琉嘉もそうだったら嬉しいけど…。
寂しいという気持ちが、勉強の邪魔をしたくないという気持ちに押し合いで負けてしまう。
邪魔かどうかは琉嘉が決めることだけど…。
「ちっちっち。分かってないねぇ、優美ちゃん。琉嘉くんの気持ち」
「付き合ってるんだからもっと、こう…恋人らしくしてもいいと思うけど。そんなに気になるなら本人に直接聞いてみたらいいじゃん」
直接聞く…か。どストレートになんでも言える咲なら簡単なことだと思う。
…でも私からしたら相当な難問だ。
そもそも、琉嘉のことだし邪魔なんてストレートに言ってくれないと思う。正直、私も言われたら傷つく。好きな人に言われたら余計凹む。多分三週間ぐらい。
分かってないねぇって言われても、分からないものは仕方ないと思う。恋人らしくってどういうことか私にはさっぱり分からない。まぁ私は極度の恋愛音痴。恋愛音痴人間の中の恋愛音痴人間。恋愛音痴の王女様、クイーンって感じだ。
説明が遅れたけど、琉嘉というのは私の幼稚園の頃からの幼馴染であり…、自分で言うの恥ずかしいけど恋人だ。
倉橋琉嘉。普段はめっちゃおとなしいのに、部活中は同一人物とは思えないぐらいはしゃいで明るいし。“最近は”ほとんどの人がが知ってるけどエレキギターとかピアノ弾ける才能の塊。男子のくせにって言ったら固定概念だけど勉強もふつーにできる。
優しい、親切、気遣いできる、心配性。
一言で言うと『完璧』
「あっ、優美今。倉橋のこと考えてるでしょ?絶対そうだ」
「へ?」
「だって顔、ほんのりだけど赤くなり始めるもん。優美ちゃんってほんと、わかりやすい笑」
「違うから!そうやってすぐ、琉嘉のこと考えてるとか、違うから!」
違うと言いつつ本当は考えていたので焦って日本語がおかしくなってしまった。
「まぁ、またテスト終わってから二人でお疲れ様会デートとかしたらいんじゃな」
「咲、いい加減にしないと私の右手の拳が飛んじゃうよ?」
「えぇ…優美ちゃん急に怖笑」
私の軽いジョークに彩葉が怯えるように顔を顰めた。その顔が引きつりすぎておもしろくて咲と笑った。私たちに釣れたように彩葉も笑った。
あぁ幸せだな。私って幸せ者だな。
なんとなく、唐突に、そう思った。
特別な能力を持っているわけじゃない。私が他の人と違って何か特別なものを持っているんじゃない。
なんの変哲もない普通の女の子。そこら辺にいる普通の女子高生。普通だから幸せなんだ。
普通に仲の良い友達がいること。
私を好きと言ってくれる人がいること。
他にもたくさんある何気ない日常が、普通すぎる日常が私にとって幸せなんだ。
パッと見上げた空に浮かんだ一つの雲。
ゆっくりと時間とともに流れていく雲が手を振り、肌をジリジリと容赦なく照りつける陽光が私たちに微笑むように少し弱くなった気がする。
⭐︎
まだ六月中旬に入ったばかりだというのにも関わらず、聞こえてくる声は蝉の声だけ。ミーンミーンミーン、ジージージーと黙々とただ鳴き続ける。緑葉が生い茂った木々に止まり、まるで日なたを避けるように。
最近は本当に暑い。クーラーのきいた部屋に居ようが、ネッククーラーをしていようが汗が滲み出でくる。
「地球温暖化が進んでるから皆さんひとりひとりが意識しましょう」とか国が掲げてる「温室効果ガス削減対策」とか。年々暑さ増してる。本当に対策できているのだろうか。
こう…なんていうか…。大きな掃除機みたいなやつで二酸化炭素を吸い取れないだろうか。で、その吸い取った二酸化炭素を……
「じゃあ教科書八十ページ、今日の日付は六月十四日だから…北村から後ろに読みなさい」
「はいっ!?なんでしょう!?」
不意に指名され、驚きのあまり思わずガタンッと机に足をぶつけてしまった。音がしたほう、つまり私にクラス中の鋭い視線が集まる。これは気まずい、まずい、やばい。授業中やらかしてはいけないランキング王道の一位をやらかしてしまった。中学のときの男子がこれで先生にガチ説教をされているところをバッチリ目撃した私にだからその恐怖がわかる。
後ろにいる彩葉がクスクス笑ってる。右端のほうでじーっと見てくる咲の無言の圧がすごい。
待って待って待って。笑ってる場合じゃない。この状況を何とかしないと。あぁ、なんで考え事なんかしてたんだろう。ちゃんと聞いてなかったからどこ読んだらいいかわかんない。
だけど、問題はそこじゃない。社会の先生、あだ名「なまはげ」って付けられるぐらい鬼怖いから「すみません、どこ読んだらいいかわかりません」なんて呑気に聞いたら……。想像するだけで怖い。怒られる、ブラックリスト(話を聞いてない生徒や授業中に注意した生徒をメモしておくためのノート)に書かれちゃう。
「どうした北村、さっさと読みなさい。時間がないんだ」
椅子から立ち上がった先生がペンをカチカチとノックし始めた。どうしよう、イライラしてる証拠だ。
「すみません、読むペー」
「優美ちゃん、教科書八十ページ!」
「…えっと、世界の温暖で降永量が多い地域と同様に日本では古くから稲作が行われ、米が主食とされてきた」
「また、国士が海に囲まれ、豊かな自然が広がる日本では、多様な食材が手に入る」
彩葉、ありがとう。今は彩葉が神様としか思えないよ。こんな大ピンチを救ってくれるなんて。
先生にバレないように後ろからこっそりと彩葉の教えてくれる声が聞こえてきた瞬間、天に昇るような気分。正直に言って今までで一番助かったかもしれない。
私が読んだ後に続いて彩葉が読み、彩葉が読み終わったところで次の人に順番が回っていく。
生徒が音読をしているのもお構いなしに先生はうたた寝をし始めた。その一瞬の隙をうかがい体を九十度後ろに回転させた。
「彩葉!ほんとにありがと〜!感謝でしかないよぉ!」
「そんなに?笑」
「だってあの先生に聞き返す勇気ある?」
「それはないね。だってなまはげなんでしょ?あの人。相当怖いじゃん笑」
びっくりするぐらい即答だった。やはりあの先生は「なまはげ」として恐れられてもおかしくない。
「でしょ!?だからめちゃくちゃ焦ったときにあの一言は神だね。ありがと〜今日購買のミルクティー奢ってあげる!」
「えぇ!それは嬉しい!教えてあげてよかったー!」
大好物のミルクティー、奢るという言葉に反応し、つい大きな声を出してしまった彩葉に視線が集まった。先生の鋭い目つきが彩葉にぶっ刺さり、まさに青菜に塩状態だ。
あちゃーやってしまったと言わんばかりに口元に手を当て、すみませんとぺこぺこ頭を下げる。
「授業中だぞ?おしゃべりは授業が終わったあとにしろ。あぁーすまん。じゃあ、続きを中野から」
案外軽く受け流されホッとする。ブラックリストにメンバー入りしなかったことが不幸中の幸いだ。(部活の先輩曰く、ブラックリストに名前が書かれるとまあまあ通知表に響くらしい)
「でも優美ちゃんがぼーっとしてるって珍しいね。なんか朝もそんな感じだったじゃん。体調悪い?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど……最近暑いなぁって思って」
「あぁ〜そういうことね。てっきり琉嘉くんのこと考えてたのかと思ったよ」
「……」
琉嘉?琉嘉……。あぁ琉嘉ね。
彩葉って一回私にしばかれたいのかな。ミルクティー奢りって話、無しにしてもいんだけどな。
「次琉嘉のこと言ったら私のゲンコツプレゼントしてあげるね。早めの誕生日プレゼント」
「ひぃぃ怖っ。きたよ、優美ちゃんの真顔、情緒不安定」
先生がうたた寝から起きそうだなと悟り、そろそろ普通にしないと目をつけられると思ったので「じゃあまた後で話そ」と一言言ってから体を元に戻した。
よし。先生は私たちの会話に目も耳も傾けていなかったようだ。セーフってことでいいだろう。
机の下で小さくガッツポーズをして再びシャーペンを握った。罫線だけ引かれたノートに次々と文字が書き込まれていく。
先生の話が少し逸れそうだな、と思ったら空を見る。バレたら注意されるか、ブラックリスト登場。
空を見てると時間が早く流れるような気がして、嬉しい。授業の合間の十分間休憩が恋しいよ。
「国土が海に覆われた島国である日本といえば、みなさんは寿司好きですか?私は大好きで特に炙りチーズサーモンが好きなんですよ。あぁでも最近は年のせいなのか、胃もたれをすることが増えてしまって、今は玉子が一番好きなんですよね。あの菜の花っぽい色の黄身が食欲をそそりますよね。食べるとほんのり香るお出汁と濃厚なたまごの味がもう感動的で…。そうそう、たまごといえば——」
私が話聞いてない間に先生の話相当逸れてる。
周りのみんなも退屈そう笑。彩葉は私を盾にして寝てやがる。嘘寝…いやちょっと待って。いびきかいて、もしかしてガチ寝…。咲は櫛で髪を梳かしている。相変わらず美意識が高い。そんなに梳かなくても枝毛なんて一本も見つからないぐらいサラサラしててキレイなのに。
他の人たちも髪の毛を指に巻き付けてクルクルしたり、ペン回ししたり。
早く授業終わらないかな、なんて笑。
あの雲…綿菓子だ、綿菓子!いや、色をつけたらりんご飴にも見えなくはない。
食べ物のこと考えてたらお腹がすいできた。でもまだ三限目……。なんでお昼ご飯って四限目が終わったあとなんだろう?お腹すいたときに食べてもいいよ的な新しいルール、生徒会が作ってくれないかなぁ。
なんでこんなに早くお腹が空くんだろう。私だけなのかなと思い、周りをチラッと見てみたが誰にもお腹が空いているような素振りは見られない。
朝ごはんはガッツリ食べる派だし、女子の私でお腹が空くなら、男子とかもっと早くお腹が空くだろうな。でも私のクラスの男子たちは「腹減った」とか言ってないな。我慢してるのかな。本当はトイレでこっそりお菓子食べてるとか、実はお弁当二個持ってきてて、授業中に早弁してるとか…なわけあるか笑。
——琉嘉くんのこと考えてるのかと思ったよ
琉嘉……。あぁ、まただ。またすぐに出てこなかった。さっきと同じ、琉嘉と言われたときに感じた違和感。
彩葉と話したとき、気のせいかもしれないけど、ほんの一瞬、琉嘉のことが誰だかわからなくなったような気がする。
顔にモヤがかかって、パッとしないっていうか…。でも私が琉嘉を忘れるわけがない。
夏バテかな。疲れてんんだろう。それとも考えすぎ?まぁ多分、私の考えすぎだろう。
「体調管理と考えすぎは気をつけないとね」
私の独り言はチャイムの音に掻き消された。
⭐︎
校内に鳴り響くチャイムの音と同時に生徒たちの肩の力が抜けていくように見えた。
「優美ちゃーん!ようやくお昼ご飯だよぉ!今日寝坊して朝ごはん食べてないからお腹ぺこぺこだよ〜!」
待ちに待っていた四限目終了のチャイムが鳴った。
「私なんか朝ごはん食べたのにずっとお腹なりそうでお腹に力入れてたんだよねぇ笑」
「優美、ほんとに朝ごはん食べたの?笑」
「食べたけど!頭使うとお腹減るじゃん!」
「まぁ咲もお腹すいたんだけどね」
「隠す必要ないじゃん」と少し怒ったような雰囲気を漂わせながら彩葉が咲に詰め寄った。それに対して咲は冷静に「隠したわけじゃないし」とピリピリした空気が二人の間を取り巻く。
私が「はらぺこ不機嫌モンスターになってるよ」と言うと「「その名前嫌だぁ!」」と揃い揃って同じことを言った。
「彩葉ごめん。ちょっとキツく言いすぎた」
「咲は悪くないよ。私が先にはらぺこ不機嫌モンスターになっちゃったから」
場を和ませるのが上手な彩葉が笑いを入れると咲も口元をふっと緩めた。
チャイムがなったと同時に、クラスメイトは一気にばらける。財布を持ち購買へと猛ダッシュでかけていく人や仲のいい子と食べるために弁当箱を抱えて移動する人。
「優美、一緒に食べよ」
「優美ちゃん!私も一緒に食べていい?いいかな!?お願いっ!」
「そんなの聞かなくてもいいに決まってるじゃん!拒否ったことないと思うんだけど」
「そうだよね!私なんで聞いたんだろう」
えへへと幼子のように笑う彩葉。それに比べて咲は相変わらず大人びてる。ものすごくおとなしくいというわけじゃないけど、一つ一つの言動が私と違う。
「あっ優美ちゃんのお弁当美味しそぉ〜!これ何!?恵方巻き…?」
水を飲んでいると彩葉が私に何かを言った。何かを聞いているようだ。
どれのことを言っているのだろうと思い、彩葉が指差しているほうを見ると、キンパのことだった。
まぁ確かに似ているけどまさかの恵方巻きと言われ思わず水を吹いてしまうところだった。
「ちょっと!笑わせないでよ。みんなの前で吹くところだったじゃん」
「よかったぁ、口の中に何も入れてなくて」
と咲が安堵したようにクスクスと笑った。
「いや、笑い事じゃないから!これ、恵方巻きじゃなくて韓国風海苔巻き。韓国料理でキンパって聞いたことない?」
「あぁ!キンパね!具材が違うなぁって思ったけど巻き方とか見た目は一緒だからわかんなかった笑」
「いや、具材が全然違うじゃん!恵方巻きは中にきゅうりとかお刺身とかだし。ていうか、お弁当の中に生ものはダメでしょ!笑」
咲のど正論に彩葉が撃沈した。しょぼくれ彩葉を元に戻すには…。
「でもそういうところも彩葉っぽくて可愛いよ!」
「ほんとに!?バカって思ってない?恵方巻きとキンパの区別もついてないような人間だけど……」
「バカって悪いことじゃないと思うよ。むしろ私からしたら可愛いなって思う」
「優美、あんまり言いすぎたら間に受けて調子乗るよ」
「もぉ!せっかくいい気分だったのにぃ!咲はストレートすぎてグサって刺さる……」
心臓部分を押さえながら苦しそうな顔をする。
「咲、人間はみんなお豆腐メンタルなんだから優しく扱ってよね。咲は鋼のメンタルの持ち主だから」
「そうだそうだぁ!ど正論反対!この鬼怖女〜!」
「優美ぅ?彩葉ぁ?もう一回言ってみなぁ〜?」
今咲は怒っていないとわかっているのだが、咲の演技力と声のトーンがあまりにも冷たすぎたので二人で思わず土下座をするところだった。
「鬼怖女なんて思ってないから!優しくて可愛くて思いやりがあって冷静で」
「言いすぎ。ちょっと嘘っぽいなぁ」
「もう二人とも!お腹すいたから早く食べようよ!って時間あと四分しかないじゃん!」
「「ヤバっ!」」
会話が弾んだのはいいことだが、時間を気にしすぎてなかった。
これもこれでいい思い出かなと思いつつ、一口キンパを口に入れる。ちょっとキムチがピリッと辛くて、それをごま油で味付けされたご飯でマイルドになる。
彩葉と咲に一つずつお裾分けし、三人で同じものを頬張った。
おいしいね、少し辛いくらいがちょうどいいね、とまるで小学生の遠足レベルの会話が私の頭を行き交う。
他の生徒たちの「ごちそうさま〜」という声に焦り、私はお弁当を味わうことなくただ口にかきこむのに必死だった。
⭐︎
空の向こうで黙々と立ち上がる雲。青空に広がる真っ白な雲は画用紙に白い絵の具をうっかりこぼしてしまったように自由に広がっていた。
風が優しく肌に吹く。でも熱風なので汗を吹き飛ばしてくれるどころか、肌にムワッと引っ付くように暑くて暑くて仕方ない。
水をたっぷり含んだ髪から雫が垂れた。ポタポタと地面に落ちて、溜まることなく暑さに負け蒸発した。
梅雨明けも早かったし、雨が少なかった。雨はテンションが上がらないしジメジメしてた前髪整えてもすぐ崩れるからあまり好きじゃないけど全く降らないっていうのもたまったもんじゃない。わがままだけど雨が降ってほしいなぁ、と一人不貞腐れた。
五限目、気温が今朝と比べてグッと上がり、私たちのやる気が一番なくなる時間。昼食を食べて満たされたお腹が重く、その幸福感によって押し寄せてくる睡魔で瞼が落ちてきそうなときに水泳の授業は最悪だ。
髪もギシギシしてくしでといてもどうにもならない。早くお風呂に入りたいなと心の中で念仏のように唱えた。六限が国語じゃなくてよかった。水泳のあとの国語はわたし的には一番きつい。
私の隣がやけに静かだなぁと思いチラッと様子を伺うと「水の中に入るからひんやりしてて気持ちいいだろうなぁ!」と相変わらずのハイテンションでぴょんぴょん飛びまくり、楽しみにしていた彩葉は肩を落として「ガックリ」という擬態語が似合っている。咲も同様に…と思ったが少しキレ気味かも。
「えっと…何て声かけたら、いいですかね?うん。大丈夫?空とも仕方な」
「気温も上がって水温も上がってるなんて聞いてないよ!プールのバーカ!バーカ!もう大っ嫌いっ!」
「いやもうそれなぁ!?暑いしぃ?汗ばっかかいてイライラするしぃ?暴れないようにイライラ我慢してプールではっちゃけようと思ってたのに……あれじゃただの温泉じゃん!?」
私の声にかぶさるように彩葉が急に声をあげ、身震いをした。いつものことだけどまさかの咲がそれになるとは思ってなかったので、余計に言葉を失ってしまった。
「まあまあ、二人とも一旦落ち着」
「「落ち着けるかっ!」」
こりゃ無理だ。諦めよう。あの咲が彩葉と一緒に声をあげる時点でもうダメだ。確かに二人とも、今日の水泳の授業楽しみにしてたからなぁ笑。
でも体操服を着れるだけマシだ。制服よりも全然涼しい。夏用の制服だから冬用に比べて通気性がいいだろうと思った私がバカだった。夏という季節がそもそも暑いのだから何を着ても同じだろう。多少なりとも冬用に比べたらマシなのかもしれないが私からしたらあまり違いがわからない。
生地はしっかりしているし、セーラー服ではなくブレザーのポロシャツなので首襟があって首元が汗でびしょびしょだ。余計に暑く感じる原因ナンバーワン。私たちの学年はちょうどセーラーがブレザーを選択できるのだが、新制服が制服と思えないぐらい可愛かったので気づいたら採寸して購入してもらっていた。
兄弟がいる子とか先輩に譲ってもらった人とかはどっちも持っているから羨ましい。もし私もそんなことができていればとっくに地獄から解放されているはずなのに…。冬はブレザーを着てぬくぬくして、夏はセーラーで…
「…ちゃんっ!ちょっと優美ちゃんっ!聞いてる!?」
「うわぁ!何!?何!?」
「もぉ、今日の優美ちゃんなんか変!」と赤ちゃんが駄々をこねるように怒る彩葉と「変なんか変。ほんと、変だよ変、変すぎる」と地味に傷つく『変』を繰り返す咲が私の顔をジロジロ見てくる。異常がないか確認されている。確かに今日の私は変かもしれないがそこまで連発して変って言われるとメンタルがズタボロになってしまう。
「だーかーらー!ちゃんと聞いてたのって聞いてるのっ!」
「ごめんっ!全然聞いてなかった!ボッーとしてた!」
パチンッと両手を勢いよく合わせて謝罪するが私の反省は彩葉には伝わりそうになかった。
「今日!ずっーとずっーと私の話聞いてくれてない!お昼ご飯のときにミルクティー奢ってくれたからって許さないからね!咲もそう思わない!?」
「思うよ。三限目のときさぁ、優美がぼーっとして話聞いてなかったのびっくりしたもん。顔は中学のときクラスずっと一緒だったけどそんなこと一回もなかったし」
「あっ……えっとそのぉ……。具合が悪いわけじゃないんだけど、なんか色々考え事してただけで……」
「ほんとに?優美ちゃんテストだからって頑張りすぎなんじゃない?クマあるし、顔色少し悪い気がする」
「念のため保健室行ってきたら?先生伝えておくよ」
「ほんとに大丈夫だよ!ほら見てこの通り……あっ」
最近流行りのダンスを踊ってみたが、足がもつれて転けそうになった。
「やっぱり体調悪いんじゃないの?急に変なダンス踊るし、転けるし」
「えっ…変な、ダンス……。真剣な踊ったつも……じゃなくて!転けたのは足が絡まったからで体調が悪くてふらついたわけじゃないから!」
「あぁ!もうっ!言い訳はいいからっ!さっさと保健室に行ってきて!」
私が必死で大丈夫アピールをしたが、結局なんともないのに保健室に行くことになった。
というか、いつの間にか彩葉が私の荷物持ってるし。ほんとうにどこも悪くないし、足が絡まって転けそうになっただけだ。二人とも心配してくれるのは嬉しいけど、なんか過保護すぎふお母さんみたいで少し面白い。
「じゃ、ゆっくり休みな。芸術の授業は別に受けなくても大丈夫でしょ。テストに出るわけじゃないし」
「そうそう!荷物は机の上に置いておくね」
二人とも任せときなさいと言わんばかりに胸を張って「じゃあね」と私に背中を向けて走り出した。だんだん小さくなっていく背中に「ありがとね」と口に出したが蝉たちの合唱がうるさすぎて届くことはなかった。
暑い、手に汗が滲み出ているのがわかる。こんなに火が照りつけていたら汗が出るのも当たり前か。
「保健室入るのってこんなに緊張するっけ……?」
保健室の前に来たにも関わらず、入る勇気がない。というより、具合が悪くない、怪我もしてないのに保健室に入っていいのだろうか。
私は授業を受けれる元気はある。ただ友達の命令でここに来た。仮病、いわゆるサボり。怒られないだろうか。授業が終わるまでトイレにこもっておく?いやいや、そんなことするぐらいなら仮病を演じるほうがいい。
じゃあここでずっと突っ立ってないで早くこの扉を開ければいいじゃないか、私の右手よ。少し左にカラカラカラーっとスライドすればいいだけの話。なんでたったそのくらいのことができないのだ。
——キーンコーンカーンコーン……
少し重めで余韻が長い六限目のチャイムが校内に奏でられた。もう馴染み深い音が鼓膜を振動させると同時に心臓がドクンっと跳ね上がった。「今から教室に戻って授業を受ける」という選択肢がなくなった。
「うわぁどうしよ……」
…よし、覚悟を決めた。緊張で震える右手を取っ手に添え、少し力を入れて左にスライドした。
扉を開けると外のモワッとした生暖かい風とは違う、ひんやりとした涼しい風が私のことを出迎えてくれた。風に冷やされて汗がスゥーっと引いていくのがわかる。
「涼しい…」
「どうしましたかー…って佳子の娘ちゃんじゃない。優美ちゃんだったよね」
移動式の椅子に座ってパソコンに向き合っている先生は中野先生と言って私のお母さん(佳子)の小中高校生時代の友達で、私自身も学校以外でよく話す。でも一応先生なのでタメ口は使わないように気をつけている。内申点にも響くかもしれないから。
「優美であってます」
「保健室使うの初めてなんじゃない?しかもこんな微妙な時間で、外から来たわよね?水泳の授業?」
サイズ感が可愛らしい時計に目やって首を傾げる。確かに休憩時間は終わって授業は五分前に始まっているから不思議に思ってもおかしくはない。
「えっと…ちょっと諸事情がありまして…」
「諸事情?」と顎に手を当て何かを思い返すような仕草をする先生。
「私の勘違いだったら申し訳ないんだけど、十五分ぐらい前からドアの前で突っ立ってたのって優美ちゃん?」
「あっ…」
「その感じだと図星みたいね笑」
まさかのバレてた。これこそ一番想像したいなかったパターンだ。顔が一気に熱くなっていく。餌を待ち構える鯉のように口をパクパクさせることしかできない。
「まあまあ、顔が真っ赤じゃない。ミニトマトみたいになっちゃって可愛らしい笑」
「ふっ…」
「えっ?」
今、中野先生が喋ったあとに誰かの笑い声がした…気がする。ベッドのほうから「ふっ」て。カーテンが一つ閉まってるから誰かが寝てるのかな。いや、寝たふりしててこっそり私たちの会話を盗み聞きして…あっ、もしかして顔がミニトマトに反応したな。
「ちょっと体温計で測って。あっ、そこの椅子に座っていいから。ゆっくりくつろいでいいよ」
「すいません」
「ごめんね、もっと早く気づいてあげればよかったね。ちょっと体調不良の子がちょうど来てベッドの準備するのに手が離せなかったのよ。もしかして保健室に入るの初めてで緊張した?」
「はい…」
「そんな緊張しなくていいのに、気軽に入っておいで」
私の緊張をほぐすかのようにニコニコと穏やかな笑みを浮かべ、カーテンが閉まっているベッドのほうへ足を運んでいった。一枚の冷えピタとさっき冷蔵庫から取り出されたポカリスエットを誰かに渡したようだ。
誰だろうと好奇心から覗き見してみようとしたのを阻止するようにピピッと体温計が鳴った。
「あら、少し熱があるじゃない。勉強の頑張りすぎと夏バテのダブルパンチかなぁ。今の時期、疲れるもんね。テスト当日までには絶対治ると思うから」
今の学生は頑張りすぎるからねぇと気遣わしげな表情を浮かべた。
「ちなみにだけど、六限何?」
「芸術です」
「ならうけなくても大丈夫ね。もうベッドの用意してるからちょっと寝たらどうかしら」
「すみません」
この「すみません」にはいろいろな意味が込められている。先生には秘密だが、熱が少しあるのは夏バテなんかじゃなくて十五分もバカみたいに何もせず突っ立っていたからだと思う。だから体調悪くないのにベッドなんか用意してもらって「すみません」という意味と、手間と迷惑かけて「すみません」という意味がある。
「今から業者の方が来るからちょっと部屋の留守番頼んでもいいかしら?鍵は一応かけておくわ」
「全然大丈夫です」
「じゃあよろしくね。何かあったら職員室に先生いるから」
「はい」
私が軽く会釈をすると先生は部屋から出て行った。ガチャだと鍵穴に差し込むような音がしたあとに、カチャッと鍵をかける音がした。
…今ここにいるのは私と隣の人だけか。
保健室ってどんなのが置いてあるんだろう。先生は当分戻ってこないだろうから冒険してみようかな。
隣の人が寝ているかもしれないと私なりに気を遣ってゆっくりとベッドから立ち上がり保健室内をくるくる回り始めた。ただ見るだけだけど見たことないものがたくさんあって面白いな。
洗濯バサミみたいなやつがある。どうやって使うんだろう。うーん…分かんない。えっ保健室に爪切りとかあるんだ、初めて知った。爪切り忘れた人用なのかな。これ、視力検査のときに使うやつじゃん。この黒いスプーン、名前何だったっけ……そうそう遮眼子だ。
「何してんの?寝ときなよ。体調悪いんでしょ?」
保健室の先生が戻ってきたと思い、ビクッとなった。でもその声の主が女性ではなく私が一番知っている、馴染みのある声だとすぐわかった。
「えっと…琉嘉?」
「俺だけど何か」
額に冷えピタ、少し赤く火照った頬、ゴホッと咳き込む姿。とても琉嘉とは思えなかった。琉嘉が、小中学校皆勤賞だったあの琉嘉が保健室で寝てる。「こっちで話そうよ」とカスッカスな声で呼ばれた。
シャっと薄緑のカーテンを閉め、布団の上に寝転んだ。柔軟剤のいい匂いが花を燻る。
「体調不良?昨日の練習ではあんなにピンピンしてたのに。体力つけるより、テンションコントロールの練習したほうがいいんじゃない?」
「意地悪…そうそう、今日も練習行くから」
「へ?」
言い忘れていたが私と彼は同じ陸上部、短距離の部だ。大会も近いし、本格的に打ち込んでいく時期だ。「その状態で行けるの?無理でしょ」とマジレスするところだった。だって今日のメニュー、室内で階段ダッシュと筋トレ…。こんなに咳してるのに無理でしょ。
もう一度、布団をかぶって横になっている琉嘉の顔を見た。額に冷えピタ貼ってるし、顔…さっきより火照ってるし、咳き込んでるし。寝てる時点でダメでしょ、きついんじゃん。
「とりあえず、練習は行くから」
「いや休みなよ。絶対無理だよ、そんな状態じゃ」
「いや、大会近いし、一回休んだら体が忘れるでしょ」
「いや、そういう問題じゃなくて」
「いや、練習終わりの飴玉…食べたいじゃん」
「いやいや、飴玉だけのために無理していくの?倒れても知らないよ?」
「いや、倒れないから…多分…」
「…ふっ笑なんか面白い」
「何笑ってんの。こっちはしんどいのに…」
「ごめん、なんかこんなぐったりしてる琉嘉、見たことないなぁって思ったらちょっとおかしくて」
キツそうにしているのを見るとかわいそうだなと思いつつ、この寝込んでる姿を写真に収めたいなと思った。こんな貴重な姿、金輪際見られないかもしれないと思ったら尚更。インスタのストーリーにあげたら咲とか彩葉、どんな反応するかな?
風に揺れるカーテンの隙間から見えた時刻は十五時十三分。授業終了まであと約十分。
「優美」
掠れてて、名前を呼ばれたのかわからなかったけど、その声に琉嘉の優しさが乗せられているのは変わらなかった。この声で名前を呼ばれるたびに心臓がトクンと揺れる。
「…何?」
「大好き」
「え」
「最近、言えてなかったから。じゃあちょっと寝るね。おやすみ」
不意に名前を呼ばれ、何かと思ったら最近言えてなかったという理由で「大好き」なんて愛の言葉を口にし、はぐらかすように寝てしまった。嘘寝、演技かもしれないがカーテンの向こう側で微かに寝息が聞こえる。熱で頭のネジが外れたのだろ…えっ待って、今大好きって言った?
——大好き
頭の中で何度も何度もリピートされる。枯れているはずなのに柔らかくて、優しい。
顔が一気に熱くなった。鼓動がトクンからドクンっと跳ね上がっている。
そんな、大好きなんて勝手に軽く言って、琉嘉は何ともないの?私はバカみたいにドキドキしてるのに、琉嘉はまったくそんなことないの?
「ちょちょっと待って琉嘉っ!今なんて!?もう一回言ってよっ!ねぇねぇ!ねえってば!」
「……」
どれだけ声をかけても、肩を揺らしても、この琉嘉からの返答はなかった。ただ熱がこもった体が熱いだけ。
今からの顔が赤くなっているのは熱があるから。その中に、恥ずかしさや照れは含まれていないのだろうか。
「…もう知らない。バーカバーカ」
「……」
ちょっとムキになって勢いよくカーテンを閉めた。私の気持ちも知らないくせに、好きとか言って。今は何も考えないで、無になることに集中しよう…と思っていてもなかなか無になれない。ついつい違うことを考えてしまう。何も考えないのって案外難しいなと苦戦していると六限の終わりのチャイムがなった。その拍子に先生が戻ってきて、私は急いで目を瞑り、寝たふりをした。
⭐︎
帰り道、道に転がった石を踏み潰しながら走る車はガタガタと揺れてはブレーキを踏む。ハンドルを握り右に回しては左に回す。少し荒立たしい運転は相変わらずだった。お母さんの運転は荒いけど運転テクニックにはいつも感心する。飛び出してきた動物を避けるし、狭い道も普通の道みたいに通る。
「こんなところから帰れるの?道繋がってるの?」
「そうよ。知らなかったでしょ〜?」
「知らなかった。お母さんは知ってるの?それともまた勘?」
「私も知らない道よ。でもいつもと違う道を通るのって冒険みたいでワクワクするじゃない」
母はまだ若いからか考え方も新鮮というか、好奇心旺盛というか。
「それにしても優美が早退なんて珍しいね。幼稚園のとき以来かしら。明日は雪が降るかな?なんて笑」
面白おかしげにジョークを交えて私の体調を気にかける母。母は看護師で、ここ最近は熱中症やら夏風邪やらで患者が駆け込み忙しいと頭を掻いていた。朝早くに家を出て行って日付が変わるぐらいに帰ってくるときもある。
「…ごめんね、仕事中だったのに」
「子どもがそんなこと気にしなくていいの。私は仕事より我が子。何かあったらすぐ駆けつける。それが親の役目なんだから」
「そっか、ならいいのかな」
「そうよ。仕事も抜け出せれたし帰ってから少し寝よっかなぁ〜。最近まともに寝れてないし」
「そうしなよ。私が早退するなんて今後一切ないと思うから」
「そうね笑そうかもね」
と言うと一瞬ハンドルから右手を離してクスクスと笑った。
今私は母の車の中にいる。熱は平熱まで下がったものの、無理するのもよくないと言われたのでこうやって迎えにきてもらったのだ。
「ねぇそういえば、優美が寝てたベッドの隣。カーテンが閉まってたけど誰か寝てたの?」
「あっうん。寝てたよ」
「それってもしかして琉嘉くん?」
「琉嘉?うーん誰だったっけ…誰かがいたのは覚えてるんだけど忘れちゃった」
「あらそう。玄関口で琉嘉くんのお母さんに会ったからもしかしたらそうかと思ったんだけど」
そう、私の隣で誰かが寝てた。額に冷えピタを貼ってたような気がする。いつもは元気なはずなのに咳き込んでて苦しそうだった。ちょっと顔が赤くなってて、可愛かった。誰だったっけ…うーん…思い出せ、思い出せ、思い出せ…。
——優美
「あっそうだよ。琉嘉、琉嘉が寝てたんだよね」
「急に?急に思い出したの?」
私が急に思い出したことに母は訝しげな表情を浮かべた。自分自身も首を傾げた。ついさっきまで話してたのにどうして忘れていたんだろう。誰かがいたのは覚えているのにその誰かがわからなかったのはどうしてなんだろう。琉嘉のことを本当に忘れていたのだろうか。
「なんか、忘れてたんだよねぇ。冷えピタ貼ってたんだよ、あの琉嘉が。声もガスガスでさぁ、ゴホゴホ咳き込んでるし」
とりあえず“忘れていた”ということにして話を元に戻した。母は「どうして忘れてたの」と深掘りすることなく「そう」と一言、元の表情に戻った。
「二人ともきっと疲れが出たのね。テスト週間でしょ?あっあと琉嘉くんも陸上部だっけ?」
「そうだよ」
なんだか、母のほうが琉嘉を知っている気がする。いや、私が今日おかしいだけかな。
「夕方になっても暑いでしょ?あんだけ暑かったらいくら水分取ってもちっとも厚さ凌げないよね〜」
「でも走り始めたらそうでもないよ。麻痺してるのかな?」
「それ一番ダメなやつ。優美も気をつけてね。今の時期そういう症状で外来される患者さん多いもの」
「はーい」
「返事は短くっ!」
「はいっ!」
なんか、今日はいろいろと疲れたな。水泳の授業って意外と体力使うし、今日の授業午前はテスト範囲のオンパレードだったし。社会の先生のあの鋭い目線もキツかった…。彩葉のテンションも気温と同じぐらい高かったし、咲のど正論も調子良かったしなぁ。
帰ってからすることがいっぱいだな。これじゃ仮眠取る暇なさそうだな。仕方ないかと、母にバレない程度に小さなため息をついたところで車が停止した。
「先に家に入ってていいよ…って言われても家の鍵閉まってるからちょっと待ってね」
「…ねぇねぇ」
「どうしたの暗い顔して。何か嫌なことでもあった?」
「あのね…」
聞くなら今だろうか。母はなんと言うだろうか。
「今日、琉嘉のことだけ思い出しにくい」と言ったら。
でも今までそんなこと、一回もなかった。今日、思い出せなかっただけ。明日になったらいつも通りに戻っているかもしれない。
「ううん。やっぱりなんでもない」
「なんでもないって言わらたら少し気になるけど…そっか。なんかあったらすぐに言ってね」
心配そうに見つめる母には申し訳ないけど、やっぱり私だけの秘密にしておこう。嘘を見抜かれないようにニコッと笑って誤魔化した。
遠くに見える真っ暗な雲、ゴロゴロと雷が鳴る空。何か嫌な予感がしたのは私の気のせいだろうか。
第二章 涙の始まり
「……い。おい。いつまで俺を待たせるんだ。このバカ女。さっさと目を覚ませ」
んー…。まだ眠たいよ。アラームなってないし、朝じゃないじゃん。いくら平日だからってこんなに早く起こしてくれなくていいよ…って今の声、お母さんじゃない。声の主は男だけど、お父さんでもない。すごく低かった。ずっしりとのしかかるような。
目を擦ってよく見てみると、私から数メートル離れた先に身長百八十センチ前後の男が立っていた。フードを深く被っているので顔はよく見えないが、明らかに怪しい人物だ。もしかして不審者…!?
「…えぇぇっ!?何何!?誰誰誰!?誰ですか!?ちょお母さんっ!お父さんっ!優花っ!誰か助けて!?不審者!?殺人鬼!?いやぁぁぁぁ!?」
「うるさい。黙れ。大声を出すなやかましい。いいか、よく聞け、お前は」
「えぇぇ!?もしかして私死んじゃった!?じゃあここは異世界!?あの世?いやだいやだ、まだ私死にた」
「あぁ!もううるさい、黙れ。騒がしいっ!」
苛立ちを含んだ声を荒げ、フードを深く被っていても睨まれているのが感じてわかる。脳が早く逃げろと命令している。でも目を逸らそうと思っても逸らせない。足がすくんで動けない。どうする、考えて。落ち着いて。こういうときこそ焦るのが一番良くない。声をあげる…余計なことをしたら殺されかねない。あぁいやもう殺されているかもしれないけど。じゃあどうすればいい。この状況から逃れるために…。
コツコツと私のほうに近づいてくる足音。大きすぎるポンチョのような図体に見合わぬ格好をしている男。裾や足元の布がゆらゆらと揺れ、死神に見えなくはない。
そもそも、なんでこんな真っ暗闇なのに姿形が見えるの?もう…これどういう状況よ。
「ひぃっ」
さっきまで遠くにいたのに、瞬き一瞬の間で…この男の人何?何者なの?
「いいか、一旦落ち着け」
「ごめんなさい、殺さないでください。まだ死にたくありません。もう死んでるかもしれないけど…生き返らせてください。せめて家族や友達に別れを言わせ」
「お前、バカなのか。落ち着け、黙れという言葉がまるで通じんな。とてもテストの順位が一桁とは思えんな」
「私のテストの順位なんで知ってるんですか?そんなことよりこの状況。真っ暗で見知らぬ人が目の前にいて。私さっきまで生きてたんですよ?ついさっきまでスマホ触ってたんですよ。明らかにいつも見てる夢とは違います。そうなったらどう考えても死んだって思うじゃないですか。急に死んでたら誰だって焦りますよね。違いますか?あなたは違いましたか?違うなら仕方ないと思いますが」
「わかったわかった、俺が悪かった」
私の口の速さに呆れたように両手をあげた男。この男、一体なんなの。
「話を進めてもいいか。時間は限られているんだ」
「時間は限られてるぅ?信じられんなぁー」
「信じろ」
「じゃあ先に一つ教えてほしいです」
「答えてやろう」
この人なんで上から目線なの。いや、見た目も図体も、どう考えても私より年上だし、上から目線なのも当たり前…なのか?
「早くしろ。質問がないなら話しを進める」
「私は死んでますか?ここはどこなんですか?」
「何が一つ教えてほしいだ。二つじゃないか。……まぁいい。二つとも教えてやる。まず一つ、お前は死んでない。それと、ここは簡単にいうとお前の夢の中だ、あの世じゃない」
「私の夢の中…?じゃああなたはどうやってここに?」
「そういうのも全部後から全部話す」
なんかもう…頭がついていかない。死んでなかったことは幸運だ。まだ私にはやりたいことがたくさんある。
「それより名前は?誰なの?」
「過去は一仁という名前だったが。今はない。好きに呼んでくれ。なんせ、俺は死神なんでな」
過去…今はない…死神…?ということは
「もう亡くなってるの?」
「…あぁ、そういうことになるな」
聞かないほうがよかったかな。顔は見えないけど、悲しい顔をしているのがわかった。怖そうな感じだけど、案外傷つきやすいのかな。
「考えなしに余計なことを聞いてしまってすいません。傷つけてしまったならなおさら…」
「別に気にしなくていい」
「あなた、さっき死神って言ってたけど、死神っていうことは、私も近いうちにあなたに命を…」
できれば「いいえ」と首を横に張ってほしい。唾をゴクンと飲み、拳をギュッと握りしめた。
「死にはしない。余命宣言もない」
「よかった…」
“ノー”という言葉に肩の力が緩んだ。ふぅーと安心のため息が一気に出てくる。
「確認だ、青野高等学校二年A組、北村優美であってるな?」
「えっ…」
「えっあっ、間違ってたか?」
戸惑いの声、いつのまにか手元にある資料のようなもの。見るからに国語辞典と同じぐらい分厚い。
違うそういうことじゃない。死神になったら他人の個人情報まで知れるのかということにびっくりしてる。
「間違ってた…か?」
「いや間違ってはないですけど、死神になった人はみんな他人の個人情報知れるんですか?」
「いやみんなってわけじゃない。亡くなった人はまずどこの科に行くか選択しなければならない。俺は死神科。他にも守護科、相談科、削除科、総合科があって。まぁ選択肢ないっていう手もある」
話によると守護科は余命や事故から守ってくれるもので、相談科は学校でいうスクールカウンセラーのようなもの。悩みはあるけど心配をかけたくないという人に寄り添ってくれるらしい。削除科は過去の後悔や失敗を一つだけ消してくれる。総合科は全ての仕事を担う。
「その手元にある資料みたいなやつって…もしかしてですけど私のことが書いてある…」
「そうだ。こうやって科を選択した者かつ仕事が与えられた者には担当する人間の情報が書かれた資料が渡される」
「まあまあな厚さがありますけど、具体的にどんなことが書かれて」
「うーん…あんまり口にするなとは言われているが。生年月日、性別、性格。その他趣味やこれまであった出来事全てが記録されている。場所関係なく全てだ。未来のことも書いている。お前の生涯、生い立ち。ありとあらゆることがこの資料に詰まってる」
「その未来っていうのは変えれないんですか?」
「アクシデントがない限り、変わることはない」
げっと顔を顰めそうになった。出来事全てってことは良いことも書かれているけど、怒られたことや嫌なことまで書かれているということだ。
「お前…男がいるんだな」
「そんなことも書かれてるの!?」
「当たり前だ。死神の資料を舐めるなよ。…時間が少ないそろそろ本題に入ろう」
死神の資料に気を取られつつ、まだ本題に入っていないことに肩を落とした。今私は夢の中にいて、死神と名乗る男と話しているが、現実世界はどうなっているんだろう。
そもそもなんで私のところに死神が来ているんだ。命が狩られるわけじゃない、死ぬわけじゃないなら私に何の用?聞きたいことが山積みだ。
「おい、聞いてるか?」
「考え事してて全然聞いてませんでした」
「チッ…。この資料と書いてることが全然違って調子が狂う。また書き直しておかないといけない。めんどくさいな…今日だけでもいいからこの資料に書いてる“聞き上手な女の子”になってくれないか」
そんな細かいことまで書いているんだ。ちょっと気味が悪い。
「今日、おかしなことなかったか?いつもと違うこと」
「おかしなこと…」
おかしなこと、いつもと違うことと聞いてすぐに思い浮かんだ。もしかしてアレのことだろうか。この人は知っているのだろうか。私がずっと気になってたこと。
「こいつ誰だかわかるか?」
と言いながら目の前に二枚の写真と資料をぴらぴらと見せた。一枚目は大人しい見た目をしている男の子の証明写真のようなもの。だけど二枚目は白い歯を見せてにっと笑っている男の子の写真。同一人物とは思い難いがどちらも黒髪のセンターパート、黒曜石のように漆黒で写真だけど見つめていると吸い込まれてしまいそうなほどきれい。スゥーっと整った鼻も、絵に描いたような輪郭も同じものだった。
資料のほうにはその男の子の名前とか、誕生日とかどこ高校だとか個人情報的なことが書かれていた。
高校は青野高等学校…私と一緒じゃん。名前は倉橋、くらはし…琉嘉…これはなんで読むのだろう。珍しい名前、“いい名前だ”。
「倉橋琉嘉。誰だかわかるか?」
「……あっ、琉嘉。琉嘉です、私の恋人…」
「思い出せてるだけまだマシか…。軽症ってところか」
「何か知ってるんですか?」
「……」
死神からの返事はなかった。何かを言おうか言わまいか迷っているようだった。嫌な予感がする。聞きたくない。耳を塞ぎたい。
「今日、朝からずっと変なんです。琉嘉のことだけパッとしないというか…モヤがかかったようにわからなくなるんです。今みたいに写真を見せられたり、名前を言われてもすぐにはわかんない。家族とか他の友達は大丈夫なのに琉嘉だけを忘れてしまったような感じが…でも今日だけで…今までこんなことありませんでした」
「……」
言えなかった疑問を、今全て言った。彩葉にも咲にも家族に言えなかったことを、全く知らない赤の他人のような人間に言った。
死神は困ったような顔をしていると思う。俯いてて本当の表情は見えない、けどわかる。
「何か知ってるなら教えてください。隠さないで教えてください」
「言えばお前のことを傷つけるかもしれない。それでも教えてほしいと頼めるか」
「教えられても、教えられてなくても…いつかはどうせ傷つくなら、教えてほしいです」
「……二言はないな」
「…私の運命はすでに決まってるんですよね。その資料に、書いてるんですよね」
そう、さっき言っていたじゃないか。未来のことも書いていると。その未来はアクシデントがない限りは変えられないと。アクシデントの起こし方なんて授業で習ってない。私の運命は決まっているんだ。
「忘却恋愛症候群。略、忘愛症候群」
聞いたことのない言葉が、男の口から出てきた。聞いたことはないけど、病気だということはすぐに察した。
「忘愛、症候群…」
死神が言った言葉を繰り返し口になぞった。何それ、それが私の運命。忘愛症候群…忘れる愛と書いて忘愛。
「治療法も治療薬も、そもそも発症原因すら解明されていない。どのくらいの確率でなるのか、どうしたら病状の悪化を抑制することができるか、死神の俺にわからん。何もかもが不明の病気、“奇病”ってやつだ…」
「奇病…」
こんなこと、信じたくない。信じれるわけがない。今までなんともなかったのに、大好きな人のことがわからなくなったと思えば自分がスヤスヤと寝ている間に夢の中にいきなり死神を名乗る者が現れ、何を言い出すのかと思えば奇病を発症するなんて馬鹿げたことを言う。こんなこと誰が信じるか。
「…私これからどうなるの…?」
私だってもう高校生だ。泣きそうなのをグッと堪えて、死神にたずねた。拳を握り、涙が流れてくるのを必死に抑えた。聞きたくなかった、ほんとはここで目覚めてほしかった。これは夢だ、こんなことが現実で起こりうるわけ、ないじゃないか。目覚めろ、目覚めろと心の中でつぶやいても、そんなちっぽけな欲望は叶うことなく、死神の口が開いた。
「…これだけはわかってる。“恋人のことだけ”を忘れてしまう“病気”。恋人とつくった思い出、もの、会話最終的には“恋人の存在”すら忘れてしまうこと。症状がひどくなる前に頭をハンマーで殴られたような頭痛に襲われるが何もなかったかのように急によくなる…ということだけは…わかってる…」
「……恋人のことって…ねぇ、じゃあもしかして…忘れるの…?琉嘉のこと。全部、全部忘れちゃうの…?」
「………あぁ」
言葉を失った。何も言えなかった。俯くことしかできなかった。頭が真っ白になりそうだ。間があった、だから期待した。そこから奈落の底に突き落とされたような気分。
恋人のことだけ、全員を忘れるのではなく特定の人だけを忘れる。恋人、そう琉嘉のことを忘れるってこと。
死神の声は震えていた。真っ暗で何も見えないはずなのにどこからか光が差し込み反射したように、死神の頰が一筋の雫で濡れているように見えた。死神のくせに泣かないでよ。死神のくせになんで涙脆いのよ。泣きたいのはこっちなのに。
だって、忘れるんだよ。恋に落ち、恋焦がれ、愛した君の顔も、声も、話したことも。誕生日にくれたものも、手紙も。全部全部、なかったことになる。
私が何をしたっていうの。何かを盗んだ罰?人を殺した罪を償う?そんなことしてないじゃない。普通に、普通の女の子として生きていただけだ。
いつもと変わらない日々を過ごしていただけだ。
愛していただけだ。
大人しいけど根は優しくて笑顔が素敵なところ、声が温かくて落ち着くところを。ご飯を食べてる姿が愛おしくてたまらない。私にはない才能を持ち、その才能で私を元気付けてくれたこと。友達で、幼馴染で、恋人として一緒にいただけだ。昨日までなんともなかったじゃないか。それなのに、それなのに…。
「…っいやだ、いやだよ…忘れるなんて絶対いや…」
「………」
気づけば私の目から大量の涙が溢れ出していた。幼子のようにワンワン泣いた。溢れ出した涙は止まることなく私の頰をつたっていく。涙で視界が歪み、立ちあがろうとしても力が入らない。死神は今、どんな顔をしているだろう
私はいつ、この悪夢から目覚めるの?
誰も答えてくれない、自分の心の中で叫び続けた。目覚めようと必死だった。目をギュッと瞑ってみたり、泣きじゃくり力もまともに入らない拳を握ったり。ひたすらにこの悪夢から逃れようとした。
「…私は何か悪いことをしましたか?」
「……」
「…私は、私の運命は誰が決めたんですか?」
「……」
「…私はただ、琉嘉のことが大好きなだけで」
「……」
「ただそれだけのことなのに…それなのにどうして…なんでですか。教えてください…」
「……」
死神は、一度も口を開かなかった。私の質問に一つも答えてくれなかった。私に合わせる顔がないのか、それともそれ以外か。目が合うことはなかった。
「……なんか言ってくださいよ。私のことフル無視する気ですか。そっちからそういう話をしてきたくせに」
「……すまない、と思ってる」
死神がポツリと、今にも消えてしまいそうな声で、謝った。会ったばかりは、あんなに上から目線で、王様みたいな口ぶりして、嫌な感じだったのに。今の声はすごく、寂しくて、悲しかった。震えてた、フードが揺れて見えた唇が微かに。奥歯を噛み締めたようにギュッと、ギリッと音がした。
わかってる。この人はたぶん、悪くないって。私の運命を決めた人はこの人じゃないって。たとえこの人が死神でも神様でも、私のことをただの人間だというぐらいぐらいにしか思ってないはず。私がこの人に強く当たっ
ても、どれだけ叫び続けようが意味がないと。
最初は半信半疑で、死神なんて馬鹿なこと言わないでと思ってた。こんなことあり得るわけじゃないと誰だって嘘だとわかるようなことを間に受けて。私、バカじゃない。
…でも、話を聞いていくにつれて、今日の自分に当てはまってて。全てを見透かされたような、どうにもできない自分がいた。
何も言い返せなかった。全部、全部。何もかも、この人の言ってることは正しかった。
でも私は何も間違っていない。いきなりあんなこと言われたら正気でいられなくって言い方がキツくなるに決まってる。焦って、パニックになって、どうしたらいいかわかんなくなった。だから叫んび、訴えた。それでも私の願いは届かない、私の力ではどうにもならない。だから諦めるしかない。
…わかっている…それでもやっぱり
「…なんでっ…」
たった三文字の言葉を発するのに長い時間がかかった。喉が締め付けられたように、思うように動かない。
息が詰まって、苦しい、苦しい。上手く、呼吸ができない。落ち着かせようと思ったら思うだけ、涙と嗚咽が出て。
「……また、明日……俺はお前の死神だと言うことを忘れるな」
何が死神よ、バカ。神様なんて大っ嫌い。明日なんて来なくていい。
そう言おうと口を開こうとした。離れて行く背中を睨もうとした。
それすらできなかった私は弱い。結局私は神様に嘲笑われるんだ。自嘲しようとしたところで、再び目の前が真っ暗になった。
⭐︎
カーテンの隙間から差し込む薄明るい光が私に起床を知らせた。鳥のさえずりとセミの合唱は朝とは思えないほど騒がしく、私の耳に障った。
時計の針はまだ、五時を回っていない。早く、起きすぎただろうか。…まぁいいやこのまま起きておこう。
……両目が腫れているような気がする。開けようと思っても瞼が重くていつもみたいに開かない。
鼻がツンと痛い。立ち上がってスタンドミラーの前に立つと、鼻が真っ赤になって、目がブチ腫れている、げっそりとした顔の自分がいた。目の下が真っ黒になっていた。熟睡できていないからだろう。
今日、こんな顔で学校に行くのかとため息をつく。
「…あれ…?」
ふと、無意識に右手が顔にいっていた。いつもだったらサラサラなはずの顔が、というより頰がびしょびしょに濡れている。手櫛でといてみると髪の毛の一部が湿っていた。ベッドのほうに戻ってよく見てみると枕のシーツの至る所に水のようなものが垂れた跡が残っている。
思い当たることはただ一つ。私が夢の中で泣いていたのが、現実にも繋がっていたということ。どう考えてもそう捉えるのが一番自然だと思った。
やっぱり普通の夢じゃなかった。いつもみるような理想がいっぱい詰まった、幸せな夢じゃなかった。
あれは悪夢だ、最悪の悪夢だ。
スゥーと一筋、流れてきた雫はしょっぱかった。今までにないほど、しょっぱすぎて思わず顔を顰める。
——俺は死神なんでな
——忘却恋愛症候群、略して忘愛症候群
——恋人のことだけを忘れてしまう病気
「……忘愛症候群」
脳裏にこびり付いて離れない、嫌な言葉。その中でも一つ、一つだけがどうしても忘れられない。
死神、奇病、忘愛症候群。
どれもこれも、おとぎ話のような言葉。聞き馴染みのない言葉が私に襲いかかる。
「…琉嘉」
本当に忘れるのだろうか。私は、琉嘉のことだけを忘れてしまうのだうか。
これは家族に、琉嘉に言うべき?それとも隠しておくべき?いや、隠すのはよくない。
でも、秘密を明かしたときの反応をこの目で見るのが怖い。琉嘉はどんな反応をするだろう。私のことを嫌いになってしまうだろうか。私が琉嘉を忘れてしまったら琉嘉が私のことを嫌いになろうと関係ないか。私は琉嘉のことがわからなくなるんだから。
「…どうしたら、いいんだろう…」
死神も、誰も聞いてくれてない、誰にも届かない私の声。小さな部屋にポツリと消えて、なくなった。
どうしたらいいかわからなくなって、部屋中を見回した。私一人用のベッド、私が大好きな薄ピンク色のカーテン。ハンガーにぶら下がる制服、真っ白な机。机の横にある底が深い引き出し。
「…この中の物も…全部忘れちゃうってことか…」
身体が、手が勝手に動いて気づけば引き出しの前に座っていた。私の引き出しにはロックがかかってる。鍵を開けるには小さな鍵が必要で、クローゼットの中にしまってある。いつその鍵を取り出したのか自分にもよくわからなかった。
「…わぁ懐かしい…こんな物あったなぁ…」
引き出しの中には琉嘉とのいろいろな思い出が詰まってる。
私の誕生日に、文章を書くのが苦手なのに一生懸命書いてくれた手紙。うさぎや小鳥、ケーキなどふわふわしたようなイラストが可愛いからと琉嘉が私に似合うものをと考えてくれたらしい。私のためにわざわざ女の子用のお店に入って選んでくれた物だ。
少し汚れてるし、形も不恰好だけど粘土で作ってくれた猫うさぎ。中学初めての県総体、二日間あった。大きなスタジアム、多くの観客の視線、強者たちの威圧感、重苦しい空気。普段とは違う光景に動揺、緊張して、私はいい記録を出すこともできず、一日目が終わった。朝早く起きて、わざわざ学校に集合。バスに乗って出発する瞬間が嫌いになりそうだった。二日目もどうせ同じようになって終わると思ったから。でもせめて、最後ぐらいはちゃんとやりたいと思った。大会に出れない友達もいる。私は選抜メンバーで選ばれた一人。出れない人の分まで頑張りたい。バスの中でそう思っていたとき、たまたま横に座った琉嘉が、この猫うさぎを作ってくれた。不器用なのに、不器用だから猫かうさぎかわからなくて、猫うさぎになって、二人でお腹を抱えて笑った。緊張が和らいだ。緊張してもこのことを思い出せば怖くない。本番直前も琉嘉がずっとそばにいてくれているような気がして、自然に口元が緩んだ。ポケットに隠し入れて、そのまま試合に出た。その後監督に怒られたけど、「大切なお守りなんです。これのおかげで緊張せずに試合に全力を尽くせました」と反抗してしまったけど、事実だからと心の中で監督に訴えた。
体育祭で交換したはちまき。琉嘉から交換しようと言ってくれて嬉しかった。
中学の修学旅行で同じ班になれて、こっそり持ってきたデジカメで撮った写真。
クリスマスにサプライズプレゼントしてくれたお揃いのネックレス。少し私には長かったけど、それも可愛いよと言ってくれて、嬉し泣きをした。
もっとある。まだある。手紙だけじゃない、マスコットもキーホルダーも、お揃いで買った物も。引き出しの中にはないけどハンカチやタオル。ものだけじゃない。今まで言ってくれた言葉も全部全部、私にとっては最高の宝物で、琉嘉からの愛で。
それを全て忘れる。私の中から完全に消えてしまう。この愛にさよならを言わないといけない。
琉嘉を悲しませたくない。琉嘉の悲しい表情を見たくない。私の手で琉嘉の笑顔を壊したくない。
そのためにできることを私は考えなければならない。
きっと琉嘉のことだから、琉嘉は優しいから、逆に私が泣いてしまうかもしれない。“忘れてしまっても大好きだよ”と慰めてくれると思う。
でもそれは私を傷つけないようにするためであって、琉嘉本人が傷ついたとしても私には何ができる?
余計に悲しませるようなことをしてしまったらどうしよう。
よく、考えて。私にでもできる、琉嘉を悲しませないための方法。時間は限られてる。今日、忘れてしまうかもしれないし、一年たっても忘れないかもしれない。それはあの死神ぐらいしかわからない。私の運命を知っているのは、私の夢に出てきたあの死神だけ。
彼に聞いたら、教えてくれるだろうか。私がいつ、琉嘉のことを忘れるか。
「…絶対忘れないもん…」
引き出しから引っ張り出してきた思い出をしまい、今日は早めにシャツに腕を通すことにした。
⭐︎
「…おはよー」
「おはようってまだ六時半じゃない。起きるの早いわね。寝坊しそうになったら起こしに行くのに」
ダイニングに立って、お皿を洗っていた母は手を止め私のほうを見て目を丸くした。
私はあまり早起きが得意じゃない。母に起こしてもらうことはほとんどないが、一回目が覚めてもすぐ二度寝してしまうくらい朝が苦手だ。
「…ちょっと悪い夢見ちゃって。二度寝しようと思ったけど寝れなかったんだよね…」
「…なんか元気ないし、顔色が悪いけど大丈夫?目も腫れてるし、夢が怖すぎて泣いたの?笑」
パッと見ただけでわかるんだ。それだけ酷い顔をしているということだ。
顔色が悪い。当たり前だ、あんな最悪な夢を見て正常でいられるわけがない。
「…まあ、そんな感じかな…」
「夢見て泣くなんて、優美もまだ子どもね笑」
「……」
クスクスと面白おかしそうに母は笑ったけど、私はちっとも笑えなかった。怖い夢を見たと言ったのが高校生だ。こんな年で泣いてたらおかしいと笑われても仕方ないと思った。
だから作り笑顔をしようと思ったけど口角が強張って上がらない。だって、私にとっては笑って済まされるような問題じゃない。
私の異変に気づいたように母は私の顔を覗きこむ。
「…いつものあなたじゃないわね。いつものあなただったら今の私の発言に子供じゃないもんとか言い返してるはずなのに…ほんとに大丈夫?」
「……」
少し黙りこくった。どう言えば、私の現状を理解してもらえる?笑われないで、話を聞いてもらえる?私が突然琉嘉のことを忘れされていくと告げたらビックリしたで済まされるされるわけがない。きっと怒るだろう。
今なら普通に、言えるチャンスだ。お父さんもまだ起きてないし、妹の優花も起きてない。後々言われるのはわかってる。わかってるけど…。
「…ううん。なんでもないよ。ちょっとテスト勉強とか部活とか、色々忙しいか疲れてるのかも。忙しすぎてテンション上がらない…的な感じ…」
「…そう、なんかいつもと違うなぁと思ったんだけど。子どものことは絶対わかるんだけど…私も疲れて勘が鈍っちゃったかな?笑」
「絶対に変だと思ったんだけどなぁ」とどうも納得してないような様子だったがなんとか乗り切れることができた…のかな。私はダメだなぁ。こうやってどんどん後回しにしてしまう。いっつも言わなきゃ言わなきゃと思ってるのに、いざとなったから相手の反応を見るのが怖くて「なんでもない」で結局終わってしまう。
「……ごめんなさい」
「なんて?声が小さくて聞こえなかった」
ちょっと聞こえてなくてよかったと安堵した自分がいたら、なんで謝るのと理由を聞かれて本当はねとこのことを言いたかったなと思うわがままで卑怯な自分がいたり。
首を横に振っていつもみたいに冗談で話を逸らそう。
「…なんでもないよ。それより、なんかお腹すいちゃったな。昨日夜ご飯、胃袋が破けちゃいそうなぐらい食べたはずなのに」
「食べ盛りだから仕方ないよ。寝てる間に消化もされるし。白ご飯大盛りね。それでいい?」
「うん」
寝てる間に消化される。
夢の中で泣いてもお腹は減る?
夢と現実が繋がってると思う?
この世に死神がいて、自分の運命を知ってるって言われたらお母さんは信じれる?
お母さんは大切な人のこと忘れたことある?
そう聞きたかった。口を開こうと思っても私の口は言うことを聞かず、母はそのままキッチンのほうに行ってしまった。
⭐︎
いつもより三十分ぐらい早く家を出でしまった。「いってきます」となるべく笑って元気よくいったつもりだったが、母にはどうも元気がない私と見えるようで、「何か嫌なことがあるならちゃんと言ってね」と悲しそうな、でも微笑んで「行ってらっしゃい」と私に手を振った。
玄関のドアを開ければ、朝にも関わらずモワッとした熱気が私の身体にまとわりついた。まだ数分した外にで出ないのに、汗をかいているのがわかる。ベタベタして気持ちが悪い。
少し離れたところでは綺麗なスカイブルーの青空が広がっているが、私の目の前に見える空はどんよりと曇ってて、耳をすませばゴロゴロと雷が鳴っているようにも聞こえる。雨が降りそうな予感がした。傘、持ってないや。バッグの中の折り畳み傘は妹に貸したまんまで返ってきてない。借りパクされた。
もし雨が降ったらダッシュするしかなさそうだけど朝から汗をかきたくないなと、目を伏せた。
朝の通学。いつもだったら一緒に彩葉や咲と通ってるはずの道を、今日は一人で歩いている。両サイドに人がいないだけでこんなに寂しくなるもんだなぁと孤独感を感じた。
夜会って話せない分、通学のときに一気に話す。部活であったこと、家に帰って面白かったこと、家族と話したこと。SNSで見つけた動画や写真を見せ合いながら、話して笑って。そうやって行く日もあれば、ちょっと言い合いになって仲介役になるときもある。
でも学校に着いたら二人ともケロッとした顔でいつも通りに戻って。
思い返すと自然と頰が緩んだ。今日が、一日が始まって、初めて笑えた。
そう思ったとき、頬に一粒の滴が落ちてきた。
だんだんと多く、大きくなっていく水滴に、ようやく雨だ気づく。私だけ時空間が歪んでいるのだろうか。
「…うわぁ、雨だ。最悪…」
私は傘を持っていない。学校まであと最低十五分、全力で走っても信号に止まったら無意味。
「…タオル持ってるし、濡れていかしか…ないよね笑」
ポツポツからザーザーと、雨足が強くなっていく。目の前にはレインブーツやレインコートを着込んでパシャパシャと歩いている小学生と、たぶんこの子たちの保護者であろう大人が先を歩く小学生を見守っている。
「ママっ!見て見てっ!カタツムリがいるよ!」
「わぁほんとだね。触ったらダメだよ?」
「じいちゃん、雨いつ止むかなぁ?水たまりができたら外で遊べなくなっちゃうよ…」
「大丈夫、雨はすぐ止むと思うよ」
「おばあちゃん、今日は帰ったら一緒にお絵描きしようねっ!約束だよっ?」
「はいはい、約束ね。ゆびきりげんまん」
雨、雨は気分が上がらない。今だって最悪の気分だ。私の前は幸せのオーラが漂ってる。大人同士も仲がいいのかたまに「最近は暑いですねぇ」などと会話が弾んでいるように見えた。
黄色い帽子、この帽子の色からして一年生かな。もしそうだったとしたら雨が降ることを見越して心配して途中まで見送りしてたんだなと、大人の気持ちが伝わってきた。
「…雨、強いな。ちょっと寒…」
クシュンと小さなくしゃみが出た。雨粒が直接、顔や衣服からはみ出てる手足にあたり、シャワーを浴びたあとみたいになってる。
「…あぁ寒」
「バカじゃん。こんなに雨降ってるのに傘さしてないとか。風邪引いたらどうすんの?」
後ろから声がした。それと同時に私に降り注ぐ雨がピタッと止まった。聞き馴染みのある声。柔らかくて、温かくて、優しい声。一瞬誰だかわからなかった。
振り返るとスラっとした、男の子が立ってた。制服が私と一緒。同じ学年の子かな。にしては大人びてる。
「…どうかした?俺の顔をなんかついてる?」
「…あっ、なんでもない、です」
「なんで急に敬語?風邪引いて頭おかしくなった?」
おかしそうにクスクス笑うこの仕草、どこかで見たことあるような…。
「違うしっ!バカじゃないし。雨降ると思ってなかっただけだし。急に誰かと思ったよ、びっくりしたなぁ…」
「角曲がったら雨土砂降りなのに頭にタオル一枚だけかけて傘さしてないお馬鹿さんがいるなぁと思ったらまさかの自分の彼女でびっくり笑」
「傘入っていいよ」と私の体を優しく引き寄せた。その手がすごく優しくて、暖かかった。大きい傘だなぁ。私には大きすぎるが琉嘉にはちょうどいいんだろうな。私は琉嘉と二人で…相合傘してもぴったりのサイズだと思うけど…なんてバカなことを考えて、顔が熱くなった。
琉嘉とは家が遠いわけじゃない。近所といえば近所。またまた私が家を出てすぐ家を出たらしく、ずっと後ろから見守ってたと。
もう少し早く声かけてくれてもいいじゃんとムキになろうと思ったが、雨宿りさせてもらってる分際で文句は言えないかと口をつぐんだ。
「びしょびしょじゃん。家に取り帰ったらよかったじゃん。近いんだし」
「そう思ったんだけど…」
「けどの続きは?言い訳してもいいよ笑」
「バーカ!バーカ!そうやってすぐからかう。ずっと私のこと傘ささないバカって思ってるでしょ?」
「正解笑」
彼にとっては意地悪な笑みが私にとってはただの微笑みにしか見えなかった。「次はちゃんと傘自分でさしてよね。俺の傘はほんとは一人が定員なんだよ?」と私を笑わせてくれた。
しばらく雨が降っていたけど少しずつ弱くなってきた。傘を刺さなくても大丈夫なぐらいになると、傘を閉じて手で持った。
もしわがままを聞いてもらえるなら、もう少し雨が降ってほしかったなぁと思った。一緒の傘にもう少し入りたかったな。
昨日久しぶりに話せたけど、今日も話せて嬉しいな。朝から会えて嬉しいな。
今はちゃんと話せてる。忘れてない。最初は怪しかった、いや結構アウトだったけど、本人は気にしてなさそうだったし、たぶん大丈夫…。このままとりあえず、今の私のままでいれますように…。
私たちの学校が見えてきたところで小学生が「バイバーイ!」と元気よく手を振り走り出した。元気に走っていく子どもたちとは対照的に心配そうに何度も振り返る保護者三人衆が少しおもしろくて、二人でふふっと笑った。
「小さい子って朝から元気だよな。あんなに朝から走らないわ。陸上部だけど笑」
「そういえば体調はもう大丈夫なの?歩いてきてよかったの?部活は今日参加できそう?」
「質問が多すぎて何から答えていいかわかんないよ笑」
「ごめん…つい話せたのが嬉しくて…」
「…もう元気。ご飯いっぱい食べて、しっかり寝たし、部活は行くつもりだよ。今日アップ一緒にしない?先輩たち来ないらしいよ」
「えっいいの?私なんかで。後輩とも仲良いからその子たちと一緒にやったほうが楽しいんじゃ…?私なんか女子だし…琉嘉のペースについていけるかなぁ…」
「それだったら俺が優美にペース合わせるし。……俺が一緒に走りたいから言ってるのわかんない?」
「……一緒に走れるの楽しみだな」
「……優美のバーカ」
そうやって素っ気なく言い放ったけど、よく見ると耳が少し赤くなってて、恥ずかしいときとか照れてるときによくする髪を触る仕草をした。本人は無意識らしいけど、長く一緒にいたら…そういうところもしっかり見てるからわかるし…。
心臓がドクドクうるさい。琉嘉に聞こえてないかな。照れてるのバレてないかな。またからかわれて、バカにされるの嫌なんだよね。余計に照れるから。
「…ねぇ、聞きたいことあるんだけど」
「聞きたいこと?」
琉嘉が聞きたいことがあるとか珍しいな、と思って何?対応と思ったらいつもは見せないような少し、険しい…というより怖い顔をしていて聞けなかった。声のトーンが、いつもの優しい声じゃなかった。
なんだろうと首を傾げる私を琉嘉はじっと見つめる。聞きたいこと、聞きたいこと…。なんだろう…テストのことかな。今回のテスト範囲広いし、結構複雑な応用問題出すって先生たち言ってたからわかんないところでもあったかな。
「…そんな怖い顔して、何?テストのこと?それともそれ以」
「今不安なこととかないよね?」
「えっ?」
「最近怖かったこととか、嫌だったこと。ないよね?なんか、隠してるような気がする。違う?」
「……」
「顔色悪く見えるし、元気ない。俺と話してるときの表情がなんか悲しい」
「……そう?私は元」
「絶位なんか隠してる。何?言えないようなこと?」
私の声を遮って何も臆することなく聞いてきた。
不安なこと、怖かったこと、嫌だったこと、隠してること。顔色が悪い、元気がない、表情が悲しい。
あぁそうだ。私は今、不安で不安で仕方ない。いつ君のことを忘れるかわからないんだから。夢が現実になりかけてて怖くて怖くてたまらない。死神なんて信じるバカ、どこにもいないだろうと思ったらほんとに死神だったんだから。
誰にも言えずに隠してるよ。家族にも、琉嘉にも。彩葉にも咲にも。隠し事は絶対しないはずの私が。言うのが怖くて怯えて、恐れて。言おうと思ってけど言えずに家を出て。
顔色も悪くなるに決まってる。あんな夢を見て、悪魔に襲われ、恐怖で涙を流すような夢が現実になれば、正常を保つことができるわけがない。元気がない。出るわけない。
表情が悲しい?そうだね、そうなるよね。だって近いうちに忘れてしまうんだから。いくら今こうやって話せても、この会話も全部なかったことになるんだから。
私は必死に笑顔で見抜かれないようにしたのに。
傘に入れてもらって、久しぶりに話せて、ちょっとまた距離が近づいたなって。嬉しい、幸せだな。そう頑張ってポジティブに思っても、いつかは忘れちゃうんだなと思ったら心がチクリと針を刺すように痛んで、泣きそうになって。
「……なんでわかるのよバカ」
「図星、やっぱり。何、何があったの。隠さな」
——パシンッ…
「えっ?」
「ごめん、私先に行くね」
二人だけの空間に空気を切り裂くような音が響き渡る。それに驚いたように電線に止まっていた小鳥たちがバサバサと慌ただしい様子で遠くのほうに飛んでいく。
目を合わせれなくてほんの一瞬しか見えなかったけど状況が、理解が追いついていないようだった。目を見開いて、私に振り払われて右手が止まったままで愕然としていた。もし私が同じ立場だったらどうなったか頭が真っ白になって、追いかけることも驚いて声を出すことすらもすらできないだろう。
「…ごめん…ごめんね」
聞こえるはずもないような、バカみたいに小さな声で謝った。
顔を伏せて、早くここから離れよう、できるだけ追いつかれないようにしようと走り出した。
「…私、やっぱり最低だな笑」
ポロポロと涙が溢れてくる。悪いのは自分なのに、どうして自分がいつも泣いてしまうのだろう。そんな最低で最悪な自分に嫌悪する。
濡れてる私のスカートに落ちて、消えたいった。
絶対、嫌な思いさせたよね。私のこと“嫌なやつ”って思ったよね。今、私の後ろ姿は、君の瞳にどんな風に映っているのだろうか。
もっと優しい言い方、出来たはずなのに。手を振り払わなくてもよかったのに。自分のしたことに嫌気がさして、自嘲の笑みが溢れた。
ごめん、琉嘉。今ここで泣いてる姿を見せるわけにはいかないんだよね。そうしたら君は、もっと私に優しくするでしょ。見た目からはわからないほっとけないような性格してるから「泣き止むまで待ってあげるから」とか言うセリフを普通の顔して言って、私のことを抱きしめるでしょ。
私にはわかるよ。だからごめん。
スカートと髪が雨を吸ってびちょびちょ、ズブ濡れだて寒い、まだ少し寒い。保健室に、着替えを貸してもらわなきゃ。
…でももういいや。ちょっと前までは、今風邪は引いてほしくないなぁと思っていたけど。
今日の放課後はいつもと違って、少し特別になると思っていたけど。
今それを、自分の手で壊してしまったから。
⭐︎
泣いて、息が上がって、苦しくて。
自分を責めた。朝からずっと、自分が最低だと、貶した。
みんな、私のことを優しいって言ってくれてるけど。全然優しくなんかない。みんなのことを大切にしてるいい子だって言ってくれるけど。まったくいい子なんかなんかじゃない。
手を振り払って、勝手に走り出したし。自分の勝手な都合を黙ったまんま、人を傷つける最低最悪な人間なんだ。ほんとその通りだなと実感した。嫌なほど。
あの後、私は喉の奥が血のような味がして気持ち悪かったけど必死に走った。思いっきり振り払って、唖然としていた君から離れるために。
途中で転けそうになった。濡れたスカートが足にまとわりついて、踏ん張った足が重くて、何度も絡まりそうになった。
後ろを振り返ること、振り返って戻ること。そして「ごめん」と一言言うこと。簡単なことじゃないか。なんで戻らなかったんだろう。
私、何が一番怖いんだろう。
隠し事がバレて怒られること?
琉嘉に嫌われること?
私の運命が決まっていること?
死神が夢に出てきたこと?
いや違う。全部嫌だけど、どれも嫌だけど、やっぱり一番は——
「…私は琉嘉を忘れて、琉嘉は私を忘れないことでしょ…」
バタンッ、ガチャっと落ち着きのない音がいつもより大きく聞こえた。
校内に入るまで一度も足を止めなかった。追われていないとわかっていても、どこか心がそわそわして安心できない私。
急いで校門をくぐり、急いでグラウンドを渡る。急いで濡れた靴下を脱いで素足をスリッパに入れる。スリッパを素足で履くのはこんなにも気持ち悪いのか。
そのまま急いで三階まで階段を駆け上がって、リュックもそのまま一緒にトイ入れに駆け込んだ。
いつも通っているはずの道が、初めて通るような道に思えて、なんだか怖かった。
いつもは賑わって、うるさいほど生徒たちの声が行きかっている校舎がひっそりしている。一日の大半を過ごす、一軍女子男子たちがはしゃいでいる教室がシーンとしている。
琉嘉は私の後を追ってこなかった。止めようとする仕草も、私に声をかけようともしなかった。私の異変に気を遣って追いかけてこなかったのか、それとも追いかけたくても追いかけれなかったのか。わからないけど、心底で「よかった」と思う自分に反吐が出た。
「私、今からどうすればいいんだろう…」
消えそうな声でポツリと呟いた。換気扇の音に掻き消され、結局誰にも届くことのない声。ポロポロと温かい雫が私の頰を濡らす。いくつもこぼれていく。
胸が締め付けられたように苦しい。悲しくて、寂しくて、自分が前よりもっと嫌いになって、辛い。呼吸が乱れて荒くなる。深呼吸しないと、深呼吸しないとって自分に言い聞かせても泣いているせいか全然言うことを聞いてくれない。
グラウンドのほうから生徒たちの声が騒がしく聞こえ始めた。外から聞こえてくる生徒たちに紛れてて………琉嘉もいるのかなぁ。どんな気持ちで学校に足を踏み入れるんだろう。
琉嘉に今すぐ会いたい、抱きしめてもらいたい。
そして謝りたい。
さっきはごめんなさい、自分勝手な行動で琉嘉を傷つけてしまってごめんなさい。
心や口ではスラスラ言えるのに、いざとなったらどうせ言えないんだろうな、私。
こんな最低な人間に近づきたくないって思ってるかもしれない…けどそれでもやっぱり——
「…会いたいよ…」
……いっそのこと、琉嘉も私と同じ症状にかかってくれないかという悪魔が私の頭をチラつく。酷いってわかってる。琉嘉はまったく関係ないのに、琉嘉まで巻き込もうとする自分の最低な考えは。
最愛の人の心配と優しさに満ちた手を何も考えることなくただ振り払う自分が最悪な人間だということも。
このことも、あの死神が持ってる運命の資料に載っているのだろうか。今日のあの最低なことも。
「…謝ろう、ちゃんと。このままじゃダメだよね…」
絶対に今日、謝ろう。タイミングを狙うんじゃなくて、私からちゃんと謝りに行こう。つべこべつべこべ言わずに謝ったほうが私のためだよね。私が悪いんだから私から謝らないと。
「……自分が悪いんだから、内気になるなっ」
その前に私のこのびしょ濡れの制服をどうにかしないと。水が垂れたら掃除しないといけない…と言うか、普通に濡れたままじゃ寒い。
——キーンコーンカーンコーン…
多分…朝礼前のチャイムであろう音に急かされて、私は急いで保健室に着替えをもらいに行った。
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「クシュンッ…あぁ寒…」
二限が終わった後、三限の準備が終わり席についてひたすら両手の平で摩擦熱を作ろうとした。
理由はただ一つ。寒いからだ。
着替えてから時間が経っているはずなのに未だくしゃみのオンパレードとは一体どう言うことだ。
…なんか、中学生のときの保健体育の授業で雨水が蒸発するときに体温を奪うから身体が冷えてしまうことがあるとか、身体が冷えた状態だと風邪を引き起こすとか先生が言っていたような気がする。
タオルも借りて髪の毛も少し拭けばよかったな。冷房の効きすぎた教室に冷えた身体で入ったのがまず失敗だな。あぁお風呂入りたい…いつもだったら熱すぎて入れなさそうな温度のお風呂に浸かりたい…。
お湯かあったかいスープも飲みたい。ホットミルク…ホットココア…コーン茶…コーンスープ…シチュー…。なんでもいいからとにかくあったかいやつを私に恵んでください…。猫舌だから夜ご飯のときはいつも味噌汁は最後に飲む派だけど、今なら一気飲みできる気がする!
お風呂入りたい、あったかいものがほしい、ドライヤーで髪の毛を乾かしたい。まだ完全に乾ききれてないのがよくわかる。たまーに毛先から雫がポトンと落ちてくる…。
「クシュンッ…クシュンックシュンッ。こりゃダメだね。三連続だよ、三連続」
「優美ちゃん大丈夫?雨に濡れて風邪ひいた?」
「なんで傘取りに帰らなかったの?のほうが絶対そこまで濡れずに済んだでしょ笑」
私の後ろで心配そうに見つめる彩葉とちょっとだけバカにしてる咲。
「いや、それはそうなんだけど…」
「けどぉ?」
「……えっと、そのぉ…誰だったっけ…」
「えぇぇ!忘れたのぉ!?朝あったことなのにぃ!?優美ちゃんっ思い出してよぉ!」
「記憶力おばあちゃんじゃん笑大丈夫か」
記憶力おばあちゃん…。めっちゃディスられてるけど違う、違う、違う!結構笑い事じゃない。私は記憶力がないんじゃなくて、変な病気のせいなんだよと笑っている二人に叫びそうになった。
朝あったこと…朝あったこと…。学校についてからトイレに駆け込んで一人で泣いてたのは覚えてる。その前、ずっと走ってたのか息が切れてて苦しかった。心臓が張り裂けそうなぐらいに悲しい気持ちになったのと覚えてて…。
雨が降った。
短い時間だったけどすごい土砂降りになって、でも傘を持ってなくて…家に帰ろうかと思ったけど結局帰らずにそのまま濡れて…誰かが…
「あっそうだ!思い出した!」
「何!?急に大声出さないでよ!」
「それにしても急だねぇ笑ていうか、思い出したって何を?」
「琉嘉だよ琉嘉っ!ごめんっちょっと待ってて!」
「はぁ!?」
私が急に走り出したことにびっくりした様子の咲。後ろから「待ちなさいよっ!倉橋がなんて!?」と言葉の槍が飛んでくるが気にしない。
今から言わないと、今言ってこないと絶対忘れる。思い出すのに、時間がかかってきている気がするから。
「優美ちゃんっ!どこ行くの!?もう少しで三限始まるよ!?ちょっと優美ちゃーん!」
「わかってるっ!すぐ終わる!たぶんね」
最後のほうはわざと聞こえないようにした。もう少しで三限が始まるって、五分もあれば十分伝えられる。
忘れないうちに、伝えないとでしょ?
「…ごめんねってね」
先生がまだ来てないから教室から出て行ってもセーフだよね。
私は急いで三つ隣の教室に向かった。
教室が賑わっている。生徒たちの明るい声が窓の隙間から漏れて聞こえてくる。
アニメやドラマ、メンタメの話、恋愛話。いろんな話が私の耳に入ってくる。
どうやら移動教室じゃないらしい。見てないからわからないけど。
ドア、開いてる。クーラーつけてるのにもったいないな。
でも、ドア開けて人を呼び出すって結構緊張するの私だけかな。高校生ぐらいになったらすぐイジったり、「もしかして告白ぅ?」とかうざい男子がいっぱいだから。相手にも申し訳ないというか…。
「どこにいるんだろう。全学年、同時席替えしたから前の席じゃないよねぇ…」
あまりがっつり入ると目立ってしまうので、ちょっと覗く程度で探した。
「おかしいなぁ…いない…他の教室に遊びに行ってるのかなぁ」
「誰探してるの?って…優美じゃん」
誰かに肩をポンポンと優しく叩かれて、とっさに身体が後ろへと振り向いた。朝は制服だったのに、体操服に着替えてるから、誰かと思ったけど声を聞いてすぐわかった。
ずっと心の中で忘れないように名前を唱えて顔を浮かべて、なんていうかイメージトレーニングしてたから…よかった。
髪の毛がバサァと垂れるぐらい頭をグッと下げる。
「あっ琉嘉…えっと…さっきはごめんなさいっ」
「えっ?」
「傘、せっかく入れてくれたのに…最後、嫌な気持ちにさせちゃったよね…手も振り払っちゃったし…私自分が最低だなって思う…」
「…あぁさっきのね。全然気にしないで。怒ってもないし嫌な気分にもなってないよ」
「怒って…ないの?」
「うん、これっぽっちもないよ」
朝の笑顔とはまた違う、微笑みを私に見せながら親指と人差し指で“ちょっとマーク”した。
「俺はただ、心配になっただけ。優美があんなことするの初めてだったからさ」
「心配って…嫌っていう気持ちが勝つじゃん。あんなことされたら…」
「そんなことないってほんとに。びっくりして動けなかっただけで、優美には笑ってほしいよ。あんな怖い顔見るのが初めてで動けなかっただけ笑」
本当は傷ついてるんじゃないかな。隠してないのかな。私に言いたくないとか、関わりたくないから言わないとかじゃないのかな。
「今、本当は俺が嘘ついてるんじゃないなとか思ってるでしょ」
「うっ……思ってました」
「正直でよろしい。…もうすぐでチャイムなるし、授業終わったらまた来てよ…優美と話したい。よかったらお昼ご飯も一緒にどう、かな?」
恥ずかしいのか、目を逸らしてぎこちなく聞いてきた。
それが可愛くて、自然と笑みが溢れた。
「もちろんっ!また後でねっ!」
うん、やっぱり謝ってよかった。
一番最初にそう思った。まだ少し、本当は嘘ついて…なんて思ってるけど、あの笑顔に嘘は含まれていないと私は信じる。
あぁ、早くお昼にならないかな。
時計を見て、焦って、急いで自分の教室に戻る私を、琉嘉は最後までずっと手を振ってくれていたような気がする。
⭐︎
四限の終了のチャイムが校内に響き渡る。みんなの肩の力が抜けて、「お腹すいたね、お弁当食べようよ!」
「マジ腹減ったぁ〜」とクラスメイトの声が教室を包み込んだ。
「お腹すいたぁ…」
今日の三、四限目はいつもに比べてすごく長く感じた。先生に目をつけられない程度に空を眺めていても、時間が過ぎるのが遅くて。待っても待っても、何回も時計を見たけど針はちっとも動いてなかった。
早く終わってほしいのに、早くお昼になってほしいのにって思えば思うほど時間の流れは遅くなっている。
私はずっと、四限目の終わりのチャイムがなるのを待ってたんだ。だって私は、私は……………あれ?
「なんだったっけ…?」
なんで早く終わってほしかったんだろう。なんで早くお昼になってほしかったんだろう。お腹すいてたから、お弁当が食べたくて仕方がなかったのかな。
別にいつものこと…かな。四限目が早く終わってほしいと思うのはよくよく考えたらいつものことじゃないか。
「私…何か忘れてるような…うーん…なんだろう…」
こう…なんか。なんか大事な、特別なことを忘れているような気がする。頭のどこかに引っかかってる。
「優っ美っちゃんっ!おっひっるっだっよっ!」
「うわっ!?びっくりしたって彩葉か…そうだね!お昼ご飯だね」
何かいいことがあったのか彩葉の機嫌が良い。というか良すぎる。るんるんしてるっていうか、ぴょんぴょんしてるっていうか。テンションが上がってるのが見てわかる。
「彩葉、やけに上機嫌じゃん。どうしたの?」
「やっぱりそうだよね!私も思ったんだけど、彩葉っていつもこんな感じだから気のせいかと思ったけど…さすが咲」
「二人とも、そんなにうちのこと好きだからわかるんでしょって、まぁ冗談はここまでにしてっ!ちょっと聞いてほしい!」
「聞いてほしい?なになに!?どうしたの!?」
聞いてほしいと言いながら、なかなか口を開いてくれない。あのね、あのねと恥ずかしそうに繰り返して何が言いたいのだろうと気になって身体がうずうずする。
顔を覗き込んでよく見ると頬っぺたがほんのりと赤くなっている。耳も赤くなってる…全然気づかなかった…。この教室は十分クーラーが効いてて涼しいし、気温が高いから暑いというわけではなさそうだ。
「ちょっと彩葉。言いたいことあるなら早く言ってよ。私お腹すいて暴れるよ」
「ちょっともう少し待ってよ〜ご飯食べててもいいから〜お願いっ!」
「オッケー!本人が言ってるからじゃあいっただっきまーす!」
そう言って、薄い水色が涼しげなランチクロスの結び目を解き、お弁当を食べ始めた。
私も食べようかなぁと一瞬思ったが、ご飯は一緒にいただきますを言って食べたいなと思ったので我慢した。
私のお腹は今にも悲鳴をあげそうだ。今だったら生徒たちのしゃべり声に消されて誰にもバレないだろうけど…一回鳴ったら止まんなくなるからなぁ…。
あっそうだ。私の頭の中の豆電球がピッカーンと光った。よし、いいことを閃いた。
今のうちになんか忘れている、そのなんかを思い出してみよう。よく、しっかり、ちゃんと考えたら思い出すかもしれない。
自分で言うのもなんだがいいアイデアでは?時間は有効活用しようってよく言うしね。
「………うーん…なんだったっけぇ…」
「はに?ふう、はにかはすれほとしはの?」
口にいっぱい詰めた咲が首を傾げながら私に訊ねる。
多分だけど彼女は今、「何?優美、何か忘れ事したの?」と訊いたのだろう。
こう言うことはよくあるから、最近は何言ってるのかよくわかるようになってきたけど…。
咲の姿をよ〜く見た。何?どうしたの?と言わんばかりにこちらをじーっと見つめてくる。
…アニメとか漫画に出てくる、どんぐりを口いっぱい詰めたリスみたい…笑。
「いや、なんか…誰かと大事な、特別な約束をしたような気がするんだけど…誰だったか忘れちゃって…」
「約束?」
「そう、約束…。いや、約束したかもどうか怪しんだけど…」
「うーん…約束ねぇ。これは大問題ね」
咲は私の話を聞いて、食べるのを一旦やめた。右手に持っていた箸をお弁当の上に置き、今度はその右手を顎に移す。
「あっわかったぁ!」
「なになに?何がわかったの?」
「倉橋だよ倉橋!三限の始まる前、教室出て行ったからどこに行ってるのか見てたけど、あれ倉橋のクラスだったよね?何か話したんでしょ?違う〜!?」
倉橋…倉橋…。私の友達に倉橋っていたっけ…。
頭にモヤがかかってる。もう邪魔!このモヤのせいで頭がぼんやりする。パッとしないし…。
私は頭からモヤを取るように頭をぶんぶんと横に振った。このモヤがいけないんだ。モヤのせいで…
「あっ!?忘れてた!今何時!?ヤバっ!?ちょっとごめん!」
「思い出した?!何!ど、どこ行くの!?」
「私行かなきゃいけないとこあるからごめん!また明日一緒に食べよ!ほんとにごめん!彩葉、また後で話聞かせて!」
「えっはぁぁぁ!?」
彩葉の驚きの隠せない表情に「ごめんっ!」と思わず謝ってしまう。二人の声が背後から聞こえてくる。「どこ行くの!?行くところがあるってどこに!?」と咲が私に問いかけるのを仕方なく、聞こえないフリをして私は無地の保冷バックを抱えて急いで教室を出た。
錆びついた扉の前に立って深呼吸をする。ちょっと錆びてて回しにくいアルミ製のドアノブを回した。
数メートル先、広く、自由に、広がる青空の下、ポツンと置かれた長椅子に一人、誰かが座っていた。
風に吹かれて揺れる髪、音に気づいて顔をこちらに向ける。
「遅いよ優美。約束、忘れたのかと思ったよ」
「いや…まあ、正直言うと忘れかけてたんだけど…ほんとごめんっ!」
パンっと両手を合わせて謝罪すると頭の上からふふっと笑い声がした。
「何笑ってんのよっ!」
「いや笑優美が約束ごとすっぽかすとか滅多にないからさ、全力謝罪がおもしろくて」
「だからって…笑わなくてもいいじゃん!」
「ごめんごめん笑あーお腹すいたー。食べようよ」
走り出した彼は私に手招きをする。咲と彩葉に後でちゃんと説明しないとな。
足早に長椅子のほうに行き、腰をかける。
「もうちょっとこっちおいで。落ちるよ」
面白おかしそうに笑いながら私の身体を引き寄せる。
「私のこと、どんだけバカにしてんの…」
「落ちて怪我したらどうするのさ」
「ご心配どうもっ!」
こう言うのは茶番だ。昔からよくあること。琉嘉はすぐ私のことを子ども扱いしたり、揶揄ったりしてくる。でも別にバカにされて嫌って思ったことないし、嫌いになったこともない。私はむしろ、そのほうが愛されてる証拠かなって思ってる。
「このお弁当誰が作ってんの?美味しそう」
さっきからずっと視線を感じるなと思ったら私の弁当を指差して“ちょっとだけくださいアピール”をしていたからだ。自分も美味しそうな弁当食べてるくせに…。
「いつもはお母さんだけど、今日は私が作った。すごいでしょ」
昔から料理したり、物を作ったりするのが好きなので別に自慢するようなことじゃないったが鼻を高くした。
「すごいって…優美料理とかするの得意じゃん。これ美味しそう…食べ」
「ダメ、無理、絶対あげないっ!笑」
「えぇ〜そんなに…いや?」
琉嘉の言葉を遮って私は断った。それに落胆し肩を落とす。その姿を見たらちょっとあげたくなった(いや、後からあげるけどっ!)。
というか、心の底からあげたくないわけじゃない。これは演技というやつだ。
私の食べる分がなくなるとか、人に食べ物を分けるのが嫌とかそんな意地汚い女じゃないしこれには訳がある。一番の理由は私より琉嘉のほうがはるかに料理上手だからだ。琉嘉が美味しそうと言ったのはなんの変哲もない普通の唐揚げで、料理男子には唐揚げなんてお茶の子さいさいで作れるだろう。なんなら私が作るよりももっと美味しく作れるに決まってる。
「別に、あげたくない訳じゃないからそんな顔をしなくても…」
「嫌じゃないなら一口ちょうだいよ」
「だって唐揚げとか琉嘉のほうが絶対美味しく作れるじゃん。私のじゃなくても別に…」
「いや、優美が作ったんでしょ?今日のお弁当。食べたいじゃん、自分の彼女が作ったやつ。彼氏はみんな憧れると思うよ?彼女の作った弁当食べるの」
“食べたいじゃん、自分の彼女が作ったやつ”
“彼氏は憧れるよ?彼女の作った弁当食べるの”
彼女彼女って…そんな軽々しく言わないでよ。
自分の耳、顔、身体が熱くなっていくのがわかる。心臓の鼓動がドクン、ドクンと鼓膜を揺らす。
いつも、琉嘉は私のことを揶揄う。でもそれは、本人からしたら揶揄ってる訳じゃなくて、普通に本心なのだろうけど。普通の顔して、普通の声で、言ってるけど。少しは私の気持ち、わかってよ。
「…恥ずかしいし…照れるじゃん」
「えっ何?聞こえない。あっもしかして」
「照れてない」
「うっそだー。顔とか耳、真っ赤だけどそれでも照れてないって断言できる?笑」
このちょっとバカにしてるような、意地悪い笑いがほんと、イライラする。余計に私の顔を熱くする。絶対前世小悪魔だ。
「嘘じゃない。ほんとに照れてないしっ!」
「嘘つく必要ないよ。照れてても可愛いから安心しなよ」
「琉嘉のバーカっ!もう知らないっ!唐揚げもあげない!放課後一緒にアップするのもなしっ!」
照れ隠しのために私はそっぽを向いた。ごめんっと気持ちのこもってない謝罪が聞こえてきたけど、私は振り向かなかった。だってまだ顔赤いもん。ドキドキしてるもん。
わかってるでしょ。私の顔がどんどん真っ赤になっていること。私の横で、笑ってるんでしょ。こんなバカみたいに顔赤くしてる私に。
こんな笑いっぱなしの、私たちだけの日常はいつまで続くかな。
そんな悲しいことを考えた。
その瞬間、暑さが一気に吹き飛んで、恐怖の渦に包み込まれたかのような気分になった。
こうやって話してても、やっぱり気になってしまう。どうしても頭から離れなくて、話してる途中で忘れてしまうんじゃないかって怖くて。
私は、琉嘉にこのことを言える日が来るのだろうか。
ちょっとだけ、涙腺がうるっとなったのを我慢して、体を元に戻した。
いつか、大好きだったよって言わなきゃいけないのかな。
「どうした?急に悲しい顔して。何?大丈夫?」
「なんでもないよ。まぁ仕方ないから唐揚げ一つだけあげる」
「いいの?やったね」と普段は見せない、私にしか見せてくれない特別な笑顔。屈託がなくて、すべてを吹き飛ばすような優しい笑み。
好きだな。やっぱり。
そう思った。なんの前触れもなく、唐突に。
いつも、ずっと、前から見てきたこの表情はやっぱり私だけの宝物のような物だなと思った。
私はいつかこの笑顔すら忘れてしまうけど…。
「………からっ…」
「声小さくて聞こえっ?なんで泣いてんの!?俺なんか悪いことした!?」
聞こえないようにわざと言ったんだよ。なんて言ったのかは秘密にしとくね。
私の涙を拭う風は冷たくて、空は今にも泣き出しそうなぐらい、どんよりとしていた。
第三章 5月7日になるまで
あの日、私の夢に死神という男が現れて忘愛症候群を告げられてからはやくも一ヶ月が経とうとしている。
症状は軽くなることないし、自覚症状ないだけでどんどん悪化してるかもしれないと思えば怖い。この一ヶ月間だって全く怪しまれたわけじゃない。
恋愛話が大好きな彩葉が、私の恋事情とか最近二人の間であったこととか聞かれたときは、まず琉嘉の名前を思い出すのに時間がかかった。その時点で二人は私に首を傾げたし、心配してた。咲はなんの冗談かと笑ってた。
琉嘉と廊下ですれ違ったときなんか誰だかわからなくなって手を振ってくれたのに目を逸らしてしまったり、声かけられてもスルーしてしまったり、酷いことばかりしてるなと自覚してる。
一ヶ月、怪しまれて、心配されて。
“ちょっと疲れててぼーっとしてた”
“心配しないで、大丈夫だって”
“私が琉嘉のこと忘れるわけないじゃん”
“すれ違ったの気づかなかった”
“ちょっと友達と話すのに夢中になって…ごめん”
ごめん、ごめん、ごめん。
大丈夫、大丈夫、大丈夫。
疲れてて、疲れてて、疲れてて。
気づかなかった、気づかなかった、気づかなかった。
こんな言葉が私の口からどれだけ溢れたか。
恋愛は得意じゃないけど、前まで普通に話せてて、話してて楽しかった恋愛の話をすることが少なくなった。
琉嘉と一緒に話したり、部活で一緒に活動したりすることが少なくなった。一番最近、一緒にやったことはあの日、お弁当を屋上で一緒に食べて、その放課後の部活で一緒にアップをしたぐらい。
前みたいに普通に話したい。
“今日は絶対話そう”
そう思ってもいざ教室の前に立つとやっぱり怖くて、気づけば自分から琉嘉のほうへ行くのをやめていた。
避けてるわけじゃない。琉嘉のことが嫌いになったわけじゃない。大好き、大好きだけど…。
一緒にいると悲しくなる。想えば想うほど辛くて、涙が出そうになって、堪えられない。
彩葉や咲の前では極力恋愛の方向に話を持って行かないように気をつけてるし、不自然に思われないようにちゃんと思い出してから琉嘉と話すようにもした。
それでもやっぱり全部は隠しきれなかった。普通に心配されるし、嘘をつくことしか私はできない。
二人に心配かけるし、琉嘉にも迷惑かけちゃうから。
早めに言ったほうがいいっていうのはわかってるし、死神にも言われた。「このまま隠すつもりか」って。隠すつもりはない。ただ言い出すのが怖いだけ。信じてもらえるかどうかもわかんないのにどうやって説明したらいいかとか、わかんないじゃん。
そうやって言い訳してる。
ここ最近、夢に出てくることが少なくなってきて、もし夢に出てきたとしても特に何も話さないし、向こうから話してくることもない。
ずっと「私はいつ、琉嘉のことを忘れるのか」と聞いても「まだ言うのは早い」とか「お前が何かを成し遂げたときに言う。何を成し遂げろとかは言わない。自分で考えろ」とか言ってなかなか言ってくれない。しつこく、相手が呆れるぐらいの頑固者な私がどれだけ聞いてもダメだった。
まだ言うのは早いって、じゃあいつ言ってくれるの?
何かを成し遂げるって何を?
自分で考えろって言われても、わかんないよ。
朝ごはんを食べてるときも、通学してるときも、授業中も部活のときだってずっと考てる。
一日中、頭の中は“忘愛症候群”なことでいっぱいで授業なんかまともに受けれない。それどころじゃない。
勉強のほうが大事ってみんなは口揃えて言うかもしれないけど、私の頭がおかしいのかもしれないけど、私は必死なんだ。
私が何をすればいいか。どうすれば私のタイムリミットを教えてもらえるのか。
私が成し遂げなければいけないことってなんなのだろう。その答えが出るときはいつくるのだろうか。
⭐︎
机の上に置かれた、食べすぎたお腹のようにはち切れそうなバッグに目を向ける。バッグだけは足りずに念の為に持っておいたトートバッグもセットで。
「優美ちゃんの荷物ちょっと多くない?気のせい?笑」
「気のせいじゃないよ、私…肩外れないかな?…笑」
明後日から夏休み、一ヶ月ちょっとの休暇が始まる。
当日に教科書やワークを一気に持って帰るのは気が引けたので今日、まとめて持って帰ろうとしたのだが…。
これもこれで計画性がないなと自分で悟る。
こう…もっと分別してというか、今日は教科書持って帰って明日はワーク類を持って帰ってとか起点を聞かせれるようになりたいと常々思う。
母親の“一気に終わらせたい精神”という遺伝子をそのまんま受け継いでしまったのが原因かなと一人笑いをした。
「じゃあホームルーム始まるぞー」
ワイワイ、ガヤガヤというような表現が似合う教室は担任の合図によって生徒たちのしゃべり声はパタリとやんだ。
「えぇまず配布物がが四つ…いや五つ配るぞー。その後、連絡を何個かして…五分で終わらせたいところだが、十五分はかかるかな」
「えぇー…」「最悪〜」「めんどくせぇ」と生徒たちのどよめきの声が一斉に上がる。「今日大事な予定あるのにぃ!」と後ろからお怒りの声が聞こえる。
振り返ってみると不機嫌そうな表情を浮かべる彩葉に笑いがでた。
「そんなに怒んなくても笑。大事な予定って何?」
「先輩と五時半からお祭り行くんだけどぉ美容室でヘアセットしてもらって浴衣の着付けも予約しててぇ…時間間に合うかなぁ…」
そういえば一ヶ月前、同じ吹奏楽部の片思いの先輩と二人でお祭り行く約束したって言ったなと、彩葉の話と結びつけて納得した。彩葉とパートが同じで、よく一緒に練習をしてるうちに…的なことを恥ずかしそうに言ってた気がする。初恋らしく、緊張するけど楽しみっ!と目をキラキラさせていたのを覚えてる。
「せっかくだから可愛くしていきたいな…」
「大丈夫、間に合うって!彩葉はそのままでも可愛いからっ!」
「えっ!?それほんと!?お世辞としても嬉しい!」と機嫌を直した様子。「お世辞なんかじゃないよ。彩葉の笑顔見てると私も自然に笑顔になるよ」というとさらに嬉しそうに足をジタバタし始めた。
「じゃあ、連絡入るぞー。まず一つ目は…」
いつもは“手短に”でお馴染みの担任の話が珍しくちょっと長くなりそうでめんどくさいなとマイナスな考えが脳裏に浮かんだ。ちゃんと聞いていたほうがいいのかなと思いつつ、やっぱりいいやと外の世界に目を向ける。
外はいかにも地獄が広がっていた。ギラギラとグラウンド一面を照りつける日差しは十六時半を過ぎているというのに一向に沈んでいく気配が見られない。
犬の散歩をしている人や自転車に乗ってる人が汗を拭っている。日傘を差したりアームカバーをしていたり日焼け対策はバッチリってわけだ。
今から部活は結構大変だなぁと顔を顰めた。顰めた顔が戻らない。
私は大の汗っかき。タオルと汗拭きシートと冷感スプレーとキンキンに冷えた水と色々準備満タンだけど…。お風呂に入ってドライヤーする前のトイプードルみたいな感じだ。トイプードルほど可愛くはないが、一番わかりやすい例だと思う。
熱中症警戒アラートみないなのでてくれないかなぁ。
これでたら全運動部練習中止になるからあぁ。でも県総体も近いし練習サボってたら、監督とコーチに呼び出されるからそれは避けたいし。
私も中学から吹奏楽部に入ってればよかった〜。吹奏楽部って部屋の中で練習してるからクーラーが入ってるってことだよね?ということは快適…羨ましぃ〜。こっち吹いてくるの熱風…。
ダメダメ、やる気なくしたら怠けるなっ!て説教される。みんなに笑われるの嫌だし、練習して帰り道、コンビニ寄ってアイス買って帰ろっと。
「ちょっとやる気出てきた…」
「じゃあホームルーム終わるぞー、あいさつ」
チャイムと同時に担任の話が終わった。やっぱ、空見て何か考え事してたらあっという間だな。
「起立、気をつけ礼」
委員長の号令でクラスメイトたちが一斉に教室から出ていった。部活に急いで行く人もいれば、中には彩葉みたいに気になってる人となんちゃってデートに行く人もいるのかなぁと口元の口角がニヤッとなった。
「優美ちゃん咲っ!バイバーイ!」
「また明日、デート楽しんで!」
「でででっデートじゃないからっ!?」
デートという言葉に動揺した彩葉を見て私と咲は腹を抱えて笑う。
「じゃあうちもう行くね」
「私も一緒に下まで降りる。優美も来る?」
「うんっ!」
早めに行って早めにアップと体操を終わらせよう考えていたのでちょうどいいと私は二人の入って階段を降りていった。
⭐︎
しっとり、じめじめ。少し独特で、だけど心が落ち着く雨の匂いがする。遠くで雷がゴロゴロと轟いている。
もうすぐ雨が降るのかなとちょっと心が躍った。室内練習となると練習メニューはイージーだからだ。
外に出て、グラウンドを見回してみたが誰も外に出ていない。まだホームルームが終わってないのかサボりがいるのか。どちらにせよ、当分来そうにないので私が準備をしておこう。
「二年の北村優美です。部室の鍵を取りに来ました。入ってもいいですか」
まあまあ大きな声を出したつもりだったがどの先生にの届かなかった。勝手に入ると注意されるのでもう一回行ったほうがいいのかなと思いつつ、私が聞こえなかっただけで返事はしてくれているのかわからなくてどうしようかと扉の前で突っ立った。
「あっどーぞー」
「失礼します」
中に入るときは一礼という私たちの学校のルールをきちんと守ってくつずりをまたごす。
業務用エアコンがちょうど自分の顔ら辺を吹き抜けていく。大きさが大きいから冷たく感じるのか、それとも職員室だけ設定温度を低くしているのか。どちらにせよ私には天国にしか思えない。
「失礼しました」
監督が百円ショップで買ってきた招き猫のキーホルダーを手にとって足早に職員室を後にした。私が走るペースに合わせて付属でついた鈴がシャランシャランと音を奏でる。
通知表をギリギリまでつけているやら三年生の三者面談の準備やらで職員の先生たちはドタバタと落ち着きのない様子だった。
小学校とか中学校のときはこんなに先生たちバタついていなかったけどなぁと不思議に思って首を傾げる。
「えーっと部室二の鍵、これだったっけ?」
十個ぐらいある鍵の中からそれらしいものをなんとなくで差し込んでみたがそもそも鍵穴に入りもしない。
「それ違う。上のほうがクローバーみたいなやつ」
てっきり一人だと思い、驚いて後ろを振り返ってみると「何してんの?」と言わんばかりに冷たく醒めた笑いをしている同い年か先輩の男の人が立っていた。
パッとみて誰だかわからなかったが私と同じ陸上部の人だ。真っ白なTシャツの上、左胸のところに青野高校陸上部と明朝体で印刷されている。
“この人”背、高い。顔、すっごい整ってる。
なんかどこかでみたことあるような人だな。何回も話したことあるような気がするけど…私の勘違い、かな。
この背格好だし、先輩だとしてもおかしくない。いやでも待って…幼馴染…あっ。
「おーい、聞こえてるー?」
「えっ…あぁありがとう、ございます〜じゃないっ!ありがと」
「え?なんで敬語?」
「……」
絶対怪しまれた、おかしいと思われたと確信した。頭がまだぼんやりしてたからついつい敬語を使ってしまった。今まではこんな失敗をしなかったからこそ、どう乗り越えたらいいのか頭をフル回転させた。
怪しまれない方法、心配させないための言い訳。大袈裟すぎない程度に必死になって考えた。
「先輩かと思っただけ!間違えたの」
間違えた、本当は間違えてないけど、こう言うしかないと思った。
それでも今日の彼はいつもみたいに「ふーん」とか短い返事ではなかった。顔を恐る恐るあげると、いつもの琉嘉じゃないということが一瞬にして感じられた。
怖い。あの時みたいに。あの雨の日、傘。嫌な記憶が蘇る。
その顔には怒りも少し含まれているようだった。どうして嘘をつくのかと、問い詰めるような目。
「いや、今のは間違えとかじゃなくておかしかったよ」
「琉嘉の気のせいだよ」
声が震えた。気温が高くて、雨が降るのか蒸し暑いはずなのに震えが止まらない。ズボンをギュッとしわくちゃになるぐらい力強く掴んだ。
「気のせいなんかじゃない。最近の優美やっぱりおかしい。言い方、悪いかもしれないけど。なんかさ…」
なんと言ったらいいか、困ったような表情を浮かべた頭を掻く姿に私は血の気が引いていくのがわかった。ドクンッドクンッと鼓動が一回一回耳についてうるさい。心拍が速くなる、動悸がする、気分が悪い。吐き気がする、今すぐこの場から離れたい。そう思っても私の足は一歩も動かない。もし今ここで私が走り出したら、彼も自ずと追いかけてくると、脳がわかってるんだ。
もう、隠しきれない。これ以上は何を言っても無駄だとわかった。もう、気づきかけてるのかもしれない。いやもうとっくの昔に気づいていたかもしれない。
彼がこれから何を言おうとしてるのかがわかった。
言わないで。それ以上言わないでと心の中で叫んだがその叫びは一瞬で絶望に変わる。
「わかんなくなってない?俺のこと、忘れてるっていうか…」
忘れてるという言葉が心にグサッと刺さった。
全身の力が抜けて、グラッと倒れそうになった。
その目、彼の目に私はどのように映っている?嘘をつき続け、その嘘を暴かれそうになって絶望してる悪魔?
彼は今、私のことをどう思っているだろうか。彼に今、好きという気持ちはないだろう。
「…忘れてなんか…ないよっ…」
ポロポロと地面に向かって落ちていく大粒の涙。
嗚咽が漏れて詰まった声。
ツーンと痛い鼻。
ズボンを握りしめている手の力が抜けていく感覚。
「どうしたの?なんで泣いてんの?」
忘れてる、忘れてる。
私は琉嘉を忘れてる。
軽症だとあの死神は言ってた。
軽症ということはこれからもっとひどくなる。
今はまだ、時間がかかるだけで思い出せてるけど、いつかは完全に思い出せなくなってしまう。
あぁもうダメなんだ。
「大丈夫。大丈夫だよ。なんでもないよ」
「それのどこが大丈夫なんだよ」
大丈夫と言ったけど、何も言い返せなかった。琉嘉の言ってることは正しいから。
本当は、大丈夫じゃないもん。顔は涙でぐしゃぐしゃで不細工になってるだろうし、まともにしゃべることもできないし。
「部活、今日休めよ…俺も休むか」
「大丈夫、休まなくても平気だよ」
「ちょっ、待って。何があったか話してよ」
「私、先にアップ行くから後輩の子たちに練習メニュー伝えてて」
頑張って笑顔を向けたつもりだけど、全然笑顔になってなかったと思う。バッグの中から今日のメニューが書かれた部活ノートを渡して、その場からすぐに立ち去った。
最初からペースが速いと自分でもわかってるけど、足が前へ前へと進んでいく。前から来る後輩や先輩の人が私の名前を呼んでくれてるけどコクっと頷くことしかできなかった。
「北村先輩っ!?どうしたんですか!?」
「なんでもないよ。私、先にアップ行っとくから練習メニューはあ琉嘉に聞いておいてね」
「えっ、あぁはい…」
驚きを隠せない様子で後輩の子がその場で固まっている。「先輩大丈夫かな」と心配してくれているような後輩の声が聞こえる。
「…今度鍵にシール貼っとこっと」
気を紛らわすために口に出した言葉は今にも消えてしまいそうな、か弱い声だった。
⭐︎
もくもくと空に立ち上がる真っ白な雲。その横を飛行機が通過していく。
「さっさと行動、流し三本行ってこーい」と離れたところからメガホンを通して叫ぶ監督に追い立てられて、全員がグラウンドに集まる。
「二人一組作ってできたとかからスタートしてねー」
二人一組を作るとき、いつもだったら隣には琉嘉がいた。私から誘うこともあるし、向こうから誘ってくれることもあった。
だけど今日は私からも行かなかったし、向こうからも来てからなかった。私が避けるようなことをしたから当たり前だけど、心がチクリと痛んだ。
「一緒に流ししようよ」
「お願いしますっ!」
今日は私は後輩の中でもよく話す子を誘った。明るくて元気のいい子だけどちゃんと上下関係を意識していて偉いなと思った。
「海斗ー、一緒しよー」
「んー、いいよー」
私が違う人と組んでいるのを確認したのか、琉嘉は同学年の男友達を誘っていた。
ゆっくり、徐々にペースを上げて最後はスムーズに走り終える。綺麗なフォームの人、まだ慣れてないのか少し腕が開いてる人、力みすぎてる人。いろんな人がいるけど、どうしても琉嘉のほうに目がいってしまう。
見れば見るほど悲しくなるとわかっていても、だ。
「じゃあ短距離は二百メートル八本とスパイク流し百メートル二本やってから補強で腹筋に二十回を三セットやってこい。水分休憩ちゃんとやれよ」
暑さといつもの短距離メニューにしてはキツイからであろう、「えぇ…」という落胆の声が聞こえてきた。
「長距離は学校外周回って何キロだったかな…あぁそうそう、一キロだから八…いや十周走ってこい。今日は遅くてもいいから最後まで一定のペースで」
長距離メンバーからしたら一見ハードに聞こえる練習もどうってことないのだろう。「さっさと終わらせよ」と三年のキャプテンが声をかけると他のメンバーもトラックのほうに向かっていった。
大変そうだなと思いながら二百メートルのスタートラインに行こうとしたとき、監督から名前を呼ばれた。
「十月の駅伝に出る倉橋と北村も長距離でやりなさい。キツイかもしれないけどお前らならできるだろう。返事はー?」
「わかりました」
「海斗ー。俺も長距離練習しないといけないらしいから待っててー」
先に準備をしていた海斗を呼び止めた。わかったーと溌剌した声が鼓膜を揺らす。私と距離を置くためか、それともなんで声をかけて、どんな態度を取ればいいか困っているのだ。
長距離に仲のいい先輩も後輩もいない。私があんなことしてなければ三人で走ってたのかなと悔やんだ。
今日は一人でやるしかないなと意気消沈気味に部室に戻ってシューズを履き替えた。
「じゃあ長距離、各自そろそろスタートしろー」
神様や死神は今、私に向けてどんな顔をしているのだろうか。
自分が今世界の片隅にいるかのように、すごく心細く息ができないくらい苦しい。
夏にはいろいろな匂いがある。
蚊取り線香から出てくる薄ら白い煙がゆらゆらたゆたう静かな匂い。友達と花火をして、燃え尽きた後のほんのり焦がした匂い。朝の暑くなる前のほんのりしっとりとしたさわやかな匂い。夕日が沈みかけながらかいた汗をいざなってくれる風の匂い。
そして、悲しみを包んだ涙の匂いがした。
「早く行かないと」
泣くのは家に帰ってから。そう自分に言い聞かせて我慢して足をグラウンドに運ぶ。
見た感じ自分が一番遅かった。走ってる邪魔にならないようにタイミングを見計らってトラック内に入る。左手首につけられたストップウォッチのタイマーをスタートさせた。
何も考えないで無になって走ろうと思っても、無になれ無になれ、何も考えるなって思ってしまって結局何かを考えてしまう。
家に帰ったらしないといけないこと。課題をしないといけない。夏休みの宿題も配られた。夏休みにはまだ入ってないけど、もうやっていいと先生が言っていた。あぁ税の作文と読書感想文、いつやろうかな。早めに終わらせて楽したいけど、いざシャーペンを握ったら全く内容が思いつかなくて書けない。
今日の夜ご飯はなんだろうと考える。昨日のご飯は魚だったから、今日はお肉が食べたいな。豚肉でも牛肉でもなく、鶏肉。それで、できればさっぱりしたものが食べたい。鶏のもも肉にレモン汁かけたやつとか、ささみをカボス風味のドレッシングで和えたものとか。照り焼きチキンは好きだけど今日は気分じゃない。こってり、胃がもたれないもの以外だったら嬉しいなと。
今日あった授業のこと。今日の授業はハードだったな。五教科と音楽。せめて四教科がいいな。そもそも、夏休み前だから授業進まないでほしいな。もう、ぜーんぶ芸術の授業がいいな。だって一番頭使わなくていいからお腹減らないし。
友達や先生たちと交わした会話。今度の土曜日、彩葉と咲とお泊まり会するの楽しみだな。夜ご飯のために手作りピザ作って、お菓子食べながら人生ゲームとかカードゲームして。それからパジャマで夜のコンビニに行ってお菓子買ってから家でホラー映画見て。考えるだけでワクワクするな。その日が待ち遠しくてたまらない。
彩葉はもうお祭り行ったかな。時間的に行ってると思うけど、ちゃんとヘアセットと着付け間に合ったのかな。楽しんでたらいいな。もし写真あったらお泊まり会のときに見せてもらお。
咲は部活中だろうな。あっ、休憩時間かな。たぶんバスケ部の人が椅子に座って休んでる。咲も来るかな。もし来たら手を振ろう。大声出して名前呼んだら恥ずかしいって怒られちゃうから控えめに。
花火が見たいな。空に上がるような大きいやつじゃなくてもいい、手持ちのやつでいいからやりたいな。久しぶりに水族館にも行きたい。小学校の修学旅行以来、行ってないし、動物園より水族館のほうがなんか神秘的で好き。夏は熱いから涼しい場所に行きたい。そこで特に何かするわけじゃないけど、ぼーっとした時間を過ごしたい。
時間で思い出した、ちゃんとタイムと距離見てておかないと。「何してんだ?!」ってメンバー全員の前で公開処刑だ。リラックスするために腕をダラーンと下にして元に戻す。左手首につけられたシンプルなデザインの時計には二・五キロと表示されていた。
意外にもう二周半も走っている。感覚的にはまだ一周もしていない。考えてる時間は短いような気がしたけどいい感じのペースで走れている。
水飲みたいなー。氷が山ほど入ったキンキンの水が今日炭酸水をキュッとお酒みたいに飲みたい。
暑いなー。今すぐクーラーの聞いた涼しい部屋に入って…いや、シャワー浴びて汗を流してスッキリしてからベッドにダイブしたい。
今日は家に帰ってから何もしたくない気分だ。とにかく寝たい。十分な睡眠が取りたい。でも夢を見るのは嫌だな。あいつが出てくるかもしれない。これだから最近は熟睡できてない。疲労がどんどん溜まっていく感じ。
三周目、あと七周…。あと七周頑張れば今日の練習は終わり。意外と楽かもしれないと余裕をかました。
「長距離組ー、いい感じのペース。北村はそのままリラックスした感じでいきなさい。肩の力が抜けていてよろしい。そのままのペースをラストまで保つようにー」
走ってる途中に声を出すのはいけないと前に注意されたことがあったので、ペコっとお辞儀だけして監督の前を通り過ぎた。
珍しく監督が褒めてくれた。指摘やアドバイスが多くて私はありがたいけど、顔がキリッとしてて怖がりな人には怒られてるみたいと感じるらしい。私は逆に燃えてくる。
いつもは短距離で練習しているのでなかなか長距離を走るということには慣れていないので、他の人に比べたらペースは遅め。三年生の先輩や同学年の人に追い抜かされていく。
私よりペース全然速いのに全く息切れてないし、軽々走る姿にすごいなぁと感心した。
去年も駅伝のメンバーとして走ったけど、まさか今年も選抜メンバーで選ばれると思ってなかった。長距離の女子が足りないから穴埋めで入れられたのは最初は自尊していたけど、一緒に練習するのは地獄だった。短距離だから瞬発力があるだけで体力がないからもう最悪だった。
最近は駅伝以外にも普通の市総体とかで長距離でも出るけど、やっぱり短距離のほうが好きかな。体育祭のリレーで活躍できる…なんて。
「それでさ、高上がな…」
「はぁ!?マジで?笑」
三周半を走り終えるとき、後ろから楽しそうに話す声が聞こえてきた。いつもだったら懐かしい声だなとか、どこかで聞いたことのある声だなとか、最初はぼんやりとしかわからなかったのが今は違った。
一瞬で琉嘉の声だとわかった。
琉嘉も短距離のメンバーなのに、元から長距離のメンバーの海斗と一緒のペースで走ってる…しかも喋りながら。そのまま私を一気に追い越していき、私の数メートル前を走っている。
「…やっぱりかっこいいな、好きだな」
後ろも前も近くに誰もいないことを確認した、久しぶりに“好き”という言葉を口に出した。
「忘れたくな…痛いっ…うっ、痛っ」
痛い、痛い、痛い。
走る足を止め、頭を抱えた。頭のどこら辺、側頭部、後頭部。違う頭の中だ。でもこの痛みの原因はなんなのかわからない。後ろから足音がする。まずい、ここじゃ妨害になる。急いでトラックから出て邪魔にならないところでしゃがみ込んだ。
何、何、どうしたんだろう。パニックに陥り、唸り声を上げた。熱はない、風邪もひいてない。吐き気もない。頭の中だけが痛い。頭を鈍器で殴られたようにズキズキと痛む。周期的に、速いテンポで。ヒビが入っていくように痛みに襲われる。
「優美っ!?優美っ!何、大丈夫?どこが痛い!?」
慌てた様子でこちらに近づいてくる足音。
一番最初に声をかけてほしかった人。
一番最初に駆けつけてきてほしかった人。
一番最初に声をかけてくれたのはやっぱり君だった。
「……琉嘉」
「海斗っ!誰でもいいから先生呼んできて。早く!」
ついさっきまで普通に、なんともなく走っていた人間がうずくまって動けなくなるほど苦しんでいるのを目の当たりにし、おどおどした様子で走って行く海斗の姿をぼやける視界の中見た。
「北村さん!?大丈夫?」「どうしたんですか?」と火事現場を見ているかのようにうじゃうじゃと湧いていく野次馬。人が集まりすぎてる。嫌な予感がする。
「優美、どこが痛い?どうしたの!?」
「…頭、の中が…痛いっ」
「気分は!?他に痛いところは!?」
「北村ー!大丈夫か?保健室行くか?」
いろんな人の声が聞こえてうるさい。それより私は早くこの人だかりをどうにかしたかった。必死に言葉にしようとしても、声が出なくて伝わらない。ちょうどタイミングよく監督が関係のない人は練習に戻れと指示してくれたおかげで、私の周りには先生を含む三人しかいなくなった。
………あれ?もう痛くない。
さっきまでの痛みが幻だったかのようにスゥーッと痛みが消えていった。私の苦しむ声がパタリと止み、辺りはシーンと静まり返る。私だけでなく、他の人も状況の整理が追いついていないようだった。
変だな…。こんなにパッタリ痛く無くなることある?でもどこが…違和感?みたいなのがある。痛みは冗談抜きで残ってないけれど、頭がぼんやりしてる気がする。
何かを忘れた、誰かに記憶を吸い取られたって言ったらわかりやすいかな。記憶の塊みないなのにポツンと穴が空いたって言うか…。何百個、何千個、もっとたくさんある引き出しの中の一つが空っぽになったみたいな感覚だ。
「北村、立てるか?一旦保健室に行ったほうが」
予想もしなかったアクシデントに監督、コーチが私の目をじっと見る。その後ろに両足の膝を地面に付け、つま先を立てて座っている人も心配そうに私の顔色をうかがっている。
「大丈夫です。なんともないのに保健室にはあまり行きたくないんです。あんなに痛かったのに一瞬で痛みが引いて自分でもびっくりしてますけど笑」
「……北村が保健室に行きたくないと言うなら仕方がない。でも一応、先生には伝えておく。あと、今日の練習はもう終わりでいい。体操だけして陰で休んでなさい」
自分でもこれは異常事態だとわかっているし、監督が保健室に行くことを勧める理由もわかる。でもこの間もお母さんに電話をして連れて帰ってもらったし、本当に大丈夫なので私は首を横に振った。
私の曇り一つない眼差しを見て監督は渋し首を縦に振ってくれた。
「……優美、大丈夫?歩けそう?」
後ろにいた男の人が私を気遣ってくれたのか肩を貸してくれた。さっきからずっと私を心配そうにしてたけどこの人は誰なんだろうと首を傾げた。
「あっ、うん。ありがとう…」
「ほんとうに大丈夫?無理せず保健室行ったほうが…」
「大丈夫…大丈夫、だよ」
確か…一番最初に気づいてくれた人はこの人だった気がする。光の加減で色の変化が見られない瞳はどこか寂しくて、悲しかった。でもその目をじっと見ることは不思議と飽きない。真っ暗、黒曜石、墨できれいに塗りつぶしたように黒い。
優しそうな人だなと思った。多分、初めて会う人だから先輩から後輩かわからなくて、敬語にしたほうがいいのか。迷った結果ぎこちない日本語になってしまった。
「向こうまで連れて行こうか?」
「私は大丈夫。一人で歩けるよ」
「何かあったらまたすぐに言いなさい。倉橋、北村が心配なのはわかるがあと少し頑張ってきなさい」
「…わかりました」
少し間があったあと、憂慮ない表情を浮かべたまま男の人は海斗のほうへ走って行った。
「…嘉、大丈夫か?めっちゃ顔色悪いぞ」
「なんともない。それより早く終わらせよ。疲れた」
海斗を心配させないようにか、悲しみの表情は一切見えなかった。演技なのか本当になんともないのか。
だんだんと離れていく後ろ姿。
「あの人の名前、なんだったっけ…?」
「どうかしたか?」
独り言のつもりで言っていたが、私の声が大きかったのかどうやら聞こえていたらしい。
「…なんでもないです」
そう言って、私はさっきの男の人を数秒眺めてから日陰のあるほうへと向かう。
サッサッと右手で土を払いのけ、淡いピンク色をしたベンチの上に座った。
青野高校陸上部と書かれたTシャツが似合っていた。
風に揺らされて靡く黒髪のセンターパート。
私よりも背が高くて、男性にしては筋肉の少ない細めの身体。
“優美”といかにも知り合いかのように呼ぶ声。優しくて、温かくて、だけど暗くて。
頭の中で何度も何度もリピートされる。
私を駆けつけたときの様子が目に浮かぶ。
さっきからどうしてもあの人のことが引っかかる。
私、本当にあの人と会ったのは初めてなのかなと変なことを考えた。脳内にあの人と会った記憶はない。優美と呼ばれたときは「なんでこの人私の名前知ってるんだろう」と心底驚いた。
先生を呼んでくれたり、肩を貸してくれたり、日陰まで連れて行ってくれようとしたり。私をずっと心配していた。ということはあの人は私のことを知っている?
じゃあどういうこと?あの人は私のことを知っているけれど、私はあの人のことを知らないのはどうして?
会ったこともないし、話したこともない。
でも。私の目、心、耳。脳以外の場所はあの人のことが懐かしいと感じてる。
そういえば、海斗ってあんな友達いたんだ。初めて見たな。そりゃそうか、今日初めて会ったんだし。でもあの海斗の明るすぎる性格とはあんまり釣り合ってなさそうだけどな。
おとなしいというか、大人っぽいというか、真面目という雰囲気があの人には漂っていた。
「海斗、あの人のことなんて呼んでたかな…」
頭を捻った。ゆるい犬の描かれたタオルに顔を伏せて考えた。あの男の人の名前がどうしても気になって、練習が終わってから聞きに行こうかと思ったけど、さっき海斗が言ってたから聞かずに自力で思い出したい。
「三文字…。ではなかったな、二文字ぐらいだった気がする」
男の子にでも女の子にでもつけれそうな名前。口にすると呼びやすそうな名前。
「最後、かって言ってたな…五十音全部当てはめてみたらしっくりくるのがあるかもしれない」
効率の悪いやり方だと理解していたがまだ練習は終わりそうになかったのでゆっくりあたはめていく。
「あか、いか、うか、えか、おか…なんか違うなぁ」
あ行に納得いくものはなかったのでか行、さ行と順番に口に出していく。
「やか、ゆか。は私の妹の名前じゃん笑…えーっと次はよか、らか、りか」
当てはめれる平仮名もあとわずかになってきた。なかなか納得のいくものが出てこないなと諦めかけていた。
肌をそっとなでるように微かで木々の葉をさらさらとそよぐ風が、立つように記憶のもやが晴れていく。
「る、か。…琉嘉だ」
また、忘れてた。ひどい頭痛に襲われて、琉嘉が助けに来てくれたけど頭痛が治ってから忘れてしまった…ということか。
私さっき敬語使わなくてよかった。敬語使ってたら琉嘉だけじゃなくて監督まで不思議に思ってただろうな。
「でも問題はそこじゃないんだよね…」
これで琉嘉、はっきりとわかっただろうな。恋愛音痴で鈍感なくせに、悩み事とかそうゆうのには勘が鋭いから…。
私が琉嘉のことを忘れてる、ということ。
私はずっと大丈夫だと嘘をついていたこと。
「言わなきゃ、いけないのかなぁ…」
もうこれ以上は隠し切れないよね。これ以上、琉嘉も私の“大丈夫”を信じてくれない。
「琉嘉なんて言ったら…」
それより、症状がひどくなっているような気がする。
いつもに比べて琉嘉のことを思い出すのに時間がかかった。さっきはたまたま海斗が名前を呼んでたから二文字で最後に“か”がつくのがわかって五十音順に当てはめていっただけで。
「もし海斗が名前を呼んでいなかったら…」
私はもっと時間がかかっていたかもしれない。
これは忘愛症候群の症状が進行しているから?悪化していっているから?でもなんで急に?それまでは特になんともなかったし、いきなり、突然にだ。
「あの死神、なんか言ってたかな」
でも最近はほとんど夢に出てきてないし、一番最近といっても二、三週間ぐらい前のこと。話した内容は症状の進行具合とか…あとそれから…。何も話していない。
なんのヒントもないじゃないか。
何、この病気は兆しとか症状が悪化する前に何も起こらないわけ?
——症状がひどくなる前に頭をハンマーで殴られたような頭痛に襲われるが何もなかったかのように急によくなる
これは死神に言われたことだ。なんで今……?
“頭をハンマーで殴られるような頭痛”
“何もなかったかのように急によくなる”
「これって…」
さっきの私の症状とぴったり当てはまった。
なんで忘れてたんだろう、なんでちゃんと聞いてなかったんだろう。もし、ちゃんと聞いてたら、多少なりとも防げたかもしれないかもしれない。誰にも見つからないところに隠れて、症状が治ったらなんてことできていたかもしれない。
でもそれより
「…怖い。怖いよ…」
だんだんと症状が悪化してきている自覚がある。それが怖くて怖くて仕方がない。もしこの頭痛に明日も襲われたとしたら、もっと…。
もういつ、琉嘉のことを忘れてもおかしくないかもしれない。
「…………っ」
必死にこらえていた最初の一粒が落ちていき、ボロボロと止まらない。声もなく、ただ幾筋もの雫が流れていく。溢れていくものを抑えきれない。練習が終わるまでに止まるかなと心配になった。私だけの、一人の空間にときおり微かな嗚咽だけが漏れる。ギュッと噛み締めた唇が痛い。
視界が不透明な光に満たされてゆく。その向こうに微かに見えた琉嘉の姿を見て私は一つ、考えた。
⭐︎
大分日が西に沈んできた。
“だんだんと近づいてくる悪夢に私は怯えている”
校舎の三階階、吹奏楽部が奏でる美しい音色も、体育館から聞こえるバスケ部のシューズと地面が擦れ合ってなるキュッキュッという軽快な音もパタリと聞こえなくなった。練習が終わり、疲れたという生徒たちのため息で溢れている。
「優美、大丈夫?」
横でシューズを磨いていた海斗が私のことを気にかけたのか手を止めた。ぐるっと辺りを一周見回してみたが琉嘉の姿はどこにもない。いつもなら一緒に話したりくつろいだらしてるが、トイレにでも行っているのだろうと自分勝手な解釈をした。
「もう大丈夫、なんともないよ。それよりさっきは心配かけてごめんね。海斗、いつになく焦ってたからちょっと面白かったけどありがとう」
「そっか、ならいいんだけど。それよりもあの後あいつがめちゃめちゃお前のこと心配してたぞ」
「………あいつって琉嘉のこと?」
「うん。それ以外に誰だと思った?もうずーっと大丈夫かな、本当は無理して嘘ついてるんじゃないかとか浮かない顔してあいつらしくなかったな」
「そうなんだ…」
ずっと心配してくれてたんだ。
心が針を刺されたようにチクリと痛んだ。この後のことを考えてしまって、やっぱり私は最低な人間だと改めて自覚した。
「どした?怖い顔して。なんか泣きそうだし」
「怖い顔なんかしてないし…」
「あっそう言えば、琉嘉のやつ。ずっと変なことばっかり言ってるんだよ」
「変な、こと?」
「そうそう変なこと」と海斗もどういう意味かさっぱりわからなくて困っている様子だった。琉嘉がずっと変なことを言っている?
「琉嘉こそ疲れて頭のネジ外れちゃったのかな笑?でも変なことってどんなこと?」
少し興味を持って聞いたことが、また私を絶望の谷へと突き落とすとは思ってもなかった。
「なんか、もしかしたらだけど優美が俺のことを忘れてるかもしれないとか。優美が最近変なんだとか…」
「……そうかな。きっと琉嘉の勘違いだよ。私が琉嘉のこと忘れるわけないじゃん」
「だよなぁ笑。あいつ、最近色々と忙しいらしいしな」
海斗は私が気のせいだと言ったからか納得した様子でシューズ磨きの手を再度動かし始めた。
やっぱり気づいてるじゃん。
忙しいから、疲れてるから、琉嘉の勘違い。全部全部違う。琉嘉の言ってることは正しい。海斗は気づいてないし、そもそも私と最近話してもいないから、私が今どんな状況にあるのかなんて知ったこっちゃない。
あの真面目で嘘をついたり笑いを狙ったりしないような琉嘉が「優美が俺を忘れてる」なんてこと言っても信じれないだろう。
「まぁ一応あとであいつが戻ってきたら大丈夫、心配すんなって言っとけ。そしたらあいつも安心するよ」
「そうだね」
素っ気なく返した返事はコーチの集合という呼びかけに掻き消されて消えていった。他の子たちのおしゃべりが中断され、みんな駆け足で監督のほうへと向かっていく。その中に紛れて、琉嘉の姿が見えたのが不思議で仕方がなかった。
「今日は暑い中よく頑張りました。もうみんな疲れているでしょうから私の話は以上です。監督お願いします」
「私も手短に終わらせます。まず一つ目、大会に向けて体調を崩さないように。二つ目、宿題をきちんとやる。最後、自己管理を怠るなよー。じゃあグラウンドに向けてあいさつ」
おとなしそうな見た目の割にハキハキとした声が私たちを取り巻く。生徒ひとりひとりの目を見ていき、ズレたメガネを人差し指でクイっと直した。体調を崩さないと自己管理をしっかりするは同じことを言っているような気がしたがだらも気にしている様子はなかった。
臙脂色の陸上トラックに「ありがとうございました」と二十人程度のメンバーの声が夕暮れ空の下に響く。数秒深々と礼をしてから、頭を上げ各自帰る準備をし始める。
「一人一個、塩分チャージを取りなさい。監督の奢りです。感謝を伝えてからいただくように」
あざーすっ!と海斗のちょっと軽い声にもっと感謝の気持ちを込めなさいと突っ込んだコーチに部員の笑いが溢れた。
先に貰いに行こうと思ったが人が多かったので帰る準備をしてから行こうと判断した。タオルと水筒、シューズをシューズケースに直して塩分チャージのもとに行く。
「「ありがとうございま…あっ先にいいよ」」
私と琉嘉の声が重なる。後ろでヒューヒューと茶化す海斗の声に私たちは赤面した。私たちが付き合っているというのを知っている後輩や先輩もキャーキャー興奮の悲鳴をあげている。
「一ついただきます」
「ありがとうございます」
「礼を言える素晴らしさ…海斗、お前もこの二人を見習ってほしいとこだ」
「いつかできるように精進しますっ!」
きちんと礼を伝えるのは当たり前だし、普通のことじゃないかなと私は苦笑いをすることしかできなかった。だって今はそれどころじゃなかったから。
「琉嘉、ちょっと話したいことがあるの」
「あっ、あぁ…ちょっと先に片付けだけしてくるからその間待てる?」
「うん。慌てなくて大丈夫だから、大したことないし」
ちょっと待っててと小走りで部室のほうに走っていった。今から私に何を言われるかも知らないで、よく最後まで優しくできるね。琉嘉ってやっぱり優しいんだ。
「何何〜?もしかしてデートのお誘い〜?」
「全然そんなのじゃないから…」
これは嘘じゃない。本当だ。デートとかお誘いとか甘い話をするわけじゃない。私の真剣さが伝わったのか海斗はちょっとだけ目を見開いた。
「私と琉嘉の会話、絶対盗み聞きしないでね。できれば他の子たちが行きそうになったら止めてほしい」
「えっあぁうん。わかった。聞かなかったらいいのね。俺は琉嘉と帰るからそれまで待っとくわ」
「うん。そうして」
海斗が単純でよかったと初めて思った。お願い事を「えぇ〜」とか「なんでぇ〜」とかごちゃごちゃうるさい、めんどくさい人間じゃなくてよかったと思った。
「ごめん、お待たせ。いいよ、どこで話したい?」
荷物を持って戻ってきた。どこで話したいと気遣ってくれる優しさにじんわりとした。
「なるべく人目のつかないところ…がいいかな。聞かれたくないんだ」
「じゃあプールの裏とか?あそこだった人いないよ」
「じゃあそこで話そ」
ちゃんと考えてくれたんだと申し訳ない気持ちになった。二人で並んでプールまで歩いていく。「ごゆっくりど〜ぞ〜」と海斗の呑気な声が耳に触った。
言いたくないなぁ、行きたくないなぁ。ものすっごい後ろめたい。私のメンタルも何もかもを削って、屈指の決断をしてまで言わなきゃいけないことなんて正直言いたくない。
「……さっきはありがとね。すごく、安心した」
「気にしないで。いつも通りの俺を演じてたけどほんとはめっちゃパニクってたんだよね」
打ち明けるのが恥ずかしそうに頭を掻いた。「そうなの?」と意外な発言に目を見開く。演じていたことに全然気づかなかった自分と琉嘉の冷静さに驚いた。
「だってあんなに苦しんだり頭抱えてまで痛む優美初めてみて…どうしたんだろうって怖かったけど」
「心配かけたよね…ごめん」
「謝ることじゃないよ。優美だってあんなこと起こるとかわかんなかったでしょ?仕方ないよ」
「うん、そうだね」
わかろうと思えばわかってたけど、付け加えそうになった口をつぐんだ。
プールは歩いてすぐの場所なので、ほんの数秒でついてしまった。会話を挟みながらだったからあっという間に感じたというのもあるかもしれない。
心臓がバクバクと波打つ。大太鼓を打つようにうるさい。耳がキーンとする。呼吸が速く、浅く、雑になっていく。深呼吸、深呼吸と心の中で自分を落ち着かせる。
目の前、すぐ目の前にいる。あとは言えばいいだけ。
言ったら“お終い”。言えばすぐ終わること。
なのに、一番伝えたい五文字が喉を締められたように出てこない。口が言うことを全く聞いてくれない。遠隔操作されて動くことを制御されているかのように。
また泣くの?まだ何も言ってない。泣くのは家に帰ってから。それまでは我慢するって決めたから。
「それで、言いたいことって…何?」
「………しい」
「何?聞こえない。はっきり言ってよ」
いいの?はっきり言って。私は…いいけど…傷つくかもしれないよ?
とは言えなかった。言えるわけがない。
もう一度、空気を吸って、覚悟して口を開けた。
「別れてほしい」
「は?」
いつか言わなきゃいけないときはくるとは思っていたけど、まさかあんなことがあった後に言わなきゃいけなくなるなんて、私も思ってなかったよ。
驚きを隠せない様子だった。と言うより、いきなり何言ってんだと顔を顰めた。
状況の把握が追いついていない。頭の中で回転していた歯車が動きを止めたように、琉嘉は瞬き一つさえしない。
当たり前か…笑。私が逆の立場でも琉嘉と同じ反応をする。
こんな人目につかないところに呼び出されて。
来る直前まで普通に話して。
何を言われるのかと思ったら別れようと言われて。
「待って、どういうこと。なんで急に?俺がなんか悪いことした?嫌なことしたなら何が嫌だったか言ってよ。じゃないと納得できない」
「………うん」
「うん、じゃないよ。ねぇ、理由言ってくれないと俺帰れないよ」
納得できないよね。そりゃそうだよね。
でも大丈夫。
琉嘉は私に悪いことはなんかしてないよ。
私を嫌な気分にさせたことなんて一回もないよ。
私を傷つけたから別れようって言ってるわけじゃないよ。
私は琉嘉のこと嫌いになってないから。私はこれからもずっと、多分琉嘉のことが好きだよ。
悪いのは私。理由も原因も結果も、全部私にある。私が悪いことしたんだ。琉嘉気づいてないだけで、今までたくさん嘘ついてきた。
だからこれ以上、琉嘉とは一緒にいられない。これ以上私と一緒にいれば、これ以上に琉嘉を、傷つけてしまうかもしれない。それだけは一番嫌なんだ。
だから、だから、もう
「…お別れね」
「優美の言ってること全っ然意味わかんない。何、俺のこと嫌いになった?気づいてないだけで無意識に優美のこと傷つけちゃった?それならそうって」
「違うよ。琉嘉は悪くないから、私が悪いから。理由は聞かないで。もうこれ以上、私に近づかないで、話しかけないでほしい」
「優美っ…」
私は走った。急いで部室に荷物を取りに。最後の言葉は言いたくなかった。“近づかないで”と“話しかけないで”は本当は言いたくなかった。でもこうでもしないと琉嘉は絶対私を心配して、居ても立っても居られなくなって、結局自分から話してしまう。そうはしたくない。
だって自分が決めた運命だから。あの奇病を告げられたからには、私はいつか琉嘉と別れなければいけないはずだったから、ねぇそうでしょ死神さんよ。果たさなきゃいけないことってきっとこれのことでしょ?
後ろから何度も私の名前を呼ぶ声が聞こえる。さっさと砂を蹴るような、私を追いかけてきてるんだなと思った。普段琉嘉の口から聞いたこともないチッと舌打ちしたような音が聞こえてきた。あぁ本当に怒ってるんだとわかる。
「おぉいどした?話終わった?てかあいつは?もしかして置いてきた?」
「ごめん、私先帰らないといけない。用事あるから琉嘉に言っといて」
「はぁ?」
乱暴に荷物を手に取って、私は急いで校門へと向かった。風に吹かれ落ちていく涙は微かな夕日に照らされてこの世で一番悲しい音色を立てて落ちていった。
第四章 カウントダウン
——別れてほしい
——は?納得できない
——うん
——うんじゃないよ。理由言ってくれないと俺帰れない
——…お別れね
——意味わかんない
——もうこれ以上、私に近づかないで、話しかけないで
何?この会話…。私知らないよ。別れてほしいって誰と?近づかないでとか、話しかけないでって言ってるけど誰に言ってるの?
彩葉?咲?違う。二人とはこんな話してない。そもそも別れてほしいって言ってるってことは私、誰かと付き合ってて…けんかしちゃって嫌になった…みたいなシチュエーションなのかな。
よく聞いたら相手の人の声、男の子だ。怒っているのか口調やトーンが怖い。本当は優しい人なのかな。本当はあんまりこんなに口悪く言いたくないと言うのがわかった。顔を見てないのにそう思った。多分私の勘だ。なんとなくでそう思っただけ。
でも私、好きな人も気になってる人もいないよ。
私のことが好きって言ってくれる人はいるけど、私は恋愛が得意じゃないし、もし仮に付き合ったとしても何したらいいとかわからない。結婚して同居するわけでもない。その後が気まずくなるのが嫌だから、申し訳ないけど「ありがとう。でもごめんなさい」って。
だから私に彼氏はいない。片想いもしていない。
——忘愛症候群
忘愛症候群?あぁ忘愛症候群ね。久しぶりに聞いたから忘れてたよ。私がかかってる病気の名前ね。
死神がいて、症状のことについても言われた。確か…
——“恋人のことだけ”を忘れてしまう“病気”。恋人とつくった思い出、もの、会話最終的には“恋人の存在”すら忘れてしまうこと。症状がひどくなる前に頭をハンマーで殴られたような頭痛に襲われるが何もなかったかのように急によくなる
ということは私は誰かと付き合ってる?でも誰と?
——優美
さっきと同じ人の声だ。でも明らかにこっちのほうが優しくて、温かい。優美と呼ぶその声、どこか懐かしさを感じた。誰だったっけ…忘れちゃいけない、私の大切な人。家族と同じぐらい想ってる人。
優しいんだ、笑顔が素敵なんだ。いつでも私を想ってくれてる。一緒にいて、話してて楽しい。
「琉嘉っ」
背中がびっしょりと濡れてる。怖い夢を見たときと同じぐらい。無意識に右手を心臓に当てた。
「…速い」
最悪の夢だ。目覚めが悪すぎる。夏休み初日、多分誰よりも最悪な夢を見たと思う。
「琉嘉……」
寝起きということもあるのか頭はぼんやりしているがかろうじて忘れてはいなかった。顔も名前も、普通にわかる。
夏休み一日目。今日から一ヶ月もの間は予定がない限り大半の時間をここで過ごすことになるのかと、小さなため息が漏れた。大きすぎず控えめなアラーム音と悪夢に叩き起こされる。まだ七時じゃないかとどうしてこんなに早くアラームが鳴ったか、スマホが壊れたんじゃないかと被害者面をしたが、よく見ると学校のときに使うものを間違えて押していた。
「もう少し寝たかったぁ〜」とまだ温かさが残っている枕に頭を突っ込んだ。ジタバタとやっても意味がない謎の行動に鳥がドン引きしたのか慌ただしく飛んでいく。
蝉が木に止まってミンミンと歌っている。それすらもうるさく耳に触ってしまう。静かな何も音のしない場所で目を瞑ってもう一度寝たい。なんでこと考えつつ、起き上がって顔を洗いにいく。
「今日も起きるの早いね。最近どうしちゃったの?しょっちゅう目が腫れてるし、寝不足?」
「かなぁ…」
目が腫れてるのは多分、夜寝てる間に泣いたから。
寝不足なのは悪い夢を見て熟睡できなかったから。
“言いたいこと”は数え切れないぐらいにあるがいつ言うかはちゃんと決めているのでとりあえずここは心のこもっていない笑いで乗り切った。
「ちょっと待ってて。今ご飯作るから」
「テレビつけてもいい?」
「うん。あっそれと、今日は私の仕事がお休みだから朝ごはん一緒に失礼しまーす」
すごいナイスタイミング。想定していたより早めに言えるかもしれないと小さくガッツポーズをした。
炊飯器を開けたのか、お米のいい匂いがする。シャケの甘くて、少し塩辛い匂いが鼻を燻る。
電子レンジのボタンを押す音、包丁でリズミカルに刻まれるキャベツの音。カチャカチャと食器を片付けたり取り出したりする音。
この音を聞くとなんだか落ち着いてくるが、少し寂しい気がするのでリモコンの電源をポチッと押した。
「次は夏のスペシャル特集!開催中のお祭りや、コスパ抜群!おすすめの旅行スポット、この時期食べたいグルメなどを私たちが詳しくお伝えしていきます!」
明るい声がスピーカーから私の耳に入る。淡々と流れていく映像の中に私住んでいるところのお祭りの映像が流れた。
「あっ、今の。近くのお祭りじゃないの?」
キッチンに立っていた母がそう言った。私と同じことを思っていたらしい。
「そうだよ。一瞬だったのによくわかったね。見てたの?」
「ちょっと、魚を焼いている間暇だったからたまたま見てたら流れてきただけよ」
随分前から魚を焼いているので焦げてないかなと心配が走る。料理上手な母だからそんな失敗はないのだろうけど。やっぱりちょっと焦げ臭い匂いがキッチンのほうから流れてくる。
「今年は行かないの?」
「行かないのってお祭りに?」
「いつも琉嘉くんと一緒に行ってるじゃない。楽しみ楽しみってはしゃいでるのに」
「あっ…あぁいや。今年はちょっと…琉嘉が忙しいみたいでさ。用事があるんだって。行きたかったんだけどね用事なら仕方ないじゃん?」
「あぁなるほどね。それなら仕方ないか」と納得した様子で簡単に片付けられてしまった。疑われることなく母は料理に手を戻した。
用事なんかない。琉嘉は忙しいなんて一言も言ってない。これは私が咄嗟についた嘘。後もう少し、後もう少ししたらお母さんに本当のことを伝えるから。
「ごめんね、お待たせ。ちょっと魚焦げちゃった」
そう言って母は、お茶碗に注がれた艶があって真っ白なお米と湯気がもくもくと立つ見て熱さがわかる味噌汁と小鉢にちょこんと漬物が三種類ぐらい。それとちょっと黒っぽくなった鮭。
「やっぱり笑。なんか焦げ臭いなぁって思ってたんだよね〜」
「ちょっとぉ!それならもう少し早く行ってよー!」
「ごめんごめん笑」
カタンッと優しく優しく置かれたお皿からいい匂いがする。さっきまではお腹すいてないから白ご飯少なめにしてなんてことを言おうと思ったが、鼻から入ってくる匂いのせいで一気にお腹が空いてきた。
「いただきまーす」
「召し上がれ〜。あっ、もし焦げてるところ嫌だったら食べなくてもいいからね」
「このぐらいなら全然大丈夫」
お箸で一口サイズに切った鮭と、白米を口の中に入れた。大丈夫と言ったもののやっぱりちょっと焦げた部分が苦かった。
「お父さんと優花は?まだ寝てるの?」
テレビの音だけだと寂しいし、二人だけでご飯を食べることはない。無言の食事は楽しくない。せっかくだから思って、会話の内容を探ってみた。
「お父さんならもう仕事行ったよ。優花はまだ寝てるのんじゃないかな。昨日部活の練習大変だったらしいよ」
「えっ!?お父さんもう仕事行ったの?早っ…起きたの全然気が付かなかった…」
「優美も疲れてるんだね」と朗らかで優しい笑みをする母に鼓動が揺れる。
スッーと深呼吸をした。ドクドクと暴れる心臓を落ち着かせるために“大丈夫、大丈夫”と何度も何度も言い聞かせた。緊張でどうにかなりそうだ。
テレビに夢中な母。まだ続いている夏の特集、ドンっと空に打ち上がる花火に目を奪われて、私の方を見向きもしなかった。ギュッと目を瞑る。
大丈夫、絶対言える。“あんなこと”、信じてもらえるかどうかわからないけど、信じてもらえるように、言わなくちゃいけない。嘘って笑われるかもしれないけど、それなら信じてもらえるまで。
最後にもう一度。たくさんの空気を吸って、口を開けた。
「……忘愛症候群」
「えっ?何?ごめん、テレビ見てて聞いてなかった。なんか言った?」
本当は一回で聞き取ってほしかった。だって私の性格はなんか言ったって言われたらなんでもないって言ってしまう性根のない人間だから。
でも今日は、もう違う。変わるって決めたんだ。
「私、忘愛症候群って言う病気なんだ」
「病気って笑、なんでわかるの?というか、何その病名みたいなの。変わった病名ね」
母はまったく信じていなかった。なんでわかるのってそりゃ病院に行ってもないのに病気なんだって言われても信じれるわけないか。
大丈夫。一つずつ、ゆっくり、説明していけばちゃんとわかってもらえるはず。私はそう信じて、もう一度口を開ける。
「…死神にそう言われたの」
「死神ってあの人の命を鎌みたいなやつで狩っていく…あの死神?そんなのがいるわけないじゃない笑」
あの人は鎌は持ってないし、命を別に狩ってるわけじゃない。母が想像している死神とは少しかけ離れているので違うよと首を横に振った。
「…今から言う、私の話。信じてもらえるかわからないけど、聞いてほしい」
「優美の言ってること、まったくわかんないけど…とりあえず何があったか言ってみなさい」
母は私の真剣さを感じ取ったのか、さっきまでの笑ったような軽い口調ではなくなっていた。口の中へと運ぶ作業をやめ、箸を茶碗の上に置いた。
ゆっくり深呼吸をする。言える、私なら言える。
今言わなきゃ、もうチャンスはない。お母さんも聞こうとしてくれている。信じてもらえる可能性がググッと上がったような気がする。
「一ヶ月ちょっと前かなぁ。えぇと、六月十四日だったかな。一回早退した日あったじゃん?」
「そんなことあったわね。優美が早退するの珍しいから覚えてるわ」
「その日の夜ね、真っ暗で何も見えなくて何も聞こえないところに死神がやってきたの。最初は夢かと思ったよ。私だって疑ったし、そんないきなり死神だって言われても信じれなかった」
「当たり前じゃない」と相槌を打ちながら聞いてくれている。
「でも話を進めていくうちに、自分の症状に当てはまってて…半信半疑が確信に変わった」
「自分の、症状?症状って?」
「琉嘉の名前とか、顔とか、パッと思い出せない。部活とかテスト勉強だとか色々忙しかったから疲れてるだろうって思ってたんだけど…」
「ということは、その死神?みたいなのが優美のところに来る前から変だったってわけだよね?」
「うん、そういうこと」
「それで…?」
「ずっと一ヶ月、隠してた。琉嘉にも咲にも彩葉にも、変だって言われたし、心配された。大丈夫って言ったら納得した顔はしてなかったけど信じてくれたよ?…そりゃ早く言わないといけないってわかってたんだけどさ。言うにも言えなくて。勇気が出なかったんだ」
「…もう少し早く言ってほしかったなぁってのがお母さんの本音。優美の話を信じれる信じれないとか、そんなことじゃなくて家族なんだから頼ってほしかったな」
「ごめんなさい…」
そりゃそうだよね。もう少し早く言ってほしいと言ったお母さんの気持ち、わかるよ。家族だから何かあったら頼っていいってわかってたよ。でも…
「どう言ったらいいかわからなかったし、怖かったの」
「…正直に言うとお母さんはまだ優美の話を半分信じれてないけど優美が嘘ついてるとは思ってないわ。嘘つくような子って思ってないもの」
「でも私、隠してたよ?何もないって隠してたよ…」
「でもこれからはそんなことしないでしょう?」
お母さんはまったく私に怒っていない。たまに声のトーンが低くなったけど、それでも私に対する怒りの表情はまったく見られなかった。心の中では激怒してるかもしれない。演技で誤魔化してるだけかもしれないけど。
どうしたことかなぁと、眉を寄せて笑う困ったような表情をする母に私は首を縦に振った。
「これから優美はどうしたい?」
スラスラとテンポよく、天気を伝えていくアナウンサーの声がいつもより一層反響して聞こえる。ちょっとだけ間をおいて、考えたように母は問いかけた。
「どうしたいって?」
「琉嘉くんにはまだ伝えてないんでしょう?あと咲ちゃんと彩葉ちゃんにも。今このこと知ってるのは私と優美とその死神って人だけ?」
「うん…」
「琉嘉くんには早めに伝えたほうがいいんじゃ」
「それは大丈夫。自分が一番わかってるから」
「それならいいんだけど」と目を伏せた。話してる途中だったのに遮ったのはまずかったかなと心の中で反省する。
「病院に行ってみたい」
「どうして?」
「病院に行ってわかることじゃないかもしれない。下手したらなんともないまま帰るだけかもしれない。だけどわかるかもしれない。一回、診てもらいたい」
「…わかったわ。ご飯食べ終わったら予約できるか聞いてみる。なるべく早めがいいわよね?」
「そうだったら嬉しい。お願い」
「お母さんに任せてなさい」と謎の自信とともに胸をポンポンと叩いた。ご飯が冷める前に食べよう、その前に言わないと。
「お母さん、ありがとう。ちょっとだけ気が楽になった気がする」
「優美が笑ってくれて嬉しいわ」
やっぱり言ってよかった。心の中にあった黒っぽいモヤモヤが少しだけ晴れたような気がする。
⭐︎
お母さんに忘愛症候群のことを伝えてから二日後。
予約が取れたらしく、今から病院に行く。病院に行くの、なんだかんだで三年ぶりぐらいかな。ちょっと緊張してきた。どのくらい時間がかかるかわからない。予約の時間通りに行ってもすぐ呼ばれないことだってあるらしい。とりあえずカバンの中に充電を満タンにしたスマホとイヤホン。その他ハンカチなど使うかわからないが入れておいた。
あの日の夜、お父さんと優花にも一応伝えた。お父さんにはあまり関係なかったかもしれないけど家族なんだし言っておこうよと母が言ったので。優花はあまり理解していなかった。ずっと最後の最後まで「どう言うこと?言ってる意味がわかんない。死神とかいるわけないじゃん」の繰り返しで話にならなかった。
「そろそろ行くよー」
一階から大声で母に呼ばれた。「わかったー」と家のどこにいても聞こえるような返事をして、カバンを持って日の光が入らないようにブラインドを閉めてから部屋から出ていった。
「お姉ちゃんどこ行くの?」
階段を降りようとした時、隣の部屋にいた優花がドアからひょこっと顔を出した。ヘッドホンを首にかけて、コントローラーを手に持っている。勉強もしないで、さてはゲームをしていたな。
「まずはおはようでしょー」
「えぇ〜。もおぉ…おはよっ」
最近ちょっと反抗期気味の妹だが、姉からするとそれもそれで可愛いなと思う。
「今からちょっと病院行ってくるけど、優花にお留守番できるかなぁ?笑」
「できるしっ!赤ちゃんじゃないんだから。もう中学二年生だよ?ゲームで忙しいから行ってらっしゃいっ」
ちょっとだけおもしろがってからかったら、この有様。扉をバタンッと振動するぐらい思いっきり閉められた。でもちゃんといってらっしゃいは言うんだなと微笑ましくなった。
「ちょっと優美ー?まだー?」
「今行くー!」と階段をダッシュで駆け降りると外からすでに車のエンジン音が聞こえる。
「ごめんごめん。優花とちょっと話してて」
両手をパチンと合わせて軽く頭を下げると「やっぱりちょっと早めに出るっていっててよかった〜」と私の行動を見越していたように母はそう言った。
大人ってやっぱりよく考えてるんだな、すごいなと改めて感心する。
「病院終わって時間ありそうだったら優美の好きなカフェでケーキ食べよっか」
「えっ!?いいの?」
カフェとケーキという言葉に反応して、誕生日プレゼントを買ってもらう三歳児のように目をキラキラと光らせた。病院が早く終わりますように、早く呼ばれますようにと心の中で念仏のように唱える。目を瞑って指と指を交差して願い事のポーズをする。そんな私をみて母はクスクスと優しい微笑みをかけた。
ケーキが楽しみだな。ショートケーキがいいなぁ…でもなんか甘々なやつがいいからチョコケーキとかもいいなぁとまだ行けるか行かないかもわからないのに、テンションが上がってきた。
そうこうしているうちにあっという間に(意外と家から高かっただけだと思うけど)病院の駐車場に車が停まった。エンジンを切った瞬間、エアコンから出るひんやりとした涼しい風がぴたりと止み一気に車内が蒸し暑くなる。まだ切って十秒も経っていないというのにもう汗が滲み出てきた。私が汗っかきなのかと思ったが隣で保険証を探す母も「暑い暑い」と騒いでいた。
車から降りて広い駐車場を見てみる限り車の数は少ないように見えた。どうか早く終わりますようにともう一度願う。
「保険証持って…よし、行こっか」
ピピっと車に鍵がかかったことを確認して前を行く母の後ろをついて行く。
センサーが私たちを感知して大きなガラスの自動ドアが開いた。
「保険証出してくるからそこらへんで座って待ってて」
「うん」
保険証と診察券を手に持った母が受付と書かれた方へと歩いて行った。
これから多くなるのか、この時間帯はいつも少ないのかわからなかったが患者さんが少ないので席はガラガラでどこに座ろうか迷った。とりあえずテレビの見える長椅子にちょこんと一人で座る。
……病院ってこんなに静かだったっけ、と疑ってしまうほどにここは静かだ。自分の心臓の音がいつも以上に大きく聞こえる。周りの音もいつも以上に大きく耳に入ってくる。
看護師さんが受付やお会計口で患者さん応対している微かな声も、レジスターをカタカタ打っている音も、カルテを取り出したりする音も響いて聞こえた。
多分会計待ちをしているであろう人と普通に診察待ちの人が指に収まる程度いて、時々カラカラと点滴スタンドを持ってうろうろしてる患者さんが何人かだけで、なんだか寂しく感じる。
「水飲んでくればよかった…自販機とかないかな」
自販機、自販機…と探していると奥のほうにカフェ?食堂?みたいなのとか売店が見えた。病院のなかってこんなのあるんだとちょっとだけ特別感を感じた。
「お待たせ〜。優美にいいお知らせ。多分すぐ呼ばれるって。よかったね」
いいお知らせがいいお知らせすぎる。嬉しさを隠しきれない。病院の中なので配慮してひかえめによっしゃとガッツポーズをした。
「お母さん、ちょっと喉乾いちゃった。水飲みたいな」
「水?それならそこ、受付の横にウォーターサーバーがあったよ」
指差したほうを見ると、はっきりとは見えなかったがウォーターサーバーらしき縦に細長い長方形が見えた。病院ってこんなものも置いてあるんだとささやかな驚きに包まれる。
名前を呼ばれる前にと少しだけ速足で向かう。本当にウォーターサーバーだ…。お水が無料で飲めるってことじゃん。患者さんからしたら私みたいに急に喉が渇く人もいると思うから助かるだろうなと病院の設備の凄さに
胸を打たれる。
紙コップを一つとって青色のラベルが貼られたレバーを下向きに押した。全部飲めなかったときに残すのは失礼なので半分ぐらい入れてからレバーから手を離し口に入れた。冷たい水が口の中に広がる。ごくんと飲み込むと体から暑さが一気に吹き飛んでいった。
「生き返ったぁ〜」
二口で飲み干し、紙コップを軽く潰してからゴミ箱に捨てた。まだ呼ばれてませんようにと思っていた矢先、遠くで母が「早く早く」と言わんばかりに急かすように手を私に向けて仰いでいた。自分の名前が呼ばれたのだと少し急足になる。
「こんにちはー。どうぞ入ってください。よければお母さんもそこの椅子に座ってください」
自分の背よりも大きな扉の前に立ち、スライド式のドアを開けると真っ白な白衣を着た女性が背もたれのある椅子に腰掛けて座っていた。椅子はいかにも高そうなお値段がしそうで、女性はパソコンと私のカルテであろうものと向き合っていた。
「今日はどうされましたか?」
そうだ、ここは病院だ。忘れていた。てっきり「今日は暑いですねぇ」とか、なんか雑談をしてから本題に入ると思っていた。入ってすぐ「どうされましたか」はちょっと心の準備というものが…。
えぇとなんて言って始めたらいいのかな…。
私が口を開かないのに対しお医者さんは「どうされました?」と首を傾げている。
「優美、優美」
なんと言えばいいか困っている私を見かねたのか後ろから母が小さな声で私の名前を呼んだ。
「お母さんに伝えてくれたときみたいに言えばお医者さんもわかってくれるよ」
アドバイスはいかにも簡単なことだった。でも、死神のことは言わないほうがいいよね。絶対お医者さんだって混乱するだろうし、「夢に影響されたバカな子」って思われそうだ。ありがとうと一言言ってから再び前を向いた。
「私、付き合っている人がいるんですけど…一ヶ月ぐらい前からその人のことがわからなくなってて」
「わからなくなってる?」
「はい。最初は名前がパッと出てこなかったり、誰のことかわからなくなったり。でもすぐに思い出せたんですけど、つい最近急に変な頭痛に襲われて…その後からは前よりも思い出すのに時間が掛かるようになってしまって。家族とか他の友達はわかるんですけど、その恋人だけが忘れてしまっているというか…」
わからなくなっていると言ったときは「何言ってるんだ」という顔をしていたお医者さんは、私が忘れていると言った瞬間顔色が一変した。もしかしたらと勘付いたのか「少々お待ちください」と席を外してどこかに行ってしまった。
「優美、病名はわかってるんでしょう?なんで言わなかったの?」
先生が席を外してすぐ、母が私に問いかけた。
「うーん…。なんとなく?」
「何それ。わかってるんなら言ったほうが…」
「言ったときに誰に言われたのって聞かれたら、死神の話しないといけないじゃん。お母さんには言えるけど、知らない人に言うのは恥ずかしいかな…」
「うーん…」とあまり納得のいってない様子の母。奥のほうから走っているような音がする。「お待たせしました」と手に一枚の紙とペンを持って先生が戻ってきた。
「もしかしてかもしれない。私も絶対とは言い切れないけど北村さん、忘愛症候群の可能性が高いですね。ちょっと当てはまるのにチェックしてみて」
そう言われていくつかの項目が書かれたシートとペンを渡された。
⑴好きな人(恋人)の名前がパッと出てこない
⑵好きな人(恋人)の顔がパッと出てこない
⑶好きな人(恋人)を見て懐かしい人と思う
など、他にもあった。最初のほうは今の自分の症状と全く同じものばかり。ちゃっちゃとやり進めていき、最終的にはほとんどにマークがついていた。
「今は恋人さんのこと忘れてない?」
「はい。ここ三日は調子がいいのかわかんないんですけどわかってて…これも何かの悪い兆しなんですかね…」
「それはわからないわ…」
「医者なのにごめんなさいね」と先生が申し訳なさそうに頭を下げた。全然謝ることじゃないのに。医療だってわからないことはまだたくさんある。全部が全部完治できるわけじゃない。わからないのは仕方がない。わからないんだから。だからお医者さんは悪くないですって言いたかったけど私の口は開かなかった。
「…忘愛症候群ですね。チェック表にこんなに丸がついた…。百パーセントと言ってもいいでしょう」
改めて私がマークした表を見て先生が言った。後ろを見てみると私の言ったことは本当だったんだと確信して残念そうにする母の姿に私はなんとも声をかけれなかった。
「この病気は奇病です。インフルエンザとかみたいにどんな人でもなるような病気じゃありません。かといってどんな人がなりやすいのか、治療法や治療薬、どのくらいの速さで症状が進行するのかなど。ありとあらゆることが未知で……私たちがどれだけ手を尽くしても治すことはできない。それにまだ発症例が少ないこともあってどうすることもできません。感染症ではないのでご家族やお友達移ることはないのでそこは心配なさらずに」
発症例はまだ少ない奇病。
私は違う意味で選ばれし者。
「症状は先ほど北村さんが言っていたように恋人のことだけを忘れてしまう。恋人とつくった思い出や恋人とつくったもの、恋人と話したこと。最終的には恋人の存在すら忘れてしまう病気です」
知ってる。わかってる。全くおんなじことを死神も言ってた。病院に行かなくたってもうすでにわかっていたこと。
「お付き合いされている方には伝えていますか?」
「……実はまだ、伝えていなくて」
先生は目を丸くした。「マジで?」と驚きを隠せていない。そりゃそうだ、もうとっくに一ヶ月も経っているというのに。
別れて、何も伝えていないんだから。
「お薬についても何も処方することができないのですが…すみません。医者だというのに申し訳ないです」
「そんな、先生は全然お気になさらず」
後ろから母がカバーした。本当は私が言わなくちゃいけないのに。
「北村さんは今どんな気持ち?」
突然の質問に戸惑った。今の私の気持ち…忘愛症候群を告げられて早くも一ヶ月が経ったけど……ずっと変わってない。私の気持ち。
「……怖いです。いつ好きな人のことを忘れるかわからないし、忘れた後のことが心配です」
「なるべく早めに伝えてあげて」
「えっ?」
先生は優しく私に微笑んだ。
「北村さんの怖いって気持ちはわかる。私がもし北村さんだったら、彼氏にどう伝えていいかパニックになって結局伝えれないまま終わってしまう。第三者だから言えるのこと。彼氏さんはきっとあなたのことを心配してると思う。だから早めに伝えてあげてほしい。きっと大丈夫だから、ね?」
先生の言葉。すごく優しかった。すごく真剣さが伝わった。声には出なかったけど私はこくんと首を縦に振った。
「今日はありがとうございました」
「いえいえ、あまり力になれず申し訳ございませんでした。お薬の処方はないので会計が終わったら帰ってもらって大丈夫です」
診察室から出る前にもう一度「ありがとうございました」と会釈してから扉を閉じた。
——なるべく早めに伝えてあげて
先生の言葉が頭の中で何度も何度もリピートされる。
先生には言わなかったけど、私琉嘉とお別れしちゃったんだよね。だから伝えるとか伝えないとか…今さらなんじゃと思う。もちろん私から勝手に別れようって言った。琉嘉は納得してなかった。そりゃそうか理由なしで勝手に振られたんだもん。
「…美?優美っ!」
ハッと我に帰った。全然母が呼んでいたのに気づかなかった。
「何何!?ごめん、ちょっと考え事してた…」
「お会計済ましてくるから待っててね」
「あぁうん。ここ座っておくね」
五百円玉を一つ財布から取り出してそのまま会計と書かれた看板の下に行った。看護師さんに何か言われたのか軽く会釈したように見えて、少し話したかと思えば手を振って戻ってきた。
「お母さん、さっきの人知り合い?」
「さっきの人?あぁあの看護師さんのことね。琉嘉くんのお母さんよ。ここで働いてるのね。驚いちゃった」
琉嘉の、お母さん……。そう言えば琉嘉言ってたな。お父さんもお母さんも医療に関する仕事してるんだって。
「……何か話してたように見えたけど」
「……」
「…何話してたの?なんでそんな暗い顔してるの?」
「…車で話しましょう」
母の雰囲気からしてこれは良いことを話すわけじゃなさそうだ。いつもニコニコと穏やかな母の様子が変だ。琉嘉のお母さんと話してきてから、怖い。
他の患者さんの迷惑にならないところでということでとりあえず病院を出た。
外は暑い。曇っているのに日が直接肌に刺すように痛い。
「琉嘉くんと別れたんだってね」
「……うん」
車に戻って一番最初に母が言った。私は全く嘘をつくつもりはないので頷いた。エンジンがかかって車が発進する。気まずい沈黙が私たちを取り巻く。
「琉嘉くん、すごく心配してるんだって」
「……そう、なんだ」
「別れたのって病気のことが原因?琉嘉くんにはちゃんと言ったの?言ってないんでしょう?琉嘉くん優しいし、幼馴染で恋人同士ならなおさらちゃんと説明すればわかってくれるはずよ。それなのにどうして?なんで別れようって言ったの?話す機会は沢山あったでしょうになんで言わなかったの?」
なんで、なんで、どうして。
私に話す隙を与えずに母は質問をした。母が何を言ったのか、全く頭に入ってこなかった。ただ、なんで、どうしてと疑問詞だけが頭り残って。
そんなの、そんなの……
「……今さらわかんないよっ」
「……わかんないって、ただ言えばいいだけじゃない。何をそんなに怖がってるの。こどもじゃあるまいし」
母は私の回答に呆れたのかやれやれ目を瞑って首を横に振った。それを見て私はどこかわかんないけど固く結ばれた糸がブツリと切れた音がした。水を沸騰させたときのようにボコボコ、グツグツとお腹や頭が熱くなっていく。グッと拳を握る。握った拳が痛い。
あぁ…お母さんに対して怒ってる。
理由はすぐに見つかった。
「そんなね、病院の先生にも怖いって言ってたけどあなたもう高校二年生。こんなことで怖がってるようじゃ」
「……こんなことって」
「何?聞こえ」
「お母さんにとってはちっぽけなことかもしれないけど、私からしたらこれはこんなことで済まされるようなことじゃないの!」
声をあげる私に母は肩を揺らした。ギュッと目を伏せた後、ゆっくりと目を開けて私を数秒見つめる。青信号に変わったのに気づいておらず、私が声をかける前に後ろの車がクラクションを鳴らした。
「優美…?何?怒ってるの?」
私が普段お母さんに反抗することがないからか、その声は怯えているように震えていた。そんな母に躊躇いもなく私は言葉を続ける。
「怒ってる。お母さんが言ったこと、嫌な気分になった。ただ言えばいいだけ?怖がるな?……そんなの怖いに決まってるじゃん。忘れるんだよ?大切な人のこと。いつ忘れるかわからない。知らない間に迫ってくるタイムリミット、お母さんは怖くないの?」
「……」
「私は怖い。だって、大好きな琉嘉のこと忘れるんだから…。こどもじゃあるまいしって言ったけど、揚げ足取るようなことかもしれないけど私もまだ一応こどもだよ?」
母は私のいうことに反論せず、肯定もせず何も言わずに黙り込んだ。いつもの見慣れた道。もうすぐ家に着く。最後に私は母に向けてこう吐いた。
「大袈裟かもしれないけどね、琉嘉のこと忘れるのは死ぬのと同じぐらい怖いから」
⭐︎
真っ暗で何も見えない。今日はいつも以上に早く夢の中にいると理解した。母に忘愛症候群のことを告げてから明日で三週間が経つ。二学期の始業式も気づけばあともう少しに迫っている。
母とケンカをした。私が一方的に思いをぶつけてしまった。我が子だけど他人事と思っているのか、忘愛症候群の怖さを笑われたのにイラっときてしまった。お母さんにはわからないかもしれないけど、あんなふうに思われてしまったのはちょっと悲しかったし、言われたときはものすごく傷ついた。
お母さんも私に悪いと思ったのかパッとしない表情。おはようとかおやすみとか日常会話はするものの、一緒にご飯を食べたりテレビを見て一緒に笑ったり。私は普通にしているつもりだけど、お母さんは避けているみたい。私も言い方、もっとちゃんと考えるべきだったな。
「…遅いなぁ」
誰もいない空間にポタリと吐いた私の声は響くことも誰に届くこともなく消えていく。死神はどこにいるだ。この中にいるときは大抵向こうが何か用があるときだ。それなにの出てこない。何をしてんだか、忙しいのかな。死神って案外忙しいのかな。
ここは暗いだけであって動くことに支障はない。立つこともできるし、歩くこともできるがこんな暗闇をむやみやたらに歩くのはやめておこうとその場にちょこんと座り込んで死神現れるのを待つことにした。
こんな真っ暗闇で「おいっ」ていきなり出てこられたらびっくりして腰が抜けるだけで済むか。
ここは本当になにもない。どこからも光が漏れてない。でも見える、私の目の前や手や足。まったく、ここはいつ来てもわけのわからない場所だ。
音も聞こえない、まさに無音。私の部屋のクーラーが働いている音、近くの草むらや公園から聞こえる虫の合奏、時計の針が一秒刻みにチッチッと進む音も何も聞こえない。
「今日は俺のほうが早かったな」
ぱっと声のするほうを向いてみると暗闇でなにも見えないはずなのに相変わらずぶっかぶかの服を着た死神が立っていた。腕を組ん私のほうに歩いてくる。
俺のほうが早かったって…
「いや、私のほうが早かったし。ていうか競うことでもないでしょ、しょーもないな…」
「あっちのほうに隠れてた。お前がいつ俺のことを呼ぶか、俺が来るまで何をするか試してたんだ」
「ふーん…興味な」
初対面では敬語を使ったほうがいいのかと思っていたが、死神だし上から目線なのが結構ウザかったのでタメであまり得意ではない人と話しているような口調ぶりで話すのが気づいたら当たり前になっていた。
はぁとため息をつく。一ヶ月ちょっとの夏休みがもう終わる。長い長い二学期が始まってしまう。また学校生活が始まる。生徒は「よっしゃ!」と小学校中学年ぐらいのいい反応や時折ガッツポーズをしている男子の姿が思い返される。つい最近のことなのに懐かしく感じた。
海や川、河川、プールに行く人。
友達と遊ぶ約束をした人。
誰かとお祭りに行ったり、家族と旅行に行く人。
部活の大会に遠くまで合宿や遠征に行く人。
花火を見たり、夏の醍醐味であるバーベキューをしたり。新しい何かを発見したり。
みんな思い思いの過ごし方をし、思い出を作る。
私は今年旅行には行かなかった、というより行けなかった。楽しみにしていた彩葉たちとのお泊まり会も二人の予定で中止になった。バーベキューは去年蚊に刺されまくって痒くて腫れて病院に行く羽目にあったから今年はやりたくないと拒んだ。川や海は死亡事故などをニュースで聞いたら怖くていく気が失せた。バスケ部やバレー部は遠征があるが陸上にはない。今は監督とコーチと顧問の先生の都合であるはずの部活が休み。
私の夏休みは結局何もしないまま終わりそうだ。ずっと家でぼーっとスマホを触るか勉強するか、学校の自習室に行くかの三択。
琉嘉と一緒に花火をしたかった。浴衣を着て、お祭りに行きたかった。ホラー映画を見たかった。どこか一緒にテーマパークに行きたかった。
でもお祭りはとっくに終わった。祭りが終わったら浴衣は着れない。一緒に花火をしたらテーマパークに行ったり、ホラー映画を見たりできるような状況じゃない。
琉嘉とはあの後、会話ひとつすら交わしていない。すれ違ってもお互いスルー。目があってもすぐに逸らす。お互いの口からお互いの名前が出てくることはほとんどなくなった。そのまま時間だけがすぎて、夏休みに入った。夏休み中の連絡もゼロ。
自分が悪い。あんな酷いことをしたから当然の報いだと言うことはわかってても。
あぁ、とうとう呆れられた、嫌われたなと。
彩葉と咲が心配していた。ケンカでもしたのか、何かトラブルがあったのか。「別になにもないよ」と言っても信じてくれなくなった。二人が直接琉嘉に聞き行ったが返ってきた言葉は“なんともない”でそのままその話は終わった。
他の生徒たちの間でも、別れた説が浮上した。私は…別に全然気にしていなかったし、聞かれてもうんともすんとも思わなかった…と思う。余計なことお世話だと思ったから。
でも時々、何をしているんだろうと考えるときがある。その時点でまだ好きなんだなぁと思う。そもそも嫌いになって(別れたわけじゃ)ないし。
部活中も気になって見る、教室の前を通るときも探してしまう。ラインとかインスタのDMだって頻繁にチェックする。通り過ぎた後に振り返ってしまう。
未練たらたらが丸わかりの自分に笑いが出る。
欲望、欲望、欲望。欲望に満ち溢れているけど。
自嘲した。自分が情けなさすぎて、自分勝手すぎて。
そんなこと、今更叶うわけないのになに言ってんだろうと、自問自答した。
私が全部、壊したんだもん。
あの日、あんな発言をしたのはどこのどいつだ。
自分でしょ?どう?違う?
自ら愛を放棄し、自ら捨てたことを悔やむ。
私って、私と言う人間って
「…どんだけ馬鹿で滑稽なんだろう」
「よくわかってるじゃないか笑」
「……余計なお世話だし」
「…あのとき、なんでおまえはあんなことを言った?」
フードで顔は見えないが睨まれているような、脅されているやつな目つきで見られているような気がした。低い声のトーンが鼓動を揺らす。ピリついた空気に私は嫌になった。
またこの質問。もうこの質問五回、六回と言わずに答えたよと呆れて言いそうになった。いい加減しつこい、めんどくさい。なんでって、ずっと言ってるじゃん。
「琉嘉をこれ以上傷つけたくないからって、言ってんじゃん。何回も言わせないで。いい加減にして、もう何回言ったらわかってくれるの?」
「……」
「私はね最低な人間なの、クズな女。わかる?資料に書いてない?琉嘉が気づいてないところで沢山嘘をついて騙した。大丈夫だって嘘を隠してきた。家族以外の誰にだってこのことを話してない。なんで話さないかわかる?信じてもらえないからって言うのもあるけど、余計な心配とか迷惑とかかけたくないからよ。死神には私の気持ちなんかわかんないかもしれないけどね」
開いた口が止まらない。死神は何も言わずにただ俯いている。私に何か反論するための言葉を考えているのだろうと無視して私は続けた。
「じゃあ仮に、あなたがものすごく愛していた人が病気にかかっていました。でもその人は大丈夫大丈夫って嘘をついて隠して、最後の最後で秘密を明かして、自分を騙していたらどう思う?どんな気持ちになる?嫌でしょ、普通。騙されてたんだ、嘘つかれてたんだって怒るでしょ。嫌いになるでしょ。私はそれが一番嫌なの、琉嘉には嫌われたくないの。一番大好きで、この世でたった一人の恋した人に嫌われたときの気持ち、想像してみなよ。それくらい死神もわかるでしょ。私はそれが怖くて怖くて仕方ない。…だから、こうやって別」
「おまえバカだな」
たった七文字の言葉に私の口はぴたりと止まった。俯いて聞いてないって半信半疑で。そうしたらこの有様。
「…今バカって」
「あぁ、何度でも言ってやる。おまえはバカだ。笑えるくらいにな。ほんと、バカだな笑…こんな人間は見たことがない。バカ極まりない笑」
こいつ、急に何を言い出すと思ったら、バカバカバカバカ…。私をバカにしている。ちょいちょいバカにしたような笑いに不満を覚えた。
「じゃあおまえに聞くけどな、その琉嘉というやつにこのことを伝えてみろ。本当におまえのことを嫌いになるかどうか。騙されたと思うか、嫌な気分なるか。傷つくかどうか。おまえ、聞いてもないくせに自分勝手な解釈にも程があるだろ。おまえはこの前からあいつを傷つけたくないからとしか言ってないが、それはあくまでおまえの自分勝手な予想、仮定に過ぎないことを理解していない。聞いてもないのに勝手に避けたりなんだり…見てるだけでイライラする。結局あいつを傷つけないようにと気遣ってなのか知らんが一番泣いて喚いているのはおまえだぞ?それにおまえは気づいていない。自分勝手な行動、相手に聞いてすらいないのにおまえだけ赤ん坊のようにギャーギャーピーピー泣いて。惨めな人間だな」
今まで私に思っていたことを全て吐いてスッキリしたの死神はそっぽを向いた。
唖然とした。「えっ?」と驚きのあまり声が裏返る。私が泣いているときは黙ってそばにいてくれた、温厚な人なのかなと思っていた自分がバカだった。やっぱり死神の言ってることは全て正しかった。
私はバカで、惨めで自分勝手だ。
言葉を失って、言い換えそうにも言い返せなかった。口を紡ぎ俯くことしかできない。反論しようと思っても反論のしようがない。全部死神の言う通りだから。
暗闇の中、わたしたちの間に沈黙が走る。
何から言えばいい?死神はもう私に言いたいことはないの?もうおしまい?
「…おい、おまえは結局何がしたかった?何を一番恐れてる?よく考えてみろ」
いつもの死神の声に戻った。一つの質問に私は頭を抱える。すぐに出せるはずの答えが出てこない。
……私結局何がしたかったんだろう。琉嘉を傷つけたくないってずっとこいつに言ってきたけど、多分違う。琉嘉を傷つけたくなかったんじゃなくて、自分だ。どんどんらかのことを忘れていく自分が嫌になって、無意識のうちに自暴自棄みたいになっただけ。
別れたくなんかなかった。離れたくなかった。会いたい、話したい。あの後ずっと、私は後悔して自分を恨んだ。私はいつも判断を間違える。間違えた道を突き進んで結局自分が一番傷ついて終わり。
何が一番怖いんだろう。
琉嘉を忘れること?
琉嘉に嫌われること?
琉嘉に大丈夫?って疑われること?
琉嘉を忘れた後のこと?
琉嘉と別れた説を友達の間で流されること?
違う、違う。そんなのじゃない。
琉嘉の笑顔が好き。琉嘉と話すのが好き。琉嘉と部活で一緒に走ることが好き。琉嘉と一緒に学校に行ったり帰ったりするのが好き。
一緒にいれなくなることだ。
嫌われると一緒に入れなくなる。結局は嫌われることなんだろうけど、それは違う。嫌われたなら仕方がない。
ただ、これからも、私が琉嘉を忘れても。
ずっと琉嘉には私を好きでいてほしいだけなんだ。
ずっとわからなかった答え。心にかかっていた、もやもや。自分が恐れていたもの。誤解。
それが今、全てわかった気がする。キツく、硬く解けないように結ばれた縄が、少しずつ緩んでスルッと解けた。モヤが風に飛ばされたように消えていく。
大きな誤解をしていた。私は琉嘉に何も聞いていない。忘愛症候群のことを伝えて琉嘉が傷つくか、私のことを嫌いになるか、嘘をついていたことを騙されたと思うか。そんなの本人に聞いてみないとわからないことなのに。聞こうなんて考えてもないのに自分勝手な思い込みだけで行動した。
勝手に嫌われるのが嫌だからって琉嘉のこと避けて、突き放した。
琉嘉を傷つけないようにって、自分が一番泣いて悲しくて後悔して…なのに大丈夫って強気になって。
「私、琉嘉に酷いことしちゃった…」
「結局おまえは、これから何をしたい?あいつに何を伝えたい」
私はこれから、琉嘉に何をしたい?何を伝えたい?
そんなのこうに決まってる。
「自分勝手なことばっかりして、大丈夫って嘘ついてごめんなさいって、面と向かって謝りたい」
「…それで、何が伝えたい」
「このことを伝えて。私が忘愛症候群だってこと、琉嘉をいつか忘れてしまうってことを理解してもらって」
「…で?」
「…自分勝手なことするし、全然ダメな私だけど、これからも好きでいてほしいって伝えたいっ…」
気づけば私の目から、大粒の涙が溢れていた。ようやく言えた。家族にすら言えなかったことが、本音が言えた。私が本当にしたかったこと。
死神、あんたのことは嫌いだよ。最初会ったとき、早く起きろバカ女って言ったのは相当腹が立ったし、ずっと長らく生きているからって上から目線だし。私がないたら何も言わずにそっとしといてくれるから案外優しくて穏やかな人って思ったら、全然そんな人じゃなかったし。急に声上げて怒る短気者、すぐ睨む。
でもこうやって私の間違いを気づかせてくれる。
言い方はイラっとするけど私の悪いところを指摘してくれる。
自分が本当にしたいことの答えを教えてくれた。
「…ありがとう」
「礼などいらん」
私のありがとうをいらないとか言ってるくせにまたそっぽ向いた。見えないはずの顔や耳がほんのり赤くなっているような気がする。
「ねぇもしかして照れてる?感謝されるのに慣れてないとか?」
「黙れ、照れてない。いろんなやつに感謝されっぱなしでうんざりしただけだ。変な勘違いするなアホ」
……こりゃ照れてるわ笑。黙れとかアホとかちょっと口が悪くなったときは大概恥ずかしいときか照れてるとき。もしかしてこの人ツンデレ?死神のくせに可愛いとこあるじゃん。
「ふふっ。おっかし笑」
「何笑ってる。まったく面白くないところで笑う。やっぱりおまえ、いろいろとおかしいぞ」
涙でぐしゃぐしゃの顔。にっと死神に笑ったけど全然こちらを見てなかった。
今日。ここにいて、初めてこの人が死神でよかったと思った。奇病を患ってから何もかもがマイナス思考だったけど
「私、明日琉嘉に連絡する」
「……あっそ。勝手にしろ。お前のことなど興味ない。いちいちやることやること報告するな」
明日、琉嘉に連絡しよう。それで、このことを正直に伝えて、謝って、私の想いを聞いてもらいたい。
不意の眠気に襲われる。本当の私は今寝てる、これは私の夢で、夢の中なのに眠気って本当に変だ。
今日はなんだかこの謎の眠気に襲われるのが早いような気がする。まあいっか、死神とあった次の日ってすごい疲労感でなんのやる気も出ないし。早めにこの夢から抜け出せるなら文句はないかな。
瞼がゆっくりと落ちていく。身体の力が抜けて真っ暗な地面に倒れ込む。だんだんと現実世界(死神がいない楽しい夢の中)に戻っていく。
「——————……る。また明日ここに来る」
死神が何かを言ったが意識が遠のいて、最後のほうしか聞こえなかった。
また明日死神に会わないといけない。私はあと何回死神に会うんだろう。そう考えたときには完全に深い眠りに落ちていった。
⭐︎
朝起きて、顔を洗って朝ごはんを食べる。テレビも見ずにそのまま自分の部屋に戻って勉強する。時計の針が動く音が部屋に響き渡る。
「ふわ〜ぁ…あー眠たい、眠たすぎる…」
大きなあくびが出た。今日は朝から頭がすっきりしない。ボヤボヤ、モヤモヤ。濃い霧がかかっているような感覚。それと何かを忘れているような感覚。忘れている何かを思い出そうとして勉強にも集中できない。
何時間、ここに座ったかな。あとどのくらい、時計の針が動く音を聞けばいいのかな。もう今日はすでに四時間半は勉強してる。ちょっとおやつ食べて、糖分補給しないと頭がパンクする。
「休憩しよっと」
下に降りて棚からお菓子を取り出した。本当はスナック系が食べたい気分だったが、手を汚したくないので目が覚めるような酸っぱいグミにした。
パッケージにも酸っぱいのが苦手な方や小さいお子様は食べないでくださいと注意書きが載っている。
ハードと書いている…ということは硬めのグミってことか。噛むと集中力上がるっていうし、忘れている何かを思い出すかもしれない。
再び部屋に戻って椅子に座る。袋から一粒グミを取って口に入れた。
「酸っぱっ!?うわぁ!?酸っぱっ…普通の顔をして食べれるものじゃないね」
あまりの酸っぱさに口を尖らせた。目をギュッと瞑ったあと瞬きを連発する。こんなに酸っぱいお菓子初めて食べた…。いい目覚ましだ。
「そうそう、何忘れたか思い出さないと」
今度はベッドに仰向けになって天井を見つめながら色々と考えてみた。
ご飯のこと、おやつのこと。カフェでスイーツを食べること…?いろいろ挙げてみたが食べ物のことじゃなさそうだ。
食べ物のことじゃないなら…学校のこと?授業、部活、休み時間。お昼ご飯にテスト。違う…近いような気がするけどなんか違うなぁ…。人間関係ことかな。彩葉、咲、先生、コーチ、監督。
「あっ、なんか監督が一番近い気がする…えっ?でもなんで?なんで監督?笑」
監督ということは部活に関係があるのかな。この前県総体があって、私はベスト4で終わった。もうちょっと頑張れたけど、でも自己ベストが出たからよかったけど。それよりリレーがおもしろかったし楽しかったな。私と三年生の先輩二人と……。
「あともう一人、誰だっけ?」
男女四人で走るリレー。先輩は男女で私も女子だからあともう一人は男子。一年生はみんな市総体までしか行けなくて、先輩はリレーに出る二人しか行けなかった。ということは私と同じ学年の子?
でも陸上部の子。海斗は行ったけど長距離だからリレーには出てない。他の子たちは走り幅跳びとかハードルとかだし……。じゃあ誰?
わかるはずなのに…多分だけど私が一番知ってる人のはずなのに…なんで思い出せないの?
頭を掻いた。枕に顔を突っ込む。誰なんだろう。絶対知ってるはずなのになぁ。多分この人だ、私が忘れてることってこの人に関係があるんだ。
「わかんないや。いつか思い出すでしょ。ちょっと机の上片付けよ。勉強は今日はお終い!」
ベッドから勢いよく立ち上がって散らかった机の上を片付け始める。教科書やノート、夏休みの課題を教科書棚に戻す。消しゴムのカスやゴミを捨てた。
「ん?何これ。お知らせの紙かな?」
ファイルから出てきた数枚の紙の中に三つ折りの紙が紛れていた。
開けてみると男女混合リレー選抜メンバーとか書かれていた。部活でもらったやつか。先輩たちの名前と私の名前の横にもう一人。漢字だったけどわかった。
「倉橋琉嘉…」
思い出した。私の忘れていたこと。
琉嘉に伝えなきゃいけない。
ごめんねって謝らないといけない。
昨日、死神とそう話したんだ。
今からじゃないといけない。今から伝えないと行けない。明日じゃだめ。今日じゃないと。
クローゼットを開ける。私服ではなく、パッと目に映った制服に着替えた。久しぶりに腕を通す制服は居心地が悪かった。スカートってこんなに邪魔だったっけ。
スマホがあればいい。カバンも財布も、あとは何もいらない。
十七時四十六分。もうこんな時間。さっき、三時のおやつを食べたばかり。
私はスマホを開いて“琉嘉”と表示されたアイコンをタップした。一番最後に連絡をしたのは二ヶ月前。
『会いたい。話したいことがある。あの場所に来てほしい』
そう打って私は母が呼び止める中、家を出てあの場所に向かった。
——忘愛症候群
ある日突然、そう言われた。
漆黒の闇に包まれたような図体に見合わぬ服を身に纏った男に。
忘愛症候群?何それ。ファンタジー系アニメとか漫画に出てくるやつ?それともおとぎ話?
ちちんぷいぷいでフリフリのドレスが着れて、ガラスの靴が履けて、かぼちゃの馬車に乗れる、シンデレラのお話みたいな。
能天気な私はそういうふうに軽ーく受け流していた。どうせいつものようにファンタジックで非リアリティな夢を見ているんだと。
小説の見過ぎだと思い込ませていた。十代から人気を集める感動恋愛小説でよく見かける、“神様”や“死神”を名乗る者から「お前はもうすぐで死ぬ」「死にたくなければ、今までの記憶を全部消せ」的なことが現実であり得るわけがないと思っていたから。
そんなこといきなり言われたらきっと、誰だって信じるはずがない。信じれるわけがない。
私だって同じ気持ちだった。こんなの信じてたまるかって。君のことを忘れるなんて。絶対、絶対嫌だ。
そうやって“言い訳”してたんだ。
第一章
「優美!優美っ!おっはよー!」
「優美ちゃーん!ごめーん!寝坊したー!」
無邪気で明るい声たちが私、北村優美の名前を読んだ。
ぴょんぴょんとうさぎのように弾み、空高く舞うシャボン玉が軽快に弾けるような朗らかな声はいつもと変わらず私の背後から飛んできた。
朝は嫌い。目が覚めてちゅんちゅんと小鳥の鳴き声が聞こえたら「また朝がきたなぁ。頑張らないとなぁ」って思う。カーテンの隙間から入ってくる薄明るい光を見るのは眩しい。頭もぼーっとして冴えないし、真っ白なブラウスの袖に腕を通す瞬間が嫌で嫌で仕方ない。起きるのが憂鬱。別に精神的な病気にかかってるわけではないけど、なんとなく。学校でいじめられてるわけでもないし、学校が嫌いというわけでもない。理由として挙げられるなら私が典型的な夜型人間だからかもしれない。
でも、やっぱり朝は好き。
「彩葉!咲!おはよ〜!」
「優美ぅ〜!昨日徹夜でテスト範囲のワーク終わらせようと思って夜更かししちゃったらさぁ二時過ぎてて」
「あぁ〜!だから寝坊したってことね!」
「そうそう!頑張ったんだよ〜!うち、赤点回避しないとヤバいんだよね〜…」
語尾をゆったりと伸ばしながら頭を掻く仕草をする彩葉に私と咲は首を傾げた。いつもの彩葉を思い返してみるとテスト期間、手元にあるのはスマホ、何みてるのかなぁと思って覗いてみたらインスタ。テスト前の口癖「ちょっとぐらい点数悪くても大丈夫でしょ!」なんてピースサインして余裕ぶっかましてるあの彩葉が、今回は焦っているからだ。
「彩葉大丈夫?赤点回避しないとヤバい感じ?」とこれはただ事ではないと察した咲が彩葉に訊いた。
「実はさぁ、うちのお父さんが一つでも赤点取ったら一ヶ月スマホ触るの禁止!とか言っててぇ……」
「あーね、なるほど。そういうことね」
「ヤバーい!」と手で顔を覆う彩葉。確かにそれはヤバい。いや、赤点を取る彩葉もどうかと思うような気がするけど、女子高校生、SJK(高校二年生の女子)真っ最中でスマホ没収はキツイ。
「やっぱり青春にはスマホがないとね。特に女子。何にもできなくなるよね〜」
「だからって言って、徹夜なんかしたら体調崩すよ?睡眠は大事」
「そうそう、咲の言う通り!でもよく頑張った!偉いぞぉ!」
「優美ぅ!もぉー!優しいんだからぁ!」
自分で言うのもなんだけど褒めて育てるタイプの私が彩葉の高めのポニーテールが崩れない程度に優しく撫でると、ピョーンと私に飛びついてきた。
勉強嫌いで提出物溜めまくり徹夜してよく寝坊するけど、お茶目でかわいい永富彩葉
普段と部活中のギャップがすごくて、中学のときからずっーと私に寄り添ってくれてる茂森咲
彩葉も咲も、私の親友。たまにケンカするけど、ケンカするほど仲がいい。
「ほんとその通りだなぁ」
「何が!?何がその通りなの?」
ついついポロッと溢れた私の独り言を聞き逃すことなく反応した咲。耳がいいのは前世が聖徳太子だったかららしい(自称)。
「べっ、別に!何でもないよ!ただ考え事してただけだから…」
「ふーん…?あっそうそう!最近どうなの?咲、ずっと気になって気になって仕方なかったんだけど」
「最近どうなのってどういうこと?体調は何ともないけど…勉強もいつも通り…」
頭の中にクエスチョンマークを浮かべて首を傾げる私に、二人は「全然わかってないねぇ〜」「恋愛音痴、鈍感すぎる〜。でもそういうところも可愛いよ〜」と私の頬を突いた。
恋愛音痴?鈍感……。あっそういうことね。
「琉嘉とは最近話せてないんだ。テスト期間だし、向こうもちゃんと勉強モードに入ってると思うから邪魔かなぁって思って」
「寂しいとか話したいとかないの?うちだったら寂しいな〜。彼氏がいたらの話だけど笑」
「彩葉に同感。話したいなら話せばいいじゃん。倉橋のことだし気にしないと思うよ。むしろ向こうのほうが寂しがってたりして笑」
「それはそれでウケる笑」と彩葉がニヤけた。
「んー…。琉嘉のことだし寂しがってないと思う。それに大事なテストだし、集中したいだろうから悪いなぁって思って」
「それ話さない理由にならなくない?」
と咲が眉間にシワを寄せた。
そりゃ話せるなら話したいし、会いたい。私も全く寂しくないわけじゃない。琉嘉もそうだったら嬉しいけど…。
寂しいという気持ちが、勉強の邪魔をしたくないという気持ちに押し合いで負けてしまう。
邪魔かどうかは琉嘉が決めることだけど…。
「ちっちっち。分かってないねぇ、優美ちゃん。琉嘉くんの気持ち」
「付き合ってるんだからもっと、こう…恋人らしくしてもいいと思うけど。そんなに気になるなら本人に直接聞いてみたらいいじゃん」
直接聞く…か。どストレートになんでも言える咲なら簡単なことだと思う。
…でも私からしたら相当な難問だ。
そもそも、琉嘉のことだし邪魔なんてストレートに言ってくれないと思う。正直、私も言われたら傷つく。好きな人に言われたら余計凹む。多分三週間ぐらい。
分かってないねぇって言われても、分からないものは仕方ないと思う。恋人らしくってどういうことか私にはさっぱり分からない。まぁ私は極度の恋愛音痴。恋愛音痴人間の中の恋愛音痴人間。恋愛音痴の王女様、クイーンって感じだ。
説明が遅れたけど、琉嘉というのは私の幼稚園の頃からの幼馴染であり…、自分で言うの恥ずかしいけど恋人だ。
倉橋琉嘉。普段はめっちゃおとなしいのに、部活中は同一人物とは思えないぐらいはしゃいで明るいし。“最近は”ほとんどの人がが知ってるけどエレキギターとかピアノ弾ける才能の塊。男子のくせにって言ったら固定概念だけど勉強もふつーにできる。
優しい、親切、気遣いできる、心配性。
一言で言うと『完璧』
「あっ、優美今。倉橋のこと考えてるでしょ?絶対そうだ」
「へ?」
「だって顔、ほんのりだけど赤くなり始めるもん。優美ちゃんってほんと、わかりやすい笑」
「違うから!そうやってすぐ、琉嘉のこと考えてるとか、違うから!」
違うと言いつつ本当は考えていたので焦って日本語がおかしくなってしまった。
「まぁ、またテスト終わってから二人でお疲れ様会デートとかしたらいんじゃな」
「咲、いい加減にしないと私の右手の拳が飛んじゃうよ?」
「えぇ…優美ちゃん急に怖笑」
私の軽いジョークに彩葉が怯えるように顔を顰めた。その顔が引きつりすぎておもしろくて咲と笑った。私たちに釣れたように彩葉も笑った。
あぁ幸せだな。私って幸せ者だな。
なんとなく、唐突に、そう思った。
特別な能力を持っているわけじゃない。私が他の人と違って何か特別なものを持っているんじゃない。
なんの変哲もない普通の女の子。そこら辺にいる普通の女子高生。普通だから幸せなんだ。
普通に仲の良い友達がいること。
私を好きと言ってくれる人がいること。
他にもたくさんある何気ない日常が、普通すぎる日常が私にとって幸せなんだ。
パッと見上げた空に浮かんだ一つの雲。
ゆっくりと時間とともに流れていく雲が手を振り、肌をジリジリと容赦なく照りつける陽光が私たちに微笑むように少し弱くなった気がする。
⭐︎
まだ六月中旬に入ったばかりだというのにも関わらず、聞こえてくる声は蝉の声だけ。ミーンミーンミーン、ジージージーと黙々とただ鳴き続ける。緑葉が生い茂った木々に止まり、まるで日なたを避けるように。
最近は本当に暑い。クーラーのきいた部屋に居ようが、ネッククーラーをしていようが汗が滲み出でくる。
「地球温暖化が進んでるから皆さんひとりひとりが意識しましょう」とか国が掲げてる「温室効果ガス削減対策」とか。年々暑さ増してる。本当に対策できているのだろうか。
こう…なんていうか…。大きな掃除機みたいなやつで二酸化炭素を吸い取れないだろうか。で、その吸い取った二酸化炭素を……
「じゃあ教科書八十ページ、今日の日付は六月十四日だから…北村から後ろに読みなさい」
「はいっ!?なんでしょう!?」
不意に指名され、驚きのあまり思わずガタンッと机に足をぶつけてしまった。音がしたほう、つまり私にクラス中の鋭い視線が集まる。これは気まずい、まずい、やばい。授業中やらかしてはいけないランキング王道の一位をやらかしてしまった。中学のときの男子がこれで先生にガチ説教をされているところをバッチリ目撃した私にだからその恐怖がわかる。
後ろにいる彩葉がクスクス笑ってる。右端のほうでじーっと見てくる咲の無言の圧がすごい。
待って待って待って。笑ってる場合じゃない。この状況を何とかしないと。あぁ、なんで考え事なんかしてたんだろう。ちゃんと聞いてなかったからどこ読んだらいいかわかんない。
だけど、問題はそこじゃない。社会の先生、あだ名「なまはげ」って付けられるぐらい鬼怖いから「すみません、どこ読んだらいいかわかりません」なんて呑気に聞いたら……。想像するだけで怖い。怒られる、ブラックリスト(話を聞いてない生徒や授業中に注意した生徒をメモしておくためのノート)に書かれちゃう。
「どうした北村、さっさと読みなさい。時間がないんだ」
椅子から立ち上がった先生がペンをカチカチとノックし始めた。どうしよう、イライラしてる証拠だ。
「すみません、読むペー」
「優美ちゃん、教科書八十ページ!」
「…えっと、世界の温暖で降永量が多い地域と同様に日本では古くから稲作が行われ、米が主食とされてきた」
「また、国士が海に囲まれ、豊かな自然が広がる日本では、多様な食材が手に入る」
彩葉、ありがとう。今は彩葉が神様としか思えないよ。こんな大ピンチを救ってくれるなんて。
先生にバレないように後ろからこっそりと彩葉の教えてくれる声が聞こえてきた瞬間、天に昇るような気分。正直に言って今までで一番助かったかもしれない。
私が読んだ後に続いて彩葉が読み、彩葉が読み終わったところで次の人に順番が回っていく。
生徒が音読をしているのもお構いなしに先生はうたた寝をし始めた。その一瞬の隙をうかがい体を九十度後ろに回転させた。
「彩葉!ほんとにありがと〜!感謝でしかないよぉ!」
「そんなに?笑」
「だってあの先生に聞き返す勇気ある?」
「それはないね。だってなまはげなんでしょ?あの人。相当怖いじゃん笑」
びっくりするぐらい即答だった。やはりあの先生は「なまはげ」として恐れられてもおかしくない。
「でしょ!?だからめちゃくちゃ焦ったときにあの一言は神だね。ありがと〜今日購買のミルクティー奢ってあげる!」
「えぇ!それは嬉しい!教えてあげてよかったー!」
大好物のミルクティー、奢るという言葉に反応し、つい大きな声を出してしまった彩葉に視線が集まった。先生の鋭い目つきが彩葉にぶっ刺さり、まさに青菜に塩状態だ。
あちゃーやってしまったと言わんばかりに口元に手を当て、すみませんとぺこぺこ頭を下げる。
「授業中だぞ?おしゃべりは授業が終わったあとにしろ。あぁーすまん。じゃあ、続きを中野から」
案外軽く受け流されホッとする。ブラックリストにメンバー入りしなかったことが不幸中の幸いだ。(部活の先輩曰く、ブラックリストに名前が書かれるとまあまあ通知表に響くらしい)
「でも優美ちゃんがぼーっとしてるって珍しいね。なんか朝もそんな感じだったじゃん。体調悪い?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど……最近暑いなぁって思って」
「あぁ〜そういうことね。てっきり琉嘉くんのこと考えてたのかと思ったよ」
「……」
琉嘉?琉嘉……。あぁ琉嘉ね。
彩葉って一回私にしばかれたいのかな。ミルクティー奢りって話、無しにしてもいんだけどな。
「次琉嘉のこと言ったら私のゲンコツプレゼントしてあげるね。早めの誕生日プレゼント」
「ひぃぃ怖っ。きたよ、優美ちゃんの真顔、情緒不安定」
先生がうたた寝から起きそうだなと悟り、そろそろ普通にしないと目をつけられると思ったので「じゃあまた後で話そ」と一言言ってから体を元に戻した。
よし。先生は私たちの会話に目も耳も傾けていなかったようだ。セーフってことでいいだろう。
机の下で小さくガッツポーズをして再びシャーペンを握った。罫線だけ引かれたノートに次々と文字が書き込まれていく。
先生の話が少し逸れそうだな、と思ったら空を見る。バレたら注意されるか、ブラックリスト登場。
空を見てると時間が早く流れるような気がして、嬉しい。授業の合間の十分間休憩が恋しいよ。
「国土が海に覆われた島国である日本といえば、みなさんは寿司好きですか?私は大好きで特に炙りチーズサーモンが好きなんですよ。あぁでも最近は年のせいなのか、胃もたれをすることが増えてしまって、今は玉子が一番好きなんですよね。あの菜の花っぽい色の黄身が食欲をそそりますよね。食べるとほんのり香るお出汁と濃厚なたまごの味がもう感動的で…。そうそう、たまごといえば——」
私が話聞いてない間に先生の話相当逸れてる。
周りのみんなも退屈そう笑。彩葉は私を盾にして寝てやがる。嘘寝…いやちょっと待って。いびきかいて、もしかしてガチ寝…。咲は櫛で髪を梳かしている。相変わらず美意識が高い。そんなに梳かなくても枝毛なんて一本も見つからないぐらいサラサラしててキレイなのに。
他の人たちも髪の毛を指に巻き付けてクルクルしたり、ペン回ししたり。
早く授業終わらないかな、なんて笑。
あの雲…綿菓子だ、綿菓子!いや、色をつけたらりんご飴にも見えなくはない。
食べ物のこと考えてたらお腹がすいできた。でもまだ三限目……。なんでお昼ご飯って四限目が終わったあとなんだろう?お腹すいたときに食べてもいいよ的な新しいルール、生徒会が作ってくれないかなぁ。
なんでこんなに早くお腹が空くんだろう。私だけなのかなと思い、周りをチラッと見てみたが誰にもお腹が空いているような素振りは見られない。
朝ごはんはガッツリ食べる派だし、女子の私でお腹が空くなら、男子とかもっと早くお腹が空くだろうな。でも私のクラスの男子たちは「腹減った」とか言ってないな。我慢してるのかな。本当はトイレでこっそりお菓子食べてるとか、実はお弁当二個持ってきてて、授業中に早弁してるとか…なわけあるか笑。
——琉嘉くんのこと考えてるのかと思ったよ
琉嘉……。あぁ、まただ。またすぐに出てこなかった。さっきと同じ、琉嘉と言われたときに感じた違和感。
彩葉と話したとき、気のせいかもしれないけど、ほんの一瞬、琉嘉のことが誰だかわからなくなったような気がする。
顔にモヤがかかって、パッとしないっていうか…。でも私が琉嘉を忘れるわけがない。
夏バテかな。疲れてんんだろう。それとも考えすぎ?まぁ多分、私の考えすぎだろう。
「体調管理と考えすぎは気をつけないとね」
私の独り言はチャイムの音に掻き消された。
⭐︎
校内に鳴り響くチャイムの音と同時に生徒たちの肩の力が抜けていくように見えた。
「優美ちゃーん!ようやくお昼ご飯だよぉ!今日寝坊して朝ごはん食べてないからお腹ぺこぺこだよ〜!」
待ちに待っていた四限目終了のチャイムが鳴った。
「私なんか朝ごはん食べたのにずっとお腹なりそうでお腹に力入れてたんだよねぇ笑」
「優美、ほんとに朝ごはん食べたの?笑」
「食べたけど!頭使うとお腹減るじゃん!」
「まぁ咲もお腹すいたんだけどね」
「隠す必要ないじゃん」と少し怒ったような雰囲気を漂わせながら彩葉が咲に詰め寄った。それに対して咲は冷静に「隠したわけじゃないし」とピリピリした空気が二人の間を取り巻く。
私が「はらぺこ不機嫌モンスターになってるよ」と言うと「「その名前嫌だぁ!」」と揃い揃って同じことを言った。
「彩葉ごめん。ちょっとキツく言いすぎた」
「咲は悪くないよ。私が先にはらぺこ不機嫌モンスターになっちゃったから」
場を和ませるのが上手な彩葉が笑いを入れると咲も口元をふっと緩めた。
チャイムがなったと同時に、クラスメイトは一気にばらける。財布を持ち購買へと猛ダッシュでかけていく人や仲のいい子と食べるために弁当箱を抱えて移動する人。
「優美、一緒に食べよ」
「優美ちゃん!私も一緒に食べていい?いいかな!?お願いっ!」
「そんなの聞かなくてもいいに決まってるじゃん!拒否ったことないと思うんだけど」
「そうだよね!私なんで聞いたんだろう」
えへへと幼子のように笑う彩葉。それに比べて咲は相変わらず大人びてる。ものすごくおとなしくいというわけじゃないけど、一つ一つの言動が私と違う。
「あっ優美ちゃんのお弁当美味しそぉ〜!これ何!?恵方巻き…?」
水を飲んでいると彩葉が私に何かを言った。何かを聞いているようだ。
どれのことを言っているのだろうと思い、彩葉が指差しているほうを見ると、キンパのことだった。
まぁ確かに似ているけどまさかの恵方巻きと言われ思わず水を吹いてしまうところだった。
「ちょっと!笑わせないでよ。みんなの前で吹くところだったじゃん」
「よかったぁ、口の中に何も入れてなくて」
と咲が安堵したようにクスクスと笑った。
「いや、笑い事じゃないから!これ、恵方巻きじゃなくて韓国風海苔巻き。韓国料理でキンパって聞いたことない?」
「あぁ!キンパね!具材が違うなぁって思ったけど巻き方とか見た目は一緒だからわかんなかった笑」
「いや、具材が全然違うじゃん!恵方巻きは中にきゅうりとかお刺身とかだし。ていうか、お弁当の中に生ものはダメでしょ!笑」
咲のど正論に彩葉が撃沈した。しょぼくれ彩葉を元に戻すには…。
「でもそういうところも彩葉っぽくて可愛いよ!」
「ほんとに!?バカって思ってない?恵方巻きとキンパの区別もついてないような人間だけど……」
「バカって悪いことじゃないと思うよ。むしろ私からしたら可愛いなって思う」
「優美、あんまり言いすぎたら間に受けて調子乗るよ」
「もぉ!せっかくいい気分だったのにぃ!咲はストレートすぎてグサって刺さる……」
心臓部分を押さえながら苦しそうな顔をする。
「咲、人間はみんなお豆腐メンタルなんだから優しく扱ってよね。咲は鋼のメンタルの持ち主だから」
「そうだそうだぁ!ど正論反対!この鬼怖女〜!」
「優美ぅ?彩葉ぁ?もう一回言ってみなぁ〜?」
今咲は怒っていないとわかっているのだが、咲の演技力と声のトーンがあまりにも冷たすぎたので二人で思わず土下座をするところだった。
「鬼怖女なんて思ってないから!優しくて可愛くて思いやりがあって冷静で」
「言いすぎ。ちょっと嘘っぽいなぁ」
「もう二人とも!お腹すいたから早く食べようよ!って時間あと四分しかないじゃん!」
「「ヤバっ!」」
会話が弾んだのはいいことだが、時間を気にしすぎてなかった。
これもこれでいい思い出かなと思いつつ、一口キンパを口に入れる。ちょっとキムチがピリッと辛くて、それをごま油で味付けされたご飯でマイルドになる。
彩葉と咲に一つずつお裾分けし、三人で同じものを頬張った。
おいしいね、少し辛いくらいがちょうどいいね、とまるで小学生の遠足レベルの会話が私の頭を行き交う。
他の生徒たちの「ごちそうさま〜」という声に焦り、私はお弁当を味わうことなくただ口にかきこむのに必死だった。
⭐︎
空の向こうで黙々と立ち上がる雲。青空に広がる真っ白な雲は画用紙に白い絵の具をうっかりこぼしてしまったように自由に広がっていた。
風が優しく肌に吹く。でも熱風なので汗を吹き飛ばしてくれるどころか、肌にムワッと引っ付くように暑くて暑くて仕方ない。
水をたっぷり含んだ髪から雫が垂れた。ポタポタと地面に落ちて、溜まることなく暑さに負け蒸発した。
梅雨明けも早かったし、雨が少なかった。雨はテンションが上がらないしジメジメしてた前髪整えてもすぐ崩れるからあまり好きじゃないけど全く降らないっていうのもたまったもんじゃない。わがままだけど雨が降ってほしいなぁ、と一人不貞腐れた。
五限目、気温が今朝と比べてグッと上がり、私たちのやる気が一番なくなる時間。昼食を食べて満たされたお腹が重く、その幸福感によって押し寄せてくる睡魔で瞼が落ちてきそうなときに水泳の授業は最悪だ。
髪もギシギシしてくしでといてもどうにもならない。早くお風呂に入りたいなと心の中で念仏のように唱えた。六限が国語じゃなくてよかった。水泳のあとの国語はわたし的には一番きつい。
私の隣がやけに静かだなぁと思いチラッと様子を伺うと「水の中に入るからひんやりしてて気持ちいいだろうなぁ!」と相変わらずのハイテンションでぴょんぴょん飛びまくり、楽しみにしていた彩葉は肩を落として「ガックリ」という擬態語が似合っている。咲も同様に…と思ったが少しキレ気味かも。
「えっと…何て声かけたら、いいですかね?うん。大丈夫?空とも仕方な」
「気温も上がって水温も上がってるなんて聞いてないよ!プールのバーカ!バーカ!もう大っ嫌いっ!」
「いやもうそれなぁ!?暑いしぃ?汗ばっかかいてイライラするしぃ?暴れないようにイライラ我慢してプールではっちゃけようと思ってたのに……あれじゃただの温泉じゃん!?」
私の声にかぶさるように彩葉が急に声をあげ、身震いをした。いつものことだけどまさかの咲がそれになるとは思ってなかったので、余計に言葉を失ってしまった。
「まあまあ、二人とも一旦落ち着」
「「落ち着けるかっ!」」
こりゃ無理だ。諦めよう。あの咲が彩葉と一緒に声をあげる時点でもうダメだ。確かに二人とも、今日の水泳の授業楽しみにしてたからなぁ笑。
でも体操服を着れるだけマシだ。制服よりも全然涼しい。夏用の制服だから冬用に比べて通気性がいいだろうと思った私がバカだった。夏という季節がそもそも暑いのだから何を着ても同じだろう。多少なりとも冬用に比べたらマシなのかもしれないが私からしたらあまり違いがわからない。
生地はしっかりしているし、セーラー服ではなくブレザーのポロシャツなので首襟があって首元が汗でびしょびしょだ。余計に暑く感じる原因ナンバーワン。私たちの学年はちょうどセーラーがブレザーを選択できるのだが、新制服が制服と思えないぐらい可愛かったので気づいたら採寸して購入してもらっていた。
兄弟がいる子とか先輩に譲ってもらった人とかはどっちも持っているから羨ましい。もし私もそんなことができていればとっくに地獄から解放されているはずなのに…。冬はブレザーを着てぬくぬくして、夏はセーラーで…
「…ちゃんっ!ちょっと優美ちゃんっ!聞いてる!?」
「うわぁ!何!?何!?」
「もぉ、今日の優美ちゃんなんか変!」と赤ちゃんが駄々をこねるように怒る彩葉と「変なんか変。ほんと、変だよ変、変すぎる」と地味に傷つく『変』を繰り返す咲が私の顔をジロジロ見てくる。異常がないか確認されている。確かに今日の私は変かもしれないがそこまで連発して変って言われるとメンタルがズタボロになってしまう。
「だーかーらー!ちゃんと聞いてたのって聞いてるのっ!」
「ごめんっ!全然聞いてなかった!ボッーとしてた!」
パチンッと両手を勢いよく合わせて謝罪するが私の反省は彩葉には伝わりそうになかった。
「今日!ずっーとずっーと私の話聞いてくれてない!お昼ご飯のときにミルクティー奢ってくれたからって許さないからね!咲もそう思わない!?」
「思うよ。三限目のときさぁ、優美がぼーっとして話聞いてなかったのびっくりしたもん。顔は中学のときクラスずっと一緒だったけどそんなこと一回もなかったし」
「あっ……えっとそのぉ……。具合が悪いわけじゃないんだけど、なんか色々考え事してただけで……」
「ほんとに?優美ちゃんテストだからって頑張りすぎなんじゃない?クマあるし、顔色少し悪い気がする」
「念のため保健室行ってきたら?先生伝えておくよ」
「ほんとに大丈夫だよ!ほら見てこの通り……あっ」
最近流行りのダンスを踊ってみたが、足がもつれて転けそうになった。
「やっぱり体調悪いんじゃないの?急に変なダンス踊るし、転けるし」
「えっ…変な、ダンス……。真剣な踊ったつも……じゃなくて!転けたのは足が絡まったからで体調が悪くてふらついたわけじゃないから!」
「あぁ!もうっ!言い訳はいいからっ!さっさと保健室に行ってきて!」
私が必死で大丈夫アピールをしたが、結局なんともないのに保健室に行くことになった。
というか、いつの間にか彩葉が私の荷物持ってるし。ほんとうにどこも悪くないし、足が絡まって転けそうになっただけだ。二人とも心配してくれるのは嬉しいけど、なんか過保護すぎふお母さんみたいで少し面白い。
「じゃ、ゆっくり休みな。芸術の授業は別に受けなくても大丈夫でしょ。テストに出るわけじゃないし」
「そうそう!荷物は机の上に置いておくね」
二人とも任せときなさいと言わんばかりに胸を張って「じゃあね」と私に背中を向けて走り出した。だんだん小さくなっていく背中に「ありがとね」と口に出したが蝉たちの合唱がうるさすぎて届くことはなかった。
暑い、手に汗が滲み出ているのがわかる。こんなに火が照りつけていたら汗が出るのも当たり前か。
「保健室入るのってこんなに緊張するっけ……?」
保健室の前に来たにも関わらず、入る勇気がない。というより、具合が悪くない、怪我もしてないのに保健室に入っていいのだろうか。
私は授業を受けれる元気はある。ただ友達の命令でここに来た。仮病、いわゆるサボり。怒られないだろうか。授業が終わるまでトイレにこもっておく?いやいや、そんなことするぐらいなら仮病を演じるほうがいい。
じゃあここでずっと突っ立ってないで早くこの扉を開ければいいじゃないか、私の右手よ。少し左にカラカラカラーっとスライドすればいいだけの話。なんでたったそのくらいのことができないのだ。
——キーンコーンカーンコーン……
少し重めで余韻が長い六限目のチャイムが校内に奏でられた。もう馴染み深い音が鼓膜を振動させると同時に心臓がドクンっと跳ね上がった。「今から教室に戻って授業を受ける」という選択肢がなくなった。
「うわぁどうしよ……」
…よし、覚悟を決めた。緊張で震える右手を取っ手に添え、少し力を入れて左にスライドした。
扉を開けると外のモワッとした生暖かい風とは違う、ひんやりとした涼しい風が私のことを出迎えてくれた。風に冷やされて汗がスゥーっと引いていくのがわかる。
「涼しい…」
「どうしましたかー…って佳子の娘ちゃんじゃない。優美ちゃんだったよね」
移動式の椅子に座ってパソコンに向き合っている先生は中野先生と言って私のお母さん(佳子)の小中高校生時代の友達で、私自身も学校以外でよく話す。でも一応先生なのでタメ口は使わないように気をつけている。内申点にも響くかもしれないから。
「優美であってます」
「保健室使うの初めてなんじゃない?しかもこんな微妙な時間で、外から来たわよね?水泳の授業?」
サイズ感が可愛らしい時計に目やって首を傾げる。確かに休憩時間は終わって授業は五分前に始まっているから不思議に思ってもおかしくはない。
「えっと…ちょっと諸事情がありまして…」
「諸事情?」と顎に手を当て何かを思い返すような仕草をする先生。
「私の勘違いだったら申し訳ないんだけど、十五分ぐらい前からドアの前で突っ立ってたのって優美ちゃん?」
「あっ…」
「その感じだと図星みたいね笑」
まさかのバレてた。これこそ一番想像したいなかったパターンだ。顔が一気に熱くなっていく。餌を待ち構える鯉のように口をパクパクさせることしかできない。
「まあまあ、顔が真っ赤じゃない。ミニトマトみたいになっちゃって可愛らしい笑」
「ふっ…」
「えっ?」
今、中野先生が喋ったあとに誰かの笑い声がした…気がする。ベッドのほうから「ふっ」て。カーテンが一つ閉まってるから誰かが寝てるのかな。いや、寝たふりしててこっそり私たちの会話を盗み聞きして…あっ、もしかして顔がミニトマトに反応したな。
「ちょっと体温計で測って。あっ、そこの椅子に座っていいから。ゆっくりくつろいでいいよ」
「すいません」
「ごめんね、もっと早く気づいてあげればよかったね。ちょっと体調不良の子がちょうど来てベッドの準備するのに手が離せなかったのよ。もしかして保健室に入るの初めてで緊張した?」
「はい…」
「そんな緊張しなくていいのに、気軽に入っておいで」
私の緊張をほぐすかのようにニコニコと穏やかな笑みを浮かべ、カーテンが閉まっているベッドのほうへ足を運んでいった。一枚の冷えピタとさっき冷蔵庫から取り出されたポカリスエットを誰かに渡したようだ。
誰だろうと好奇心から覗き見してみようとしたのを阻止するようにピピッと体温計が鳴った。
「あら、少し熱があるじゃない。勉強の頑張りすぎと夏バテのダブルパンチかなぁ。今の時期、疲れるもんね。テスト当日までには絶対治ると思うから」
今の学生は頑張りすぎるからねぇと気遣わしげな表情を浮かべた。
「ちなみにだけど、六限何?」
「芸術です」
「ならうけなくても大丈夫ね。もうベッドの用意してるからちょっと寝たらどうかしら」
「すみません」
この「すみません」にはいろいろな意味が込められている。先生には秘密だが、熱が少しあるのは夏バテなんかじゃなくて十五分もバカみたいに何もせず突っ立っていたからだと思う。だから体調悪くないのにベッドなんか用意してもらって「すみません」という意味と、手間と迷惑かけて「すみません」という意味がある。
「今から業者の方が来るからちょっと部屋の留守番頼んでもいいかしら?鍵は一応かけておくわ」
「全然大丈夫です」
「じゃあよろしくね。何かあったら職員室に先生いるから」
「はい」
私が軽く会釈をすると先生は部屋から出て行った。ガチャだと鍵穴に差し込むような音がしたあとに、カチャッと鍵をかける音がした。
…今ここにいるのは私と隣の人だけか。
保健室ってどんなのが置いてあるんだろう。先生は当分戻ってこないだろうから冒険してみようかな。
隣の人が寝ているかもしれないと私なりに気を遣ってゆっくりとベッドから立ち上がり保健室内をくるくる回り始めた。ただ見るだけだけど見たことないものがたくさんあって面白いな。
洗濯バサミみたいなやつがある。どうやって使うんだろう。うーん…分かんない。えっ保健室に爪切りとかあるんだ、初めて知った。爪切り忘れた人用なのかな。これ、視力検査のときに使うやつじゃん。この黒いスプーン、名前何だったっけ……そうそう遮眼子だ。
「何してんの?寝ときなよ。体調悪いんでしょ?」
保健室の先生が戻ってきたと思い、ビクッとなった。でもその声の主が女性ではなく私が一番知っている、馴染みのある声だとすぐわかった。
「えっと…琉嘉?」
「俺だけど何か」
額に冷えピタ、少し赤く火照った頬、ゴホッと咳き込む姿。とても琉嘉とは思えなかった。琉嘉が、小中学校皆勤賞だったあの琉嘉が保健室で寝てる。「こっちで話そうよ」とカスッカスな声で呼ばれた。
シャっと薄緑のカーテンを閉め、布団の上に寝転んだ。柔軟剤のいい匂いが花を燻る。
「体調不良?昨日の練習ではあんなにピンピンしてたのに。体力つけるより、テンションコントロールの練習したほうがいいんじゃない?」
「意地悪…そうそう、今日も練習行くから」
「へ?」
言い忘れていたが私と彼は同じ陸上部、短距離の部だ。大会も近いし、本格的に打ち込んでいく時期だ。「その状態で行けるの?無理でしょ」とマジレスするところだった。だって今日のメニュー、室内で階段ダッシュと筋トレ…。こんなに咳してるのに無理でしょ。
もう一度、布団をかぶって横になっている琉嘉の顔を見た。額に冷えピタ貼ってるし、顔…さっきより火照ってるし、咳き込んでるし。寝てる時点でダメでしょ、きついんじゃん。
「とりあえず、練習は行くから」
「いや休みなよ。絶対無理だよ、そんな状態じゃ」
「いや、大会近いし、一回休んだら体が忘れるでしょ」
「いや、そういう問題じゃなくて」
「いや、練習終わりの飴玉…食べたいじゃん」
「いやいや、飴玉だけのために無理していくの?倒れても知らないよ?」
「いや、倒れないから…多分…」
「…ふっ笑なんか面白い」
「何笑ってんの。こっちはしんどいのに…」
「ごめん、なんかこんなぐったりしてる琉嘉、見たことないなぁって思ったらちょっとおかしくて」
キツそうにしているのを見るとかわいそうだなと思いつつ、この寝込んでる姿を写真に収めたいなと思った。こんな貴重な姿、金輪際見られないかもしれないと思ったら尚更。インスタのストーリーにあげたら咲とか彩葉、どんな反応するかな?
風に揺れるカーテンの隙間から見えた時刻は十五時十三分。授業終了まであと約十分。
「優美」
掠れてて、名前を呼ばれたのかわからなかったけど、その声に琉嘉の優しさが乗せられているのは変わらなかった。この声で名前を呼ばれるたびに心臓がトクンと揺れる。
「…何?」
「大好き」
「え」
「最近、言えてなかったから。じゃあちょっと寝るね。おやすみ」
不意に名前を呼ばれ、何かと思ったら最近言えてなかったという理由で「大好き」なんて愛の言葉を口にし、はぐらかすように寝てしまった。嘘寝、演技かもしれないがカーテンの向こう側で微かに寝息が聞こえる。熱で頭のネジが外れたのだろ…えっ待って、今大好きって言った?
——大好き
頭の中で何度も何度もリピートされる。枯れているはずなのに柔らかくて、優しい。
顔が一気に熱くなった。鼓動がトクンからドクンっと跳ね上がっている。
そんな、大好きなんて勝手に軽く言って、琉嘉は何ともないの?私はバカみたいにドキドキしてるのに、琉嘉はまったくそんなことないの?
「ちょちょっと待って琉嘉っ!今なんて!?もう一回言ってよっ!ねぇねぇ!ねえってば!」
「……」
どれだけ声をかけても、肩を揺らしても、この琉嘉からの返答はなかった。ただ熱がこもった体が熱いだけ。
今からの顔が赤くなっているのは熱があるから。その中に、恥ずかしさや照れは含まれていないのだろうか。
「…もう知らない。バーカバーカ」
「……」
ちょっとムキになって勢いよくカーテンを閉めた。私の気持ちも知らないくせに、好きとか言って。今は何も考えないで、無になることに集中しよう…と思っていてもなかなか無になれない。ついつい違うことを考えてしまう。何も考えないのって案外難しいなと苦戦していると六限の終わりのチャイムがなった。その拍子に先生が戻ってきて、私は急いで目を瞑り、寝たふりをした。
⭐︎
帰り道、道に転がった石を踏み潰しながら走る車はガタガタと揺れてはブレーキを踏む。ハンドルを握り右に回しては左に回す。少し荒立たしい運転は相変わらずだった。お母さんの運転は荒いけど運転テクニックにはいつも感心する。飛び出してきた動物を避けるし、狭い道も普通の道みたいに通る。
「こんなところから帰れるの?道繋がってるの?」
「そうよ。知らなかったでしょ〜?」
「知らなかった。お母さんは知ってるの?それともまた勘?」
「私も知らない道よ。でもいつもと違う道を通るのって冒険みたいでワクワクするじゃない」
母はまだ若いからか考え方も新鮮というか、好奇心旺盛というか。
「それにしても優美が早退なんて珍しいね。幼稚園のとき以来かしら。明日は雪が降るかな?なんて笑」
面白おかしげにジョークを交えて私の体調を気にかける母。母は看護師で、ここ最近は熱中症やら夏風邪やらで患者が駆け込み忙しいと頭を掻いていた。朝早くに家を出て行って日付が変わるぐらいに帰ってくるときもある。
「…ごめんね、仕事中だったのに」
「子どもがそんなこと気にしなくていいの。私は仕事より我が子。何かあったらすぐ駆けつける。それが親の役目なんだから」
「そっか、ならいいのかな」
「そうよ。仕事も抜け出せれたし帰ってから少し寝よっかなぁ〜。最近まともに寝れてないし」
「そうしなよ。私が早退するなんて今後一切ないと思うから」
「そうね笑そうかもね」
と言うと一瞬ハンドルから右手を離してクスクスと笑った。
今私は母の車の中にいる。熱は平熱まで下がったものの、無理するのもよくないと言われたのでこうやって迎えにきてもらったのだ。
「ねぇそういえば、優美が寝てたベッドの隣。カーテンが閉まってたけど誰か寝てたの?」
「あっうん。寝てたよ」
「それってもしかして琉嘉くん?」
「琉嘉?うーん誰だったっけ…誰かがいたのは覚えてるんだけど忘れちゃった」
「あらそう。玄関口で琉嘉くんのお母さんに会ったからもしかしたらそうかと思ったんだけど」
そう、私の隣で誰かが寝てた。額に冷えピタを貼ってたような気がする。いつもは元気なはずなのに咳き込んでて苦しそうだった。ちょっと顔が赤くなってて、可愛かった。誰だったっけ…うーん…思い出せ、思い出せ、思い出せ…。
——優美
「あっそうだよ。琉嘉、琉嘉が寝てたんだよね」
「急に?急に思い出したの?」
私が急に思い出したことに母は訝しげな表情を浮かべた。自分自身も首を傾げた。ついさっきまで話してたのにどうして忘れていたんだろう。誰かがいたのは覚えているのにその誰かがわからなかったのはどうしてなんだろう。琉嘉のことを本当に忘れていたのだろうか。
「なんか、忘れてたんだよねぇ。冷えピタ貼ってたんだよ、あの琉嘉が。声もガスガスでさぁ、ゴホゴホ咳き込んでるし」
とりあえず“忘れていた”ということにして話を元に戻した。母は「どうして忘れてたの」と深掘りすることなく「そう」と一言、元の表情に戻った。
「二人ともきっと疲れが出たのね。テスト週間でしょ?あっあと琉嘉くんも陸上部だっけ?」
「そうだよ」
なんだか、母のほうが琉嘉を知っている気がする。いや、私が今日おかしいだけかな。
「夕方になっても暑いでしょ?あんだけ暑かったらいくら水分取ってもちっとも厚さ凌げないよね〜」
「でも走り始めたらそうでもないよ。麻痺してるのかな?」
「それ一番ダメなやつ。優美も気をつけてね。今の時期そういう症状で外来される患者さん多いもの」
「はーい」
「返事は短くっ!」
「はいっ!」
なんか、今日はいろいろと疲れたな。水泳の授業って意外と体力使うし、今日の授業午前はテスト範囲のオンパレードだったし。社会の先生のあの鋭い目線もキツかった…。彩葉のテンションも気温と同じぐらい高かったし、咲のど正論も調子良かったしなぁ。
帰ってからすることがいっぱいだな。これじゃ仮眠取る暇なさそうだな。仕方ないかと、母にバレない程度に小さなため息をついたところで車が停止した。
「先に家に入ってていいよ…って言われても家の鍵閉まってるからちょっと待ってね」
「…ねぇねぇ」
「どうしたの暗い顔して。何か嫌なことでもあった?」
「あのね…」
聞くなら今だろうか。母はなんと言うだろうか。
「今日、琉嘉のことだけ思い出しにくい」と言ったら。
でも今までそんなこと、一回もなかった。今日、思い出せなかっただけ。明日になったらいつも通りに戻っているかもしれない。
「ううん。やっぱりなんでもない」
「なんでもないって言わらたら少し気になるけど…そっか。なんかあったらすぐに言ってね」
心配そうに見つめる母には申し訳ないけど、やっぱり私だけの秘密にしておこう。嘘を見抜かれないようにニコッと笑って誤魔化した。
遠くに見える真っ暗な雲、ゴロゴロと雷が鳴る空。何か嫌な予感がしたのは私の気のせいだろうか。
第二章 涙の始まり
「……い。おい。いつまで俺を待たせるんだ。このバカ女。さっさと目を覚ませ」
んー…。まだ眠たいよ。アラームなってないし、朝じゃないじゃん。いくら平日だからってこんなに早く起こしてくれなくていいよ…って今の声、お母さんじゃない。声の主は男だけど、お父さんでもない。すごく低かった。ずっしりとのしかかるような。
目を擦ってよく見てみると、私から数メートル離れた先に身長百八十センチ前後の男が立っていた。フードを深く被っているので顔はよく見えないが、明らかに怪しい人物だ。もしかして不審者…!?
「…えぇぇっ!?何何!?誰誰誰!?誰ですか!?ちょお母さんっ!お父さんっ!優花っ!誰か助けて!?不審者!?殺人鬼!?いやぁぁぁぁ!?」
「うるさい。黙れ。大声を出すなやかましい。いいか、よく聞け、お前は」
「えぇぇ!?もしかして私死んじゃった!?じゃあここは異世界!?あの世?いやだいやだ、まだ私死にた」
「あぁ!もううるさい、黙れ。騒がしいっ!」
苛立ちを含んだ声を荒げ、フードを深く被っていても睨まれているのが感じてわかる。脳が早く逃げろと命令している。でも目を逸らそうと思っても逸らせない。足がすくんで動けない。どうする、考えて。落ち着いて。こういうときこそ焦るのが一番良くない。声をあげる…余計なことをしたら殺されかねない。あぁいやもう殺されているかもしれないけど。じゃあどうすればいい。この状況から逃れるために…。
コツコツと私のほうに近づいてくる足音。大きすぎるポンチョのような図体に見合わぬ格好をしている男。裾や足元の布がゆらゆらと揺れ、死神に見えなくはない。
そもそも、なんでこんな真っ暗闇なのに姿形が見えるの?もう…これどういう状況よ。
「ひぃっ」
さっきまで遠くにいたのに、瞬き一瞬の間で…この男の人何?何者なの?
「いいか、一旦落ち着け」
「ごめんなさい、殺さないでください。まだ死にたくありません。もう死んでるかもしれないけど…生き返らせてください。せめて家族や友達に別れを言わせ」
「お前、バカなのか。落ち着け、黙れという言葉がまるで通じんな。とてもテストの順位が一桁とは思えんな」
「私のテストの順位なんで知ってるんですか?そんなことよりこの状況。真っ暗で見知らぬ人が目の前にいて。私さっきまで生きてたんですよ?ついさっきまでスマホ触ってたんですよ。明らかにいつも見てる夢とは違います。そうなったらどう考えても死んだって思うじゃないですか。急に死んでたら誰だって焦りますよね。違いますか?あなたは違いましたか?違うなら仕方ないと思いますが」
「わかったわかった、俺が悪かった」
私の口の速さに呆れたように両手をあげた男。この男、一体なんなの。
「話を進めてもいいか。時間は限られているんだ」
「時間は限られてるぅ?信じられんなぁー」
「信じろ」
「じゃあ先に一つ教えてほしいです」
「答えてやろう」
この人なんで上から目線なの。いや、見た目も図体も、どう考えても私より年上だし、上から目線なのも当たり前…なのか?
「早くしろ。質問がないなら話しを進める」
「私は死んでますか?ここはどこなんですか?」
「何が一つ教えてほしいだ。二つじゃないか。……まぁいい。二つとも教えてやる。まず一つ、お前は死んでない。それと、ここは簡単にいうとお前の夢の中だ、あの世じゃない」
「私の夢の中…?じゃああなたはどうやってここに?」
「そういうのも全部後から全部話す」
なんかもう…頭がついていかない。死んでなかったことは幸運だ。まだ私にはやりたいことがたくさんある。
「それより名前は?誰なの?」
「過去は一仁という名前だったが。今はない。好きに呼んでくれ。なんせ、俺は死神なんでな」
過去…今はない…死神…?ということは
「もう亡くなってるの?」
「…あぁ、そういうことになるな」
聞かないほうがよかったかな。顔は見えないけど、悲しい顔をしているのがわかった。怖そうな感じだけど、案外傷つきやすいのかな。
「考えなしに余計なことを聞いてしまってすいません。傷つけてしまったならなおさら…」
「別に気にしなくていい」
「あなた、さっき死神って言ってたけど、死神っていうことは、私も近いうちにあなたに命を…」
できれば「いいえ」と首を横に張ってほしい。唾をゴクンと飲み、拳をギュッと握りしめた。
「死にはしない。余命宣言もない」
「よかった…」
“ノー”という言葉に肩の力が緩んだ。ふぅーと安心のため息が一気に出てくる。
「確認だ、青野高等学校二年A組、北村優美であってるな?」
「えっ…」
「えっあっ、間違ってたか?」
戸惑いの声、いつのまにか手元にある資料のようなもの。見るからに国語辞典と同じぐらい分厚い。
違うそういうことじゃない。死神になったら他人の個人情報まで知れるのかということにびっくりしてる。
「間違ってた…か?」
「いや間違ってはないですけど、死神になった人はみんな他人の個人情報知れるんですか?」
「いやみんなってわけじゃない。亡くなった人はまずどこの科に行くか選択しなければならない。俺は死神科。他にも守護科、相談科、削除科、総合科があって。まぁ選択肢ないっていう手もある」
話によると守護科は余命や事故から守ってくれるもので、相談科は学校でいうスクールカウンセラーのようなもの。悩みはあるけど心配をかけたくないという人に寄り添ってくれるらしい。削除科は過去の後悔や失敗を一つだけ消してくれる。総合科は全ての仕事を担う。
「その手元にある資料みたいなやつって…もしかしてですけど私のことが書いてある…」
「そうだ。こうやって科を選択した者かつ仕事が与えられた者には担当する人間の情報が書かれた資料が渡される」
「まあまあな厚さがありますけど、具体的にどんなことが書かれて」
「うーん…あんまり口にするなとは言われているが。生年月日、性別、性格。その他趣味やこれまであった出来事全てが記録されている。場所関係なく全てだ。未来のことも書いている。お前の生涯、生い立ち。ありとあらゆることがこの資料に詰まってる」
「その未来っていうのは変えれないんですか?」
「アクシデントがない限り、変わることはない」
げっと顔を顰めそうになった。出来事全てってことは良いことも書かれているけど、怒られたことや嫌なことまで書かれているということだ。
「お前…男がいるんだな」
「そんなことも書かれてるの!?」
「当たり前だ。死神の資料を舐めるなよ。…時間が少ないそろそろ本題に入ろう」
死神の資料に気を取られつつ、まだ本題に入っていないことに肩を落とした。今私は夢の中にいて、死神と名乗る男と話しているが、現実世界はどうなっているんだろう。
そもそもなんで私のところに死神が来ているんだ。命が狩られるわけじゃない、死ぬわけじゃないなら私に何の用?聞きたいことが山積みだ。
「おい、聞いてるか?」
「考え事してて全然聞いてませんでした」
「チッ…。この資料と書いてることが全然違って調子が狂う。また書き直しておかないといけない。めんどくさいな…今日だけでもいいからこの資料に書いてる“聞き上手な女の子”になってくれないか」
そんな細かいことまで書いているんだ。ちょっと気味が悪い。
「今日、おかしなことなかったか?いつもと違うこと」
「おかしなこと…」
おかしなこと、いつもと違うことと聞いてすぐに思い浮かんだ。もしかしてアレのことだろうか。この人は知っているのだろうか。私がずっと気になってたこと。
「こいつ誰だかわかるか?」
と言いながら目の前に二枚の写真と資料をぴらぴらと見せた。一枚目は大人しい見た目をしている男の子の証明写真のようなもの。だけど二枚目は白い歯を見せてにっと笑っている男の子の写真。同一人物とは思い難いがどちらも黒髪のセンターパート、黒曜石のように漆黒で写真だけど見つめていると吸い込まれてしまいそうなほどきれい。スゥーっと整った鼻も、絵に描いたような輪郭も同じものだった。
資料のほうにはその男の子の名前とか、誕生日とかどこ高校だとか個人情報的なことが書かれていた。
高校は青野高等学校…私と一緒じゃん。名前は倉橋、くらはし…琉嘉…これはなんで読むのだろう。珍しい名前、“いい名前だ”。
「倉橋琉嘉。誰だかわかるか?」
「……あっ、琉嘉。琉嘉です、私の恋人…」
「思い出せてるだけまだマシか…。軽症ってところか」
「何か知ってるんですか?」
「……」
死神からの返事はなかった。何かを言おうか言わまいか迷っているようだった。嫌な予感がする。聞きたくない。耳を塞ぎたい。
「今日、朝からずっと変なんです。琉嘉のことだけパッとしないというか…モヤがかかったようにわからなくなるんです。今みたいに写真を見せられたり、名前を言われてもすぐにはわかんない。家族とか他の友達は大丈夫なのに琉嘉だけを忘れてしまったような感じが…でも今日だけで…今までこんなことありませんでした」
「……」
言えなかった疑問を、今全て言った。彩葉にも咲にも家族に言えなかったことを、全く知らない赤の他人のような人間に言った。
死神は困ったような顔をしていると思う。俯いてて本当の表情は見えない、けどわかる。
「何か知ってるなら教えてください。隠さないで教えてください」
「言えばお前のことを傷つけるかもしれない。それでも教えてほしいと頼めるか」
「教えられても、教えられてなくても…いつかはどうせ傷つくなら、教えてほしいです」
「……二言はないな」
「…私の運命はすでに決まってるんですよね。その資料に、書いてるんですよね」
そう、さっき言っていたじゃないか。未来のことも書いていると。その未来はアクシデントがない限りは変えられないと。アクシデントの起こし方なんて授業で習ってない。私の運命は決まっているんだ。
「忘却恋愛症候群。略、忘愛症候群」
聞いたことのない言葉が、男の口から出てきた。聞いたことはないけど、病気だということはすぐに察した。
「忘愛、症候群…」
死神が言った言葉を繰り返し口になぞった。何それ、それが私の運命。忘愛症候群…忘れる愛と書いて忘愛。
「治療法も治療薬も、そもそも発症原因すら解明されていない。どのくらいの確率でなるのか、どうしたら病状の悪化を抑制することができるか、死神の俺にわからん。何もかもが不明の病気、“奇病”ってやつだ…」
「奇病…」
こんなこと、信じたくない。信じれるわけがない。今までなんともなかったのに、大好きな人のことがわからなくなったと思えば自分がスヤスヤと寝ている間に夢の中にいきなり死神を名乗る者が現れ、何を言い出すのかと思えば奇病を発症するなんて馬鹿げたことを言う。こんなこと誰が信じるか。
「…私これからどうなるの…?」
私だってもう高校生だ。泣きそうなのをグッと堪えて、死神にたずねた。拳を握り、涙が流れてくるのを必死に抑えた。聞きたくなかった、ほんとはここで目覚めてほしかった。これは夢だ、こんなことが現実で起こりうるわけ、ないじゃないか。目覚めろ、目覚めろと心の中でつぶやいても、そんなちっぽけな欲望は叶うことなく、死神の口が開いた。
「…これだけはわかってる。“恋人のことだけ”を忘れてしまう“病気”。恋人とつくった思い出、もの、会話最終的には“恋人の存在”すら忘れてしまうこと。症状がひどくなる前に頭をハンマーで殴られたような頭痛に襲われるが何もなかったかのように急によくなる…ということだけは…わかってる…」
「……恋人のことって…ねぇ、じゃあもしかして…忘れるの…?琉嘉のこと。全部、全部忘れちゃうの…?」
「………あぁ」
言葉を失った。何も言えなかった。俯くことしかできなかった。頭が真っ白になりそうだ。間があった、だから期待した。そこから奈落の底に突き落とされたような気分。
恋人のことだけ、全員を忘れるのではなく特定の人だけを忘れる。恋人、そう琉嘉のことを忘れるってこと。
死神の声は震えていた。真っ暗で何も見えないはずなのにどこからか光が差し込み反射したように、死神の頰が一筋の雫で濡れているように見えた。死神のくせに泣かないでよ。死神のくせになんで涙脆いのよ。泣きたいのはこっちなのに。
だって、忘れるんだよ。恋に落ち、恋焦がれ、愛した君の顔も、声も、話したことも。誕生日にくれたものも、手紙も。全部全部、なかったことになる。
私が何をしたっていうの。何かを盗んだ罰?人を殺した罪を償う?そんなことしてないじゃない。普通に、普通の女の子として生きていただけだ。
いつもと変わらない日々を過ごしていただけだ。
愛していただけだ。
大人しいけど根は優しくて笑顔が素敵なところ、声が温かくて落ち着くところを。ご飯を食べてる姿が愛おしくてたまらない。私にはない才能を持ち、その才能で私を元気付けてくれたこと。友達で、幼馴染で、恋人として一緒にいただけだ。昨日までなんともなかったじゃないか。それなのに、それなのに…。
「…っいやだ、いやだよ…忘れるなんて絶対いや…」
「………」
気づけば私の目から大量の涙が溢れ出していた。幼子のようにワンワン泣いた。溢れ出した涙は止まることなく私の頰をつたっていく。涙で視界が歪み、立ちあがろうとしても力が入らない。死神は今、どんな顔をしているだろう
私はいつ、この悪夢から目覚めるの?
誰も答えてくれない、自分の心の中で叫び続けた。目覚めようと必死だった。目をギュッと瞑ってみたり、泣きじゃくり力もまともに入らない拳を握ったり。ひたすらにこの悪夢から逃れようとした。
「…私は何か悪いことをしましたか?」
「……」
「…私は、私の運命は誰が決めたんですか?」
「……」
「…私はただ、琉嘉のことが大好きなだけで」
「……」
「ただそれだけのことなのに…それなのにどうして…なんでですか。教えてください…」
「……」
死神は、一度も口を開かなかった。私の質問に一つも答えてくれなかった。私に合わせる顔がないのか、それともそれ以外か。目が合うことはなかった。
「……なんか言ってくださいよ。私のことフル無視する気ですか。そっちからそういう話をしてきたくせに」
「……すまない、と思ってる」
死神がポツリと、今にも消えてしまいそうな声で、謝った。会ったばかりは、あんなに上から目線で、王様みたいな口ぶりして、嫌な感じだったのに。今の声はすごく、寂しくて、悲しかった。震えてた、フードが揺れて見えた唇が微かに。奥歯を噛み締めたようにギュッと、ギリッと音がした。
わかってる。この人はたぶん、悪くないって。私の運命を決めた人はこの人じゃないって。たとえこの人が死神でも神様でも、私のことをただの人間だというぐらいぐらいにしか思ってないはず。私がこの人に強く当たっ
ても、どれだけ叫び続けようが意味がないと。
最初は半信半疑で、死神なんて馬鹿なこと言わないでと思ってた。こんなことあり得るわけじゃないと誰だって嘘だとわかるようなことを間に受けて。私、バカじゃない。
…でも、話を聞いていくにつれて、今日の自分に当てはまってて。全てを見透かされたような、どうにもできない自分がいた。
何も言い返せなかった。全部、全部。何もかも、この人の言ってることは正しかった。
でも私は何も間違っていない。いきなりあんなこと言われたら正気でいられなくって言い方がキツくなるに決まってる。焦って、パニックになって、どうしたらいいかわかんなくなった。だから叫んび、訴えた。それでも私の願いは届かない、私の力ではどうにもならない。だから諦めるしかない。
…わかっている…それでもやっぱり
「…なんでっ…」
たった三文字の言葉を発するのに長い時間がかかった。喉が締め付けられたように、思うように動かない。
息が詰まって、苦しい、苦しい。上手く、呼吸ができない。落ち着かせようと思ったら思うだけ、涙と嗚咽が出て。
「……また、明日……俺はお前の死神だと言うことを忘れるな」
何が死神よ、バカ。神様なんて大っ嫌い。明日なんて来なくていい。
そう言おうと口を開こうとした。離れて行く背中を睨もうとした。
それすらできなかった私は弱い。結局私は神様に嘲笑われるんだ。自嘲しようとしたところで、再び目の前が真っ暗になった。
⭐︎
カーテンの隙間から差し込む薄明るい光が私に起床を知らせた。鳥のさえずりとセミの合唱は朝とは思えないほど騒がしく、私の耳に障った。
時計の針はまだ、五時を回っていない。早く、起きすぎただろうか。…まぁいいやこのまま起きておこう。
……両目が腫れているような気がする。開けようと思っても瞼が重くていつもみたいに開かない。
鼻がツンと痛い。立ち上がってスタンドミラーの前に立つと、鼻が真っ赤になって、目がブチ腫れている、げっそりとした顔の自分がいた。目の下が真っ黒になっていた。熟睡できていないからだろう。
今日、こんな顔で学校に行くのかとため息をつく。
「…あれ…?」
ふと、無意識に右手が顔にいっていた。いつもだったらサラサラなはずの顔が、というより頰がびしょびしょに濡れている。手櫛でといてみると髪の毛の一部が湿っていた。ベッドのほうに戻ってよく見てみると枕のシーツの至る所に水のようなものが垂れた跡が残っている。
思い当たることはただ一つ。私が夢の中で泣いていたのが、現実にも繋がっていたということ。どう考えてもそう捉えるのが一番自然だと思った。
やっぱり普通の夢じゃなかった。いつもみるような理想がいっぱい詰まった、幸せな夢じゃなかった。
あれは悪夢だ、最悪の悪夢だ。
スゥーと一筋、流れてきた雫はしょっぱかった。今までにないほど、しょっぱすぎて思わず顔を顰める。
——俺は死神なんでな
——忘却恋愛症候群、略して忘愛症候群
——恋人のことだけを忘れてしまう病気
「……忘愛症候群」
脳裏にこびり付いて離れない、嫌な言葉。その中でも一つ、一つだけがどうしても忘れられない。
死神、奇病、忘愛症候群。
どれもこれも、おとぎ話のような言葉。聞き馴染みのない言葉が私に襲いかかる。
「…琉嘉」
本当に忘れるのだろうか。私は、琉嘉のことだけを忘れてしまうのだうか。
これは家族に、琉嘉に言うべき?それとも隠しておくべき?いや、隠すのはよくない。
でも、秘密を明かしたときの反応をこの目で見るのが怖い。琉嘉はどんな反応をするだろう。私のことを嫌いになってしまうだろうか。私が琉嘉を忘れてしまったら琉嘉が私のことを嫌いになろうと関係ないか。私は琉嘉のことがわからなくなるんだから。
「…どうしたら、いいんだろう…」
死神も、誰も聞いてくれてない、誰にも届かない私の声。小さな部屋にポツリと消えて、なくなった。
どうしたらいいかわからなくなって、部屋中を見回した。私一人用のベッド、私が大好きな薄ピンク色のカーテン。ハンガーにぶら下がる制服、真っ白な机。机の横にある底が深い引き出し。
「…この中の物も…全部忘れちゃうってことか…」
身体が、手が勝手に動いて気づけば引き出しの前に座っていた。私の引き出しにはロックがかかってる。鍵を開けるには小さな鍵が必要で、クローゼットの中にしまってある。いつその鍵を取り出したのか自分にもよくわからなかった。
「…わぁ懐かしい…こんな物あったなぁ…」
引き出しの中には琉嘉とのいろいろな思い出が詰まってる。
私の誕生日に、文章を書くのが苦手なのに一生懸命書いてくれた手紙。うさぎや小鳥、ケーキなどふわふわしたようなイラストが可愛いからと琉嘉が私に似合うものをと考えてくれたらしい。私のためにわざわざ女の子用のお店に入って選んでくれた物だ。
少し汚れてるし、形も不恰好だけど粘土で作ってくれた猫うさぎ。中学初めての県総体、二日間あった。大きなスタジアム、多くの観客の視線、強者たちの威圧感、重苦しい空気。普段とは違う光景に動揺、緊張して、私はいい記録を出すこともできず、一日目が終わった。朝早く起きて、わざわざ学校に集合。バスに乗って出発する瞬間が嫌いになりそうだった。二日目もどうせ同じようになって終わると思ったから。でもせめて、最後ぐらいはちゃんとやりたいと思った。大会に出れない友達もいる。私は選抜メンバーで選ばれた一人。出れない人の分まで頑張りたい。バスの中でそう思っていたとき、たまたま横に座った琉嘉が、この猫うさぎを作ってくれた。不器用なのに、不器用だから猫かうさぎかわからなくて、猫うさぎになって、二人でお腹を抱えて笑った。緊張が和らいだ。緊張してもこのことを思い出せば怖くない。本番直前も琉嘉がずっとそばにいてくれているような気がして、自然に口元が緩んだ。ポケットに隠し入れて、そのまま試合に出た。その後監督に怒られたけど、「大切なお守りなんです。これのおかげで緊張せずに試合に全力を尽くせました」と反抗してしまったけど、事実だからと心の中で監督に訴えた。
体育祭で交換したはちまき。琉嘉から交換しようと言ってくれて嬉しかった。
中学の修学旅行で同じ班になれて、こっそり持ってきたデジカメで撮った写真。
クリスマスにサプライズプレゼントしてくれたお揃いのネックレス。少し私には長かったけど、それも可愛いよと言ってくれて、嬉し泣きをした。
もっとある。まだある。手紙だけじゃない、マスコットもキーホルダーも、お揃いで買った物も。引き出しの中にはないけどハンカチやタオル。ものだけじゃない。今まで言ってくれた言葉も全部全部、私にとっては最高の宝物で、琉嘉からの愛で。
それを全て忘れる。私の中から完全に消えてしまう。この愛にさよならを言わないといけない。
琉嘉を悲しませたくない。琉嘉の悲しい表情を見たくない。私の手で琉嘉の笑顔を壊したくない。
そのためにできることを私は考えなければならない。
きっと琉嘉のことだから、琉嘉は優しいから、逆に私が泣いてしまうかもしれない。“忘れてしまっても大好きだよ”と慰めてくれると思う。
でもそれは私を傷つけないようにするためであって、琉嘉本人が傷ついたとしても私には何ができる?
余計に悲しませるようなことをしてしまったらどうしよう。
よく、考えて。私にでもできる、琉嘉を悲しませないための方法。時間は限られてる。今日、忘れてしまうかもしれないし、一年たっても忘れないかもしれない。それはあの死神ぐらいしかわからない。私の運命を知っているのは、私の夢に出てきたあの死神だけ。
彼に聞いたら、教えてくれるだろうか。私がいつ、琉嘉のことを忘れるか。
「…絶対忘れないもん…」
引き出しから引っ張り出してきた思い出をしまい、今日は早めにシャツに腕を通すことにした。
⭐︎
「…おはよー」
「おはようってまだ六時半じゃない。起きるの早いわね。寝坊しそうになったら起こしに行くのに」
ダイニングに立って、お皿を洗っていた母は手を止め私のほうを見て目を丸くした。
私はあまり早起きが得意じゃない。母に起こしてもらうことはほとんどないが、一回目が覚めてもすぐ二度寝してしまうくらい朝が苦手だ。
「…ちょっと悪い夢見ちゃって。二度寝しようと思ったけど寝れなかったんだよね…」
「…なんか元気ないし、顔色が悪いけど大丈夫?目も腫れてるし、夢が怖すぎて泣いたの?笑」
パッと見ただけでわかるんだ。それだけ酷い顔をしているということだ。
顔色が悪い。当たり前だ、あんな最悪な夢を見て正常でいられるわけがない。
「…まあ、そんな感じかな…」
「夢見て泣くなんて、優美もまだ子どもね笑」
「……」
クスクスと面白おかしそうに母は笑ったけど、私はちっとも笑えなかった。怖い夢を見たと言ったのが高校生だ。こんな年で泣いてたらおかしいと笑われても仕方ないと思った。
だから作り笑顔をしようと思ったけど口角が強張って上がらない。だって、私にとっては笑って済まされるような問題じゃない。
私の異変に気づいたように母は私の顔を覗きこむ。
「…いつものあなたじゃないわね。いつものあなただったら今の私の発言に子供じゃないもんとか言い返してるはずなのに…ほんとに大丈夫?」
「……」
少し黙りこくった。どう言えば、私の現状を理解してもらえる?笑われないで、話を聞いてもらえる?私が突然琉嘉のことを忘れされていくと告げたらビックリしたで済まされるされるわけがない。きっと怒るだろう。
今なら普通に、言えるチャンスだ。お父さんもまだ起きてないし、妹の優花も起きてない。後々言われるのはわかってる。わかってるけど…。
「…ううん。なんでもないよ。ちょっとテスト勉強とか部活とか、色々忙しいか疲れてるのかも。忙しすぎてテンション上がらない…的な感じ…」
「…そう、なんかいつもと違うなぁと思ったんだけど。子どものことは絶対わかるんだけど…私も疲れて勘が鈍っちゃったかな?笑」
「絶対に変だと思ったんだけどなぁ」とどうも納得してないような様子だったがなんとか乗り切れることができた…のかな。私はダメだなぁ。こうやってどんどん後回しにしてしまう。いっつも言わなきゃ言わなきゃと思ってるのに、いざとなったから相手の反応を見るのが怖くて「なんでもない」で結局終わってしまう。
「……ごめんなさい」
「なんて?声が小さくて聞こえなかった」
ちょっと聞こえてなくてよかったと安堵した自分がいたら、なんで謝るのと理由を聞かれて本当はねとこのことを言いたかったなと思うわがままで卑怯な自分がいたり。
首を横に振っていつもみたいに冗談で話を逸らそう。
「…なんでもないよ。それより、なんかお腹すいちゃったな。昨日夜ご飯、胃袋が破けちゃいそうなぐらい食べたはずなのに」
「食べ盛りだから仕方ないよ。寝てる間に消化もされるし。白ご飯大盛りね。それでいい?」
「うん」
寝てる間に消化される。
夢の中で泣いてもお腹は減る?
夢と現実が繋がってると思う?
この世に死神がいて、自分の運命を知ってるって言われたらお母さんは信じれる?
お母さんは大切な人のこと忘れたことある?
そう聞きたかった。口を開こうと思っても私の口は言うことを聞かず、母はそのままキッチンのほうに行ってしまった。
⭐︎
いつもより三十分ぐらい早く家を出でしまった。「いってきます」となるべく笑って元気よくいったつもりだったが、母にはどうも元気がない私と見えるようで、「何か嫌なことがあるならちゃんと言ってね」と悲しそうな、でも微笑んで「行ってらっしゃい」と私に手を振った。
玄関のドアを開ければ、朝にも関わらずモワッとした熱気が私の身体にまとわりついた。まだ数分した外にで出ないのに、汗をかいているのがわかる。ベタベタして気持ちが悪い。
少し離れたところでは綺麗なスカイブルーの青空が広がっているが、私の目の前に見える空はどんよりと曇ってて、耳をすませばゴロゴロと雷が鳴っているようにも聞こえる。雨が降りそうな予感がした。傘、持ってないや。バッグの中の折り畳み傘は妹に貸したまんまで返ってきてない。借りパクされた。
もし雨が降ったらダッシュするしかなさそうだけど朝から汗をかきたくないなと、目を伏せた。
朝の通学。いつもだったら一緒に彩葉や咲と通ってるはずの道を、今日は一人で歩いている。両サイドに人がいないだけでこんなに寂しくなるもんだなぁと孤独感を感じた。
夜会って話せない分、通学のときに一気に話す。部活であったこと、家に帰って面白かったこと、家族と話したこと。SNSで見つけた動画や写真を見せ合いながら、話して笑って。そうやって行く日もあれば、ちょっと言い合いになって仲介役になるときもある。
でも学校に着いたら二人ともケロッとした顔でいつも通りに戻って。
思い返すと自然と頰が緩んだ。今日が、一日が始まって、初めて笑えた。
そう思ったとき、頬に一粒の滴が落ちてきた。
だんだんと多く、大きくなっていく水滴に、ようやく雨だ気づく。私だけ時空間が歪んでいるのだろうか。
「…うわぁ、雨だ。最悪…」
私は傘を持っていない。学校まであと最低十五分、全力で走っても信号に止まったら無意味。
「…タオル持ってるし、濡れていかしか…ないよね笑」
ポツポツからザーザーと、雨足が強くなっていく。目の前にはレインブーツやレインコートを着込んでパシャパシャと歩いている小学生と、たぶんこの子たちの保護者であろう大人が先を歩く小学生を見守っている。
「ママっ!見て見てっ!カタツムリがいるよ!」
「わぁほんとだね。触ったらダメだよ?」
「じいちゃん、雨いつ止むかなぁ?水たまりができたら外で遊べなくなっちゃうよ…」
「大丈夫、雨はすぐ止むと思うよ」
「おばあちゃん、今日は帰ったら一緒にお絵描きしようねっ!約束だよっ?」
「はいはい、約束ね。ゆびきりげんまん」
雨、雨は気分が上がらない。今だって最悪の気分だ。私の前は幸せのオーラが漂ってる。大人同士も仲がいいのかたまに「最近は暑いですねぇ」などと会話が弾んでいるように見えた。
黄色い帽子、この帽子の色からして一年生かな。もしそうだったとしたら雨が降ることを見越して心配して途中まで見送りしてたんだなと、大人の気持ちが伝わってきた。
「…雨、強いな。ちょっと寒…」
クシュンと小さなくしゃみが出た。雨粒が直接、顔や衣服からはみ出てる手足にあたり、シャワーを浴びたあとみたいになってる。
「…あぁ寒」
「バカじゃん。こんなに雨降ってるのに傘さしてないとか。風邪引いたらどうすんの?」
後ろから声がした。それと同時に私に降り注ぐ雨がピタッと止まった。聞き馴染みのある声。柔らかくて、温かくて、優しい声。一瞬誰だかわからなかった。
振り返るとスラっとした、男の子が立ってた。制服が私と一緒。同じ学年の子かな。にしては大人びてる。
「…どうかした?俺の顔をなんかついてる?」
「…あっ、なんでもない、です」
「なんで急に敬語?風邪引いて頭おかしくなった?」
おかしそうにクスクス笑うこの仕草、どこかで見たことあるような…。
「違うしっ!バカじゃないし。雨降ると思ってなかっただけだし。急に誰かと思ったよ、びっくりしたなぁ…」
「角曲がったら雨土砂降りなのに頭にタオル一枚だけかけて傘さしてないお馬鹿さんがいるなぁと思ったらまさかの自分の彼女でびっくり笑」
「傘入っていいよ」と私の体を優しく引き寄せた。その手がすごく優しくて、暖かかった。大きい傘だなぁ。私には大きすぎるが琉嘉にはちょうどいいんだろうな。私は琉嘉と二人で…相合傘してもぴったりのサイズだと思うけど…なんてバカなことを考えて、顔が熱くなった。
琉嘉とは家が遠いわけじゃない。近所といえば近所。またまた私が家を出てすぐ家を出たらしく、ずっと後ろから見守ってたと。
もう少し早く声かけてくれてもいいじゃんとムキになろうと思ったが、雨宿りさせてもらってる分際で文句は言えないかと口をつぐんだ。
「びしょびしょじゃん。家に取り帰ったらよかったじゃん。近いんだし」
「そう思ったんだけど…」
「けどの続きは?言い訳してもいいよ笑」
「バーカ!バーカ!そうやってすぐからかう。ずっと私のこと傘ささないバカって思ってるでしょ?」
「正解笑」
彼にとっては意地悪な笑みが私にとってはただの微笑みにしか見えなかった。「次はちゃんと傘自分でさしてよね。俺の傘はほんとは一人が定員なんだよ?」と私を笑わせてくれた。
しばらく雨が降っていたけど少しずつ弱くなってきた。傘を刺さなくても大丈夫なぐらいになると、傘を閉じて手で持った。
もしわがままを聞いてもらえるなら、もう少し雨が降ってほしかったなぁと思った。一緒の傘にもう少し入りたかったな。
昨日久しぶりに話せたけど、今日も話せて嬉しいな。朝から会えて嬉しいな。
今はちゃんと話せてる。忘れてない。最初は怪しかった、いや結構アウトだったけど、本人は気にしてなさそうだったし、たぶん大丈夫…。このままとりあえず、今の私のままでいれますように…。
私たちの学校が見えてきたところで小学生が「バイバーイ!」と元気よく手を振り走り出した。元気に走っていく子どもたちとは対照的に心配そうに何度も振り返る保護者三人衆が少しおもしろくて、二人でふふっと笑った。
「小さい子って朝から元気だよな。あんなに朝から走らないわ。陸上部だけど笑」
「そういえば体調はもう大丈夫なの?歩いてきてよかったの?部活は今日参加できそう?」
「質問が多すぎて何から答えていいかわかんないよ笑」
「ごめん…つい話せたのが嬉しくて…」
「…もう元気。ご飯いっぱい食べて、しっかり寝たし、部活は行くつもりだよ。今日アップ一緒にしない?先輩たち来ないらしいよ」
「えっいいの?私なんかで。後輩とも仲良いからその子たちと一緒にやったほうが楽しいんじゃ…?私なんか女子だし…琉嘉のペースについていけるかなぁ…」
「それだったら俺が優美にペース合わせるし。……俺が一緒に走りたいから言ってるのわかんない?」
「……一緒に走れるの楽しみだな」
「……優美のバーカ」
そうやって素っ気なく言い放ったけど、よく見ると耳が少し赤くなってて、恥ずかしいときとか照れてるときによくする髪を触る仕草をした。本人は無意識らしいけど、長く一緒にいたら…そういうところもしっかり見てるからわかるし…。
心臓がドクドクうるさい。琉嘉に聞こえてないかな。照れてるのバレてないかな。またからかわれて、バカにされるの嫌なんだよね。余計に照れるから。
「…ねぇ、聞きたいことあるんだけど」
「聞きたいこと?」
琉嘉が聞きたいことがあるとか珍しいな、と思って何?対応と思ったらいつもは見せないような少し、険しい…というより怖い顔をしていて聞けなかった。声のトーンが、いつもの優しい声じゃなかった。
なんだろうと首を傾げる私を琉嘉はじっと見つめる。聞きたいこと、聞きたいこと…。なんだろう…テストのことかな。今回のテスト範囲広いし、結構複雑な応用問題出すって先生たち言ってたからわかんないところでもあったかな。
「…そんな怖い顔して、何?テストのこと?それともそれ以」
「今不安なこととかないよね?」
「えっ?」
「最近怖かったこととか、嫌だったこと。ないよね?なんか、隠してるような気がする。違う?」
「……」
「顔色悪く見えるし、元気ない。俺と話してるときの表情がなんか悲しい」
「……そう?私は元」
「絶位なんか隠してる。何?言えないようなこと?」
私の声を遮って何も臆することなく聞いてきた。
不安なこと、怖かったこと、嫌だったこと、隠してること。顔色が悪い、元気がない、表情が悲しい。
あぁそうだ。私は今、不安で不安で仕方ない。いつ君のことを忘れるかわからないんだから。夢が現実になりかけてて怖くて怖くてたまらない。死神なんて信じるバカ、どこにもいないだろうと思ったらほんとに死神だったんだから。
誰にも言えずに隠してるよ。家族にも、琉嘉にも。彩葉にも咲にも。隠し事は絶対しないはずの私が。言うのが怖くて怯えて、恐れて。言おうと思ってけど言えずに家を出て。
顔色も悪くなるに決まってる。あんな夢を見て、悪魔に襲われ、恐怖で涙を流すような夢が現実になれば、正常を保つことができるわけがない。元気がない。出るわけない。
表情が悲しい?そうだね、そうなるよね。だって近いうちに忘れてしまうんだから。いくら今こうやって話せても、この会話も全部なかったことになるんだから。
私は必死に笑顔で見抜かれないようにしたのに。
傘に入れてもらって、久しぶりに話せて、ちょっとまた距離が近づいたなって。嬉しい、幸せだな。そう頑張ってポジティブに思っても、いつかは忘れちゃうんだなと思ったら心がチクリと針を刺すように痛んで、泣きそうになって。
「……なんでわかるのよバカ」
「図星、やっぱり。何、何があったの。隠さな」
——パシンッ…
「えっ?」
「ごめん、私先に行くね」
二人だけの空間に空気を切り裂くような音が響き渡る。それに驚いたように電線に止まっていた小鳥たちがバサバサと慌ただしい様子で遠くのほうに飛んでいく。
目を合わせれなくてほんの一瞬しか見えなかったけど状況が、理解が追いついていないようだった。目を見開いて、私に振り払われて右手が止まったままで愕然としていた。もし私が同じ立場だったらどうなったか頭が真っ白になって、追いかけることも驚いて声を出すことすらもすらできないだろう。
「…ごめん…ごめんね」
聞こえるはずもないような、バカみたいに小さな声で謝った。
顔を伏せて、早くここから離れよう、できるだけ追いつかれないようにしようと走り出した。
「…私、やっぱり最低だな笑」
ポロポロと涙が溢れてくる。悪いのは自分なのに、どうして自分がいつも泣いてしまうのだろう。そんな最低で最悪な自分に嫌悪する。
濡れてる私のスカートに落ちて、消えたいった。
絶対、嫌な思いさせたよね。私のこと“嫌なやつ”って思ったよね。今、私の後ろ姿は、君の瞳にどんな風に映っているのだろうか。
もっと優しい言い方、出来たはずなのに。手を振り払わなくてもよかったのに。自分のしたことに嫌気がさして、自嘲の笑みが溢れた。
ごめん、琉嘉。今ここで泣いてる姿を見せるわけにはいかないんだよね。そうしたら君は、もっと私に優しくするでしょ。見た目からはわからないほっとけないような性格してるから「泣き止むまで待ってあげるから」とか言うセリフを普通の顔して言って、私のことを抱きしめるでしょ。
私にはわかるよ。だからごめん。
スカートと髪が雨を吸ってびちょびちょ、ズブ濡れだて寒い、まだ少し寒い。保健室に、着替えを貸してもらわなきゃ。
…でももういいや。ちょっと前までは、今風邪は引いてほしくないなぁと思っていたけど。
今日の放課後はいつもと違って、少し特別になると思っていたけど。
今それを、自分の手で壊してしまったから。
⭐︎
泣いて、息が上がって、苦しくて。
自分を責めた。朝からずっと、自分が最低だと、貶した。
みんな、私のことを優しいって言ってくれてるけど。全然優しくなんかない。みんなのことを大切にしてるいい子だって言ってくれるけど。まったくいい子なんかなんかじゃない。
手を振り払って、勝手に走り出したし。自分の勝手な都合を黙ったまんま、人を傷つける最低最悪な人間なんだ。ほんとその通りだなと実感した。嫌なほど。
あの後、私は喉の奥が血のような味がして気持ち悪かったけど必死に走った。思いっきり振り払って、唖然としていた君から離れるために。
途中で転けそうになった。濡れたスカートが足にまとわりついて、踏ん張った足が重くて、何度も絡まりそうになった。
後ろを振り返ること、振り返って戻ること。そして「ごめん」と一言言うこと。簡単なことじゃないか。なんで戻らなかったんだろう。
私、何が一番怖いんだろう。
隠し事がバレて怒られること?
琉嘉に嫌われること?
私の運命が決まっていること?
死神が夢に出てきたこと?
いや違う。全部嫌だけど、どれも嫌だけど、やっぱり一番は——
「…私は琉嘉を忘れて、琉嘉は私を忘れないことでしょ…」
バタンッ、ガチャっと落ち着きのない音がいつもより大きく聞こえた。
校内に入るまで一度も足を止めなかった。追われていないとわかっていても、どこか心がそわそわして安心できない私。
急いで校門をくぐり、急いでグラウンドを渡る。急いで濡れた靴下を脱いで素足をスリッパに入れる。スリッパを素足で履くのはこんなにも気持ち悪いのか。
そのまま急いで三階まで階段を駆け上がって、リュックもそのまま一緒にトイ入れに駆け込んだ。
いつも通っているはずの道が、初めて通るような道に思えて、なんだか怖かった。
いつもは賑わって、うるさいほど生徒たちの声が行きかっている校舎がひっそりしている。一日の大半を過ごす、一軍女子男子たちがはしゃいでいる教室がシーンとしている。
琉嘉は私の後を追ってこなかった。止めようとする仕草も、私に声をかけようともしなかった。私の異変に気を遣って追いかけてこなかったのか、それとも追いかけたくても追いかけれなかったのか。わからないけど、心底で「よかった」と思う自分に反吐が出た。
「私、今からどうすればいいんだろう…」
消えそうな声でポツリと呟いた。換気扇の音に掻き消され、結局誰にも届くことのない声。ポロポロと温かい雫が私の頰を濡らす。いくつもこぼれていく。
胸が締め付けられたように苦しい。悲しくて、寂しくて、自分が前よりもっと嫌いになって、辛い。呼吸が乱れて荒くなる。深呼吸しないと、深呼吸しないとって自分に言い聞かせても泣いているせいか全然言うことを聞いてくれない。
グラウンドのほうから生徒たちの声が騒がしく聞こえ始めた。外から聞こえてくる生徒たちに紛れてて………琉嘉もいるのかなぁ。どんな気持ちで学校に足を踏み入れるんだろう。
琉嘉に今すぐ会いたい、抱きしめてもらいたい。
そして謝りたい。
さっきはごめんなさい、自分勝手な行動で琉嘉を傷つけてしまってごめんなさい。
心や口ではスラスラ言えるのに、いざとなったらどうせ言えないんだろうな、私。
こんな最低な人間に近づきたくないって思ってるかもしれない…けどそれでもやっぱり——
「…会いたいよ…」
……いっそのこと、琉嘉も私と同じ症状にかかってくれないかという悪魔が私の頭をチラつく。酷いってわかってる。琉嘉はまったく関係ないのに、琉嘉まで巻き込もうとする自分の最低な考えは。
最愛の人の心配と優しさに満ちた手を何も考えることなくただ振り払う自分が最悪な人間だということも。
このことも、あの死神が持ってる運命の資料に載っているのだろうか。今日のあの最低なことも。
「…謝ろう、ちゃんと。このままじゃダメだよね…」
絶対に今日、謝ろう。タイミングを狙うんじゃなくて、私からちゃんと謝りに行こう。つべこべつべこべ言わずに謝ったほうが私のためだよね。私が悪いんだから私から謝らないと。
「……自分が悪いんだから、内気になるなっ」
その前に私のこのびしょ濡れの制服をどうにかしないと。水が垂れたら掃除しないといけない…と言うか、普通に濡れたままじゃ寒い。
——キーンコーンカーンコーン…
多分…朝礼前のチャイムであろう音に急かされて、私は急いで保健室に着替えをもらいに行った。
⭐︎
「クシュンッ…あぁ寒…」
二限が終わった後、三限の準備が終わり席についてひたすら両手の平で摩擦熱を作ろうとした。
理由はただ一つ。寒いからだ。
着替えてから時間が経っているはずなのに未だくしゃみのオンパレードとは一体どう言うことだ。
…なんか、中学生のときの保健体育の授業で雨水が蒸発するときに体温を奪うから身体が冷えてしまうことがあるとか、身体が冷えた状態だと風邪を引き起こすとか先生が言っていたような気がする。
タオルも借りて髪の毛も少し拭けばよかったな。冷房の効きすぎた教室に冷えた身体で入ったのがまず失敗だな。あぁお風呂入りたい…いつもだったら熱すぎて入れなさそうな温度のお風呂に浸かりたい…。
お湯かあったかいスープも飲みたい。ホットミルク…ホットココア…コーン茶…コーンスープ…シチュー…。なんでもいいからとにかくあったかいやつを私に恵んでください…。猫舌だから夜ご飯のときはいつも味噌汁は最後に飲む派だけど、今なら一気飲みできる気がする!
お風呂入りたい、あったかいものがほしい、ドライヤーで髪の毛を乾かしたい。まだ完全に乾ききれてないのがよくわかる。たまーに毛先から雫がポトンと落ちてくる…。
「クシュンッ…クシュンックシュンッ。こりゃダメだね。三連続だよ、三連続」
「優美ちゃん大丈夫?雨に濡れて風邪ひいた?」
「なんで傘取りに帰らなかったの?のほうが絶対そこまで濡れずに済んだでしょ笑」
私の後ろで心配そうに見つめる彩葉とちょっとだけバカにしてる咲。
「いや、それはそうなんだけど…」
「けどぉ?」
「……えっと、そのぉ…誰だったっけ…」
「えぇぇ!忘れたのぉ!?朝あったことなのにぃ!?優美ちゃんっ思い出してよぉ!」
「記憶力おばあちゃんじゃん笑大丈夫か」
記憶力おばあちゃん…。めっちゃディスられてるけど違う、違う、違う!結構笑い事じゃない。私は記憶力がないんじゃなくて、変な病気のせいなんだよと笑っている二人に叫びそうになった。
朝あったこと…朝あったこと…。学校についてからトイレに駆け込んで一人で泣いてたのは覚えてる。その前、ずっと走ってたのか息が切れてて苦しかった。心臓が張り裂けそうなぐらいに悲しい気持ちになったのと覚えてて…。
雨が降った。
短い時間だったけどすごい土砂降りになって、でも傘を持ってなくて…家に帰ろうかと思ったけど結局帰らずにそのまま濡れて…誰かが…
「あっそうだ!思い出した!」
「何!?急に大声出さないでよ!」
「それにしても急だねぇ笑ていうか、思い出したって何を?」
「琉嘉だよ琉嘉っ!ごめんっちょっと待ってて!」
「はぁ!?」
私が急に走り出したことにびっくりした様子の咲。後ろから「待ちなさいよっ!倉橋がなんて!?」と言葉の槍が飛んでくるが気にしない。
今から言わないと、今言ってこないと絶対忘れる。思い出すのに、時間がかかってきている気がするから。
「優美ちゃんっ!どこ行くの!?もう少しで三限始まるよ!?ちょっと優美ちゃーん!」
「わかってるっ!すぐ終わる!たぶんね」
最後のほうはわざと聞こえないようにした。もう少しで三限が始まるって、五分もあれば十分伝えられる。
忘れないうちに、伝えないとでしょ?
「…ごめんねってね」
先生がまだ来てないから教室から出て行ってもセーフだよね。
私は急いで三つ隣の教室に向かった。
教室が賑わっている。生徒たちの明るい声が窓の隙間から漏れて聞こえてくる。
アニメやドラマ、メンタメの話、恋愛話。いろんな話が私の耳に入ってくる。
どうやら移動教室じゃないらしい。見てないからわからないけど。
ドア、開いてる。クーラーつけてるのにもったいないな。
でも、ドア開けて人を呼び出すって結構緊張するの私だけかな。高校生ぐらいになったらすぐイジったり、「もしかして告白ぅ?」とかうざい男子がいっぱいだから。相手にも申し訳ないというか…。
「どこにいるんだろう。全学年、同時席替えしたから前の席じゃないよねぇ…」
あまりがっつり入ると目立ってしまうので、ちょっと覗く程度で探した。
「おかしいなぁ…いない…他の教室に遊びに行ってるのかなぁ」
「誰探してるの?って…優美じゃん」
誰かに肩をポンポンと優しく叩かれて、とっさに身体が後ろへと振り向いた。朝は制服だったのに、体操服に着替えてるから、誰かと思ったけど声を聞いてすぐわかった。
ずっと心の中で忘れないように名前を唱えて顔を浮かべて、なんていうかイメージトレーニングしてたから…よかった。
髪の毛がバサァと垂れるぐらい頭をグッと下げる。
「あっ琉嘉…えっと…さっきはごめんなさいっ」
「えっ?」
「傘、せっかく入れてくれたのに…最後、嫌な気持ちにさせちゃったよね…手も振り払っちゃったし…私自分が最低だなって思う…」
「…あぁさっきのね。全然気にしないで。怒ってもないし嫌な気分にもなってないよ」
「怒って…ないの?」
「うん、これっぽっちもないよ」
朝の笑顔とはまた違う、微笑みを私に見せながら親指と人差し指で“ちょっとマーク”した。
「俺はただ、心配になっただけ。優美があんなことするの初めてだったからさ」
「心配って…嫌っていう気持ちが勝つじゃん。あんなことされたら…」
「そんなことないってほんとに。びっくりして動けなかっただけで、優美には笑ってほしいよ。あんな怖い顔見るのが初めてで動けなかっただけ笑」
本当は傷ついてるんじゃないかな。隠してないのかな。私に言いたくないとか、関わりたくないから言わないとかじゃないのかな。
「今、本当は俺が嘘ついてるんじゃないなとか思ってるでしょ」
「うっ……思ってました」
「正直でよろしい。…もうすぐでチャイムなるし、授業終わったらまた来てよ…優美と話したい。よかったらお昼ご飯も一緒にどう、かな?」
恥ずかしいのか、目を逸らしてぎこちなく聞いてきた。
それが可愛くて、自然と笑みが溢れた。
「もちろんっ!また後でねっ!」
うん、やっぱり謝ってよかった。
一番最初にそう思った。まだ少し、本当は嘘ついて…なんて思ってるけど、あの笑顔に嘘は含まれていないと私は信じる。
あぁ、早くお昼にならないかな。
時計を見て、焦って、急いで自分の教室に戻る私を、琉嘉は最後までずっと手を振ってくれていたような気がする。
⭐︎
四限の終了のチャイムが校内に響き渡る。みんなの肩の力が抜けて、「お腹すいたね、お弁当食べようよ!」
「マジ腹減ったぁ〜」とクラスメイトの声が教室を包み込んだ。
「お腹すいたぁ…」
今日の三、四限目はいつもに比べてすごく長く感じた。先生に目をつけられない程度に空を眺めていても、時間が過ぎるのが遅くて。待っても待っても、何回も時計を見たけど針はちっとも動いてなかった。
早く終わってほしいのに、早くお昼になってほしいのにって思えば思うほど時間の流れは遅くなっている。
私はずっと、四限目の終わりのチャイムがなるのを待ってたんだ。だって私は、私は……………あれ?
「なんだったっけ…?」
なんで早く終わってほしかったんだろう。なんで早くお昼になってほしかったんだろう。お腹すいてたから、お弁当が食べたくて仕方がなかったのかな。
別にいつものこと…かな。四限目が早く終わってほしいと思うのはよくよく考えたらいつものことじゃないか。
「私…何か忘れてるような…うーん…なんだろう…」
こう…なんか。なんか大事な、特別なことを忘れているような気がする。頭のどこかに引っかかってる。
「優っ美っちゃんっ!おっひっるっだっよっ!」
「うわっ!?びっくりしたって彩葉か…そうだね!お昼ご飯だね」
何かいいことがあったのか彩葉の機嫌が良い。というか良すぎる。るんるんしてるっていうか、ぴょんぴょんしてるっていうか。テンションが上がってるのが見てわかる。
「彩葉、やけに上機嫌じゃん。どうしたの?」
「やっぱりそうだよね!私も思ったんだけど、彩葉っていつもこんな感じだから気のせいかと思ったけど…さすが咲」
「二人とも、そんなにうちのこと好きだからわかるんでしょって、まぁ冗談はここまでにしてっ!ちょっと聞いてほしい!」
「聞いてほしい?なになに!?どうしたの!?」
聞いてほしいと言いながら、なかなか口を開いてくれない。あのね、あのねと恥ずかしそうに繰り返して何が言いたいのだろうと気になって身体がうずうずする。
顔を覗き込んでよく見ると頬っぺたがほんのりと赤くなっている。耳も赤くなってる…全然気づかなかった…。この教室は十分クーラーが効いてて涼しいし、気温が高いから暑いというわけではなさそうだ。
「ちょっと彩葉。言いたいことあるなら早く言ってよ。私お腹すいて暴れるよ」
「ちょっともう少し待ってよ〜ご飯食べててもいいから〜お願いっ!」
「オッケー!本人が言ってるからじゃあいっただっきまーす!」
そう言って、薄い水色が涼しげなランチクロスの結び目を解き、お弁当を食べ始めた。
私も食べようかなぁと一瞬思ったが、ご飯は一緒にいただきますを言って食べたいなと思ったので我慢した。
私のお腹は今にも悲鳴をあげそうだ。今だったら生徒たちのしゃべり声に消されて誰にもバレないだろうけど…一回鳴ったら止まんなくなるからなぁ…。
あっそうだ。私の頭の中の豆電球がピッカーンと光った。よし、いいことを閃いた。
今のうちになんか忘れている、そのなんかを思い出してみよう。よく、しっかり、ちゃんと考えたら思い出すかもしれない。
自分で言うのもなんだがいいアイデアでは?時間は有効活用しようってよく言うしね。
「………うーん…なんだったっけぇ…」
「はに?ふう、はにかはすれほとしはの?」
口にいっぱい詰めた咲が首を傾げながら私に訊ねる。
多分だけど彼女は今、「何?優美、何か忘れ事したの?」と訊いたのだろう。
こう言うことはよくあるから、最近は何言ってるのかよくわかるようになってきたけど…。
咲の姿をよ〜く見た。何?どうしたの?と言わんばかりにこちらをじーっと見つめてくる。
…アニメとか漫画に出てくる、どんぐりを口いっぱい詰めたリスみたい…笑。
「いや、なんか…誰かと大事な、特別な約束をしたような気がするんだけど…誰だったか忘れちゃって…」
「約束?」
「そう、約束…。いや、約束したかもどうか怪しんだけど…」
「うーん…約束ねぇ。これは大問題ね」
咲は私の話を聞いて、食べるのを一旦やめた。右手に持っていた箸をお弁当の上に置き、今度はその右手を顎に移す。
「あっわかったぁ!」
「なになに?何がわかったの?」
「倉橋だよ倉橋!三限の始まる前、教室出て行ったからどこに行ってるのか見てたけど、あれ倉橋のクラスだったよね?何か話したんでしょ?違う〜!?」
倉橋…倉橋…。私の友達に倉橋っていたっけ…。
頭にモヤがかかってる。もう邪魔!このモヤのせいで頭がぼんやりする。パッとしないし…。
私は頭からモヤを取るように頭をぶんぶんと横に振った。このモヤがいけないんだ。モヤのせいで…
「あっ!?忘れてた!今何時!?ヤバっ!?ちょっとごめん!」
「思い出した?!何!ど、どこ行くの!?」
「私行かなきゃいけないとこあるからごめん!また明日一緒に食べよ!ほんとにごめん!彩葉、また後で話聞かせて!」
「えっはぁぁぁ!?」
彩葉の驚きの隠せない表情に「ごめんっ!」と思わず謝ってしまう。二人の声が背後から聞こえてくる。「どこ行くの!?行くところがあるってどこに!?」と咲が私に問いかけるのを仕方なく、聞こえないフリをして私は無地の保冷バックを抱えて急いで教室を出た。
錆びついた扉の前に立って深呼吸をする。ちょっと錆びてて回しにくいアルミ製のドアノブを回した。
数メートル先、広く、自由に、広がる青空の下、ポツンと置かれた長椅子に一人、誰かが座っていた。
風に吹かれて揺れる髪、音に気づいて顔をこちらに向ける。
「遅いよ優美。約束、忘れたのかと思ったよ」
「いや…まあ、正直言うと忘れかけてたんだけど…ほんとごめんっ!」
パンっと両手を合わせて謝罪すると頭の上からふふっと笑い声がした。
「何笑ってんのよっ!」
「いや笑優美が約束ごとすっぽかすとか滅多にないからさ、全力謝罪がおもしろくて」
「だからって…笑わなくてもいいじゃん!」
「ごめんごめん笑あーお腹すいたー。食べようよ」
走り出した彼は私に手招きをする。咲と彩葉に後でちゃんと説明しないとな。
足早に長椅子のほうに行き、腰をかける。
「もうちょっとこっちおいで。落ちるよ」
面白おかしそうに笑いながら私の身体を引き寄せる。
「私のこと、どんだけバカにしてんの…」
「落ちて怪我したらどうするのさ」
「ご心配どうもっ!」
こう言うのは茶番だ。昔からよくあること。琉嘉はすぐ私のことを子ども扱いしたり、揶揄ったりしてくる。でも別にバカにされて嫌って思ったことないし、嫌いになったこともない。私はむしろ、そのほうが愛されてる証拠かなって思ってる。
「このお弁当誰が作ってんの?美味しそう」
さっきからずっと視線を感じるなと思ったら私の弁当を指差して“ちょっとだけくださいアピール”をしていたからだ。自分も美味しそうな弁当食べてるくせに…。
「いつもはお母さんだけど、今日は私が作った。すごいでしょ」
昔から料理したり、物を作ったりするのが好きなので別に自慢するようなことじゃないったが鼻を高くした。
「すごいって…優美料理とかするの得意じゃん。これ美味しそう…食べ」
「ダメ、無理、絶対あげないっ!笑」
「えぇ〜そんなに…いや?」
琉嘉の言葉を遮って私は断った。それに落胆し肩を落とす。その姿を見たらちょっとあげたくなった(いや、後からあげるけどっ!)。
というか、心の底からあげたくないわけじゃない。これは演技というやつだ。
私の食べる分がなくなるとか、人に食べ物を分けるのが嫌とかそんな意地汚い女じゃないしこれには訳がある。一番の理由は私より琉嘉のほうがはるかに料理上手だからだ。琉嘉が美味しそうと言ったのはなんの変哲もない普通の唐揚げで、料理男子には唐揚げなんてお茶の子さいさいで作れるだろう。なんなら私が作るよりももっと美味しく作れるに決まってる。
「別に、あげたくない訳じゃないからそんな顔をしなくても…」
「嫌じゃないなら一口ちょうだいよ」
「だって唐揚げとか琉嘉のほうが絶対美味しく作れるじゃん。私のじゃなくても別に…」
「いや、優美が作ったんでしょ?今日のお弁当。食べたいじゃん、自分の彼女が作ったやつ。彼氏はみんな憧れると思うよ?彼女の作った弁当食べるの」
“食べたいじゃん、自分の彼女が作ったやつ”
“彼氏は憧れるよ?彼女の作った弁当食べるの”
彼女彼女って…そんな軽々しく言わないでよ。
自分の耳、顔、身体が熱くなっていくのがわかる。心臓の鼓動がドクン、ドクンと鼓膜を揺らす。
いつも、琉嘉は私のことを揶揄う。でもそれは、本人からしたら揶揄ってる訳じゃなくて、普通に本心なのだろうけど。普通の顔して、普通の声で、言ってるけど。少しは私の気持ち、わかってよ。
「…恥ずかしいし…照れるじゃん」
「えっ何?聞こえない。あっもしかして」
「照れてない」
「うっそだー。顔とか耳、真っ赤だけどそれでも照れてないって断言できる?笑」
このちょっとバカにしてるような、意地悪い笑いがほんと、イライラする。余計に私の顔を熱くする。絶対前世小悪魔だ。
「嘘じゃない。ほんとに照れてないしっ!」
「嘘つく必要ないよ。照れてても可愛いから安心しなよ」
「琉嘉のバーカっ!もう知らないっ!唐揚げもあげない!放課後一緒にアップするのもなしっ!」
照れ隠しのために私はそっぽを向いた。ごめんっと気持ちのこもってない謝罪が聞こえてきたけど、私は振り向かなかった。だってまだ顔赤いもん。ドキドキしてるもん。
わかってるでしょ。私の顔がどんどん真っ赤になっていること。私の横で、笑ってるんでしょ。こんなバカみたいに顔赤くしてる私に。
こんな笑いっぱなしの、私たちだけの日常はいつまで続くかな。
そんな悲しいことを考えた。
その瞬間、暑さが一気に吹き飛んで、恐怖の渦に包み込まれたかのような気分になった。
こうやって話してても、やっぱり気になってしまう。どうしても頭から離れなくて、話してる途中で忘れてしまうんじゃないかって怖くて。
私は、琉嘉にこのことを言える日が来るのだろうか。
ちょっとだけ、涙腺がうるっとなったのを我慢して、体を元に戻した。
いつか、大好きだったよって言わなきゃいけないのかな。
「どうした?急に悲しい顔して。何?大丈夫?」
「なんでもないよ。まぁ仕方ないから唐揚げ一つだけあげる」
「いいの?やったね」と普段は見せない、私にしか見せてくれない特別な笑顔。屈託がなくて、すべてを吹き飛ばすような優しい笑み。
好きだな。やっぱり。
そう思った。なんの前触れもなく、唐突に。
いつも、ずっと、前から見てきたこの表情はやっぱり私だけの宝物のような物だなと思った。
私はいつかこの笑顔すら忘れてしまうけど…。
「………からっ…」
「声小さくて聞こえっ?なんで泣いてんの!?俺なんか悪いことした!?」
聞こえないようにわざと言ったんだよ。なんて言ったのかは秘密にしとくね。
私の涙を拭う風は冷たくて、空は今にも泣き出しそうなぐらい、どんよりとしていた。
第三章 5月7日になるまで
あの日、私の夢に死神という男が現れて忘愛症候群を告げられてからはやくも一ヶ月が経とうとしている。
症状は軽くなることないし、自覚症状ないだけでどんどん悪化してるかもしれないと思えば怖い。この一ヶ月間だって全く怪しまれたわけじゃない。
恋愛話が大好きな彩葉が、私の恋事情とか最近二人の間であったこととか聞かれたときは、まず琉嘉の名前を思い出すのに時間がかかった。その時点で二人は私に首を傾げたし、心配してた。咲はなんの冗談かと笑ってた。
琉嘉と廊下ですれ違ったときなんか誰だかわからなくなって手を振ってくれたのに目を逸らしてしまったり、声かけられてもスルーしてしまったり、酷いことばかりしてるなと自覚してる。
一ヶ月、怪しまれて、心配されて。
“ちょっと疲れててぼーっとしてた”
“心配しないで、大丈夫だって”
“私が琉嘉のこと忘れるわけないじゃん”
“すれ違ったの気づかなかった”
“ちょっと友達と話すのに夢中になって…ごめん”
ごめん、ごめん、ごめん。
大丈夫、大丈夫、大丈夫。
疲れてて、疲れてて、疲れてて。
気づかなかった、気づかなかった、気づかなかった。
こんな言葉が私の口からどれだけ溢れたか。
恋愛は得意じゃないけど、前まで普通に話せてて、話してて楽しかった恋愛の話をすることが少なくなった。
琉嘉と一緒に話したり、部活で一緒に活動したりすることが少なくなった。一番最近、一緒にやったことはあの日、お弁当を屋上で一緒に食べて、その放課後の部活で一緒にアップをしたぐらい。
前みたいに普通に話したい。
“今日は絶対話そう”
そう思ってもいざ教室の前に立つとやっぱり怖くて、気づけば自分から琉嘉のほうへ行くのをやめていた。
避けてるわけじゃない。琉嘉のことが嫌いになったわけじゃない。大好き、大好きだけど…。
一緒にいると悲しくなる。想えば想うほど辛くて、涙が出そうになって、堪えられない。
彩葉や咲の前では極力恋愛の方向に話を持って行かないように気をつけてるし、不自然に思われないようにちゃんと思い出してから琉嘉と話すようにもした。
それでもやっぱり全部は隠しきれなかった。普通に心配されるし、嘘をつくことしか私はできない。
二人に心配かけるし、琉嘉にも迷惑かけちゃうから。
早めに言ったほうがいいっていうのはわかってるし、死神にも言われた。「このまま隠すつもりか」って。隠すつもりはない。ただ言い出すのが怖いだけ。信じてもらえるかどうかもわかんないのにどうやって説明したらいいかとか、わかんないじゃん。
そうやって言い訳してる。
ここ最近、夢に出てくることが少なくなってきて、もし夢に出てきたとしても特に何も話さないし、向こうから話してくることもない。
ずっと「私はいつ、琉嘉のことを忘れるのか」と聞いても「まだ言うのは早い」とか「お前が何かを成し遂げたときに言う。何を成し遂げろとかは言わない。自分で考えろ」とか言ってなかなか言ってくれない。しつこく、相手が呆れるぐらいの頑固者な私がどれだけ聞いてもダメだった。
まだ言うのは早いって、じゃあいつ言ってくれるの?
何かを成し遂げるって何を?
自分で考えろって言われても、わかんないよ。
朝ごはんを食べてるときも、通学してるときも、授業中も部活のときだってずっと考てる。
一日中、頭の中は“忘愛症候群”なことでいっぱいで授業なんかまともに受けれない。それどころじゃない。
勉強のほうが大事ってみんなは口揃えて言うかもしれないけど、私の頭がおかしいのかもしれないけど、私は必死なんだ。
私が何をすればいいか。どうすれば私のタイムリミットを教えてもらえるのか。
私が成し遂げなければいけないことってなんなのだろう。その答えが出るときはいつくるのだろうか。
⭐︎
机の上に置かれた、食べすぎたお腹のようにはち切れそうなバッグに目を向ける。バッグだけは足りずに念の為に持っておいたトートバッグもセットで。
「優美ちゃんの荷物ちょっと多くない?気のせい?笑」
「気のせいじゃないよ、私…肩外れないかな?…笑」
明後日から夏休み、一ヶ月ちょっとの休暇が始まる。
当日に教科書やワークを一気に持って帰るのは気が引けたので今日、まとめて持って帰ろうとしたのだが…。
これもこれで計画性がないなと自分で悟る。
こう…もっと分別してというか、今日は教科書持って帰って明日はワーク類を持って帰ってとか起点を聞かせれるようになりたいと常々思う。
母親の“一気に終わらせたい精神”という遺伝子をそのまんま受け継いでしまったのが原因かなと一人笑いをした。
「じゃあホームルーム始まるぞー」
ワイワイ、ガヤガヤというような表現が似合う教室は担任の合図によって生徒たちのしゃべり声はパタリとやんだ。
「えぇまず配布物がが四つ…いや五つ配るぞー。その後、連絡を何個かして…五分で終わらせたいところだが、十五分はかかるかな」
「えぇー…」「最悪〜」「めんどくせぇ」と生徒たちのどよめきの声が一斉に上がる。「今日大事な予定あるのにぃ!」と後ろからお怒りの声が聞こえる。
振り返ってみると不機嫌そうな表情を浮かべる彩葉に笑いがでた。
「そんなに怒んなくても笑。大事な予定って何?」
「先輩と五時半からお祭り行くんだけどぉ美容室でヘアセットしてもらって浴衣の着付けも予約しててぇ…時間間に合うかなぁ…」
そういえば一ヶ月前、同じ吹奏楽部の片思いの先輩と二人でお祭り行く約束したって言ったなと、彩葉の話と結びつけて納得した。彩葉とパートが同じで、よく一緒に練習をしてるうちに…的なことを恥ずかしそうに言ってた気がする。初恋らしく、緊張するけど楽しみっ!と目をキラキラさせていたのを覚えてる。
「せっかくだから可愛くしていきたいな…」
「大丈夫、間に合うって!彩葉はそのままでも可愛いからっ!」
「えっ!?それほんと!?お世辞としても嬉しい!」と機嫌を直した様子。「お世辞なんかじゃないよ。彩葉の笑顔見てると私も自然に笑顔になるよ」というとさらに嬉しそうに足をジタバタし始めた。
「じゃあ、連絡入るぞー。まず一つ目は…」
いつもは“手短に”でお馴染みの担任の話が珍しくちょっと長くなりそうでめんどくさいなとマイナスな考えが脳裏に浮かんだ。ちゃんと聞いていたほうがいいのかなと思いつつ、やっぱりいいやと外の世界に目を向ける。
外はいかにも地獄が広がっていた。ギラギラとグラウンド一面を照りつける日差しは十六時半を過ぎているというのに一向に沈んでいく気配が見られない。
犬の散歩をしている人や自転車に乗ってる人が汗を拭っている。日傘を差したりアームカバーをしていたり日焼け対策はバッチリってわけだ。
今から部活は結構大変だなぁと顔を顰めた。顰めた顔が戻らない。
私は大の汗っかき。タオルと汗拭きシートと冷感スプレーとキンキンに冷えた水と色々準備満タンだけど…。お風呂に入ってドライヤーする前のトイプードルみたいな感じだ。トイプードルほど可愛くはないが、一番わかりやすい例だと思う。
熱中症警戒アラートみないなのでてくれないかなぁ。
これでたら全運動部練習中止になるからあぁ。でも県総体も近いし練習サボってたら、監督とコーチに呼び出されるからそれは避けたいし。
私も中学から吹奏楽部に入ってればよかった〜。吹奏楽部って部屋の中で練習してるからクーラーが入ってるってことだよね?ということは快適…羨ましぃ〜。こっち吹いてくるの熱風…。
ダメダメ、やる気なくしたら怠けるなっ!て説教される。みんなに笑われるの嫌だし、練習して帰り道、コンビニ寄ってアイス買って帰ろっと。
「ちょっとやる気出てきた…」
「じゃあホームルーム終わるぞー、あいさつ」
チャイムと同時に担任の話が終わった。やっぱ、空見て何か考え事してたらあっという間だな。
「起立、気をつけ礼」
委員長の号令でクラスメイトたちが一斉に教室から出ていった。部活に急いで行く人もいれば、中には彩葉みたいに気になってる人となんちゃってデートに行く人もいるのかなぁと口元の口角がニヤッとなった。
「優美ちゃん咲っ!バイバーイ!」
「また明日、デート楽しんで!」
「でででっデートじゃないからっ!?」
デートという言葉に動揺した彩葉を見て私と咲は腹を抱えて笑う。
「じゃあうちもう行くね」
「私も一緒に下まで降りる。優美も来る?」
「うんっ!」
早めに行って早めにアップと体操を終わらせよう考えていたのでちょうどいいと私は二人の入って階段を降りていった。
⭐︎
しっとり、じめじめ。少し独特で、だけど心が落ち着く雨の匂いがする。遠くで雷がゴロゴロと轟いている。
もうすぐ雨が降るのかなとちょっと心が躍った。室内練習となると練習メニューはイージーだからだ。
外に出て、グラウンドを見回してみたが誰も外に出ていない。まだホームルームが終わってないのかサボりがいるのか。どちらにせよ、当分来そうにないので私が準備をしておこう。
「二年の北村優美です。部室の鍵を取りに来ました。入ってもいいですか」
まあまあ大きな声を出したつもりだったがどの先生にの届かなかった。勝手に入ると注意されるのでもう一回行ったほうがいいのかなと思いつつ、私が聞こえなかっただけで返事はしてくれているのかわからなくてどうしようかと扉の前で突っ立った。
「あっどーぞー」
「失礼します」
中に入るときは一礼という私たちの学校のルールをきちんと守ってくつずりをまたごす。
業務用エアコンがちょうど自分の顔ら辺を吹き抜けていく。大きさが大きいから冷たく感じるのか、それとも職員室だけ設定温度を低くしているのか。どちらにせよ私には天国にしか思えない。
「失礼しました」
監督が百円ショップで買ってきた招き猫のキーホルダーを手にとって足早に職員室を後にした。私が走るペースに合わせて付属でついた鈴がシャランシャランと音を奏でる。
通知表をギリギリまでつけているやら三年生の三者面談の準備やらで職員の先生たちはドタバタと落ち着きのない様子だった。
小学校とか中学校のときはこんなに先生たちバタついていなかったけどなぁと不思議に思って首を傾げる。
「えーっと部室二の鍵、これだったっけ?」
十個ぐらいある鍵の中からそれらしいものをなんとなくで差し込んでみたがそもそも鍵穴に入りもしない。
「それ違う。上のほうがクローバーみたいなやつ」
てっきり一人だと思い、驚いて後ろを振り返ってみると「何してんの?」と言わんばかりに冷たく醒めた笑いをしている同い年か先輩の男の人が立っていた。
パッとみて誰だかわからなかったが私と同じ陸上部の人だ。真っ白なTシャツの上、左胸のところに青野高校陸上部と明朝体で印刷されている。
“この人”背、高い。顔、すっごい整ってる。
なんかどこかでみたことあるような人だな。何回も話したことあるような気がするけど…私の勘違い、かな。
この背格好だし、先輩だとしてもおかしくない。いやでも待って…幼馴染…あっ。
「おーい、聞こえてるー?」
「えっ…あぁありがとう、ございます〜じゃないっ!ありがと」
「え?なんで敬語?」
「……」
絶対怪しまれた、おかしいと思われたと確信した。頭がまだぼんやりしてたからついつい敬語を使ってしまった。今まではこんな失敗をしなかったからこそ、どう乗り越えたらいいのか頭をフル回転させた。
怪しまれない方法、心配させないための言い訳。大袈裟すぎない程度に必死になって考えた。
「先輩かと思っただけ!間違えたの」
間違えた、本当は間違えてないけど、こう言うしかないと思った。
それでも今日の彼はいつもみたいに「ふーん」とか短い返事ではなかった。顔を恐る恐るあげると、いつもの琉嘉じゃないということが一瞬にして感じられた。
怖い。あの時みたいに。あの雨の日、傘。嫌な記憶が蘇る。
その顔には怒りも少し含まれているようだった。どうして嘘をつくのかと、問い詰めるような目。
「いや、今のは間違えとかじゃなくておかしかったよ」
「琉嘉の気のせいだよ」
声が震えた。気温が高くて、雨が降るのか蒸し暑いはずなのに震えが止まらない。ズボンをギュッとしわくちゃになるぐらい力強く掴んだ。
「気のせいなんかじゃない。最近の優美やっぱりおかしい。言い方、悪いかもしれないけど。なんかさ…」
なんと言ったらいいか、困ったような表情を浮かべた頭を掻く姿に私は血の気が引いていくのがわかった。ドクンッドクンッと鼓動が一回一回耳についてうるさい。心拍が速くなる、動悸がする、気分が悪い。吐き気がする、今すぐこの場から離れたい。そう思っても私の足は一歩も動かない。もし今ここで私が走り出したら、彼も自ずと追いかけてくると、脳がわかってるんだ。
もう、隠しきれない。これ以上は何を言っても無駄だとわかった。もう、気づきかけてるのかもしれない。いやもうとっくの昔に気づいていたかもしれない。
彼がこれから何を言おうとしてるのかがわかった。
言わないで。それ以上言わないでと心の中で叫んだがその叫びは一瞬で絶望に変わる。
「わかんなくなってない?俺のこと、忘れてるっていうか…」
忘れてるという言葉が心にグサッと刺さった。
全身の力が抜けて、グラッと倒れそうになった。
その目、彼の目に私はどのように映っている?嘘をつき続け、その嘘を暴かれそうになって絶望してる悪魔?
彼は今、私のことをどう思っているだろうか。彼に今、好きという気持ちはないだろう。
「…忘れてなんか…ないよっ…」
ポロポロと地面に向かって落ちていく大粒の涙。
嗚咽が漏れて詰まった声。
ツーンと痛い鼻。
ズボンを握りしめている手の力が抜けていく感覚。
「どうしたの?なんで泣いてんの?」
忘れてる、忘れてる。
私は琉嘉を忘れてる。
軽症だとあの死神は言ってた。
軽症ということはこれからもっとひどくなる。
今はまだ、時間がかかるだけで思い出せてるけど、いつかは完全に思い出せなくなってしまう。
あぁもうダメなんだ。
「大丈夫。大丈夫だよ。なんでもないよ」
「それのどこが大丈夫なんだよ」
大丈夫と言ったけど、何も言い返せなかった。琉嘉の言ってることは正しいから。
本当は、大丈夫じゃないもん。顔は涙でぐしゃぐしゃで不細工になってるだろうし、まともにしゃべることもできないし。
「部活、今日休めよ…俺も休むか」
「大丈夫、休まなくても平気だよ」
「ちょっ、待って。何があったか話してよ」
「私、先にアップ行くから後輩の子たちに練習メニュー伝えてて」
頑張って笑顔を向けたつもりだけど、全然笑顔になってなかったと思う。バッグの中から今日のメニューが書かれた部活ノートを渡して、その場からすぐに立ち去った。
最初からペースが速いと自分でもわかってるけど、足が前へ前へと進んでいく。前から来る後輩や先輩の人が私の名前を呼んでくれてるけどコクっと頷くことしかできなかった。
「北村先輩っ!?どうしたんですか!?」
「なんでもないよ。私、先にアップ行っとくから練習メニューはあ琉嘉に聞いておいてね」
「えっ、あぁはい…」
驚きを隠せない様子で後輩の子がその場で固まっている。「先輩大丈夫かな」と心配してくれているような後輩の声が聞こえる。
「…今度鍵にシール貼っとこっと」
気を紛らわすために口に出した言葉は今にも消えてしまいそうな、か弱い声だった。
⭐︎
もくもくと空に立ち上がる真っ白な雲。その横を飛行機が通過していく。
「さっさと行動、流し三本行ってこーい」と離れたところからメガホンを通して叫ぶ監督に追い立てられて、全員がグラウンドに集まる。
「二人一組作ってできたとかからスタートしてねー」
二人一組を作るとき、いつもだったら隣には琉嘉がいた。私から誘うこともあるし、向こうから誘ってくれることもあった。
だけど今日は私からも行かなかったし、向こうからも来てからなかった。私が避けるようなことをしたから当たり前だけど、心がチクリと痛んだ。
「一緒に流ししようよ」
「お願いしますっ!」
今日は私は後輩の中でもよく話す子を誘った。明るくて元気のいい子だけどちゃんと上下関係を意識していて偉いなと思った。
「海斗ー、一緒しよー」
「んー、いいよー」
私が違う人と組んでいるのを確認したのか、琉嘉は同学年の男友達を誘っていた。
ゆっくり、徐々にペースを上げて最後はスムーズに走り終える。綺麗なフォームの人、まだ慣れてないのか少し腕が開いてる人、力みすぎてる人。いろんな人がいるけど、どうしても琉嘉のほうに目がいってしまう。
見れば見るほど悲しくなるとわかっていても、だ。
「じゃあ短距離は二百メートル八本とスパイク流し百メートル二本やってから補強で腹筋に二十回を三セットやってこい。水分休憩ちゃんとやれよ」
暑さといつもの短距離メニューにしてはキツイからであろう、「えぇ…」という落胆の声が聞こえてきた。
「長距離は学校外周回って何キロだったかな…あぁそうそう、一キロだから八…いや十周走ってこい。今日は遅くてもいいから最後まで一定のペースで」
長距離メンバーからしたら一見ハードに聞こえる練習もどうってことないのだろう。「さっさと終わらせよ」と三年のキャプテンが声をかけると他のメンバーもトラックのほうに向かっていった。
大変そうだなと思いながら二百メートルのスタートラインに行こうとしたとき、監督から名前を呼ばれた。
「十月の駅伝に出る倉橋と北村も長距離でやりなさい。キツイかもしれないけどお前らならできるだろう。返事はー?」
「わかりました」
「海斗ー。俺も長距離練習しないといけないらしいから待っててー」
先に準備をしていた海斗を呼び止めた。わかったーと溌剌した声が鼓膜を揺らす。私と距離を置くためか、それともなんで声をかけて、どんな態度を取ればいいか困っているのだ。
長距離に仲のいい先輩も後輩もいない。私があんなことしてなければ三人で走ってたのかなと悔やんだ。
今日は一人でやるしかないなと意気消沈気味に部室に戻ってシューズを履き替えた。
「じゃあ長距離、各自そろそろスタートしろー」
神様や死神は今、私に向けてどんな顔をしているのだろうか。
自分が今世界の片隅にいるかのように、すごく心細く息ができないくらい苦しい。
夏にはいろいろな匂いがある。
蚊取り線香から出てくる薄ら白い煙がゆらゆらたゆたう静かな匂い。友達と花火をして、燃え尽きた後のほんのり焦がした匂い。朝の暑くなる前のほんのりしっとりとしたさわやかな匂い。夕日が沈みかけながらかいた汗をいざなってくれる風の匂い。
そして、悲しみを包んだ涙の匂いがした。
「早く行かないと」
泣くのは家に帰ってから。そう自分に言い聞かせて我慢して足をグラウンドに運ぶ。
見た感じ自分が一番遅かった。走ってる邪魔にならないようにタイミングを見計らってトラック内に入る。左手首につけられたストップウォッチのタイマーをスタートさせた。
何も考えないで無になって走ろうと思っても、無になれ無になれ、何も考えるなって思ってしまって結局何かを考えてしまう。
家に帰ったらしないといけないこと。課題をしないといけない。夏休みの宿題も配られた。夏休みにはまだ入ってないけど、もうやっていいと先生が言っていた。あぁ税の作文と読書感想文、いつやろうかな。早めに終わらせて楽したいけど、いざシャーペンを握ったら全く内容が思いつかなくて書けない。
今日の夜ご飯はなんだろうと考える。昨日のご飯は魚だったから、今日はお肉が食べたいな。豚肉でも牛肉でもなく、鶏肉。それで、できればさっぱりしたものが食べたい。鶏のもも肉にレモン汁かけたやつとか、ささみをカボス風味のドレッシングで和えたものとか。照り焼きチキンは好きだけど今日は気分じゃない。こってり、胃がもたれないもの以外だったら嬉しいなと。
今日あった授業のこと。今日の授業はハードだったな。五教科と音楽。せめて四教科がいいな。そもそも、夏休み前だから授業進まないでほしいな。もう、ぜーんぶ芸術の授業がいいな。だって一番頭使わなくていいからお腹減らないし。
友達や先生たちと交わした会話。今度の土曜日、彩葉と咲とお泊まり会するの楽しみだな。夜ご飯のために手作りピザ作って、お菓子食べながら人生ゲームとかカードゲームして。それからパジャマで夜のコンビニに行ってお菓子買ってから家でホラー映画見て。考えるだけでワクワクするな。その日が待ち遠しくてたまらない。
彩葉はもうお祭り行ったかな。時間的に行ってると思うけど、ちゃんとヘアセットと着付け間に合ったのかな。楽しんでたらいいな。もし写真あったらお泊まり会のときに見せてもらお。
咲は部活中だろうな。あっ、休憩時間かな。たぶんバスケ部の人が椅子に座って休んでる。咲も来るかな。もし来たら手を振ろう。大声出して名前呼んだら恥ずかしいって怒られちゃうから控えめに。
花火が見たいな。空に上がるような大きいやつじゃなくてもいい、手持ちのやつでいいからやりたいな。久しぶりに水族館にも行きたい。小学校の修学旅行以来、行ってないし、動物園より水族館のほうがなんか神秘的で好き。夏は熱いから涼しい場所に行きたい。そこで特に何かするわけじゃないけど、ぼーっとした時間を過ごしたい。
時間で思い出した、ちゃんとタイムと距離見てておかないと。「何してんだ?!」ってメンバー全員の前で公開処刑だ。リラックスするために腕をダラーンと下にして元に戻す。左手首につけられたシンプルなデザインの時計には二・五キロと表示されていた。
意外にもう二周半も走っている。感覚的にはまだ一周もしていない。考えてる時間は短いような気がしたけどいい感じのペースで走れている。
水飲みたいなー。氷が山ほど入ったキンキンの水が今日炭酸水をキュッとお酒みたいに飲みたい。
暑いなー。今すぐクーラーの聞いた涼しい部屋に入って…いや、シャワー浴びて汗を流してスッキリしてからベッドにダイブしたい。
今日は家に帰ってから何もしたくない気分だ。とにかく寝たい。十分な睡眠が取りたい。でも夢を見るのは嫌だな。あいつが出てくるかもしれない。これだから最近は熟睡できてない。疲労がどんどん溜まっていく感じ。
三周目、あと七周…。あと七周頑張れば今日の練習は終わり。意外と楽かもしれないと余裕をかました。
「長距離組ー、いい感じのペース。北村はそのままリラックスした感じでいきなさい。肩の力が抜けていてよろしい。そのままのペースをラストまで保つようにー」
走ってる途中に声を出すのはいけないと前に注意されたことがあったので、ペコっとお辞儀だけして監督の前を通り過ぎた。
珍しく監督が褒めてくれた。指摘やアドバイスが多くて私はありがたいけど、顔がキリッとしてて怖がりな人には怒られてるみたいと感じるらしい。私は逆に燃えてくる。
いつもは短距離で練習しているのでなかなか長距離を走るということには慣れていないので、他の人に比べたらペースは遅め。三年生の先輩や同学年の人に追い抜かされていく。
私よりペース全然速いのに全く息切れてないし、軽々走る姿にすごいなぁと感心した。
去年も駅伝のメンバーとして走ったけど、まさか今年も選抜メンバーで選ばれると思ってなかった。長距離の女子が足りないから穴埋めで入れられたのは最初は自尊していたけど、一緒に練習するのは地獄だった。短距離だから瞬発力があるだけで体力がないからもう最悪だった。
最近は駅伝以外にも普通の市総体とかで長距離でも出るけど、やっぱり短距離のほうが好きかな。体育祭のリレーで活躍できる…なんて。
「それでさ、高上がな…」
「はぁ!?マジで?笑」
三周半を走り終えるとき、後ろから楽しそうに話す声が聞こえてきた。いつもだったら懐かしい声だなとか、どこかで聞いたことのある声だなとか、最初はぼんやりとしかわからなかったのが今は違った。
一瞬で琉嘉の声だとわかった。
琉嘉も短距離のメンバーなのに、元から長距離のメンバーの海斗と一緒のペースで走ってる…しかも喋りながら。そのまま私を一気に追い越していき、私の数メートル前を走っている。
「…やっぱりかっこいいな、好きだな」
後ろも前も近くに誰もいないことを確認した、久しぶりに“好き”という言葉を口に出した。
「忘れたくな…痛いっ…うっ、痛っ」
痛い、痛い、痛い。
走る足を止め、頭を抱えた。頭のどこら辺、側頭部、後頭部。違う頭の中だ。でもこの痛みの原因はなんなのかわからない。後ろから足音がする。まずい、ここじゃ妨害になる。急いでトラックから出て邪魔にならないところでしゃがみ込んだ。
何、何、どうしたんだろう。パニックに陥り、唸り声を上げた。熱はない、風邪もひいてない。吐き気もない。頭の中だけが痛い。頭を鈍器で殴られたようにズキズキと痛む。周期的に、速いテンポで。ヒビが入っていくように痛みに襲われる。
「優美っ!?優美っ!何、大丈夫?どこが痛い!?」
慌てた様子でこちらに近づいてくる足音。
一番最初に声をかけてほしかった人。
一番最初に駆けつけてきてほしかった人。
一番最初に声をかけてくれたのはやっぱり君だった。
「……琉嘉」
「海斗っ!誰でもいいから先生呼んできて。早く!」
ついさっきまで普通に、なんともなく走っていた人間がうずくまって動けなくなるほど苦しんでいるのを目の当たりにし、おどおどした様子で走って行く海斗の姿をぼやける視界の中見た。
「北村さん!?大丈夫?」「どうしたんですか?」と火事現場を見ているかのようにうじゃうじゃと湧いていく野次馬。人が集まりすぎてる。嫌な予感がする。
「優美、どこが痛い?どうしたの!?」
「…頭、の中が…痛いっ」
「気分は!?他に痛いところは!?」
「北村ー!大丈夫か?保健室行くか?」
いろんな人の声が聞こえてうるさい。それより私は早くこの人だかりをどうにかしたかった。必死に言葉にしようとしても、声が出なくて伝わらない。ちょうどタイミングよく監督が関係のない人は練習に戻れと指示してくれたおかげで、私の周りには先生を含む三人しかいなくなった。
………あれ?もう痛くない。
さっきまでの痛みが幻だったかのようにスゥーッと痛みが消えていった。私の苦しむ声がパタリと止み、辺りはシーンと静まり返る。私だけでなく、他の人も状況の整理が追いついていないようだった。
変だな…。こんなにパッタリ痛く無くなることある?でもどこが…違和感?みたいなのがある。痛みは冗談抜きで残ってないけれど、頭がぼんやりしてる気がする。
何かを忘れた、誰かに記憶を吸い取られたって言ったらわかりやすいかな。記憶の塊みないなのにポツンと穴が空いたって言うか…。何百個、何千個、もっとたくさんある引き出しの中の一つが空っぽになったみたいな感覚だ。
「北村、立てるか?一旦保健室に行ったほうが」
予想もしなかったアクシデントに監督、コーチが私の目をじっと見る。その後ろに両足の膝を地面に付け、つま先を立てて座っている人も心配そうに私の顔色をうかがっている。
「大丈夫です。なんともないのに保健室にはあまり行きたくないんです。あんなに痛かったのに一瞬で痛みが引いて自分でもびっくりしてますけど笑」
「……北村が保健室に行きたくないと言うなら仕方がない。でも一応、先生には伝えておく。あと、今日の練習はもう終わりでいい。体操だけして陰で休んでなさい」
自分でもこれは異常事態だとわかっているし、監督が保健室に行くことを勧める理由もわかる。でもこの間もお母さんに電話をして連れて帰ってもらったし、本当に大丈夫なので私は首を横に振った。
私の曇り一つない眼差しを見て監督は渋し首を縦に振ってくれた。
「……優美、大丈夫?歩けそう?」
後ろにいた男の人が私を気遣ってくれたのか肩を貸してくれた。さっきからずっと私を心配そうにしてたけどこの人は誰なんだろうと首を傾げた。
「あっ、うん。ありがとう…」
「ほんとうに大丈夫?無理せず保健室行ったほうが…」
「大丈夫…大丈夫、だよ」
確か…一番最初に気づいてくれた人はこの人だった気がする。光の加減で色の変化が見られない瞳はどこか寂しくて、悲しかった。でもその目をじっと見ることは不思議と飽きない。真っ暗、黒曜石、墨できれいに塗りつぶしたように黒い。
優しそうな人だなと思った。多分、初めて会う人だから先輩から後輩かわからなくて、敬語にしたほうがいいのか。迷った結果ぎこちない日本語になってしまった。
「向こうまで連れて行こうか?」
「私は大丈夫。一人で歩けるよ」
「何かあったらまたすぐに言いなさい。倉橋、北村が心配なのはわかるがあと少し頑張ってきなさい」
「…わかりました」
少し間があったあと、憂慮ない表情を浮かべたまま男の人は海斗のほうへ走って行った。
「…嘉、大丈夫か?めっちゃ顔色悪いぞ」
「なんともない。それより早く終わらせよ。疲れた」
海斗を心配させないようにか、悲しみの表情は一切見えなかった。演技なのか本当になんともないのか。
だんだんと離れていく後ろ姿。
「あの人の名前、なんだったっけ…?」
「どうかしたか?」
独り言のつもりで言っていたが、私の声が大きかったのかどうやら聞こえていたらしい。
「…なんでもないです」
そう言って、私はさっきの男の人を数秒眺めてから日陰のあるほうへと向かう。
サッサッと右手で土を払いのけ、淡いピンク色をしたベンチの上に座った。
青野高校陸上部と書かれたTシャツが似合っていた。
風に揺らされて靡く黒髪のセンターパート。
私よりも背が高くて、男性にしては筋肉の少ない細めの身体。
“優美”といかにも知り合いかのように呼ぶ声。優しくて、温かくて、だけど暗くて。
頭の中で何度も何度もリピートされる。
私を駆けつけたときの様子が目に浮かぶ。
さっきからどうしてもあの人のことが引っかかる。
私、本当にあの人と会ったのは初めてなのかなと変なことを考えた。脳内にあの人と会った記憶はない。優美と呼ばれたときは「なんでこの人私の名前知ってるんだろう」と心底驚いた。
先生を呼んでくれたり、肩を貸してくれたり、日陰まで連れて行ってくれようとしたり。私をずっと心配していた。ということはあの人は私のことを知っている?
じゃあどういうこと?あの人は私のことを知っているけれど、私はあの人のことを知らないのはどうして?
会ったこともないし、話したこともない。
でも。私の目、心、耳。脳以外の場所はあの人のことが懐かしいと感じてる。
そういえば、海斗ってあんな友達いたんだ。初めて見たな。そりゃそうか、今日初めて会ったんだし。でもあの海斗の明るすぎる性格とはあんまり釣り合ってなさそうだけどな。
おとなしいというか、大人っぽいというか、真面目という雰囲気があの人には漂っていた。
「海斗、あの人のことなんて呼んでたかな…」
頭を捻った。ゆるい犬の描かれたタオルに顔を伏せて考えた。あの男の人の名前がどうしても気になって、練習が終わってから聞きに行こうかと思ったけど、さっき海斗が言ってたから聞かずに自力で思い出したい。
「三文字…。ではなかったな、二文字ぐらいだった気がする」
男の子にでも女の子にでもつけれそうな名前。口にすると呼びやすそうな名前。
「最後、かって言ってたな…五十音全部当てはめてみたらしっくりくるのがあるかもしれない」
効率の悪いやり方だと理解していたがまだ練習は終わりそうになかったのでゆっくりあたはめていく。
「あか、いか、うか、えか、おか…なんか違うなぁ」
あ行に納得いくものはなかったのでか行、さ行と順番に口に出していく。
「やか、ゆか。は私の妹の名前じゃん笑…えーっと次はよか、らか、りか」
当てはめれる平仮名もあとわずかになってきた。なかなか納得のいくものが出てこないなと諦めかけていた。
肌をそっとなでるように微かで木々の葉をさらさらとそよぐ風が、立つように記憶のもやが晴れていく。
「る、か。…琉嘉だ」
また、忘れてた。ひどい頭痛に襲われて、琉嘉が助けに来てくれたけど頭痛が治ってから忘れてしまった…ということか。
私さっき敬語使わなくてよかった。敬語使ってたら琉嘉だけじゃなくて監督まで不思議に思ってただろうな。
「でも問題はそこじゃないんだよね…」
これで琉嘉、はっきりとわかっただろうな。恋愛音痴で鈍感なくせに、悩み事とかそうゆうのには勘が鋭いから…。
私が琉嘉のことを忘れてる、ということ。
私はずっと大丈夫だと嘘をついていたこと。
「言わなきゃ、いけないのかなぁ…」
もうこれ以上は隠し切れないよね。これ以上、琉嘉も私の“大丈夫”を信じてくれない。
「琉嘉なんて言ったら…」
それより、症状がひどくなっているような気がする。
いつもに比べて琉嘉のことを思い出すのに時間がかかった。さっきはたまたま海斗が名前を呼んでたから二文字で最後に“か”がつくのがわかって五十音順に当てはめていっただけで。
「もし海斗が名前を呼んでいなかったら…」
私はもっと時間がかかっていたかもしれない。
これは忘愛症候群の症状が進行しているから?悪化していっているから?でもなんで急に?それまでは特になんともなかったし、いきなり、突然にだ。
「あの死神、なんか言ってたかな」
でも最近はほとんど夢に出てきてないし、一番最近といっても二、三週間ぐらい前のこと。話した内容は症状の進行具合とか…あとそれから…。何も話していない。
なんのヒントもないじゃないか。
何、この病気は兆しとか症状が悪化する前に何も起こらないわけ?
——症状がひどくなる前に頭をハンマーで殴られたような頭痛に襲われるが何もなかったかのように急によくなる
これは死神に言われたことだ。なんで今……?
“頭をハンマーで殴られるような頭痛”
“何もなかったかのように急によくなる”
「これって…」
さっきの私の症状とぴったり当てはまった。
なんで忘れてたんだろう、なんでちゃんと聞いてなかったんだろう。もし、ちゃんと聞いてたら、多少なりとも防げたかもしれないかもしれない。誰にも見つからないところに隠れて、症状が治ったらなんてことできていたかもしれない。
でもそれより
「…怖い。怖いよ…」
だんだんと症状が悪化してきている自覚がある。それが怖くて怖くて仕方がない。もしこの頭痛に明日も襲われたとしたら、もっと…。
もういつ、琉嘉のことを忘れてもおかしくないかもしれない。
「…………っ」
必死にこらえていた最初の一粒が落ちていき、ボロボロと止まらない。声もなく、ただ幾筋もの雫が流れていく。溢れていくものを抑えきれない。練習が終わるまでに止まるかなと心配になった。私だけの、一人の空間にときおり微かな嗚咽だけが漏れる。ギュッと噛み締めた唇が痛い。
視界が不透明な光に満たされてゆく。その向こうに微かに見えた琉嘉の姿を見て私は一つ、考えた。
⭐︎
大分日が西に沈んできた。
“だんだんと近づいてくる悪夢に私は怯えている”
校舎の三階階、吹奏楽部が奏でる美しい音色も、体育館から聞こえるバスケ部のシューズと地面が擦れ合ってなるキュッキュッという軽快な音もパタリと聞こえなくなった。練習が終わり、疲れたという生徒たちのため息で溢れている。
「優美、大丈夫?」
横でシューズを磨いていた海斗が私のことを気にかけたのか手を止めた。ぐるっと辺りを一周見回してみたが琉嘉の姿はどこにもない。いつもなら一緒に話したりくつろいだらしてるが、トイレにでも行っているのだろうと自分勝手な解釈をした。
「もう大丈夫、なんともないよ。それよりさっきは心配かけてごめんね。海斗、いつになく焦ってたからちょっと面白かったけどありがとう」
「そっか、ならいいんだけど。それよりもあの後あいつがめちゃめちゃお前のこと心配してたぞ」
「………あいつって琉嘉のこと?」
「うん。それ以外に誰だと思った?もうずーっと大丈夫かな、本当は無理して嘘ついてるんじゃないかとか浮かない顔してあいつらしくなかったな」
「そうなんだ…」
ずっと心配してくれてたんだ。
心が針を刺されたようにチクリと痛んだ。この後のことを考えてしまって、やっぱり私は最低な人間だと改めて自覚した。
「どした?怖い顔して。なんか泣きそうだし」
「怖い顔なんかしてないし…」
「あっそう言えば、琉嘉のやつ。ずっと変なことばっかり言ってるんだよ」
「変な、こと?」
「そうそう変なこと」と海斗もどういう意味かさっぱりわからなくて困っている様子だった。琉嘉がずっと変なことを言っている?
「琉嘉こそ疲れて頭のネジ外れちゃったのかな笑?でも変なことってどんなこと?」
少し興味を持って聞いたことが、また私を絶望の谷へと突き落とすとは思ってもなかった。
「なんか、もしかしたらだけど優美が俺のことを忘れてるかもしれないとか。優美が最近変なんだとか…」
「……そうかな。きっと琉嘉の勘違いだよ。私が琉嘉のこと忘れるわけないじゃん」
「だよなぁ笑。あいつ、最近色々と忙しいらしいしな」
海斗は私が気のせいだと言ったからか納得した様子でシューズ磨きの手を再度動かし始めた。
やっぱり気づいてるじゃん。
忙しいから、疲れてるから、琉嘉の勘違い。全部全部違う。琉嘉の言ってることは正しい。海斗は気づいてないし、そもそも私と最近話してもいないから、私が今どんな状況にあるのかなんて知ったこっちゃない。
あの真面目で嘘をついたり笑いを狙ったりしないような琉嘉が「優美が俺を忘れてる」なんてこと言っても信じれないだろう。
「まぁ一応あとであいつが戻ってきたら大丈夫、心配すんなって言っとけ。そしたらあいつも安心するよ」
「そうだね」
素っ気なく返した返事はコーチの集合という呼びかけに掻き消されて消えていった。他の子たちのおしゃべりが中断され、みんな駆け足で監督のほうへと向かっていく。その中に紛れて、琉嘉の姿が見えたのが不思議で仕方がなかった。
「今日は暑い中よく頑張りました。もうみんな疲れているでしょうから私の話は以上です。監督お願いします」
「私も手短に終わらせます。まず一つ目、大会に向けて体調を崩さないように。二つ目、宿題をきちんとやる。最後、自己管理を怠るなよー。じゃあグラウンドに向けてあいさつ」
おとなしそうな見た目の割にハキハキとした声が私たちを取り巻く。生徒ひとりひとりの目を見ていき、ズレたメガネを人差し指でクイっと直した。体調を崩さないと自己管理をしっかりするは同じことを言っているような気がしたがだらも気にしている様子はなかった。
臙脂色の陸上トラックに「ありがとうございました」と二十人程度のメンバーの声が夕暮れ空の下に響く。数秒深々と礼をしてから、頭を上げ各自帰る準備をし始める。
「一人一個、塩分チャージを取りなさい。監督の奢りです。感謝を伝えてからいただくように」
あざーすっ!と海斗のちょっと軽い声にもっと感謝の気持ちを込めなさいと突っ込んだコーチに部員の笑いが溢れた。
先に貰いに行こうと思ったが人が多かったので帰る準備をしてから行こうと判断した。タオルと水筒、シューズをシューズケースに直して塩分チャージのもとに行く。
「「ありがとうございま…あっ先にいいよ」」
私と琉嘉の声が重なる。後ろでヒューヒューと茶化す海斗の声に私たちは赤面した。私たちが付き合っているというのを知っている後輩や先輩もキャーキャー興奮の悲鳴をあげている。
「一ついただきます」
「ありがとうございます」
「礼を言える素晴らしさ…海斗、お前もこの二人を見習ってほしいとこだ」
「いつかできるように精進しますっ!」
きちんと礼を伝えるのは当たり前だし、普通のことじゃないかなと私は苦笑いをすることしかできなかった。だって今はそれどころじゃなかったから。
「琉嘉、ちょっと話したいことがあるの」
「あっ、あぁ…ちょっと先に片付けだけしてくるからその間待てる?」
「うん。慌てなくて大丈夫だから、大したことないし」
ちょっと待っててと小走りで部室のほうに走っていった。今から私に何を言われるかも知らないで、よく最後まで優しくできるね。琉嘉ってやっぱり優しいんだ。
「何何〜?もしかしてデートのお誘い〜?」
「全然そんなのじゃないから…」
これは嘘じゃない。本当だ。デートとかお誘いとか甘い話をするわけじゃない。私の真剣さが伝わったのか海斗はちょっとだけ目を見開いた。
「私と琉嘉の会話、絶対盗み聞きしないでね。できれば他の子たちが行きそうになったら止めてほしい」
「えっあぁうん。わかった。聞かなかったらいいのね。俺は琉嘉と帰るからそれまで待っとくわ」
「うん。そうして」
海斗が単純でよかったと初めて思った。お願い事を「えぇ〜」とか「なんでぇ〜」とかごちゃごちゃうるさい、めんどくさい人間じゃなくてよかったと思った。
「ごめん、お待たせ。いいよ、どこで話したい?」
荷物を持って戻ってきた。どこで話したいと気遣ってくれる優しさにじんわりとした。
「なるべく人目のつかないところ…がいいかな。聞かれたくないんだ」
「じゃあプールの裏とか?あそこだった人いないよ」
「じゃあそこで話そ」
ちゃんと考えてくれたんだと申し訳ない気持ちになった。二人で並んでプールまで歩いていく。「ごゆっくりど〜ぞ〜」と海斗の呑気な声が耳に触った。
言いたくないなぁ、行きたくないなぁ。ものすっごい後ろめたい。私のメンタルも何もかもを削って、屈指の決断をしてまで言わなきゃいけないことなんて正直言いたくない。
「……さっきはありがとね。すごく、安心した」
「気にしないで。いつも通りの俺を演じてたけどほんとはめっちゃパニクってたんだよね」
打ち明けるのが恥ずかしそうに頭を掻いた。「そうなの?」と意外な発言に目を見開く。演じていたことに全然気づかなかった自分と琉嘉の冷静さに驚いた。
「だってあんなに苦しんだり頭抱えてまで痛む優美初めてみて…どうしたんだろうって怖かったけど」
「心配かけたよね…ごめん」
「謝ることじゃないよ。優美だってあんなこと起こるとかわかんなかったでしょ?仕方ないよ」
「うん、そうだね」
わかろうと思えばわかってたけど、付け加えそうになった口をつぐんだ。
プールは歩いてすぐの場所なので、ほんの数秒でついてしまった。会話を挟みながらだったからあっという間に感じたというのもあるかもしれない。
心臓がバクバクと波打つ。大太鼓を打つようにうるさい。耳がキーンとする。呼吸が速く、浅く、雑になっていく。深呼吸、深呼吸と心の中で自分を落ち着かせる。
目の前、すぐ目の前にいる。あとは言えばいいだけ。
言ったら“お終い”。言えばすぐ終わること。
なのに、一番伝えたい五文字が喉を締められたように出てこない。口が言うことを全く聞いてくれない。遠隔操作されて動くことを制御されているかのように。
また泣くの?まだ何も言ってない。泣くのは家に帰ってから。それまでは我慢するって決めたから。
「それで、言いたいことって…何?」
「………しい」
「何?聞こえない。はっきり言ってよ」
いいの?はっきり言って。私は…いいけど…傷つくかもしれないよ?
とは言えなかった。言えるわけがない。
もう一度、空気を吸って、覚悟して口を開けた。
「別れてほしい」
「は?」
いつか言わなきゃいけないときはくるとは思っていたけど、まさかあんなことがあった後に言わなきゃいけなくなるなんて、私も思ってなかったよ。
驚きを隠せない様子だった。と言うより、いきなり何言ってんだと顔を顰めた。
状況の把握が追いついていない。頭の中で回転していた歯車が動きを止めたように、琉嘉は瞬き一つさえしない。
当たり前か…笑。私が逆の立場でも琉嘉と同じ反応をする。
こんな人目につかないところに呼び出されて。
来る直前まで普通に話して。
何を言われるのかと思ったら別れようと言われて。
「待って、どういうこと。なんで急に?俺がなんか悪いことした?嫌なことしたなら何が嫌だったか言ってよ。じゃないと納得できない」
「………うん」
「うん、じゃないよ。ねぇ、理由言ってくれないと俺帰れないよ」
納得できないよね。そりゃそうだよね。
でも大丈夫。
琉嘉は私に悪いことはなんかしてないよ。
私を嫌な気分にさせたことなんて一回もないよ。
私を傷つけたから別れようって言ってるわけじゃないよ。
私は琉嘉のこと嫌いになってないから。私はこれからもずっと、多分琉嘉のことが好きだよ。
悪いのは私。理由も原因も結果も、全部私にある。私が悪いことしたんだ。琉嘉気づいてないだけで、今までたくさん嘘ついてきた。
だからこれ以上、琉嘉とは一緒にいられない。これ以上私と一緒にいれば、これ以上に琉嘉を、傷つけてしまうかもしれない。それだけは一番嫌なんだ。
だから、だから、もう
「…お別れね」
「優美の言ってること全っ然意味わかんない。何、俺のこと嫌いになった?気づいてないだけで無意識に優美のこと傷つけちゃった?それならそうって」
「違うよ。琉嘉は悪くないから、私が悪いから。理由は聞かないで。もうこれ以上、私に近づかないで、話しかけないでほしい」
「優美っ…」
私は走った。急いで部室に荷物を取りに。最後の言葉は言いたくなかった。“近づかないで”と“話しかけないで”は本当は言いたくなかった。でもこうでもしないと琉嘉は絶対私を心配して、居ても立っても居られなくなって、結局自分から話してしまう。そうはしたくない。
だって自分が決めた運命だから。あの奇病を告げられたからには、私はいつか琉嘉と別れなければいけないはずだったから、ねぇそうでしょ死神さんよ。果たさなきゃいけないことってきっとこれのことでしょ?
後ろから何度も私の名前を呼ぶ声が聞こえる。さっさと砂を蹴るような、私を追いかけてきてるんだなと思った。普段琉嘉の口から聞いたこともないチッと舌打ちしたような音が聞こえてきた。あぁ本当に怒ってるんだとわかる。
「おぉいどした?話終わった?てかあいつは?もしかして置いてきた?」
「ごめん、私先帰らないといけない。用事あるから琉嘉に言っといて」
「はぁ?」
乱暴に荷物を手に取って、私は急いで校門へと向かった。風に吹かれ落ちていく涙は微かな夕日に照らされてこの世で一番悲しい音色を立てて落ちていった。
第四章 カウントダウン
——別れてほしい
——は?納得できない
——うん
——うんじゃないよ。理由言ってくれないと俺帰れない
——…お別れね
——意味わかんない
——もうこれ以上、私に近づかないで、話しかけないで
何?この会話…。私知らないよ。別れてほしいって誰と?近づかないでとか、話しかけないでって言ってるけど誰に言ってるの?
彩葉?咲?違う。二人とはこんな話してない。そもそも別れてほしいって言ってるってことは私、誰かと付き合ってて…けんかしちゃって嫌になった…みたいなシチュエーションなのかな。
よく聞いたら相手の人の声、男の子だ。怒っているのか口調やトーンが怖い。本当は優しい人なのかな。本当はあんまりこんなに口悪く言いたくないと言うのがわかった。顔を見てないのにそう思った。多分私の勘だ。なんとなくでそう思っただけ。
でも私、好きな人も気になってる人もいないよ。
私のことが好きって言ってくれる人はいるけど、私は恋愛が得意じゃないし、もし仮に付き合ったとしても何したらいいとかわからない。結婚して同居するわけでもない。その後が気まずくなるのが嫌だから、申し訳ないけど「ありがとう。でもごめんなさい」って。
だから私に彼氏はいない。片想いもしていない。
——忘愛症候群
忘愛症候群?あぁ忘愛症候群ね。久しぶりに聞いたから忘れてたよ。私がかかってる病気の名前ね。
死神がいて、症状のことについても言われた。確か…
——“恋人のことだけ”を忘れてしまう“病気”。恋人とつくった思い出、もの、会話最終的には“恋人の存在”すら忘れてしまうこと。症状がひどくなる前に頭をハンマーで殴られたような頭痛に襲われるが何もなかったかのように急によくなる
ということは私は誰かと付き合ってる?でも誰と?
——優美
さっきと同じ人の声だ。でも明らかにこっちのほうが優しくて、温かい。優美と呼ぶその声、どこか懐かしさを感じた。誰だったっけ…忘れちゃいけない、私の大切な人。家族と同じぐらい想ってる人。
優しいんだ、笑顔が素敵なんだ。いつでも私を想ってくれてる。一緒にいて、話してて楽しい。
「琉嘉っ」
背中がびっしょりと濡れてる。怖い夢を見たときと同じぐらい。無意識に右手を心臓に当てた。
「…速い」
最悪の夢だ。目覚めが悪すぎる。夏休み初日、多分誰よりも最悪な夢を見たと思う。
「琉嘉……」
寝起きということもあるのか頭はぼんやりしているがかろうじて忘れてはいなかった。顔も名前も、普通にわかる。
夏休み一日目。今日から一ヶ月もの間は予定がない限り大半の時間をここで過ごすことになるのかと、小さなため息が漏れた。大きすぎず控えめなアラーム音と悪夢に叩き起こされる。まだ七時じゃないかとどうしてこんなに早くアラームが鳴ったか、スマホが壊れたんじゃないかと被害者面をしたが、よく見ると学校のときに使うものを間違えて押していた。
「もう少し寝たかったぁ〜」とまだ温かさが残っている枕に頭を突っ込んだ。ジタバタとやっても意味がない謎の行動に鳥がドン引きしたのか慌ただしく飛んでいく。
蝉が木に止まってミンミンと歌っている。それすらもうるさく耳に触ってしまう。静かな何も音のしない場所で目を瞑ってもう一度寝たい。なんでこと考えつつ、起き上がって顔を洗いにいく。
「今日も起きるの早いね。最近どうしちゃったの?しょっちゅう目が腫れてるし、寝不足?」
「かなぁ…」
目が腫れてるのは多分、夜寝てる間に泣いたから。
寝不足なのは悪い夢を見て熟睡できなかったから。
“言いたいこと”は数え切れないぐらいにあるがいつ言うかはちゃんと決めているのでとりあえずここは心のこもっていない笑いで乗り切った。
「ちょっと待ってて。今ご飯作るから」
「テレビつけてもいい?」
「うん。あっそれと、今日は私の仕事がお休みだから朝ごはん一緒に失礼しまーす」
すごいナイスタイミング。想定していたより早めに言えるかもしれないと小さくガッツポーズをした。
炊飯器を開けたのか、お米のいい匂いがする。シャケの甘くて、少し塩辛い匂いが鼻を燻る。
電子レンジのボタンを押す音、包丁でリズミカルに刻まれるキャベツの音。カチャカチャと食器を片付けたり取り出したりする音。
この音を聞くとなんだか落ち着いてくるが、少し寂しい気がするのでリモコンの電源をポチッと押した。
「次は夏のスペシャル特集!開催中のお祭りや、コスパ抜群!おすすめの旅行スポット、この時期食べたいグルメなどを私たちが詳しくお伝えしていきます!」
明るい声がスピーカーから私の耳に入る。淡々と流れていく映像の中に私住んでいるところのお祭りの映像が流れた。
「あっ、今の。近くのお祭りじゃないの?」
キッチンに立っていた母がそう言った。私と同じことを思っていたらしい。
「そうだよ。一瞬だったのによくわかったね。見てたの?」
「ちょっと、魚を焼いている間暇だったからたまたま見てたら流れてきただけよ」
随分前から魚を焼いているので焦げてないかなと心配が走る。料理上手な母だからそんな失敗はないのだろうけど。やっぱりちょっと焦げ臭い匂いがキッチンのほうから流れてくる。
「今年は行かないの?」
「行かないのってお祭りに?」
「いつも琉嘉くんと一緒に行ってるじゃない。楽しみ楽しみってはしゃいでるのに」
「あっ…あぁいや。今年はちょっと…琉嘉が忙しいみたいでさ。用事があるんだって。行きたかったんだけどね用事なら仕方ないじゃん?」
「あぁなるほどね。それなら仕方ないか」と納得した様子で簡単に片付けられてしまった。疑われることなく母は料理に手を戻した。
用事なんかない。琉嘉は忙しいなんて一言も言ってない。これは私が咄嗟についた嘘。後もう少し、後もう少ししたらお母さんに本当のことを伝えるから。
「ごめんね、お待たせ。ちょっと魚焦げちゃった」
そう言って母は、お茶碗に注がれた艶があって真っ白なお米と湯気がもくもくと立つ見て熱さがわかる味噌汁と小鉢にちょこんと漬物が三種類ぐらい。それとちょっと黒っぽくなった鮭。
「やっぱり笑。なんか焦げ臭いなぁって思ってたんだよね〜」
「ちょっとぉ!それならもう少し早く行ってよー!」
「ごめんごめん笑」
カタンッと優しく優しく置かれたお皿からいい匂いがする。さっきまではお腹すいてないから白ご飯少なめにしてなんてことを言おうと思ったが、鼻から入ってくる匂いのせいで一気にお腹が空いてきた。
「いただきまーす」
「召し上がれ〜。あっ、もし焦げてるところ嫌だったら食べなくてもいいからね」
「このぐらいなら全然大丈夫」
お箸で一口サイズに切った鮭と、白米を口の中に入れた。大丈夫と言ったもののやっぱりちょっと焦げた部分が苦かった。
「お父さんと優花は?まだ寝てるの?」
テレビの音だけだと寂しいし、二人だけでご飯を食べることはない。無言の食事は楽しくない。せっかくだから思って、会話の内容を探ってみた。
「お父さんならもう仕事行ったよ。優花はまだ寝てるのんじゃないかな。昨日部活の練習大変だったらしいよ」
「えっ!?お父さんもう仕事行ったの?早っ…起きたの全然気が付かなかった…」
「優美も疲れてるんだね」と朗らかで優しい笑みをする母に鼓動が揺れる。
スッーと深呼吸をした。ドクドクと暴れる心臓を落ち着かせるために“大丈夫、大丈夫”と何度も何度も言い聞かせた。緊張でどうにかなりそうだ。
テレビに夢中な母。まだ続いている夏の特集、ドンっと空に打ち上がる花火に目を奪われて、私の方を見向きもしなかった。ギュッと目を瞑る。
大丈夫、絶対言える。“あんなこと”、信じてもらえるかどうかわからないけど、信じてもらえるように、言わなくちゃいけない。嘘って笑われるかもしれないけど、それなら信じてもらえるまで。
最後にもう一度。たくさんの空気を吸って、口を開けた。
「……忘愛症候群」
「えっ?何?ごめん、テレビ見てて聞いてなかった。なんか言った?」
本当は一回で聞き取ってほしかった。だって私の性格はなんか言ったって言われたらなんでもないって言ってしまう性根のない人間だから。
でも今日は、もう違う。変わるって決めたんだ。
「私、忘愛症候群って言う病気なんだ」
「病気って笑、なんでわかるの?というか、何その病名みたいなの。変わった病名ね」
母はまったく信じていなかった。なんでわかるのってそりゃ病院に行ってもないのに病気なんだって言われても信じれるわけないか。
大丈夫。一つずつ、ゆっくり、説明していけばちゃんとわかってもらえるはず。私はそう信じて、もう一度口を開ける。
「…死神にそう言われたの」
「死神ってあの人の命を鎌みたいなやつで狩っていく…あの死神?そんなのがいるわけないじゃない笑」
あの人は鎌は持ってないし、命を別に狩ってるわけじゃない。母が想像している死神とは少しかけ離れているので違うよと首を横に振った。
「…今から言う、私の話。信じてもらえるかわからないけど、聞いてほしい」
「優美の言ってること、まったくわかんないけど…とりあえず何があったか言ってみなさい」
母は私の真剣さを感じ取ったのか、さっきまでの笑ったような軽い口調ではなくなっていた。口の中へと運ぶ作業をやめ、箸を茶碗の上に置いた。
ゆっくり深呼吸をする。言える、私なら言える。
今言わなきゃ、もうチャンスはない。お母さんも聞こうとしてくれている。信じてもらえる可能性がググッと上がったような気がする。
「一ヶ月ちょっと前かなぁ。えぇと、六月十四日だったかな。一回早退した日あったじゃん?」
「そんなことあったわね。優美が早退するの珍しいから覚えてるわ」
「その日の夜ね、真っ暗で何も見えなくて何も聞こえないところに死神がやってきたの。最初は夢かと思ったよ。私だって疑ったし、そんないきなり死神だって言われても信じれなかった」
「当たり前じゃない」と相槌を打ちながら聞いてくれている。
「でも話を進めていくうちに、自分の症状に当てはまってて…半信半疑が確信に変わった」
「自分の、症状?症状って?」
「琉嘉の名前とか、顔とか、パッと思い出せない。部活とかテスト勉強だとか色々忙しかったから疲れてるだろうって思ってたんだけど…」
「ということは、その死神?みたいなのが優美のところに来る前から変だったってわけだよね?」
「うん、そういうこと」
「それで…?」
「ずっと一ヶ月、隠してた。琉嘉にも咲にも彩葉にも、変だって言われたし、心配された。大丈夫って言ったら納得した顔はしてなかったけど信じてくれたよ?…そりゃ早く言わないといけないってわかってたんだけどさ。言うにも言えなくて。勇気が出なかったんだ」
「…もう少し早く言ってほしかったなぁってのがお母さんの本音。優美の話を信じれる信じれないとか、そんなことじゃなくて家族なんだから頼ってほしかったな」
「ごめんなさい…」
そりゃそうだよね。もう少し早く言ってほしいと言ったお母さんの気持ち、わかるよ。家族だから何かあったら頼っていいってわかってたよ。でも…
「どう言ったらいいかわからなかったし、怖かったの」
「…正直に言うとお母さんはまだ優美の話を半分信じれてないけど優美が嘘ついてるとは思ってないわ。嘘つくような子って思ってないもの」
「でも私、隠してたよ?何もないって隠してたよ…」
「でもこれからはそんなことしないでしょう?」
お母さんはまったく私に怒っていない。たまに声のトーンが低くなったけど、それでも私に対する怒りの表情はまったく見られなかった。心の中では激怒してるかもしれない。演技で誤魔化してるだけかもしれないけど。
どうしたことかなぁと、眉を寄せて笑う困ったような表情をする母に私は首を縦に振った。
「これから優美はどうしたい?」
スラスラとテンポよく、天気を伝えていくアナウンサーの声がいつもより一層反響して聞こえる。ちょっとだけ間をおいて、考えたように母は問いかけた。
「どうしたいって?」
「琉嘉くんにはまだ伝えてないんでしょう?あと咲ちゃんと彩葉ちゃんにも。今このこと知ってるのは私と優美とその死神って人だけ?」
「うん…」
「琉嘉くんには早めに伝えたほうがいいんじゃ」
「それは大丈夫。自分が一番わかってるから」
「それならいいんだけど」と目を伏せた。話してる途中だったのに遮ったのはまずかったかなと心の中で反省する。
「病院に行ってみたい」
「どうして?」
「病院に行ってわかることじゃないかもしれない。下手したらなんともないまま帰るだけかもしれない。だけどわかるかもしれない。一回、診てもらいたい」
「…わかったわ。ご飯食べ終わったら予約できるか聞いてみる。なるべく早めがいいわよね?」
「そうだったら嬉しい。お願い」
「お母さんに任せてなさい」と謎の自信とともに胸をポンポンと叩いた。ご飯が冷める前に食べよう、その前に言わないと。
「お母さん、ありがとう。ちょっとだけ気が楽になった気がする」
「優美が笑ってくれて嬉しいわ」
やっぱり言ってよかった。心の中にあった黒っぽいモヤモヤが少しだけ晴れたような気がする。
⭐︎
お母さんに忘愛症候群のことを伝えてから二日後。
予約が取れたらしく、今から病院に行く。病院に行くの、なんだかんだで三年ぶりぐらいかな。ちょっと緊張してきた。どのくらい時間がかかるかわからない。予約の時間通りに行ってもすぐ呼ばれないことだってあるらしい。とりあえずカバンの中に充電を満タンにしたスマホとイヤホン。その他ハンカチなど使うかわからないが入れておいた。
あの日の夜、お父さんと優花にも一応伝えた。お父さんにはあまり関係なかったかもしれないけど家族なんだし言っておこうよと母が言ったので。優花はあまり理解していなかった。ずっと最後の最後まで「どう言うこと?言ってる意味がわかんない。死神とかいるわけないじゃん」の繰り返しで話にならなかった。
「そろそろ行くよー」
一階から大声で母に呼ばれた。「わかったー」と家のどこにいても聞こえるような返事をして、カバンを持って日の光が入らないようにブラインドを閉めてから部屋から出ていった。
「お姉ちゃんどこ行くの?」
階段を降りようとした時、隣の部屋にいた優花がドアからひょこっと顔を出した。ヘッドホンを首にかけて、コントローラーを手に持っている。勉強もしないで、さてはゲームをしていたな。
「まずはおはようでしょー」
「えぇ〜。もおぉ…おはよっ」
最近ちょっと反抗期気味の妹だが、姉からするとそれもそれで可愛いなと思う。
「今からちょっと病院行ってくるけど、優花にお留守番できるかなぁ?笑」
「できるしっ!赤ちゃんじゃないんだから。もう中学二年生だよ?ゲームで忙しいから行ってらっしゃいっ」
ちょっとだけおもしろがってからかったら、この有様。扉をバタンッと振動するぐらい思いっきり閉められた。でもちゃんといってらっしゃいは言うんだなと微笑ましくなった。
「ちょっと優美ー?まだー?」
「今行くー!」と階段をダッシュで駆け降りると外からすでに車のエンジン音が聞こえる。
「ごめんごめん。優花とちょっと話してて」
両手をパチンと合わせて軽く頭を下げると「やっぱりちょっと早めに出るっていっててよかった〜」と私の行動を見越していたように母はそう言った。
大人ってやっぱりよく考えてるんだな、すごいなと改めて感心する。
「病院終わって時間ありそうだったら優美の好きなカフェでケーキ食べよっか」
「えっ!?いいの?」
カフェとケーキという言葉に反応して、誕生日プレゼントを買ってもらう三歳児のように目をキラキラと光らせた。病院が早く終わりますように、早く呼ばれますようにと心の中で念仏のように唱える。目を瞑って指と指を交差して願い事のポーズをする。そんな私をみて母はクスクスと優しい微笑みをかけた。
ケーキが楽しみだな。ショートケーキがいいなぁ…でもなんか甘々なやつがいいからチョコケーキとかもいいなぁとまだ行けるか行かないかもわからないのに、テンションが上がってきた。
そうこうしているうちにあっという間に(意外と家から高かっただけだと思うけど)病院の駐車場に車が停まった。エンジンを切った瞬間、エアコンから出るひんやりとした涼しい風がぴたりと止み一気に車内が蒸し暑くなる。まだ切って十秒も経っていないというのにもう汗が滲み出てきた。私が汗っかきなのかと思ったが隣で保険証を探す母も「暑い暑い」と騒いでいた。
車から降りて広い駐車場を見てみる限り車の数は少ないように見えた。どうか早く終わりますようにともう一度願う。
「保険証持って…よし、行こっか」
ピピっと車に鍵がかかったことを確認して前を行く母の後ろをついて行く。
センサーが私たちを感知して大きなガラスの自動ドアが開いた。
「保険証出してくるからそこらへんで座って待ってて」
「うん」
保険証と診察券を手に持った母が受付と書かれた方へと歩いて行った。
これから多くなるのか、この時間帯はいつも少ないのかわからなかったが患者さんが少ないので席はガラガラでどこに座ろうか迷った。とりあえずテレビの見える長椅子にちょこんと一人で座る。
……病院ってこんなに静かだったっけ、と疑ってしまうほどにここは静かだ。自分の心臓の音がいつも以上に大きく聞こえる。周りの音もいつも以上に大きく耳に入ってくる。
看護師さんが受付やお会計口で患者さん応対している微かな声も、レジスターをカタカタ打っている音も、カルテを取り出したりする音も響いて聞こえた。
多分会計待ちをしているであろう人と普通に診察待ちの人が指に収まる程度いて、時々カラカラと点滴スタンドを持ってうろうろしてる患者さんが何人かだけで、なんだか寂しく感じる。
「水飲んでくればよかった…自販機とかないかな」
自販機、自販機…と探していると奥のほうにカフェ?食堂?みたいなのとか売店が見えた。病院のなかってこんなのあるんだとちょっとだけ特別感を感じた。
「お待たせ〜。優美にいいお知らせ。多分すぐ呼ばれるって。よかったね」
いいお知らせがいいお知らせすぎる。嬉しさを隠しきれない。病院の中なので配慮してひかえめによっしゃとガッツポーズをした。
「お母さん、ちょっと喉乾いちゃった。水飲みたいな」
「水?それならそこ、受付の横にウォーターサーバーがあったよ」
指差したほうを見ると、はっきりとは見えなかったがウォーターサーバーらしき縦に細長い長方形が見えた。病院ってこんなものも置いてあるんだとささやかな驚きに包まれる。
名前を呼ばれる前にと少しだけ速足で向かう。本当にウォーターサーバーだ…。お水が無料で飲めるってことじゃん。患者さんからしたら私みたいに急に喉が渇く人もいると思うから助かるだろうなと病院の設備の凄さに
胸を打たれる。
紙コップを一つとって青色のラベルが貼られたレバーを下向きに押した。全部飲めなかったときに残すのは失礼なので半分ぐらい入れてからレバーから手を離し口に入れた。冷たい水が口の中に広がる。ごくんと飲み込むと体から暑さが一気に吹き飛んでいった。
「生き返ったぁ〜」
二口で飲み干し、紙コップを軽く潰してからゴミ箱に捨てた。まだ呼ばれてませんようにと思っていた矢先、遠くで母が「早く早く」と言わんばかりに急かすように手を私に向けて仰いでいた。自分の名前が呼ばれたのだと少し急足になる。
「こんにちはー。どうぞ入ってください。よければお母さんもそこの椅子に座ってください」
自分の背よりも大きな扉の前に立ち、スライド式のドアを開けると真っ白な白衣を着た女性が背もたれのある椅子に腰掛けて座っていた。椅子はいかにも高そうなお値段がしそうで、女性はパソコンと私のカルテであろうものと向き合っていた。
「今日はどうされましたか?」
そうだ、ここは病院だ。忘れていた。てっきり「今日は暑いですねぇ」とか、なんか雑談をしてから本題に入ると思っていた。入ってすぐ「どうされましたか」はちょっと心の準備というものが…。
えぇとなんて言って始めたらいいのかな…。
私が口を開かないのに対しお医者さんは「どうされました?」と首を傾げている。
「優美、優美」
なんと言えばいいか困っている私を見かねたのか後ろから母が小さな声で私の名前を呼んだ。
「お母さんに伝えてくれたときみたいに言えばお医者さんもわかってくれるよ」
アドバイスはいかにも簡単なことだった。でも、死神のことは言わないほうがいいよね。絶対お医者さんだって混乱するだろうし、「夢に影響されたバカな子」って思われそうだ。ありがとうと一言言ってから再び前を向いた。
「私、付き合っている人がいるんですけど…一ヶ月ぐらい前からその人のことがわからなくなってて」
「わからなくなってる?」
「はい。最初は名前がパッと出てこなかったり、誰のことかわからなくなったり。でもすぐに思い出せたんですけど、つい最近急に変な頭痛に襲われて…その後からは前よりも思い出すのに時間が掛かるようになってしまって。家族とか他の友達はわかるんですけど、その恋人だけが忘れてしまっているというか…」
わからなくなっていると言ったときは「何言ってるんだ」という顔をしていたお医者さんは、私が忘れていると言った瞬間顔色が一変した。もしかしたらと勘付いたのか「少々お待ちください」と席を外してどこかに行ってしまった。
「優美、病名はわかってるんでしょう?なんで言わなかったの?」
先生が席を外してすぐ、母が私に問いかけた。
「うーん…。なんとなく?」
「何それ。わかってるんなら言ったほうが…」
「言ったときに誰に言われたのって聞かれたら、死神の話しないといけないじゃん。お母さんには言えるけど、知らない人に言うのは恥ずかしいかな…」
「うーん…」とあまり納得のいってない様子の母。奥のほうから走っているような音がする。「お待たせしました」と手に一枚の紙とペンを持って先生が戻ってきた。
「もしかしてかもしれない。私も絶対とは言い切れないけど北村さん、忘愛症候群の可能性が高いですね。ちょっと当てはまるのにチェックしてみて」
そう言われていくつかの項目が書かれたシートとペンを渡された。
⑴好きな人(恋人)の名前がパッと出てこない
⑵好きな人(恋人)の顔がパッと出てこない
⑶好きな人(恋人)を見て懐かしい人と思う
など、他にもあった。最初のほうは今の自分の症状と全く同じものばかり。ちゃっちゃとやり進めていき、最終的にはほとんどにマークがついていた。
「今は恋人さんのこと忘れてない?」
「はい。ここ三日は調子がいいのかわかんないんですけどわかってて…これも何かの悪い兆しなんですかね…」
「それはわからないわ…」
「医者なのにごめんなさいね」と先生が申し訳なさそうに頭を下げた。全然謝ることじゃないのに。医療だってわからないことはまだたくさんある。全部が全部完治できるわけじゃない。わからないのは仕方がない。わからないんだから。だからお医者さんは悪くないですって言いたかったけど私の口は開かなかった。
「…忘愛症候群ですね。チェック表にこんなに丸がついた…。百パーセントと言ってもいいでしょう」
改めて私がマークした表を見て先生が言った。後ろを見てみると私の言ったことは本当だったんだと確信して残念そうにする母の姿に私はなんとも声をかけれなかった。
「この病気は奇病です。インフルエンザとかみたいにどんな人でもなるような病気じゃありません。かといってどんな人がなりやすいのか、治療法や治療薬、どのくらいの速さで症状が進行するのかなど。ありとあらゆることが未知で……私たちがどれだけ手を尽くしても治すことはできない。それにまだ発症例が少ないこともあってどうすることもできません。感染症ではないのでご家族やお友達移ることはないのでそこは心配なさらずに」
発症例はまだ少ない奇病。
私は違う意味で選ばれし者。
「症状は先ほど北村さんが言っていたように恋人のことだけを忘れてしまう。恋人とつくった思い出や恋人とつくったもの、恋人と話したこと。最終的には恋人の存在すら忘れてしまう病気です」
知ってる。わかってる。全くおんなじことを死神も言ってた。病院に行かなくたってもうすでにわかっていたこと。
「お付き合いされている方には伝えていますか?」
「……実はまだ、伝えていなくて」
先生は目を丸くした。「マジで?」と驚きを隠せていない。そりゃそうだ、もうとっくに一ヶ月も経っているというのに。
別れて、何も伝えていないんだから。
「お薬についても何も処方することができないのですが…すみません。医者だというのに申し訳ないです」
「そんな、先生は全然お気になさらず」
後ろから母がカバーした。本当は私が言わなくちゃいけないのに。
「北村さんは今どんな気持ち?」
突然の質問に戸惑った。今の私の気持ち…忘愛症候群を告げられて早くも一ヶ月が経ったけど……ずっと変わってない。私の気持ち。
「……怖いです。いつ好きな人のことを忘れるかわからないし、忘れた後のことが心配です」
「なるべく早めに伝えてあげて」
「えっ?」
先生は優しく私に微笑んだ。
「北村さんの怖いって気持ちはわかる。私がもし北村さんだったら、彼氏にどう伝えていいかパニックになって結局伝えれないまま終わってしまう。第三者だから言えるのこと。彼氏さんはきっとあなたのことを心配してると思う。だから早めに伝えてあげてほしい。きっと大丈夫だから、ね?」
先生の言葉。すごく優しかった。すごく真剣さが伝わった。声には出なかったけど私はこくんと首を縦に振った。
「今日はありがとうございました」
「いえいえ、あまり力になれず申し訳ございませんでした。お薬の処方はないので会計が終わったら帰ってもらって大丈夫です」
診察室から出る前にもう一度「ありがとうございました」と会釈してから扉を閉じた。
——なるべく早めに伝えてあげて
先生の言葉が頭の中で何度も何度もリピートされる。
先生には言わなかったけど、私琉嘉とお別れしちゃったんだよね。だから伝えるとか伝えないとか…今さらなんじゃと思う。もちろん私から勝手に別れようって言った。琉嘉は納得してなかった。そりゃそうか理由なしで勝手に振られたんだもん。
「…美?優美っ!」
ハッと我に帰った。全然母が呼んでいたのに気づかなかった。
「何何!?ごめん、ちょっと考え事してた…」
「お会計済ましてくるから待っててね」
「あぁうん。ここ座っておくね」
五百円玉を一つ財布から取り出してそのまま会計と書かれた看板の下に行った。看護師さんに何か言われたのか軽く会釈したように見えて、少し話したかと思えば手を振って戻ってきた。
「お母さん、さっきの人知り合い?」
「さっきの人?あぁあの看護師さんのことね。琉嘉くんのお母さんよ。ここで働いてるのね。驚いちゃった」
琉嘉の、お母さん……。そう言えば琉嘉言ってたな。お父さんもお母さんも医療に関する仕事してるんだって。
「……何か話してたように見えたけど」
「……」
「…何話してたの?なんでそんな暗い顔してるの?」
「…車で話しましょう」
母の雰囲気からしてこれは良いことを話すわけじゃなさそうだ。いつもニコニコと穏やかな母の様子が変だ。琉嘉のお母さんと話してきてから、怖い。
他の患者さんの迷惑にならないところでということでとりあえず病院を出た。
外は暑い。曇っているのに日が直接肌に刺すように痛い。
「琉嘉くんと別れたんだってね」
「……うん」
車に戻って一番最初に母が言った。私は全く嘘をつくつもりはないので頷いた。エンジンがかかって車が発進する。気まずい沈黙が私たちを取り巻く。
「琉嘉くん、すごく心配してるんだって」
「……そう、なんだ」
「別れたのって病気のことが原因?琉嘉くんにはちゃんと言ったの?言ってないんでしょう?琉嘉くん優しいし、幼馴染で恋人同士ならなおさらちゃんと説明すればわかってくれるはずよ。それなのにどうして?なんで別れようって言ったの?話す機会は沢山あったでしょうになんで言わなかったの?」
なんで、なんで、どうして。
私に話す隙を与えずに母は質問をした。母が何を言ったのか、全く頭に入ってこなかった。ただ、なんで、どうしてと疑問詞だけが頭り残って。
そんなの、そんなの……
「……今さらわかんないよっ」
「……わかんないって、ただ言えばいいだけじゃない。何をそんなに怖がってるの。こどもじゃあるまいし」
母は私の回答に呆れたのかやれやれ目を瞑って首を横に振った。それを見て私はどこかわかんないけど固く結ばれた糸がブツリと切れた音がした。水を沸騰させたときのようにボコボコ、グツグツとお腹や頭が熱くなっていく。グッと拳を握る。握った拳が痛い。
あぁ…お母さんに対して怒ってる。
理由はすぐに見つかった。
「そんなね、病院の先生にも怖いって言ってたけどあなたもう高校二年生。こんなことで怖がってるようじゃ」
「……こんなことって」
「何?聞こえ」
「お母さんにとってはちっぽけなことかもしれないけど、私からしたらこれはこんなことで済まされるようなことじゃないの!」
声をあげる私に母は肩を揺らした。ギュッと目を伏せた後、ゆっくりと目を開けて私を数秒見つめる。青信号に変わったのに気づいておらず、私が声をかける前に後ろの車がクラクションを鳴らした。
「優美…?何?怒ってるの?」
私が普段お母さんに反抗することがないからか、その声は怯えているように震えていた。そんな母に躊躇いもなく私は言葉を続ける。
「怒ってる。お母さんが言ったこと、嫌な気分になった。ただ言えばいいだけ?怖がるな?……そんなの怖いに決まってるじゃん。忘れるんだよ?大切な人のこと。いつ忘れるかわからない。知らない間に迫ってくるタイムリミット、お母さんは怖くないの?」
「……」
「私は怖い。だって、大好きな琉嘉のこと忘れるんだから…。こどもじゃあるまいしって言ったけど、揚げ足取るようなことかもしれないけど私もまだ一応こどもだよ?」
母は私のいうことに反論せず、肯定もせず何も言わずに黙り込んだ。いつもの見慣れた道。もうすぐ家に着く。最後に私は母に向けてこう吐いた。
「大袈裟かもしれないけどね、琉嘉のこと忘れるのは死ぬのと同じぐらい怖いから」
⭐︎
真っ暗で何も見えない。今日はいつも以上に早く夢の中にいると理解した。母に忘愛症候群のことを告げてから明日で三週間が経つ。二学期の始業式も気づけばあともう少しに迫っている。
母とケンカをした。私が一方的に思いをぶつけてしまった。我が子だけど他人事と思っているのか、忘愛症候群の怖さを笑われたのにイラっときてしまった。お母さんにはわからないかもしれないけど、あんなふうに思われてしまったのはちょっと悲しかったし、言われたときはものすごく傷ついた。
お母さんも私に悪いと思ったのかパッとしない表情。おはようとかおやすみとか日常会話はするものの、一緒にご飯を食べたりテレビを見て一緒に笑ったり。私は普通にしているつもりだけど、お母さんは避けているみたい。私も言い方、もっとちゃんと考えるべきだったな。
「…遅いなぁ」
誰もいない空間にポタリと吐いた私の声は響くことも誰に届くこともなく消えていく。死神はどこにいるだ。この中にいるときは大抵向こうが何か用があるときだ。それなにの出てこない。何をしてんだか、忙しいのかな。死神って案外忙しいのかな。
ここは暗いだけであって動くことに支障はない。立つこともできるし、歩くこともできるがこんな暗闇をむやみやたらに歩くのはやめておこうとその場にちょこんと座り込んで死神現れるのを待つことにした。
こんな真っ暗闇で「おいっ」ていきなり出てこられたらびっくりして腰が抜けるだけで済むか。
ここは本当になにもない。どこからも光が漏れてない。でも見える、私の目の前や手や足。まったく、ここはいつ来てもわけのわからない場所だ。
音も聞こえない、まさに無音。私の部屋のクーラーが働いている音、近くの草むらや公園から聞こえる虫の合奏、時計の針が一秒刻みにチッチッと進む音も何も聞こえない。
「今日は俺のほうが早かったな」
ぱっと声のするほうを向いてみると暗闇でなにも見えないはずなのに相変わらずぶっかぶかの服を着た死神が立っていた。腕を組ん私のほうに歩いてくる。
俺のほうが早かったって…
「いや、私のほうが早かったし。ていうか競うことでもないでしょ、しょーもないな…」
「あっちのほうに隠れてた。お前がいつ俺のことを呼ぶか、俺が来るまで何をするか試してたんだ」
「ふーん…興味な」
初対面では敬語を使ったほうがいいのかと思っていたが、死神だし上から目線なのが結構ウザかったのでタメであまり得意ではない人と話しているような口調ぶりで話すのが気づいたら当たり前になっていた。
はぁとため息をつく。一ヶ月ちょっとの夏休みがもう終わる。長い長い二学期が始まってしまう。また学校生活が始まる。生徒は「よっしゃ!」と小学校中学年ぐらいのいい反応や時折ガッツポーズをしている男子の姿が思い返される。つい最近のことなのに懐かしく感じた。
海や川、河川、プールに行く人。
友達と遊ぶ約束をした人。
誰かとお祭りに行ったり、家族と旅行に行く人。
部活の大会に遠くまで合宿や遠征に行く人。
花火を見たり、夏の醍醐味であるバーベキューをしたり。新しい何かを発見したり。
みんな思い思いの過ごし方をし、思い出を作る。
私は今年旅行には行かなかった、というより行けなかった。楽しみにしていた彩葉たちとのお泊まり会も二人の予定で中止になった。バーベキューは去年蚊に刺されまくって痒くて腫れて病院に行く羽目にあったから今年はやりたくないと拒んだ。川や海は死亡事故などをニュースで聞いたら怖くていく気が失せた。バスケ部やバレー部は遠征があるが陸上にはない。今は監督とコーチと顧問の先生の都合であるはずの部活が休み。
私の夏休みは結局何もしないまま終わりそうだ。ずっと家でぼーっとスマホを触るか勉強するか、学校の自習室に行くかの三択。
琉嘉と一緒に花火をしたかった。浴衣を着て、お祭りに行きたかった。ホラー映画を見たかった。どこか一緒にテーマパークに行きたかった。
でもお祭りはとっくに終わった。祭りが終わったら浴衣は着れない。一緒に花火をしたらテーマパークに行ったり、ホラー映画を見たりできるような状況じゃない。
琉嘉とはあの後、会話ひとつすら交わしていない。すれ違ってもお互いスルー。目があってもすぐに逸らす。お互いの口からお互いの名前が出てくることはほとんどなくなった。そのまま時間だけがすぎて、夏休みに入った。夏休み中の連絡もゼロ。
自分が悪い。あんな酷いことをしたから当然の報いだと言うことはわかってても。
あぁ、とうとう呆れられた、嫌われたなと。
彩葉と咲が心配していた。ケンカでもしたのか、何かトラブルがあったのか。「別になにもないよ」と言っても信じてくれなくなった。二人が直接琉嘉に聞き行ったが返ってきた言葉は“なんともない”でそのままその話は終わった。
他の生徒たちの間でも、別れた説が浮上した。私は…別に全然気にしていなかったし、聞かれてもうんともすんとも思わなかった…と思う。余計なことお世話だと思ったから。
でも時々、何をしているんだろうと考えるときがある。その時点でまだ好きなんだなぁと思う。そもそも嫌いになって(別れたわけじゃ)ないし。
部活中も気になって見る、教室の前を通るときも探してしまう。ラインとかインスタのDMだって頻繁にチェックする。通り過ぎた後に振り返ってしまう。
未練たらたらが丸わかりの自分に笑いが出る。
欲望、欲望、欲望。欲望に満ち溢れているけど。
自嘲した。自分が情けなさすぎて、自分勝手すぎて。
そんなこと、今更叶うわけないのになに言ってんだろうと、自問自答した。
私が全部、壊したんだもん。
あの日、あんな発言をしたのはどこのどいつだ。
自分でしょ?どう?違う?
自ら愛を放棄し、自ら捨てたことを悔やむ。
私って、私と言う人間って
「…どんだけ馬鹿で滑稽なんだろう」
「よくわかってるじゃないか笑」
「……余計なお世話だし」
「…あのとき、なんでおまえはあんなことを言った?」
フードで顔は見えないが睨まれているような、脅されているやつな目つきで見られているような気がした。低い声のトーンが鼓動を揺らす。ピリついた空気に私は嫌になった。
またこの質問。もうこの質問五回、六回と言わずに答えたよと呆れて言いそうになった。いい加減しつこい、めんどくさい。なんでって、ずっと言ってるじゃん。
「琉嘉をこれ以上傷つけたくないからって、言ってんじゃん。何回も言わせないで。いい加減にして、もう何回言ったらわかってくれるの?」
「……」
「私はね最低な人間なの、クズな女。わかる?資料に書いてない?琉嘉が気づいてないところで沢山嘘をついて騙した。大丈夫だって嘘を隠してきた。家族以外の誰にだってこのことを話してない。なんで話さないかわかる?信じてもらえないからって言うのもあるけど、余計な心配とか迷惑とかかけたくないからよ。死神には私の気持ちなんかわかんないかもしれないけどね」
開いた口が止まらない。死神は何も言わずにただ俯いている。私に何か反論するための言葉を考えているのだろうと無視して私は続けた。
「じゃあ仮に、あなたがものすごく愛していた人が病気にかかっていました。でもその人は大丈夫大丈夫って嘘をついて隠して、最後の最後で秘密を明かして、自分を騙していたらどう思う?どんな気持ちになる?嫌でしょ、普通。騙されてたんだ、嘘つかれてたんだって怒るでしょ。嫌いになるでしょ。私はそれが一番嫌なの、琉嘉には嫌われたくないの。一番大好きで、この世でたった一人の恋した人に嫌われたときの気持ち、想像してみなよ。それくらい死神もわかるでしょ。私はそれが怖くて怖くて仕方ない。…だから、こうやって別」
「おまえバカだな」
たった七文字の言葉に私の口はぴたりと止まった。俯いて聞いてないって半信半疑で。そうしたらこの有様。
「…今バカって」
「あぁ、何度でも言ってやる。おまえはバカだ。笑えるくらいにな。ほんと、バカだな笑…こんな人間は見たことがない。バカ極まりない笑」
こいつ、急に何を言い出すと思ったら、バカバカバカバカ…。私をバカにしている。ちょいちょいバカにしたような笑いに不満を覚えた。
「じゃあおまえに聞くけどな、その琉嘉というやつにこのことを伝えてみろ。本当におまえのことを嫌いになるかどうか。騙されたと思うか、嫌な気分なるか。傷つくかどうか。おまえ、聞いてもないくせに自分勝手な解釈にも程があるだろ。おまえはこの前からあいつを傷つけたくないからとしか言ってないが、それはあくまでおまえの自分勝手な予想、仮定に過ぎないことを理解していない。聞いてもないのに勝手に避けたりなんだり…見てるだけでイライラする。結局あいつを傷つけないようにと気遣ってなのか知らんが一番泣いて喚いているのはおまえだぞ?それにおまえは気づいていない。自分勝手な行動、相手に聞いてすらいないのにおまえだけ赤ん坊のようにギャーギャーピーピー泣いて。惨めな人間だな」
今まで私に思っていたことを全て吐いてスッキリしたの死神はそっぽを向いた。
唖然とした。「えっ?」と驚きのあまり声が裏返る。私が泣いているときは黙ってそばにいてくれた、温厚な人なのかなと思っていた自分がバカだった。やっぱり死神の言ってることは全て正しかった。
私はバカで、惨めで自分勝手だ。
言葉を失って、言い換えそうにも言い返せなかった。口を紡ぎ俯くことしかできない。反論しようと思っても反論のしようがない。全部死神の言う通りだから。
暗闇の中、わたしたちの間に沈黙が走る。
何から言えばいい?死神はもう私に言いたいことはないの?もうおしまい?
「…おい、おまえは結局何がしたかった?何を一番恐れてる?よく考えてみろ」
いつもの死神の声に戻った。一つの質問に私は頭を抱える。すぐに出せるはずの答えが出てこない。
……私結局何がしたかったんだろう。琉嘉を傷つけたくないってずっとこいつに言ってきたけど、多分違う。琉嘉を傷つけたくなかったんじゃなくて、自分だ。どんどんらかのことを忘れていく自分が嫌になって、無意識のうちに自暴自棄みたいになっただけ。
別れたくなんかなかった。離れたくなかった。会いたい、話したい。あの後ずっと、私は後悔して自分を恨んだ。私はいつも判断を間違える。間違えた道を突き進んで結局自分が一番傷ついて終わり。
何が一番怖いんだろう。
琉嘉を忘れること?
琉嘉に嫌われること?
琉嘉に大丈夫?って疑われること?
琉嘉を忘れた後のこと?
琉嘉と別れた説を友達の間で流されること?
違う、違う。そんなのじゃない。
琉嘉の笑顔が好き。琉嘉と話すのが好き。琉嘉と部活で一緒に走ることが好き。琉嘉と一緒に学校に行ったり帰ったりするのが好き。
一緒にいれなくなることだ。
嫌われると一緒に入れなくなる。結局は嫌われることなんだろうけど、それは違う。嫌われたなら仕方がない。
ただ、これからも、私が琉嘉を忘れても。
ずっと琉嘉には私を好きでいてほしいだけなんだ。
ずっとわからなかった答え。心にかかっていた、もやもや。自分が恐れていたもの。誤解。
それが今、全てわかった気がする。キツく、硬く解けないように結ばれた縄が、少しずつ緩んでスルッと解けた。モヤが風に飛ばされたように消えていく。
大きな誤解をしていた。私は琉嘉に何も聞いていない。忘愛症候群のことを伝えて琉嘉が傷つくか、私のことを嫌いになるか、嘘をついていたことを騙されたと思うか。そんなの本人に聞いてみないとわからないことなのに。聞こうなんて考えてもないのに自分勝手な思い込みだけで行動した。
勝手に嫌われるのが嫌だからって琉嘉のこと避けて、突き放した。
琉嘉を傷つけないようにって、自分が一番泣いて悲しくて後悔して…なのに大丈夫って強気になって。
「私、琉嘉に酷いことしちゃった…」
「結局おまえは、これから何をしたい?あいつに何を伝えたい」
私はこれから、琉嘉に何をしたい?何を伝えたい?
そんなのこうに決まってる。
「自分勝手なことばっかりして、大丈夫って嘘ついてごめんなさいって、面と向かって謝りたい」
「…それで、何が伝えたい」
「このことを伝えて。私が忘愛症候群だってこと、琉嘉をいつか忘れてしまうってことを理解してもらって」
「…で?」
「…自分勝手なことするし、全然ダメな私だけど、これからも好きでいてほしいって伝えたいっ…」
気づけば私の目から、大粒の涙が溢れていた。ようやく言えた。家族にすら言えなかったことが、本音が言えた。私が本当にしたかったこと。
死神、あんたのことは嫌いだよ。最初会ったとき、早く起きろバカ女って言ったのは相当腹が立ったし、ずっと長らく生きているからって上から目線だし。私がないたら何も言わずにそっとしといてくれるから案外優しくて穏やかな人って思ったら、全然そんな人じゃなかったし。急に声上げて怒る短気者、すぐ睨む。
でもこうやって私の間違いを気づかせてくれる。
言い方はイラっとするけど私の悪いところを指摘してくれる。
自分が本当にしたいことの答えを教えてくれた。
「…ありがとう」
「礼などいらん」
私のありがとうをいらないとか言ってるくせにまたそっぽ向いた。見えないはずの顔や耳がほんのり赤くなっているような気がする。
「ねぇもしかして照れてる?感謝されるのに慣れてないとか?」
「黙れ、照れてない。いろんなやつに感謝されっぱなしでうんざりしただけだ。変な勘違いするなアホ」
……こりゃ照れてるわ笑。黙れとかアホとかちょっと口が悪くなったときは大概恥ずかしいときか照れてるとき。もしかしてこの人ツンデレ?死神のくせに可愛いとこあるじゃん。
「ふふっ。おっかし笑」
「何笑ってる。まったく面白くないところで笑う。やっぱりおまえ、いろいろとおかしいぞ」
涙でぐしゃぐしゃの顔。にっと死神に笑ったけど全然こちらを見てなかった。
今日。ここにいて、初めてこの人が死神でよかったと思った。奇病を患ってから何もかもがマイナス思考だったけど
「私、明日琉嘉に連絡する」
「……あっそ。勝手にしろ。お前のことなど興味ない。いちいちやることやること報告するな」
明日、琉嘉に連絡しよう。それで、このことを正直に伝えて、謝って、私の想いを聞いてもらいたい。
不意の眠気に襲われる。本当の私は今寝てる、これは私の夢で、夢の中なのに眠気って本当に変だ。
今日はなんだかこの謎の眠気に襲われるのが早いような気がする。まあいっか、死神とあった次の日ってすごい疲労感でなんのやる気も出ないし。早めにこの夢から抜け出せるなら文句はないかな。
瞼がゆっくりと落ちていく。身体の力が抜けて真っ暗な地面に倒れ込む。だんだんと現実世界(死神がいない楽しい夢の中)に戻っていく。
「——————……る。また明日ここに来る」
死神が何かを言ったが意識が遠のいて、最後のほうしか聞こえなかった。
また明日死神に会わないといけない。私はあと何回死神に会うんだろう。そう考えたときには完全に深い眠りに落ちていった。
⭐︎
朝起きて、顔を洗って朝ごはんを食べる。テレビも見ずにそのまま自分の部屋に戻って勉強する。時計の針が動く音が部屋に響き渡る。
「ふわ〜ぁ…あー眠たい、眠たすぎる…」
大きなあくびが出た。今日は朝から頭がすっきりしない。ボヤボヤ、モヤモヤ。濃い霧がかかっているような感覚。それと何かを忘れているような感覚。忘れている何かを思い出そうとして勉強にも集中できない。
何時間、ここに座ったかな。あとどのくらい、時計の針が動く音を聞けばいいのかな。もう今日はすでに四時間半は勉強してる。ちょっとおやつ食べて、糖分補給しないと頭がパンクする。
「休憩しよっと」
下に降りて棚からお菓子を取り出した。本当はスナック系が食べたい気分だったが、手を汚したくないので目が覚めるような酸っぱいグミにした。
パッケージにも酸っぱいのが苦手な方や小さいお子様は食べないでくださいと注意書きが載っている。
ハードと書いている…ということは硬めのグミってことか。噛むと集中力上がるっていうし、忘れている何かを思い出すかもしれない。
再び部屋に戻って椅子に座る。袋から一粒グミを取って口に入れた。
「酸っぱっ!?うわぁ!?酸っぱっ…普通の顔をして食べれるものじゃないね」
あまりの酸っぱさに口を尖らせた。目をギュッと瞑ったあと瞬きを連発する。こんなに酸っぱいお菓子初めて食べた…。いい目覚ましだ。
「そうそう、何忘れたか思い出さないと」
今度はベッドに仰向けになって天井を見つめながら色々と考えてみた。
ご飯のこと、おやつのこと。カフェでスイーツを食べること…?いろいろ挙げてみたが食べ物のことじゃなさそうだ。
食べ物のことじゃないなら…学校のこと?授業、部活、休み時間。お昼ご飯にテスト。違う…近いような気がするけどなんか違うなぁ…。人間関係ことかな。彩葉、咲、先生、コーチ、監督。
「あっ、なんか監督が一番近い気がする…えっ?でもなんで?なんで監督?笑」
監督ということは部活に関係があるのかな。この前県総体があって、私はベスト4で終わった。もうちょっと頑張れたけど、でも自己ベストが出たからよかったけど。それよりリレーがおもしろかったし楽しかったな。私と三年生の先輩二人と……。
「あともう一人、誰だっけ?」
男女四人で走るリレー。先輩は男女で私も女子だからあともう一人は男子。一年生はみんな市総体までしか行けなくて、先輩はリレーに出る二人しか行けなかった。ということは私と同じ学年の子?
でも陸上部の子。海斗は行ったけど長距離だからリレーには出てない。他の子たちは走り幅跳びとかハードルとかだし……。じゃあ誰?
わかるはずなのに…多分だけど私が一番知ってる人のはずなのに…なんで思い出せないの?
頭を掻いた。枕に顔を突っ込む。誰なんだろう。絶対知ってるはずなのになぁ。多分この人だ、私が忘れてることってこの人に関係があるんだ。
「わかんないや。いつか思い出すでしょ。ちょっと机の上片付けよ。勉強は今日はお終い!」
ベッドから勢いよく立ち上がって散らかった机の上を片付け始める。教科書やノート、夏休みの課題を教科書棚に戻す。消しゴムのカスやゴミを捨てた。
「ん?何これ。お知らせの紙かな?」
ファイルから出てきた数枚の紙の中に三つ折りの紙が紛れていた。
開けてみると男女混合リレー選抜メンバーとか書かれていた。部活でもらったやつか。先輩たちの名前と私の名前の横にもう一人。漢字だったけどわかった。
「倉橋琉嘉…」
思い出した。私の忘れていたこと。
琉嘉に伝えなきゃいけない。
ごめんねって謝らないといけない。
昨日、死神とそう話したんだ。
今からじゃないといけない。今から伝えないと行けない。明日じゃだめ。今日じゃないと。
クローゼットを開ける。私服ではなく、パッと目に映った制服に着替えた。久しぶりに腕を通す制服は居心地が悪かった。スカートってこんなに邪魔だったっけ。
スマホがあればいい。カバンも財布も、あとは何もいらない。
十七時四十六分。もうこんな時間。さっき、三時のおやつを食べたばかり。
私はスマホを開いて“琉嘉”と表示されたアイコンをタップした。一番最後に連絡をしたのは二ヶ月前。
『会いたい。話したいことがある。あの場所に来てほしい』
そう打って私は母が呼び止める中、家を出てあの場所に向かった。



