Ⅵ 二人旅行(side:潤)

「どう? ちょっと現実逃避みたいだろう?」
「はい。タイムスリップしたみたいです」
 潤は春野に押し切られて温泉旅館に来ている。

 一人暮らししているマンションを一度離れよう、と春野に言われて話が進んだ。

 連れて来てもらったのは渓谷にある名の知れた温泉街だ。自然の中の和モダンの旅館。温泉街は平日で人が少ない。旅館から見える渓谷に川の音、自然の空気をまとった風が気持ちいいところだ。

 旅館の至る所から外の景色が眺められて、非現実感に潤の心が落ち着く。川にかかる橋が赤い欄干で目を引く。

「お風呂に行こう。大きな露天風呂が気持ちいいよ。それに浴衣になって温泉街を歩こう。お勧めの梅干し屋がある。お土産用の和菓子屋も美味しいよ」
 春野は常に穏やかな顔を崩さない。潤を急かすこともなく寄り添っている。その余裕が見える態度に潤の方が心配になる。

「仕事は、大丈夫ですか?」
「ははは。これも仕事のうち。だけど、俺がしてあげたいって思いの方が強いかな。潤君のピアノに惹かれてしまったからね」

 また潤の頭をナデナデしてくる。春野は世話好きだ。先回りして潤の気持ちを読んでくれる優しさがある。この人といると気持ちが少し楽になる。頼ってみても良いのかな、という思いが潤に生まれている。晃とは全然違うタイプの大人だ。

 比べてしまい潤の心に黒い波がざわめく。潤は深呼吸して心を落ち着かせた。

「行こう」
 潤が黒い波に飲み込まれそうになると春野はタイミングよく声をかけてくれる。顔を上げると、春野はいつの間にか潤の浴衣を準備してくれていた。バスタオルと共に渡されて春野と共に大浴場に向かった。

「潤君は難曲をさらりと弾くよね。楽譜見ないで良く間違えないね」
 急に音楽の話になり、潤は少し考えた。

「えっと、間違えることもありますけど。そうすると曲のイメージがずれるって思えて。楽譜見て、曲のイメージを作って、それを僕の音で組み立てていくのが楽しいです。暗譜するというよりイメージの軸として楽譜が頭に入る感じです」
「ふうん。曲のイメージをピアノで立体化させているって事?」
「あ、そんな感じです」
「面白いね。才能だろうね。あ、フロント寄るから待っていて。浴衣がLサイズだったんだ。交換してもらってくる」

 春野は身体が大きい。さすがにLでは浴衣がつんつるてんだろう。都会風のカッコいい大人の、つんつるてん浴衣姿を想像したら笑いが込み上げてきた。

「え? 何かあった?」
 タイミング悪く浴衣交換を終えて春野が戻ってくる。少し笑いの残る頬を隠すように潤が下を向くと、大きな手が頬を包んだ。驚いて春野を見上げた。

「笑い顔、可愛いね」
 潤を見つめる目線に射貫かれて動けない。そのまま大きな手が頬から髪の毛、耳をスッと撫でる。潤の首筋がゾクリとする。心臓がドキドキする。緊張で固まる潤に春野がニコリと笑いかけた。

「可愛い」
 見つめられてそんな言葉をかけられると顔が熱を持ってしまう。聞きなれない言葉に恥ずかしさが込み上げる。春野は大人だから学生の潤が可愛いのかもしれないけれど、潤は成人している男性だ。

「僕は二十歳すぎの男です」
「うん。知っているよ」
 前にもこんなやり取りしたような気がした。春野は何故か楽しそうだった。これが春野の人との距離なのかもしれない。

 晃の距離感とは違う。そう考えてしまい潤の心がゾワリとする。途端に軽くポンポンと頭を撫でられて春野を見上げた。優しい目を見て、今は晃の事は忘れようと思った。
 潤はもう一度深呼吸して気持ちを持ち直した。

「大きな露天は気持ちいいね。今の時間で良かった。貸し切りだ」
「そうですね。青空と山の緑がはっきり見える時間に、これは贅沢ですね」

 残暑もあり露天風呂に屋根がなければ長湯は出来ないだろう。でも普段の小さな浴室を思うと贅沢な時間だ。ふ~っと息をつくタイミングが隣の春野と重なり、二人で頬を染めて笑い合う。

「効能、古傷の神経痛に効果ありだって。右手、少し楽になると良いよね」
 湯の中で潤の右手を持ち上げ春野が手術痕を撫でた。

「知っているんですね」
「まあね。長時間の演奏が無理なんだよね?」
「はい。自宅で弾くなら十五分から二十分は弾けますが、ストピだと十分弱が限界です」
「痛くなる?」
「先に痺れが来て、骨の芯がズキズキ痛んで動かなくなります。無理をした日の後は数日痛みが続きます。普段の生活では酷使しなければ問題ないですけど」

「この怪我がなければ、君は天才的なピアニストとして花咲いていただろうね。だけど、この怪我を抱えてピアノを弾く君の音に、人が救われているのも事実だよ。前にも言ったけれど、人は皆、我慢や苦しみを抱えて生きているんだ。そんな人たちの心に響くんだよ、君のピアノは。もう少し頑張ろうって気持ちになる。そんな精一杯の潤君の音が、俺は好きだよ」

 褒められると恥ずかしい。どこを見ていいのか、潤の目線が泳いでしまう。

「やっぱり、潤君は可愛いね」
 からかわれているような恥ずかしさが加わり目線が上げられない。

「あの、か、可愛いは、やめてください」
 可愛いと言われるのは男として抵抗がある。
「あ、そうか。ごめん。つい口から出ちゃった。気を付けるけれど、また出ちゃったらゴメンね」

 柔らかく春野が微笑む。軽く流すところを見ると、春野は言い慣れている言葉なのだろう。気にしすぎる潤がおかしいのかもしれない。

 春野は潤の横に陣取り、どっぷり湯につかっている。肩幅は広く、程よい筋肉だ。腕も潤と一回り太さが違う。顔の造形が整っていて、長身で、有名飲料メーカーの広報担当者で、良い身体の春野。モテる人だろう。

 何となく春野の全身を見つめてしまい、透明な湯の中の股間を見てしまった。大人だ。慌てて潤は目を逸らした。

「のぼせた?」
 顔の火照りを指摘されて潤は慌てた。
「いえ、あの、ちょっと、内風呂に行きますね」
 ザバっと湯から出ると、クラリと潤の目の前が揺れた。気持ち悪さに自然と口に手を当てて、崩れ落ちそうになる。

「あ、ちょっと!」
 床に膝をつきそうになって、大きな体にぐっと抱き留められた。
 露天風呂に設置してある休憩用チェアに抱えられるように運ばれた。潤は気持ち悪くて口から手が離せなかった。目を開けていられなかった。

 プラスチックのリクライニングチェアに横になると、誰かがすぐに冷えたタオルを額に乗せてくれた。その気持ち良さに一息ついた。潤の心臓がドクドクして気持ち悪さがすぐに引かない。耳鳴りが響いていた。

「水、飲める?」
 背中を少し起こされて、冷えた水が潤の口に流し込まれた。水が喉を通ると潤の心臓のドクドクが少し落ち着く。

――もっと。もっと欲しい。
 潤が薄く口を開くと次が流し込まれる。その都度、心臓が落ち着きを取り戻す。胸の気持ち悪さが引いていく。
 潤が目を開けると、潤を覗き込む春野と旅館の人が見えた。

「大丈夫ですか? 救急車を呼びましょうか?」
 旅館のスタッフが心配そうに声を掛けてくる。

「いえ、意識もありますし、水分とって少し休めば大丈夫かと思います。ありがとうございます」
 旅館の人と話す春野を潤は眺めていた。春野は腰にバスタオルを巻いている。自分を見れば、潤にもバスタオル掛けてくれてある。その気遣いが嬉しかった。

 まだ潤がぼんやりしていると、春野に抱き上げられて脱衣所に移動した。潤は身体に力が入らなくて、春野に全部を任せた。潤は自分がのぼせやすいのかな、と思っていた。コウと旅行した時にものぼせたから。

「もう少し飲めるかな?」
 スポーツドリンクを渡される。潤が手に持ったまま見つめていると、春野にペットボトルを優しく奪われた。そのままカチカチっとペットボトルを開封している。春野がスポーツドリンクを口に含んだ。

(あぁ、春野さんが飲むのか)
 春野の動きを見つめていると、潤の顎が支えられて、口移しに飲み物が注ぎ込まれた。急に口に入り込んだ水分に驚いてゴクリと飲み下し、その刺激に潤がゲホゲホむせた。

 咳が落ち着くと、また口移しでスポーツドリンクを与えられた。恥ずかしさと混乱で、潤は両腕で春野を押し返した。

「自分で、自分で飲みます」
 必死で伝えた。口移しで飲まされた経験など無いから、驚きで潤の手が震えている。

 もしかして、冷えた水もこうして与えられたのかもしれない。申し訳なさとドキドキする鼓動にややパニックになる。とても春野を直視できない。

「あの、ご迷惑おかけして、すみません」
「いや、全然。もう大丈夫なのかな? 残念」
 潤の聞き間違いだろうか。残念と言われた気がする。

 意味が分からず下を向いてぼんやりすると、春野にペットボトルを取り上げられそうになり、急いでごくごくと数口飲んだ。口移しはもう遠慮したい。水とスポーツドリンクを摂取して徐々にのぼせが引いた。

 頭がスッキリしてきたけれど、春野が心配してくれて、潤の身体を拭き上げて着せ替え人形のように下着や浴衣を着せてくれた。「何もしなくていいよ」そう言いながら優しく潤を世話する春野は、幸せそうな顔をしていた。


「色々、ありがとうございました」
「全然いいよ。のぼせていたのに気づかなくてゴメンね」
 潤は肩を抱かれるように部屋に戻り畳に横になっている。優しく潤の世話をする春野に身を任せている。いまはなぜか膝枕をされている状態だ。

 春野は筋肉質で太ももが高いから潤の背中に座布団が折り曲げられて敷いてある。『顔色と体温の確認をしているから、しばらくこのままでいて』と言われている。額から目を冷えた濡れタオルで覆われて気持ちいい。

 心地よい人の温もり。優しく潤を撫でる大きな手に身を委ねる心地よさ。寄り掛かる人がいる安心感に心の震えが止まっている。心が沈み込まない。もう少し、このままで居たい。

 そう思いながら潤は浅い眠りについた。