Ⅶ 春野 豊(side:春野)
高校生の頃、春野豊は自分の性癖に気が付いた。
年相応のエロ話に興奮しないこと。女子から告白されることも多かったけれど、誰とも付き合おうと思えない不思議さ。女子よりもどちらかと言うと男性の方に目が行く。
特に後姿の男性の首筋は魅力的に思えて目で追った。優しく舐めてみたいと思ってしまう。それを考えると下半身がズキンとする。この頃からきっと自分は同性愛者なのだろうと春野は思っていた。
そう分かっても、良いパートナーには出会えなかった。大学進学で上京しゲイバーに通って経験を積んだ。短期間のセフレは出来た事もある。だけど恋愛は出来なかった。
同性愛という少数派では、恋愛はとても無理なのだと諦めの気持ちを持つようになった。性的に慰め合う相手がいるだけラッキーだと思うようにした。
春野は心のどこかで感じる寂しい気持ちに蓋をした。
仕事はやりがいがあり順調だった。三十歳になる前に主任昇格し、広報部では春野は一目置かれている。上層部とのパイプもでき自分の存在が認められる楽しさを感じていた。プライベートが上手くいかない分、仕事の充実感で満たされた。忙しければ余計な不安を考えなくてすむ。
(これでいいんだ)
春野は自分に言い聞かせて目の前の仕事に没頭した。女性からの誘いは全て「仕事」を盾にして断り続けた。
今回の紅茶飲料コマーシャルのイメージモデルは女性の清純派モデルだ。春野の勤める会社で一番の売れ筋を誇る紅茶飲料のリニューアル。果実紅茶シリーズを季節ごとに売り出す予定になっている。加えて、健康志向向けに紅茶ポリフェノールを倍量配合した動脈硬化予防の商品も販売する。
これまでこの紅茶シリーズは定番を大事に守ってきたが、他会社との競争に勝ち抜くための戦略が必要となってきた。
他社の紅茶製品が売れると、春野の会社の商品から顧客離れがおきてしまう。顧客をつなぎとめるために、新たな一歩を踏み出すことにしたのだ。
そのために、まずリニューアル商品の初めのイメージが大事だ。社内で検討した結果、「生活の中に一息の休息を」がコンセプトになった。そして、「休息の後にまた頑張ろう」と思える商品イメージを作ることになった。
宣伝に大切なのはイメージモデルと共に音楽だ。画像と共に強く人の心に残る音楽があればベストだ。宣伝のひと時の時間で輝きを放ち、人の導きになるような音楽があればなお最高だ。未開拓で紅茶のイメージに合う音楽を手あたり次第模索した。
そんな中で春野は、人気急上昇のストリートピアノ投稿者の「リミット ファイブ ピアノ」を見つけた。聞いた瞬間に春野の心臓がブルッと震えた。
彼の音は心が引き込まれる。弾いている彼の後姿に目が惹きつけられた。彼の首筋の色っぽさに目が離せなかった。
――見つけた。彼しかいない。
春野はそう強く思った。
「リミット ファイブ ピアノ」が投稿者名で、本名は「雪下潤」という二十歳の青年。雪下潤は、幼少期は全国ジュニアピアノ大会で上位に入っていた。天才少年として雑誌にも載っていた。しかし、中学の頃に手の大怪我をしてからはピアノの道を断念している。
長時間の演奏が困難となり、現在は「リミット ファイブ」として活動しているようだ。
彼の経歴を調べて、春野は(なるほど)と納得した。
あの短い時間の輝きと、聞いた後に心が洗われるような感動は、彼の抱えた苦悩でもあるのだろう。そう考えると、飲料イメージにピッタリだと思えた。
一度聴いたら、もう一度聴きたいと思う演奏だ。彼しかいないだろう。
春野は動画映像と共に会議に提案をした。部長も含め皆が感嘆の息をついたのが嬉しかった。プロ活動をしていないフレッシュ感もいい、と彼を採用する方向で決定した。
スカウトは春野が全権を担うことで了承を得た。何としても落としてこい、と部長から後押ししてもらえた。
春野は「リミット ファイブ ピアノ」の顔が見たかった。あの白い首筋の美しさ。ちらりと見える顎のライン。思い出すと胸の高鳴りが抑えられなかった。
調査会社の報告書で住所、大学の学部まで分かっているが、まず彼の住んでいる街の駅構内ストリートピアノに行ってみた。動画投稿でよく彼が登場している場所だ。そこで会えたら運命だ。そんな高校生のようなトキメキを抱えていた。いるかもしれない、と春野の胸が高鳴っていた。そんな期待を持ちながら目的地について、心臓が大きくドクリと鳴った。
――居た。
カメラをセットして、まさに今から弾くところ。土曜に来てみて良かった。興奮して涙が流れそうだった。下を向いてマスクをしているからハッキリ顔が見えない。でも、動いている本人が目の前にいることに興奮する。
その場にいると、周囲の人たちの彼への期待感と高揚感が伝わってきた。やはり彼には人を惹きつける力がある。
そこで聞いた彼のピアノは、何か苦悩を叩きつけるような音楽だった。曲は春野が知らない曲だ。だが、心の奥底にある気持ちを刺激される。
――そう、苦しいんだ。こんなに抑え込んでも溢れるんだ。どうしたらいい?
そんな彼の悲鳴が音になって春野の心に流れ込む。周囲の人の緊張が伝わってくる。
(あぁ、俺だけが苦しいんじゃないのか。彼はこんなにも苦しんでいる。それでもピアノに向き合っている)
聞いていると春野に柔らかな気持ちが生まれた。隣を見ると、涙を浮かべた年配の女性がいる。ピアノを囲む人々が目を潤ませて陶酔している。
春野には彼らの気持ちがよく分かった。心に隠した言葉に出来ない苦しさを、まさに今、音楽で共感している。ただ癒される。
弾き終えた後は数秒の静寂が生じた。感動は静寂を生むと初めて知った。続いて起こった拍手の中で彼が急にふらついた。驚いて春野はすぐに駆け寄り抱き留めた。
青白い彼の綺麗な顔を間近に見て春野の心がドクっと動いた。あの迫力のピアノの演奏者とは思えない少年の様な彼に、春野の心は一瞬で奪われた。
青白い彼を病院まで抱きかかえて行った。駅近くですぐに総合病院があり助かった。
病院で目を覚ました彼を見て春野の心は完全に惹かれてしまった。
黒い二重の猫のような瞳に白く細い首。春野を警戒する様子が庇護欲をそそる。
――自分の飼い猫にしたい。撫でまわしたい。彼が欲しい。
そんな沸き上がる熱が春野の心に渦巻いた。
病院での点滴を終えて彼の家に送り届けた。春野に頼りながらも警戒している様子が、人慣れしていない猫のようだ。思わず笑みが漏れてしまう。雪下潤は壮絶に、可愛い。
潤の部屋でふとピアノが気になった。黒いピアノの蓋に薄くホコリがある。自分のピアノに触っていないように思えた。
あの駅でのストリートピアノ演奏といい、音楽に向き合えない時期なのかもしれない。狭いワンルームでピアノの存在が大きな部屋だ。向き合いたくなくても音楽から離れられないだろう。
少しここから離れて気分転換が必要じゃないのかと思えた。部屋にこもっていたらストレスが溜まるだけになる。
安心してもらうために、春野の自己紹介を丁寧にして会社名も伝えた。名刺を渡して、悪い大人じゃないよ、と必死に伝える自分が可笑しかった。
潤を見ているとドキドキする。そんな自分がこそばゆくて心地いい。春野は乾ききっていた心が潤うような幸福感を感じていた。
土曜日に出会ってから、食事の世話や体調を見守るためと言い張り、火曜日まで潤の家に入り浸った。
少しずつ会話をして、今回のコマーシャル企画についてもプレゼンした。春野の会社に対しては、「メジャーじゃないですか」と驚いていた。
「僕でいいのかな」と呟く潤の頭を撫でまわした。そうすると恥ずかしそうに頬を少し染めて資料に目を移す潤が可愛かった。
この数日は、一緒に居ても潤が部屋のピアノは一回も弾くことは無かった。
それを見て、やはり部屋から連れ出そうと春野は決めた。泊りの旅行を提案すると、不思議そうな顔をしながら潤はうなずいた。
「あの、あまり旅行とか慣れていなくて迷惑をかけてしまうかもしれません」
「いいよ。少し現実逃避しちゃおう」
春野が笑いかけると潤が笑みを返してくれるようになった。この数日で潤との距離が近づいているのが嬉しかった。
高速道路を使い車で片道三時間かけて隣県の温泉街に来た。サービスエリアに寄りながらゆっくり移動した。
観光目的じゃないから名所には寄らない。のんびりするために早めに宿に入った。春野は潤の抱えている苦悩を聞き出そうとは思っていない。少し気持ちが逸れて心が深呼吸できると良い。そのための旅行だ。(楽になると良いね)と心で潤に語り掛ける。
一緒に男湯に入り、潤君の身体のラインの中性的な美しさに春野は見惚れた。特に首から背中の美しさ。浮き出る背骨に触れてみたかった。
ピアノに向き合う時間が多かったのだろう。日焼けしていない白い肌も美しい。運動は苦手かな、と思う様な筋肉の薄い身体だ。
組み敷いてみたい。そっと沸き上がる欲望を大人の理性で押し戻す。
数日一緒に居ることで過去の話やピアノの話を潤がするようになった。多くない彼の言葉には様々な感情が見えて面白い。コミュニケーションが苦手のようだけれど、慣れていないからこそ潤の言葉には嘘がない。だから春野はしっかり耳を傾ける。社交辞令の中にいると忘れてしまっていた初々しさだ。そんなところにも春野の心がほっと休まる。潤は愛おしい存在だ。
「潤君が得意な曲は?」
「フランツ・リストの曲が好きです。曲が情景を作り出していて、ラ・カンパネラやマゼッパなんかの難曲も面白いし、愛の夢、死の舞踊、ため息とか、ロマンチック系も弾いていて楽しいです」
大浴場で湯あたりを起こしてしまった潤は、一時間ほど寝るとすっきりした顔で目覚めた。
可愛い寝顔も見られて春野にとって幸せなひと時だった。
夕食は部屋出しだから、そのままのんびり食事をしている。旬菜の六品を美味しそうに食べる姿に安心した。食べる元気が出ているのなら大丈夫だろう。軽い会話にもしっかり返答が出来ている。
「こんなに綺麗な料理、贅沢ですね」
お凌ぎの旬魚の寿司を口にして潤が笑う。
「たまには良いんだ。非現実を楽しもうよ」
部屋の窓から薄暗い夕焼け後の景色を眺めた。
「闇の一歩手前だね」
「山の暗闇と空の薄明るさが神秘的です。ちょっと怖いような。今から、山の暗闇に空が飲み込まれるのかな。夜って地上からくるんですね。空が暗くなるから夜なのかと思っていました」
「ははは。面白いね。自然のある場所じゃないと分からないことだね」
「僕は、心が時々真っ黒になります。僕の真っ黒も下から上がってくるのかな」
「真っ黒な気持ち、か」
「黒い波にのまれると、引きずられてしまう」
「潤君の黒い波は、怒りや憎しみかな?」
「え? 考えたこと、なかった。嫌な気持ちだから黒いって思っていました」
「何が嫌なのか、向き合ってみたら黒い波が苦しくなくなるかもね」
驚いたような顔で潤がこちらを見つめる。
「自分の気持ちに向き合うことは、大人でも子供でも苦しいことだよ。潤君だけが困っているんじゃない」
「……春野さんも、苦しい何かを抱えているのですか?」
はっとして潤を見た。苦しさを経験しているから共感と理解ができる、と気づいている。潤は繊細で優しい子だ。春野は微笑みながら答えた。
「三十年、生きているからね」
「人生の経験値ですか。僕は黒い波が怖くなくなる日が来るといいですけど。精神論みたいなワケわからない話で引かれるかと思いましたが、真剣に答えてくれてありがとうございます。これまで人に話したこと無かったから少し心が軽くなりました」
「俺で良ければ、いつでも聞くよ」
「ありがとうございます。春野さんは良い人ですね」
春野はニコリと笑う潤の頭を撫でまわした。やめてください、と楽しそうに笑う顔が輝いて見えた。
お造り、焼き物、蒸物と運ばれる料理を食べ、途中で少し飲もうとビールを勧めるとコップ半分ほどを潤は飲んだ。幼い顔だけど成人しているのだと思い春野に笑いがこみ上げた。
「そう言えば、どうしてCMの音楽に僕の名が上がったんですか?」
「あぁ、新しいイメージで起用されたことのない音楽家を探していたんだ。ユーチューブで君を見つけて、コレだってピンときた。潤君の音楽は心を惹きつける魅力がある。煌きがズバ抜けている。社内の会議でも潤君が第一候補で通っている。コマーシャルは短い。その短い時間の一瞬の輝き。君にピッタリだと思うよ」
「なんか、恥ずかしいですね。褒められるの、慣れていません」
潤が顔を赤くした。
「もったいないよ。潤君は才能がある。ピアニストや音楽のプロは、完全な状態じゃないといけないのかな? コンクールに優勝しなくても良いじゃないか。音大を出ていなくてもいい。人に求められるニーズがあるかどうかが大切だ。五分だけのピアノでも、潤君の音楽は人に認められる音楽だ。手の怪我を受け入れてごらん。長く弾けない自分を、潤君が褒めてあげるんだ」
「僕が、僕を褒めるんですか?」
「そう。潤君はピアニストになるには、手の怪我があるから無理だと自分に足かせを着けていないかな? こうでなくてはいけないって決めていると、自分を苦しめてしまうよ」
潤の黒い瞳が春野をじっと見つめている。
「そんな風に考えたこと、無かったです。人と話すっていいですね。糸口が見えたような、気がします」
「そうか、良かった。気持ちが落ち着くまでは、誰もが答えが出そうになったり、迷走したり繰り返す。ゆっくり考えてみて。そしてCMは引き受けてくれると嬉しい」
最後の一言に潤がクスリと笑う。
「春野さんとなら出来そうです。CM引き受けたいですが、正式な返事までもう少し時間をもらえますか?」
「もちろんだよ。契約まで、しっかり考えて」
ゆっくりと時間をかけた食事が終わり、思ったより食べられたと潤が感動している。
それからは互いの幼いころの話や、春野がこれまで担当した商品広告について話した。
二十一時には潤があくびをする。今日は疲れただろう。もう寝よう、と布団に入るよう促した。春野を見てニコリと微笑む瞳が可愛らしかった。
翌日は、音楽の話や仕事や学校の話をした。旅行期間で潤との距離がぐっと近くなった。明るく笑うようになった潤を見ると嬉しくて春野の頬が緩む。
CMと新飲料のイメージを伝えると、潤はショパンの「木枯らし」か、リストの「ウィーンの夜会」がいいと思うと意見をくれた。迫力系ならショパンの「英雄ポロネーズ」が頭に浮かぶようだ。ぜひ弾いてほしい、と話が盛り上がっている。帰るのが楽しみになった。
浴衣で渓谷遊歩道を歩いて温泉街で買い食いをした。潤は食事も普通量食べている。ここに連れてきて良かった、と春野は満足感に浸った。
お土産は少ししか買っていないけれど帰りは荷物が増えた。笑い合いながら潤のマンションに帰宅した。
潤の家の玄関前に人が居た。驚いて足が止まった。
「潤!」
男が大きな声で潤を呼んだ。名前を知っているということは知り合いだろうか。
春野が振り返ると、それまで後ろを機嫌よく歩いていた潤の表情が凍り付いている。潤が青い顔でスッと春野の影に隠れた。
それを見て、この相手は潤君にとって良い相手ではないことが分かった。春野は正面に居る男を無意識に睨んだ。
正面の男も春野を睨んでいる。春野はすぐにピンときた。この男は潤に特別な感情を持っている。春野にライバル心が芽生えて、そこに居る男を上から下まで眺めた。
春野より背は少し低い。顔立ちのはっきりしたイケメンだ。服装を見て、若いのに質のいいブランドものが手に入る恵まれた家庭のお坊ちゃまだと分かった。苦労をしていないであろう潤と真逆のタイプだ。何も言わない若い男にこちらから声をかけた。
「部屋に入れないから、どいてくれるか?」
潤は春野の影から出てこない。その拒絶の姿勢を見て、今はこの男を遠ざけなくてはいけないと分かった。潤の敵は春野の敵だ。
「潤、こいつ、誰? 今日まで、どこに居たの?」
春野の問いには答えず、男は後ろの潤に弱弱しく問いかけた。春野を睨む態度とは真逆の雰囲気だ。
「……コウには、関係ない」
春野の背中から小さな声がした。背に隠すように春野が片腕を広げると、コウと呼ばれた男が眉間に皺を寄せる。
「旅行帰りで疲れている。道を開けてくれ」
春野は口論になることも覚悟したが、睨み合っていた男が急にシュンとなり道を譲った。潤を腕の中に隠すようにして男の横を通り過ぎた。潤の緊張が春野の腕に伝わってきていた。
「潤、俺以外と……旅行したの? なんで?」
また、弱い声で男が問う。潤が足を止めた。
「なんで? こっちこそ、聞きたいよ。コウは僕の、何?」
男がハッと息を飲むのが春野にも分かった。
潤はそのまま足を進めた。腕に潤を抱き込み、一緒に進みながら春野はチラリと彼を見た。青ざめて震えている。
部屋に入るまで男が後ろから襲ってこないか警戒していたが、ただ彼は固まっていた。そんな彼を廊下に残して、潤が玄関のドアをバタンと閉め、ガチャリと施錠した。
「良かったの?」
春野は思い詰めた顔の潤に問いかけた。
「……お茶入れます。旅行、楽しかったです。ありがとうございました。最後にコウに会わなければ、いい気分で終わったのに」
潤の手が震えている。春野には何となくわかった。潤が急に不安定になった理由が。
「向き合いたくないなら、目を閉じてごらん。向き合おうと思える時まで、心の箱にしまっておこう。無理に拒絶の言葉を出さなくていい。強がることはない。そうすると、もっと自分の心を苦しめてしまうよ」
黒い瞳が春野を見つめる。吸い込まれそうな黒だ。
「拒絶なんて、そんなつもりは……。でも、そうか。コウを見るとちょっと苦しめてやろう、なんて気持ちが沸き上がっていました。その通りにすると、そのあとが苦しくなって後悔する。でも許せなくて、また苦しい」
「良ければ、何があったか聞くよ? あと、洗濯機かして。乾燥機は近くのコインランドリー寄るから」
ぷはっと潤が笑う。
「分かりました。先に回してください。今日はホテル確保していますか?」
「うん。ネット予約してあるよ」
「すこしだけ、遅くなってもいいですか? 僕の手の怪我からの話になってしまいます」
「いいよ」
簡単ですみません、と潤がインスタント緑茶を出してくれる。二人で小さな座卓を囲んだ。
「僕、小さいころからピアノが何より好きでした。オモチャよりゲームより心がドキドキして楽しかった。上手いとか下手とか考えたこと無くて、弾いている子の思いを読み取って聴くのも楽しかった。だから、他の子が僕に嫉妬しているとか、思っていなかった。中一の時にピアノの発表会で突き飛ばされて手首の骨折をしました。当時小学校六年だった突き飛ばした子は、謝るときにも母に隠れて気持ちのこもっていない口だけの謝罪でした。僕はピアノが出来なくなり、絶望とピアノを弾ける人への嫉妬で毎日苦しかった。真っ黒な波に飲み込まれるような日々だった。その気持ちに向き合って、毎日を生きることに手いっぱいで友達もいなかった。大学生になりストピの動画投稿をすることで、徐々に僕の音楽のある生活が安定してきました。そんな時、コウに会いました」
一気に話していた潤が一息をついてお茶を口にした。そして覚悟を決めたように続きを話し出した。
「コウは優しくて僕の事を優先してくれて、初めて友達がいる温かさを知ったんです。けど、信頼できると思っていたコウが、実は僕を突き飛ばした、高木晃だったんです。本名を隠して僕に近づいて、自分の贖罪のためにだけ動いていたんだ。それが分かったとたんに、乗り越えたと思っていた黒い波が心に押し寄せるようになって。苦しくて」
話しながら涙を流す潤を見た。なんて純粋なのだろう、と春野は感動した。誰もが抱える怒りや憎しみ、悲しみに流されないように踏ん張っている。そういった気持ちを黒い気持ちと表現していたのだと理解した。
「潤君、君の抱える黒い気持ちは、人なら誰もが持つと思うよ。裏切られたり、捨てられたり。潤君だけじゃない。それぞれが、そういう苦しさと向き合っている。潤君と同じ状況になったら人によってはコウ君を殴り倒して、憎しみをぶつけて復讐する人もいるだろう。潤君はそういう風に考えたこと、ある?」
春野を見る顔が驚きを訴えている。
「え? 復讐、とか、全然、そんな……」
「じゃぁ、コウ君が憎らしくて死んでしまえ、とか考えないの?」
「そんなこと、考えたことなんてありません。憎い、とは違うような」
「じゃ、怒りをぶつけたい、とかは?」
「怒り、なのかな。言葉にしてみると怒りにも近い気持ち、かな」
「潤君は、コウ君を傷つけたいわけじゃないだろう。もし、コウ君が反省した証として自殺してしまったら、君はスッキリするかい?」
潤が目を見開いて全身をビクリと緊張させる。
「そんな! そんなこと、望んでいません。どうしよう。そんなことになったら、そんなの考えていなかった」
潤君の手が震える。春野はその手を優しく包んだ。冷たい長い指だ。細いけれど骨がしっかりしている。
「うん。潤君の黒い気持ちは相手を苦しめたいという攻撃的なモノじゃないんだね。一つ、解明したね」
「はい。コウを苦しめたい気持ちじゃないのは確かです。でも、許せない気持ちが沸き上がってきて。これは、何だろう」
「急にすべては分からないかもね。でも、一歩前進だ」
コクリと頷く顔は前ほど暗い表情じゃなかった。
「ちなみにさ、コウ君の気持ちとか、本人から聞いたりした?」
「……していません」
「じゃ、コウ君が罪を隠して君に近づいた経緯は分からないままなんだね。贖罪のためだった、とか全部憶測かな?」
「……そう、ですね。僕の、憶測です」
「そうか。じゃ、コウ君の本心に耳を傾けて、潤君の苦しさをコウ君に伝える事が必要かもしれないね」
何かに気が付いたように潤は止まっている。
「一人で乗り越えられない時は、人の手助けがあると気持ちが楽になる事がある。俺は潤君を支えていくよ。そして、潤君にも周りを支えてあげて欲しい」
「僕は、支えるような周りの人が居ません」
「いるよ。君のピアノを聴いている人だ。誰でも苦しい気持ちが、ふと楽になる瞬間ってある。それが人と会話することだったり、食べることだったり人それぞれだよね。世の中の黒い波に飲み込まれそうで踏ん張っている人の心を、潤君のストピは思いがけず軽くしてくれるんだ。土曜日に駅ピアノの周りで君を待っている人もいる。ユーチューブを楽しみにしている人もいる。だから聞く人に、心が救われますように、と願いを込めて弾いてほしいな。そして、そんな音楽をCM起用していきたい」
「……前より春野さんの言っている意味が分かってきました。頑張りたいって気持ちになりました。今日は話が出来て良かったです」
にっこり微笑む潤の頭をナデナデすると、「僕は大人です」と笑いながら潤が逃げた。その様子が可愛らしくて、抱きしめてキスをしたかった。
「少し弾きたい」と部屋のピアノに潤が向かう。薄っすらとしたホコリを払って、「しばらく触っていなかった」と照れ笑いをした。ピアノの前に座る潤が深呼吸して、姿勢を正す。その後姿に春野の心臓がドキドキと震えだす。すっと伸びる首が美しい。
潤が演奏したのは空気に溶け込むような音だった。モーツァルトのキラキラ星変奏曲だ。
潤が前向きになっている。どんな言葉より音楽がそれを伝えてくれた。ひとり感動をしながら春野は(こっそり録音していて良かった)と思った。
近くで聴くと垣間見える煌きに涙が滲む。潤が希望を見出しているのが音に混ざって分かる。
続いて、リストのラ・カンパネラを潤が演奏した。鐘が空に届くようだと春野は思った。
「少し手が動かなくなっています。ちょっと思うように弾けなかった」
照れたように話す潤を春野はそっと抱きしめた。この感動が伝わると良い。君は輝いている。
腕の中で少し緊張している潤をそのまま春野のものにしてしまいたかった。
潤の家から春野が出ると、外に高木晃が居た。
「ピアノ、潤があなたに弾いたんですか?」
睨むようにして憎しみを込めて晃が話しかけてきた。
彼も抜け出せない沼にはまっているんだろう。(潤君なら助けるけれど、君は自分で何とかしろ)と春野は睨み返した。
「俺に敵対心を持つより、君にはすべきことがあるだろう」
「あんたに関係ない!」
「興奮するなよ。君は心を込めて潤君に謝罪したのか? 伝える勇気もない奴がストーカーみたいな行動するな。チラチラ存在を見せるなよ。潤君の、邪魔だ」
大人の威厳を見せながら言い切った。あの天才的な潤の手をダメにしたと思うと、晃に対して憎しみが込み上げた。こいつが自分のしたことに向き合い、潤に誠意を込めて向き合っていれば、潤はこれほど悩むことは無かった。
急に目の前に現れ理解に苦しむ行動をして潤を苦しめているのは、こいつだ。全てをさらけ出して謝る行動も出来ない情けない奴だ。
目の前で震える高木晃を春野は一瞥した。
「潤君から音楽も夢も全て奪って満足か? 逃げ続けて今更、許されると思うのか? お前の苦しみと潤君の苦しみは全然違う。潤君は奪われても、悩んでも前に向かう勇気と煌きがある。人を惹きつける。潤君はお前とは違う。もう近づくな」
春野の言葉に晃が傷ついているのは分かる。
晃は自分の罪を自覚しながら、潤に会いたい気持ちは抑えられないのだろう。行動が幼い。彼の若さが痛々しいくらいだ。
そう思うが春野は欲しいものを譲るつもりはなかった。
「あんたは一体何なんだ。これは俺と潤の問題だ」
「そうでもない。潤君が俺に相談した時点で俺の問題でもある。それに俺は潤君が欲しい。手に入れたい。俺は、ライバルは蹴落とす主義だ」
目線のそう変わらない晃が、ハッと顔を上げて春野を見た。
「君は、潤君が好きか?」
春野の質問に一瞬、晃が息を飲んだ。口を震わせている。
「即答できないような半端な気持ちなら、もう潤君に関わるのは辞めるんだ」
(お前は、諦めろ)
春野はそんな気持ちだった。潤が晃に向き合う気が起きた時、こいつが消え去っていれば丸く収まる。春野がその心の隙に入り込める。
「嫌だ」
「は?」
「俺は、潤が大好きだ。俺の思いは潤だけに伝えたかった。でも、今引いたらアンタに負ける気がする。色々、アンタの言う通りで悔しい。だけど、俺なりに考える。俺は自分の罪を知らずに生きて来た。その分、どこまでも苦しむ覚悟はできている」
さっきとは違い強い意志が込められた晃の瞳だ。ダメな若者だと思っていたけれど骨がありそうだ、と春野は少し感心した。
「そうか。じゃ、潤君を巻き込まないように頑張れよ」
「あんた、名前は?」
「春野豊。普通のサラリーマンだよ。今後ともよろしくね、高木晃君」
お前の罪は知っているぞ、とでも言うように晃の名を言った。意地が悪い大人で悪いね、と心の中で謝った。少し余裕を見せつけて、彼の横を通り過ぎた。震える晃を見て、また「若いなぁ」と春野は思った。
高校生の頃、春野豊は自分の性癖に気が付いた。
年相応のエロ話に興奮しないこと。女子から告白されることも多かったけれど、誰とも付き合おうと思えない不思議さ。女子よりもどちらかと言うと男性の方に目が行く。
特に後姿の男性の首筋は魅力的に思えて目で追った。優しく舐めてみたいと思ってしまう。それを考えると下半身がズキンとする。この頃からきっと自分は同性愛者なのだろうと春野は思っていた。
そう分かっても、良いパートナーには出会えなかった。大学進学で上京しゲイバーに通って経験を積んだ。短期間のセフレは出来た事もある。だけど恋愛は出来なかった。
同性愛という少数派では、恋愛はとても無理なのだと諦めの気持ちを持つようになった。性的に慰め合う相手がいるだけラッキーだと思うようにした。
春野は心のどこかで感じる寂しい気持ちに蓋をした。
仕事はやりがいがあり順調だった。三十歳になる前に主任昇格し、広報部では春野は一目置かれている。上層部とのパイプもでき自分の存在が認められる楽しさを感じていた。プライベートが上手くいかない分、仕事の充実感で満たされた。忙しければ余計な不安を考えなくてすむ。
(これでいいんだ)
春野は自分に言い聞かせて目の前の仕事に没頭した。女性からの誘いは全て「仕事」を盾にして断り続けた。
今回の紅茶飲料コマーシャルのイメージモデルは女性の清純派モデルだ。春野の勤める会社で一番の売れ筋を誇る紅茶飲料のリニューアル。果実紅茶シリーズを季節ごとに売り出す予定になっている。加えて、健康志向向けに紅茶ポリフェノールを倍量配合した動脈硬化予防の商品も販売する。
これまでこの紅茶シリーズは定番を大事に守ってきたが、他会社との競争に勝ち抜くための戦略が必要となってきた。
他社の紅茶製品が売れると、春野の会社の商品から顧客離れがおきてしまう。顧客をつなぎとめるために、新たな一歩を踏み出すことにしたのだ。
そのために、まずリニューアル商品の初めのイメージが大事だ。社内で検討した結果、「生活の中に一息の休息を」がコンセプトになった。そして、「休息の後にまた頑張ろう」と思える商品イメージを作ることになった。
宣伝に大切なのはイメージモデルと共に音楽だ。画像と共に強く人の心に残る音楽があればベストだ。宣伝のひと時の時間で輝きを放ち、人の導きになるような音楽があればなお最高だ。未開拓で紅茶のイメージに合う音楽を手あたり次第模索した。
そんな中で春野は、人気急上昇のストリートピアノ投稿者の「リミット ファイブ ピアノ」を見つけた。聞いた瞬間に春野の心臓がブルッと震えた。
彼の音は心が引き込まれる。弾いている彼の後姿に目が惹きつけられた。彼の首筋の色っぽさに目が離せなかった。
――見つけた。彼しかいない。
春野はそう強く思った。
「リミット ファイブ ピアノ」が投稿者名で、本名は「雪下潤」という二十歳の青年。雪下潤は、幼少期は全国ジュニアピアノ大会で上位に入っていた。天才少年として雑誌にも載っていた。しかし、中学の頃に手の大怪我をしてからはピアノの道を断念している。
長時間の演奏が困難となり、現在は「リミット ファイブ」として活動しているようだ。
彼の経歴を調べて、春野は(なるほど)と納得した。
あの短い時間の輝きと、聞いた後に心が洗われるような感動は、彼の抱えた苦悩でもあるのだろう。そう考えると、飲料イメージにピッタリだと思えた。
一度聴いたら、もう一度聴きたいと思う演奏だ。彼しかいないだろう。
春野は動画映像と共に会議に提案をした。部長も含め皆が感嘆の息をついたのが嬉しかった。プロ活動をしていないフレッシュ感もいい、と彼を採用する方向で決定した。
スカウトは春野が全権を担うことで了承を得た。何としても落としてこい、と部長から後押ししてもらえた。
春野は「リミット ファイブ ピアノ」の顔が見たかった。あの白い首筋の美しさ。ちらりと見える顎のライン。思い出すと胸の高鳴りが抑えられなかった。
調査会社の報告書で住所、大学の学部まで分かっているが、まず彼の住んでいる街の駅構内ストリートピアノに行ってみた。動画投稿でよく彼が登場している場所だ。そこで会えたら運命だ。そんな高校生のようなトキメキを抱えていた。いるかもしれない、と春野の胸が高鳴っていた。そんな期待を持ちながら目的地について、心臓が大きくドクリと鳴った。
――居た。
カメラをセットして、まさに今から弾くところ。土曜に来てみて良かった。興奮して涙が流れそうだった。下を向いてマスクをしているからハッキリ顔が見えない。でも、動いている本人が目の前にいることに興奮する。
その場にいると、周囲の人たちの彼への期待感と高揚感が伝わってきた。やはり彼には人を惹きつける力がある。
そこで聞いた彼のピアノは、何か苦悩を叩きつけるような音楽だった。曲は春野が知らない曲だ。だが、心の奥底にある気持ちを刺激される。
――そう、苦しいんだ。こんなに抑え込んでも溢れるんだ。どうしたらいい?
そんな彼の悲鳴が音になって春野の心に流れ込む。周囲の人の緊張が伝わってくる。
(あぁ、俺だけが苦しいんじゃないのか。彼はこんなにも苦しんでいる。それでもピアノに向き合っている)
聞いていると春野に柔らかな気持ちが生まれた。隣を見ると、涙を浮かべた年配の女性がいる。ピアノを囲む人々が目を潤ませて陶酔している。
春野には彼らの気持ちがよく分かった。心に隠した言葉に出来ない苦しさを、まさに今、音楽で共感している。ただ癒される。
弾き終えた後は数秒の静寂が生じた。感動は静寂を生むと初めて知った。続いて起こった拍手の中で彼が急にふらついた。驚いて春野はすぐに駆け寄り抱き留めた。
青白い彼の綺麗な顔を間近に見て春野の心がドクっと動いた。あの迫力のピアノの演奏者とは思えない少年の様な彼に、春野の心は一瞬で奪われた。
青白い彼を病院まで抱きかかえて行った。駅近くですぐに総合病院があり助かった。
病院で目を覚ました彼を見て春野の心は完全に惹かれてしまった。
黒い二重の猫のような瞳に白く細い首。春野を警戒する様子が庇護欲をそそる。
――自分の飼い猫にしたい。撫でまわしたい。彼が欲しい。
そんな沸き上がる熱が春野の心に渦巻いた。
病院での点滴を終えて彼の家に送り届けた。春野に頼りながらも警戒している様子が、人慣れしていない猫のようだ。思わず笑みが漏れてしまう。雪下潤は壮絶に、可愛い。
潤の部屋でふとピアノが気になった。黒いピアノの蓋に薄くホコリがある。自分のピアノに触っていないように思えた。
あの駅でのストリートピアノ演奏といい、音楽に向き合えない時期なのかもしれない。狭いワンルームでピアノの存在が大きな部屋だ。向き合いたくなくても音楽から離れられないだろう。
少しここから離れて気分転換が必要じゃないのかと思えた。部屋にこもっていたらストレスが溜まるだけになる。
安心してもらうために、春野の自己紹介を丁寧にして会社名も伝えた。名刺を渡して、悪い大人じゃないよ、と必死に伝える自分が可笑しかった。
潤を見ているとドキドキする。そんな自分がこそばゆくて心地いい。春野は乾ききっていた心が潤うような幸福感を感じていた。
土曜日に出会ってから、食事の世話や体調を見守るためと言い張り、火曜日まで潤の家に入り浸った。
少しずつ会話をして、今回のコマーシャル企画についてもプレゼンした。春野の会社に対しては、「メジャーじゃないですか」と驚いていた。
「僕でいいのかな」と呟く潤の頭を撫でまわした。そうすると恥ずかしそうに頬を少し染めて資料に目を移す潤が可愛かった。
この数日は、一緒に居ても潤が部屋のピアノは一回も弾くことは無かった。
それを見て、やはり部屋から連れ出そうと春野は決めた。泊りの旅行を提案すると、不思議そうな顔をしながら潤はうなずいた。
「あの、あまり旅行とか慣れていなくて迷惑をかけてしまうかもしれません」
「いいよ。少し現実逃避しちゃおう」
春野が笑いかけると潤が笑みを返してくれるようになった。この数日で潤との距離が近づいているのが嬉しかった。
高速道路を使い車で片道三時間かけて隣県の温泉街に来た。サービスエリアに寄りながらゆっくり移動した。
観光目的じゃないから名所には寄らない。のんびりするために早めに宿に入った。春野は潤の抱えている苦悩を聞き出そうとは思っていない。少し気持ちが逸れて心が深呼吸できると良い。そのための旅行だ。(楽になると良いね)と心で潤に語り掛ける。
一緒に男湯に入り、潤君の身体のラインの中性的な美しさに春野は見惚れた。特に首から背中の美しさ。浮き出る背骨に触れてみたかった。
ピアノに向き合う時間が多かったのだろう。日焼けしていない白い肌も美しい。運動は苦手かな、と思う様な筋肉の薄い身体だ。
組み敷いてみたい。そっと沸き上がる欲望を大人の理性で押し戻す。
数日一緒に居ることで過去の話やピアノの話を潤がするようになった。多くない彼の言葉には様々な感情が見えて面白い。コミュニケーションが苦手のようだけれど、慣れていないからこそ潤の言葉には嘘がない。だから春野はしっかり耳を傾ける。社交辞令の中にいると忘れてしまっていた初々しさだ。そんなところにも春野の心がほっと休まる。潤は愛おしい存在だ。
「潤君が得意な曲は?」
「フランツ・リストの曲が好きです。曲が情景を作り出していて、ラ・カンパネラやマゼッパなんかの難曲も面白いし、愛の夢、死の舞踊、ため息とか、ロマンチック系も弾いていて楽しいです」
大浴場で湯あたりを起こしてしまった潤は、一時間ほど寝るとすっきりした顔で目覚めた。
可愛い寝顔も見られて春野にとって幸せなひと時だった。
夕食は部屋出しだから、そのままのんびり食事をしている。旬菜の六品を美味しそうに食べる姿に安心した。食べる元気が出ているのなら大丈夫だろう。軽い会話にもしっかり返答が出来ている。
「こんなに綺麗な料理、贅沢ですね」
お凌ぎの旬魚の寿司を口にして潤が笑う。
「たまには良いんだ。非現実を楽しもうよ」
部屋の窓から薄暗い夕焼け後の景色を眺めた。
「闇の一歩手前だね」
「山の暗闇と空の薄明るさが神秘的です。ちょっと怖いような。今から、山の暗闇に空が飲み込まれるのかな。夜って地上からくるんですね。空が暗くなるから夜なのかと思っていました」
「ははは。面白いね。自然のある場所じゃないと分からないことだね」
「僕は、心が時々真っ黒になります。僕の真っ黒も下から上がってくるのかな」
「真っ黒な気持ち、か」
「黒い波にのまれると、引きずられてしまう」
「潤君の黒い波は、怒りや憎しみかな?」
「え? 考えたこと、なかった。嫌な気持ちだから黒いって思っていました」
「何が嫌なのか、向き合ってみたら黒い波が苦しくなくなるかもね」
驚いたような顔で潤がこちらを見つめる。
「自分の気持ちに向き合うことは、大人でも子供でも苦しいことだよ。潤君だけが困っているんじゃない」
「……春野さんも、苦しい何かを抱えているのですか?」
はっとして潤を見た。苦しさを経験しているから共感と理解ができる、と気づいている。潤は繊細で優しい子だ。春野は微笑みながら答えた。
「三十年、生きているからね」
「人生の経験値ですか。僕は黒い波が怖くなくなる日が来るといいですけど。精神論みたいなワケわからない話で引かれるかと思いましたが、真剣に答えてくれてありがとうございます。これまで人に話したこと無かったから少し心が軽くなりました」
「俺で良ければ、いつでも聞くよ」
「ありがとうございます。春野さんは良い人ですね」
春野はニコリと笑う潤の頭を撫でまわした。やめてください、と楽しそうに笑う顔が輝いて見えた。
お造り、焼き物、蒸物と運ばれる料理を食べ、途中で少し飲もうとビールを勧めるとコップ半分ほどを潤は飲んだ。幼い顔だけど成人しているのだと思い春野に笑いがこみ上げた。
「そう言えば、どうしてCMの音楽に僕の名が上がったんですか?」
「あぁ、新しいイメージで起用されたことのない音楽家を探していたんだ。ユーチューブで君を見つけて、コレだってピンときた。潤君の音楽は心を惹きつける魅力がある。煌きがズバ抜けている。社内の会議でも潤君が第一候補で通っている。コマーシャルは短い。その短い時間の一瞬の輝き。君にピッタリだと思うよ」
「なんか、恥ずかしいですね。褒められるの、慣れていません」
潤が顔を赤くした。
「もったいないよ。潤君は才能がある。ピアニストや音楽のプロは、完全な状態じゃないといけないのかな? コンクールに優勝しなくても良いじゃないか。音大を出ていなくてもいい。人に求められるニーズがあるかどうかが大切だ。五分だけのピアノでも、潤君の音楽は人に認められる音楽だ。手の怪我を受け入れてごらん。長く弾けない自分を、潤君が褒めてあげるんだ」
「僕が、僕を褒めるんですか?」
「そう。潤君はピアニストになるには、手の怪我があるから無理だと自分に足かせを着けていないかな? こうでなくてはいけないって決めていると、自分を苦しめてしまうよ」
潤の黒い瞳が春野をじっと見つめている。
「そんな風に考えたこと、無かったです。人と話すっていいですね。糸口が見えたような、気がします」
「そうか、良かった。気持ちが落ち着くまでは、誰もが答えが出そうになったり、迷走したり繰り返す。ゆっくり考えてみて。そしてCMは引き受けてくれると嬉しい」
最後の一言に潤がクスリと笑う。
「春野さんとなら出来そうです。CM引き受けたいですが、正式な返事までもう少し時間をもらえますか?」
「もちろんだよ。契約まで、しっかり考えて」
ゆっくりと時間をかけた食事が終わり、思ったより食べられたと潤が感動している。
それからは互いの幼いころの話や、春野がこれまで担当した商品広告について話した。
二十一時には潤があくびをする。今日は疲れただろう。もう寝よう、と布団に入るよう促した。春野を見てニコリと微笑む瞳が可愛らしかった。
翌日は、音楽の話や仕事や学校の話をした。旅行期間で潤との距離がぐっと近くなった。明るく笑うようになった潤を見ると嬉しくて春野の頬が緩む。
CMと新飲料のイメージを伝えると、潤はショパンの「木枯らし」か、リストの「ウィーンの夜会」がいいと思うと意見をくれた。迫力系ならショパンの「英雄ポロネーズ」が頭に浮かぶようだ。ぜひ弾いてほしい、と話が盛り上がっている。帰るのが楽しみになった。
浴衣で渓谷遊歩道を歩いて温泉街で買い食いをした。潤は食事も普通量食べている。ここに連れてきて良かった、と春野は満足感に浸った。
お土産は少ししか買っていないけれど帰りは荷物が増えた。笑い合いながら潤のマンションに帰宅した。
潤の家の玄関前に人が居た。驚いて足が止まった。
「潤!」
男が大きな声で潤を呼んだ。名前を知っているということは知り合いだろうか。
春野が振り返ると、それまで後ろを機嫌よく歩いていた潤の表情が凍り付いている。潤が青い顔でスッと春野の影に隠れた。
それを見て、この相手は潤君にとって良い相手ではないことが分かった。春野は正面に居る男を無意識に睨んだ。
正面の男も春野を睨んでいる。春野はすぐにピンときた。この男は潤に特別な感情を持っている。春野にライバル心が芽生えて、そこに居る男を上から下まで眺めた。
春野より背は少し低い。顔立ちのはっきりしたイケメンだ。服装を見て、若いのに質のいいブランドものが手に入る恵まれた家庭のお坊ちゃまだと分かった。苦労をしていないであろう潤と真逆のタイプだ。何も言わない若い男にこちらから声をかけた。
「部屋に入れないから、どいてくれるか?」
潤は春野の影から出てこない。その拒絶の姿勢を見て、今はこの男を遠ざけなくてはいけないと分かった。潤の敵は春野の敵だ。
「潤、こいつ、誰? 今日まで、どこに居たの?」
春野の問いには答えず、男は後ろの潤に弱弱しく問いかけた。春野を睨む態度とは真逆の雰囲気だ。
「……コウには、関係ない」
春野の背中から小さな声がした。背に隠すように春野が片腕を広げると、コウと呼ばれた男が眉間に皺を寄せる。
「旅行帰りで疲れている。道を開けてくれ」
春野は口論になることも覚悟したが、睨み合っていた男が急にシュンとなり道を譲った。潤を腕の中に隠すようにして男の横を通り過ぎた。潤の緊張が春野の腕に伝わってきていた。
「潤、俺以外と……旅行したの? なんで?」
また、弱い声で男が問う。潤が足を止めた。
「なんで? こっちこそ、聞きたいよ。コウは僕の、何?」
男がハッと息を飲むのが春野にも分かった。
潤はそのまま足を進めた。腕に潤を抱き込み、一緒に進みながら春野はチラリと彼を見た。青ざめて震えている。
部屋に入るまで男が後ろから襲ってこないか警戒していたが、ただ彼は固まっていた。そんな彼を廊下に残して、潤が玄関のドアをバタンと閉め、ガチャリと施錠した。
「良かったの?」
春野は思い詰めた顔の潤に問いかけた。
「……お茶入れます。旅行、楽しかったです。ありがとうございました。最後にコウに会わなければ、いい気分で終わったのに」
潤の手が震えている。春野には何となくわかった。潤が急に不安定になった理由が。
「向き合いたくないなら、目を閉じてごらん。向き合おうと思える時まで、心の箱にしまっておこう。無理に拒絶の言葉を出さなくていい。強がることはない。そうすると、もっと自分の心を苦しめてしまうよ」
黒い瞳が春野を見つめる。吸い込まれそうな黒だ。
「拒絶なんて、そんなつもりは……。でも、そうか。コウを見るとちょっと苦しめてやろう、なんて気持ちが沸き上がっていました。その通りにすると、そのあとが苦しくなって後悔する。でも許せなくて、また苦しい」
「良ければ、何があったか聞くよ? あと、洗濯機かして。乾燥機は近くのコインランドリー寄るから」
ぷはっと潤が笑う。
「分かりました。先に回してください。今日はホテル確保していますか?」
「うん。ネット予約してあるよ」
「すこしだけ、遅くなってもいいですか? 僕の手の怪我からの話になってしまいます」
「いいよ」
簡単ですみません、と潤がインスタント緑茶を出してくれる。二人で小さな座卓を囲んだ。
「僕、小さいころからピアノが何より好きでした。オモチャよりゲームより心がドキドキして楽しかった。上手いとか下手とか考えたこと無くて、弾いている子の思いを読み取って聴くのも楽しかった。だから、他の子が僕に嫉妬しているとか、思っていなかった。中一の時にピアノの発表会で突き飛ばされて手首の骨折をしました。当時小学校六年だった突き飛ばした子は、謝るときにも母に隠れて気持ちのこもっていない口だけの謝罪でした。僕はピアノが出来なくなり、絶望とピアノを弾ける人への嫉妬で毎日苦しかった。真っ黒な波に飲み込まれるような日々だった。その気持ちに向き合って、毎日を生きることに手いっぱいで友達もいなかった。大学生になりストピの動画投稿をすることで、徐々に僕の音楽のある生活が安定してきました。そんな時、コウに会いました」
一気に話していた潤が一息をついてお茶を口にした。そして覚悟を決めたように続きを話し出した。
「コウは優しくて僕の事を優先してくれて、初めて友達がいる温かさを知ったんです。けど、信頼できると思っていたコウが、実は僕を突き飛ばした、高木晃だったんです。本名を隠して僕に近づいて、自分の贖罪のためにだけ動いていたんだ。それが分かったとたんに、乗り越えたと思っていた黒い波が心に押し寄せるようになって。苦しくて」
話しながら涙を流す潤を見た。なんて純粋なのだろう、と春野は感動した。誰もが抱える怒りや憎しみ、悲しみに流されないように踏ん張っている。そういった気持ちを黒い気持ちと表現していたのだと理解した。
「潤君、君の抱える黒い気持ちは、人なら誰もが持つと思うよ。裏切られたり、捨てられたり。潤君だけじゃない。それぞれが、そういう苦しさと向き合っている。潤君と同じ状況になったら人によってはコウ君を殴り倒して、憎しみをぶつけて復讐する人もいるだろう。潤君はそういう風に考えたこと、ある?」
春野を見る顔が驚きを訴えている。
「え? 復讐、とか、全然、そんな……」
「じゃぁ、コウ君が憎らしくて死んでしまえ、とか考えないの?」
「そんなこと、考えたことなんてありません。憎い、とは違うような」
「じゃ、怒りをぶつけたい、とかは?」
「怒り、なのかな。言葉にしてみると怒りにも近い気持ち、かな」
「潤君は、コウ君を傷つけたいわけじゃないだろう。もし、コウ君が反省した証として自殺してしまったら、君はスッキリするかい?」
潤が目を見開いて全身をビクリと緊張させる。
「そんな! そんなこと、望んでいません。どうしよう。そんなことになったら、そんなの考えていなかった」
潤君の手が震える。春野はその手を優しく包んだ。冷たい長い指だ。細いけれど骨がしっかりしている。
「うん。潤君の黒い気持ちは相手を苦しめたいという攻撃的なモノじゃないんだね。一つ、解明したね」
「はい。コウを苦しめたい気持ちじゃないのは確かです。でも、許せない気持ちが沸き上がってきて。これは、何だろう」
「急にすべては分からないかもね。でも、一歩前進だ」
コクリと頷く顔は前ほど暗い表情じゃなかった。
「ちなみにさ、コウ君の気持ちとか、本人から聞いたりした?」
「……していません」
「じゃ、コウ君が罪を隠して君に近づいた経緯は分からないままなんだね。贖罪のためだった、とか全部憶測かな?」
「……そう、ですね。僕の、憶測です」
「そうか。じゃ、コウ君の本心に耳を傾けて、潤君の苦しさをコウ君に伝える事が必要かもしれないね」
何かに気が付いたように潤は止まっている。
「一人で乗り越えられない時は、人の手助けがあると気持ちが楽になる事がある。俺は潤君を支えていくよ。そして、潤君にも周りを支えてあげて欲しい」
「僕は、支えるような周りの人が居ません」
「いるよ。君のピアノを聴いている人だ。誰でも苦しい気持ちが、ふと楽になる瞬間ってある。それが人と会話することだったり、食べることだったり人それぞれだよね。世の中の黒い波に飲み込まれそうで踏ん張っている人の心を、潤君のストピは思いがけず軽くしてくれるんだ。土曜日に駅ピアノの周りで君を待っている人もいる。ユーチューブを楽しみにしている人もいる。だから聞く人に、心が救われますように、と願いを込めて弾いてほしいな。そして、そんな音楽をCM起用していきたい」
「……前より春野さんの言っている意味が分かってきました。頑張りたいって気持ちになりました。今日は話が出来て良かったです」
にっこり微笑む潤の頭をナデナデすると、「僕は大人です」と笑いながら潤が逃げた。その様子が可愛らしくて、抱きしめてキスをしたかった。
「少し弾きたい」と部屋のピアノに潤が向かう。薄っすらとしたホコリを払って、「しばらく触っていなかった」と照れ笑いをした。ピアノの前に座る潤が深呼吸して、姿勢を正す。その後姿に春野の心臓がドキドキと震えだす。すっと伸びる首が美しい。
潤が演奏したのは空気に溶け込むような音だった。モーツァルトのキラキラ星変奏曲だ。
潤が前向きになっている。どんな言葉より音楽がそれを伝えてくれた。ひとり感動をしながら春野は(こっそり録音していて良かった)と思った。
近くで聴くと垣間見える煌きに涙が滲む。潤が希望を見出しているのが音に混ざって分かる。
続いて、リストのラ・カンパネラを潤が演奏した。鐘が空に届くようだと春野は思った。
「少し手が動かなくなっています。ちょっと思うように弾けなかった」
照れたように話す潤を春野はそっと抱きしめた。この感動が伝わると良い。君は輝いている。
腕の中で少し緊張している潤をそのまま春野のものにしてしまいたかった。
潤の家から春野が出ると、外に高木晃が居た。
「ピアノ、潤があなたに弾いたんですか?」
睨むようにして憎しみを込めて晃が話しかけてきた。
彼も抜け出せない沼にはまっているんだろう。(潤君なら助けるけれど、君は自分で何とかしろ)と春野は睨み返した。
「俺に敵対心を持つより、君にはすべきことがあるだろう」
「あんたに関係ない!」
「興奮するなよ。君は心を込めて潤君に謝罪したのか? 伝える勇気もない奴がストーカーみたいな行動するな。チラチラ存在を見せるなよ。潤君の、邪魔だ」
大人の威厳を見せながら言い切った。あの天才的な潤の手をダメにしたと思うと、晃に対して憎しみが込み上げた。こいつが自分のしたことに向き合い、潤に誠意を込めて向き合っていれば、潤はこれほど悩むことは無かった。
急に目の前に現れ理解に苦しむ行動をして潤を苦しめているのは、こいつだ。全てをさらけ出して謝る行動も出来ない情けない奴だ。
目の前で震える高木晃を春野は一瞥した。
「潤君から音楽も夢も全て奪って満足か? 逃げ続けて今更、許されると思うのか? お前の苦しみと潤君の苦しみは全然違う。潤君は奪われても、悩んでも前に向かう勇気と煌きがある。人を惹きつける。潤君はお前とは違う。もう近づくな」
春野の言葉に晃が傷ついているのは分かる。
晃は自分の罪を自覚しながら、潤に会いたい気持ちは抑えられないのだろう。行動が幼い。彼の若さが痛々しいくらいだ。
そう思うが春野は欲しいものを譲るつもりはなかった。
「あんたは一体何なんだ。これは俺と潤の問題だ」
「そうでもない。潤君が俺に相談した時点で俺の問題でもある。それに俺は潤君が欲しい。手に入れたい。俺は、ライバルは蹴落とす主義だ」
目線のそう変わらない晃が、ハッと顔を上げて春野を見た。
「君は、潤君が好きか?」
春野の質問に一瞬、晃が息を飲んだ。口を震わせている。
「即答できないような半端な気持ちなら、もう潤君に関わるのは辞めるんだ」
(お前は、諦めろ)
春野はそんな気持ちだった。潤が晃に向き合う気が起きた時、こいつが消え去っていれば丸く収まる。春野がその心の隙に入り込める。
「嫌だ」
「は?」
「俺は、潤が大好きだ。俺の思いは潤だけに伝えたかった。でも、今引いたらアンタに負ける気がする。色々、アンタの言う通りで悔しい。だけど、俺なりに考える。俺は自分の罪を知らずに生きて来た。その分、どこまでも苦しむ覚悟はできている」
さっきとは違い強い意志が込められた晃の瞳だ。ダメな若者だと思っていたけれど骨がありそうだ、と春野は少し感心した。
「そうか。じゃ、潤君を巻き込まないように頑張れよ」
「あんた、名前は?」
「春野豊。普通のサラリーマンだよ。今後ともよろしくね、高木晃君」
お前の罪は知っているぞ、とでも言うように晃の名を言った。意地が悪い大人で悪いね、と心の中で謝った。少し余裕を見せつけて、彼の横を通り過ぎた。震える晃を見て、また「若いなぁ」と春野は思った。

