Ⅷ 広がる世界(side:潤)

 ここのところ潤の心の隙間を埋めるように春野が一緒に居てくれる。春野は大人で、落ち着きがあって一緒に居ると前向きになれる人だ。

 彼と居ると晃の事を考えなくて済む。次の行動を示してもらえて、前に進む舵取りをしてくれているようで安心する。潤にとって優しくて安心する存在となっている。

「ここでいいかな?」
「はい。顔が映らなければ良いです」
「後ろ姿も素敵だよ」

 春野は訳の分からない褒め方をする。後姿が素敵と言われるのは初めてで、潤は首を傾げたくなった。頭を撫でられたり、抱き締めたりするのも春野の独特な所だ。これまでそんな風に潤に接してきたのは晃くらいだ。

 晃の距離感も分からなかったなぁ思い返す。だから春野の距離感も新たな発見だと思うようにしている。

 今日は春野と共に駅のストリートピアノを弾きに来ている。以前はコウがしてくれたサポートを、春野が優しく行ってくれる。カメラの設置もしてくれる。嬉しくて潤がフフっと笑うと大人びた微笑みが返ってくる。

「頑張って」
 一言を残して春野がストリートピアノから離れた。潤はここ数日の感謝を込めてピアノに向かった。久しぶりに明るい気持ちでストリートピアノを弾ける。

 深呼吸して弾き始める前に、潤は周囲を見てみた。キラキラした瞳が潤に向いている。期待が潤に向けられているのが分かる。急に心がポカポカする。

(この人たちに、明るい気持ちになる優しい音を届けたい。僕の音楽で出来るのなら、頑張る一歩を後押ししたい)
 心からそう思った。よし、と潤は気合を入れた。

 新たな気持ちで向かうと、鍵盤が潤と一緒に高鳴っているように感じた。ピアノに心臓があったら、きっと潤と同じ心拍数だ。

 弾きながら、ピアノが潤の心に共鳴してくれることにうっとりする。何となくピアノから感じることがあった。このピアノはきっと潤と同じ気持ちだ。ここでピアノは、たくさんの人を見ていたんだ。一緒に癒しの音を届けることに喜びを見出している気がした。不思議な一体感に感動が生まれる。潤の音楽が、煌く。美しいと思った。自分の音楽ではなく、響き渡るピアノが美しかった。

 潤が弾いている曲はショパンの「木枯らし」だ。静寂から始まり、木の葉が激しく舞うような音の嵐。潤は久しぶりに音楽を楽しめた。

(ね、心を湧き立てるでしょ?)
 弾き終わって春野に笑いかけると、春野は泣いていた。温かい拍手にペコリと頭を下げて、春野に声を掛けた。

「どうしたんですか?」
「……いや、いいんだ。本当に、いいんだ」
 顔を隠しながらも涙を流したまま、春野が一緒に片づけてくれた。休んでもらう方が良いだろう。

 荷物を持って隣を歩く春野に、どう声を掛けるべきか悩んで見上げると、春野と目が合った。春野につられて立ち止まった。春野が持っていた機材や荷物を置いた。どうしたのかと戸惑う潤は、逞しい腕に抱き込まれた。急な抱擁に驚きが隠せない。

 ここは駅前の人通りの多い歩道だ。恥ずかしさで居たたまれず、潤はドンドンと春野の胸を軽く叩いた。

「ありがとう。心が、洗われる。潤君が、大好きだ」
 耳元でそっと囁かれた言葉が潤の脳に響く。心臓がドクンと鳴った。潤の顔が熱を持つ。好き、と言われた。どうしたら良いのだろう。

「君は、最高のピアニストだ」
 続けて耳元で囁く言葉が聞こえた。先ほどの『好き』は、潤のピアノが好きと言う意味だ。変な意味にとってしまって恥ずかしくなる。

 そして潤はどこか安堵している自分が居た。頬が熱いまま春野に笑いかけた。

「ありがとうございます。けど、ここ、往来です」
 はっと我に返ったように春野が潤を解放する。解放されると、いつもの距離に安堵した。

 春野が我を忘れて抱きつくほど潤の演奏に感動してくれたと思うと嬉しかった。
 照れくさそうに笑う春野を見て、潤も笑った。


 次の日、春野は音源を持って東京に戻った。いつも一緒に居てくれたから、寂しかった。きっと兄が居たらこんな気分かな、と潤は思った。

 潤は自分の部屋で、久しぶりに一人だな、と感じた。春野が出入りしていたから寂しくなかった。部屋の自分のピアノに向かう。晃と離れた頃はピアノに向き合えなかった。でも今は大丈夫だ。春野に会って心が落ち着いた。

 音楽を演奏する気持ちを再確認する時間を過ごせた。人のために弾くピアノの楽しさを知った。そして、今からは自分のためのピアノ演奏だ。

 今の少し明るい気持ちを込めて「ラプソディ・イン・ブルー」を弾く。ドラマでも使われてメジャーな曲で、ちょっとジャズ要素があり楽しく音が弾ける。十分ほどの曲で、独特のリズム感が遊び心満点だ。

 弾きながら心がスッキリしていくのが分かった。潤は明るくて楽しいピアノ演奏が好きだ。

 弾き終わると、玄関ドアからガタンと音がした。春野じゃないだろう。きっと晃だ。

 一つ、深呼吸をして潤は防音の室内ドアを開けた。隣部屋に対して一曲だけすみません、と心の中で謝る。防音室扉を開ければピアノの音が玄関にしっかり届く。玄関外に晃がいるのなら聞こえるはずだ。

 深呼吸をして潤はピアノに想いを込めた。

――コウ、僕は君の気持ちが知りたいよ。

 潤は春野に会って、自分の苦しさを受け入れようと思えた。そうなると晃の心が気になった。晃が本当は何を考えていたのかは、晃にしか分からない。
 それを知りたいのに知りたくないような変な気持ちが潤に湧きあがっている。

 高木晃は罪を隠す嫌な奴だと思い込みたい心と、あの居心地の良さや優しさは全て本物だと思いたい潤の気持ちが入り混じる。相反して苦しい気持ちだ。本当に裏切られたのか、そうじゃないのか。

 それに向き合うのは潤自身の勇気だ。晃にも気が付いてほしい。晃に『もう逃げるな』と伝えたかった。

 晃に「情熱大陸」を届ける。
(この曲がまっすぐ玄関の扉を突き抜けて届け。コウの心に響け)
 そう願いを込めた。

 弾き終わると、ドアの向こうから堪えるような嗚咽が聞こえた。鼻をすする音もする。きっと潤の気持は届いたのだろう。

(僕に向き合う気持ちになったかな)
 そう思いながら、潤から扉は開けない。晃が自分でノックしてほしい。潤は晃の一歩を期待して待った。

 しばらくしてタタッと足音がした。晃が玄関前から去ったのが分かった。
(あぁ、ダメだった、か)
 潤はガッカリしてしまい、ピアノの前でしばらく動けなかった。二曲を続けて弾いたせいで右手が小さく震えている。

 ビリビリする痛みに手をさすり、ため息をついてピアノのふたを閉じた。その時。

「コンコン」
 控えめな音がした。誰かがドアを直接叩いている。気のせいじゃない。潤の心がドキリとする。
「コン、コン」
 潤は高鳴る胸とともに玄関前に移動した。

「……潤」
 晃の声だ。潤は深呼吸して、ドアを隔てた晃に問いかけた。
「コウ? 高木晃? 君は、誰?」
「コウで、高木晃、だよ……潤、ごめん。ごめん……」
 弱々しい声だ。きっと晃は泣いている。

 ガチャリと鍵を開けてドアを開けた。下を向いたままの晃が目に入る。ブルブル震えている。晃の手を見れば、シャチのマグカップが握られていた。先ほど足音が一度去ったのは、コレを取りに帰ったのかと分かった。

「コウ、どの部屋?」
「六階の角。六〇一号室」
「あぁ、広い角部屋ね。さすがお坊ちゃんだ」
 つい、嫌味の様な言葉が出てしまった。晃は下を向いたままだ。

「入りなよ」
「あいつは? 春野、さん」
「今日は東京」
 晃は「そうか」とつぶやき部屋に入った。

 潤はそっとマグカップを受け取った。マグカップを手渡す瞬間に、晃が不安そうに潤を見た。
「座って」
 狭い部屋の晃の定位置だった場所に晃が座った。

 潤は棚の奥にしまっていたペンギンのマグカップを出した。何となくシャチのカップと並べた。
 二つが並ぶ日がまた来たことに、潤は何とも言えない気持ちを抱きながら、カップに温かいお茶を入れた。初秋で暑さが残るとはいえ玄関の外に立っていれば身体が冷えているだろう。

 テーブルに二つのカップを置いて潤も座った。晃がテーブルの上の二つのカップを凝視した。

「もう、捨てられたと思っていた。嬉しい。まだ、持っていてくれて、嬉しい」
 肩を震わせ涙を落とす晃を潤は見つめた。

 晃を見ても潤の気持ちが落ち着いている。黒い波が心に起きない。晃の言葉を聞こうと思える。潤はそんな自分が不思議だった。

 きっと春野と過ごした時間が潤を変えたのだと感じた。
 潤が何も言わずにいると、晃が土下座をしてきた。

「潤、許してくれ。俺はいつも間違える。本当にゴメン。潤の右腕、後遺症が残るほどの骨折とは知らなかったんだ。親からもピアノ教師からも、潤の怪我はかすり傷って聞いていた。それを信じていた。ピアノ教室からいなくなっても、海外留学でもしたと思っていた。リミット ファイブ ピアノを見つけて潤だとすぐ分かった。やっぱり活躍している、と嬉しく思った。でも、現実は違った。潤の苦しさを知り、悲鳴を上げるようなショックを受けた。潤から才能も夢も奪って、それを知りませんでした、なんて簡単に言えなかった。自分の罪が重すぎて、口に出来なかった。騙したみたいになってゴメン。だけど、潤を失いたくなかったんだ。さりげなく俺の心を軽くしてくれる優しい潤と、ずっと傍に居たかったんだ。ずるくてゴメン。いつも俺が苦しめて、ゴメン」

 震えるように土下座したまま晃が謝罪した。

 潤はじっとその様子を見ていた。
(そうか。僕の怪我の事を、知らなかったのか)

 潤は出会った時のことを思い返した。いつも晃は潤の右手を辛そうに見つめていた。過剰に潤につきまとっていた。全部、過去の罪にどう向き合うか悩んだための行動だったのか。

 ストンと腑に落ちて潤の全身の力が抜けるような感覚がした。

 晃は別に潤のことが特別な存在だったんじゃない。晃なりに罪に向き合った結果だったのだ。それがハッキリすると、なぜか心がズキリと痛んだ。欲しかった真実が潤の心を抉る。

「分かった。僕は、すぐにコウを許すとも受け入れるとも言えない。今日は、コウの気持ちが聞けて少しスッキリした。コウ、もう過剰に謝罪行動はしなくていいよ。自分の普通の生活をお互いに過ごそう。僕は、ゆっくり考えたい」

 晃はガクリと肩を落とした。
「……もう、前のような関係は、無理なのかな」
「今は、自分の気持ちにゆっくり向き合いたいんだ。春野さんのおかげで気持ちがだいぶ楽になっているけれど、すごく苦しい気持ちが押し寄せる時がある。僕は今、自分で手一杯なんだ」

「春野って、あいつ、何者?」
 これは潤が困る質問だ。CMの話は極秘だから言ってはいけないと言われている。
 どう説明してもCMの部分を隠し通すことは無理だろう。ボロが出てしまいそうだ。潤が黙っていると、それ以上の追及はされなかった。

 お茶を二人で静かに飲んだ。

「じゃ、帰るよ。話聞いてくれてありがとう。俺、見守っているから。潤が俺を必要と思ったらいつでも呼んで。何より潤を優先する。少しでも潤の助けになるなら、それでいい」
 すがるように必死に訴える晃を見た。晃の誠実な言葉なのに、潤の心が痛い。これが晃なりの罪滅ぼしなのだと考えるとズキっとする。

「お互いに、時間が必要だよ」
 晃を見ずに、静かに答えた。今の潤にはこれが精一杯だ。

 晃の優しい言葉がトゲのように晃の心を刺す。晃が罪に向き合ってくれたのに、満足できない自分がいる。潤のこのモヤモヤは何だろう。訳の分からない苦しい気持ちが渦巻いた。

 明日、春野が来ると良い。晃と居ながら春野の優しい手を思い浮べた。そうすると少し胸の痛みが楽になった気がした。


 東京本社に行っていた春野が二日で戻ってきた。音楽は潤で決定したらしい。曲は「木枯らし」だ。

 春野が持参した契約書に潤はサインした。これで正式に潤のピアノがコマーシャル起用される。
 非現実的な事に潤の心がドキドキと高鳴った。プロの道は諦めたのに、潤のピアノが認められる。不思議な感覚だ。

「あれ? こんなコップあった?」
 急にキッチンで春野が声を上げた。
「あ、しまっていたの、出してみました」

 春野が見つめているのはシャチとペンギンのマグカップだ。洗ったまま置きっぱなしだった。晃が持参してからそのままになっていた。返した方がいいだろうと思いながら、二つのマグカップを並べていた。

 晃と話したこと、胸のモヤモヤ、春野が来たら話したいと思っていたのに潤はまだ話せていない。心の中を言葉にできずにため息が漏れる。

「コレ、使ってもいい?」
 いつのまにか春野がシャチのマグカップを持っている。
「あ、えっと、それはちょっと。ごめんなさい」
「特別な、モノ?」
 特別なのだろうか。どう応えて良いのか分からず困る。だけどシャチのマグカップは晃の物だから春野に使ってほしくない。

 潤が考え込むと春野が察したように頭を撫でて来た。
「わかった。使わないよ。そんな顔しないで」
 そっと、潤の頬に春野の顔が触れた。頬に触れたのは、春野の唇、だ。急に潤の顔が熱を持つ。これはキス、ではないのか。そう考えると潤はパニックに陥る。

「な、何で? え?」
「ほら、心ここにあらず、だと大人にイタズラされちゃうぞ」
 あはは、と春野に笑われて、からかわれたと分かった。焦った自分が急に恥ずかしくなる。
「もう! 子ども扱いして!」

 潤は悔しくてポコポコ春野の背中を叩いた。「やめて~」と春野が笑った。一気に気持ちが楽になった。春野は良い人だと潤は思った。

「さ、食べよう。東京土産を開けようよ」
 春野は有名店のお菓子をお土産に買ってきてくれた。それらを広げて食べ比べパーティーをする予定だ。そのためのお茶の準備中だった。

 春野が『東京の美味しいコーヒーショップの豆だよ』とコーヒーをいれてくれた。部屋がいい匂いに包まれる。

「今度、俺用のコップも置いていい?」
 潤を見ずに、ちょっと照れたように春野が聞いてくる。顔が赤い。大人の春野が急に赤面するから意味が分からず潤は首を傾げた。

「はい。一緒に買いに行きましょう。でも高いのは困ります。割らないか緊張するから」
「あはは。わかったよ」
 そう笑う春野を潤は不思議な気持ちで見つめた。でも、晃のカップを使われないのなら、春の専用を置くくらい良いかと思えた。

 潤は週末のストリートピアノを弾き終えて、そのままデパートで春野と買い物をした。春野はご機嫌でマグカップを選んだ。潤のものもお揃いで買ってくれた。

 ペアで一万円もした。高すぎるし潤の分は遠慮したのに、スマートな所作で購入が決まっていた。白い磁器のカップだ。

 青い模様が上品な品で、イギリスのブランド食器らしいが潤は良く知らない。陶器とは音が違うよ、と春野が言った。音が違うと聞くとカップに興味が出た。

 潤の分もカップを買ってくれる春野を見つめて、自分の周りには『優しい』が沢山あると潤は思った。

 ストリートピアノで拍手をしてくれる人の優しさ。ユーチューブで聴いてくれる人の優しさ。今まで気づかなかったことが最近見えてきている。

 優しい人は、痛みを知る人だ。それも分かった。そして、春野も痛みを知る人だ。そして、優しい時間を一緒に過ごした晃も、きっとそうだ。

 そんな少しずつ分かったことが潤の気持ちを穏やかにしてくれる。それが分かってから、潤のピアノの音が高くまで響くようになった。音が広がって楽しいのが自分で分かる。

 これまでは、手の怪我の後、黒い気持ちに固い重い蓋をして閉じ込めるようにして乗り越えた。でも今は違う。黒い波が起きても、潤は受け止めていられる。飲み込まれない自分がいる。

 潤は今、春野の会社のCM音楽を最優先に考えると決めた。せっかくのチャンスだ。今の潤でも音楽家として活動できる希望が見えている。
 潤の短い音楽だからこそ出来る事がある。そのことに全力で向かいたい。そして、これが終わったら晃と向き合いたい。

 東京の音楽スタジオで収録を行った。いつもの雰囲気と違う場所に緊張して、潤はキョロキョロ周囲を見てしまった。

「潤君、ここはストリートピアノと同じ。スタッフは聴いてくれる街の人と思えばいいよ」
 春野がそう言ってくれるから気が楽になった。潤はピアノ演奏に関しては緊張しない。大きなコンクールでも楽しめてしまうタイプだった。

 そんな思いが顔に出ていたのだろう。春野に頭をポンポンと撫でられる。そんな気遣いが嬉しくて潤は春野を見上げて微笑み返した。

「度胸があるみたいで安心だ」
 春野は優しく笑った。

 ザワザワした街頭より音が綺麗に反響する。久しぶりの感覚だ。室内の音響のいい部屋でグランドピアノを弾くワクワクがたまらない。周りの人からいい緊張感が伝わってくる。

 潤の肌がゾワリとする。この場の皆が、潤の音を待っている。この期待が楽しい。目の前にあるのは高級なグランドピアノだ。

 きっと最高な音を奏でるだろう。そっと触れると、鍵盤の指触りが滑らかで貴婦人のようだと思った。
「数曲、自由に弾いてみて」
「はい」
 春野に素直に返事を返した。

 春野に会えて良かった。初めて会ったときの事を思い出し、潤はリストのマゼッパを弾いた。ユーチューブの閲覧数が多かった曲でもある。超絶技巧曲で指ならしにも良い。

 この曲を黒い気持ちで弾いたこともあった。荒波のような音の波と、穏やかな光が降り注ぐような曲。今の潤ならこの曲がよく分かる。荒波のあとには優しい光がある。

 柔らかい木質のピアノが、潤の想うままに音を舞い上げてくれる。綺麗な音に包まれて夢中になった。
――幸せだ。

 そう思いながら弾いた。八分ほどの時間だった。気持ち良くて自分の音に酔いしれてしまった。久しぶりの緊張感に高揚して背筋のゾクゾクが止まらない。

 室内の音は、ストピのどこまでも広がって空気の中に消えていく音と違う。音が壁に反響して自分に戻ってくる感覚が懐かしい。狭い自室では味わえない感覚だ。
 幼い頃のコンクールを思いだす。弾き終わり、心を満たす時間を過ごしていると、小さく拍手が聞こえた。

 はっとして見ると、スタッフさんが皆、手を止めて潤に見入っていた。急に恥ずかしくなり、ぺこりとお辞儀をした。
「すごい。ストピもすごいけど、音響が良い場所での君のピアノは、すごい。他に表現が見つからないよ……」

 春野が頬を紅潮させていた。
「そんな。大げさです。でも、いい音を届けたいから、頑張ります」

 弾いている姿も撮影された。横顔までなら、と承諾している。宣伝用にユーチューブやSNSで流すことなどにも承諾した。弾き始めれば、撮影や収録は、全然気にならなかった。潤はピアノを純粋に楽しんだ。

 三日間、色々な曲を弾いて撮影してもらって終了した。潤の短い演奏に付き合ってくれる大人が優しかった。
 とてもいいモノになりそう、と春野は終始興奮していた。潤も久しぶりに大舞台を経験して心が歓喜に満ちた。

 ――やっぱりプロになりたかったな。
 そう考えて、ホールでリサイタルをしている自分を想像して笑う。十分しか弾けないリサイタルは無いだろう。
 あまりの非現実な自分の妄想に乾いた笑いが零れた。悔しいような寂しいようなモヤモヤが潤を襲った。

「ご飯、食べていこう。今日は中華を奢るよ。潤君の素敵な演奏のお礼だ」
「え? そんな、いいですよ」
「いや、俺が個人的に奢りたい。潤君のピアノって最高に感動するんだ。ファンとして奢るよ」

 結局押し切られて、一万円弱する中華のコースをいただいてしまった。これまでの中華料理の概念がひっくり返る美味しさだった。「美味しい」と潤が食べると、春野は嬉しそうにしていた。

「春野さんといると、安心します。僕は一人っ子だから知らなかったけれど、きっとお兄ちゃんが居たらこんな感じですね。頼りになって、行き詰まると助けてくれる。カッコいいお兄ちゃんです」

 潤は気持ちを込めて伝えたつもりだけど、春野は微妙な顔をして潤を見ていた。言いたいことが伝わらなかったのかもしれない。後で改めてお礼を言おうと思った。
 収録が終わったから、もう潤の出番は終わりだ。春野は東京にそのまま戻る。もともと東京で仕事をしている人だから当然だ。春野とはここで別れる。

「週末は遊びに行っていい?」
 新幹線の乗り場まで送ってくれながら春野がつぶやいた。

「僕は暇だからいいですけど、春野さんは忙しいんじゃないですか?」
「潤君と過ごしたい。君に触れていたい」
 艶のある言葉にドキっとした。

「平日は潤君の音楽を使って最高のCMにするために仕事を頑張るから、休日は潤君で癒されたい」
 真剣な瞳で潤を見下ろしてくる。春野が言うとまるで愛の言葉みたいだ。

「恋人に言うセリフみたいですね」
 潤がフフっと笑うと、春野が潤の頬に触れた。

「恋人に立候補したい」
 ――は? 聞き間違い? 
 混乱して春野を見つめたまま潤は静止した。

「冗談じゃないよ。本気だ。少し考えてくれないかな?」
 驚きすぎて潤は何の返事も出来なかった。週末は家に行くよ、と言われてコクリと頷いた。

 そのまま東京駅で別れた。潤の胸がドキドキと混乱の音を上げ続けていた。


 胸の高鳴りが納まらないまま潤が帰宅すると、晃が家の前に座り込んでいた。このままでは入れないから声を掛けた。
「コウ」
 居るかな、とは思っていた。

「潤、どこに、いたんだよ? あいつと一緒?」
「コウに、言う必要はないよ」
 潤の気持ちに余裕が無くて、意地悪な言い方になってしまった。キツイ言い方をしてしまい、取り繕うように言葉を続けた。

「ちょっと、言えないんだ。家に入るから、どいてくれる?」
「……一緒に入っちゃ、ダメ?」
 晃は下を向いたまま立ち上がった。ここでずっと待っていたのかと思うと、お茶くらい出そうと思えた。
「別に、いいよ」

 部屋に晃を招き入れてみて、晃と一緒なのは久しぶりだと思った。春野との仕事で目まぐるしく動いていた。
 もしかして、晃は毎日こうして潤の部屋の前で待っていたのだろうか。そんな事を思うと潤は心がズキっとした。

 秋も本格的になり夜は冷える。ふと気になり晃の大きな手を触ってみた。やっぱり冷えている。晃の手が驚いたようにビクリと動いた。見上げれば驚いた顔の晃が潤を見つめていた。

「コーヒーでいい?」
「うん」
 シャチとペンギンのカップを出して、インスタントコーヒーを準備した。

 その時、ふと晃の視線が気になった。晃は食器棚を見ている。その視線の先には春野とのお揃いカップがある。晃の顔が怖い。
 何も言わない晃から静かな怒りを感じた。別に悪い事をしているわけじゃないのに潤の心臓がドクドク音を立てる。
 冷汗が出そうになり、静かな空気に耐えられず潤は震える声を出した。

「コーヒー、入れているから、危ないよ」
「マグカップ、あいつの?」
 潤の声とは対照的に晃の口調は強かった。

「……うん」
 潤が正直に答えると、晃はガチャンと音を立てて春野が買った二つのカップを持ち出した。あまりの剣幕に驚いて止めることが出来なかった。

 晃が玄関から外に投げ捨てるのをただ見ていた。二つのカップがパリンと割れて散らばった。潤は怖くて動けなかった。
 開けっ放しの玄関に仁王立ちしている晃の後姿が目に焼き付いた。潤はどうしていいのか分からず、ただ見ていた。
 しばらくして晃はハッと振り返り、悲しそうな顔をして「ゴメン」と言った。慌てたように晃が出ていった。

 潤はしばらくその場に立ち尽くしていた。

 玄関の外を片付けないといけない。潤は沈んだ気持ちのまま軍手とビニール袋を手にして外に出た。
 カチャリカチャリと悲しい音を立てる欠片を集めた。春野の優しい笑顔が浮かび、心がズキリと痛くなった。明日、デパートで同じものを買っておこうと思った。

 潤は晃の衝動性が怖かった。寄り添っていた日々の優しい顔は、どこに行ってしまったのだろう。
 晃を追いつめるのは昔も今も潤なのかと思うと胸が苦しい。晃にとって潤は良くない存在かもしれない。

 そう思うと、喉が焼けるような感情が潤の中に込み上げた。