Ⅴ 決別(side:潤)
潤は晃を信じられなくなった。
晃が潤の傍にいたのは結局のところ、彼自身のためだ。贖罪したかっただけだ。本名を隠して、罪を隠して、自己満足のためだけの贖罪だ。
長い時間をかけて乗り越えたと思っていた黒い気持ちが潤を飲み込む。裏切られて流れる涙が、怒りなのか悲しみなのか分からなかった。
部屋の中の晃のモノは全て玄関の外に出した。欲しければ持っていけばいい。そのままなら捨てる。
潤のペンギンカップは割ってしまいたかったのに、どうしても割ることが出来なかった。悔しいけれど、紙に包んで目につかない棚の奥にしまいこんだ。
翌日玄関の外を見ると、出したモノは無くなっていた。
潤は一人で駅のストリートピアノに来た。自分の部屋で弾くと晃を思い出して心が苦しくなるから。
真っ暗でザワザワ揺れる心のままにリストの「マゼッパ」を弾いた。弾きながら涙が流れた。
潤の中の何かをぶつけるように弾いた。言葉に出来ない激情を音にした。
弾いた後に脱力して動けなかった。いつもなら聞こえてくる拍手も耳に届かなかった。数秒の静寂が長く感じた。潤が席を立つと、パラパラと拍手が起きて、徐々に大きくなった。
潤は下を向いたままお辞儀をした。
録画機材回収をしながら、こんな時でも動画撮影をしていた自分に少し笑った。動画して投稿するのが癖になっているのだと思った。
この時の演奏動画の再生数は、いつもの一・五倍だった。
潤が晃と会わなくなり一週間が過ぎた日。朝に玄関を出ると晃が居た。その姿を潤は冷めた目で見た。
晃の大学に楽譜を届けてから、潤はラインも電話もしていない。晃からも連絡が無いままだった。
その逃げるような姿勢に潤は腹が立っていた。だから晃を見ても前のような温かい気持ちにならない。晃はただ下を向いて立っている。ため息をついて潤が話す。
「中学の時にピアニストの夢を諦めて、真っ暗な世界から立ち直るのに苦労した。やっと僕なりのピアノがある生活が安定してきたのに、またお前が壊す。中学の怪我の後にもコウは母親に隠れていただけ。今だって自分から何も言わない。逃げてばかり。何も知らない僕と仲良くして、罪滅ぼしか? コウは、ずるい」
顔を見ずに、刺すような言葉を放った。潤は自分が言っていると思えなかった。ただ黒い気持ちが口から溢れているのは分かった。潤の心臓がバクバクと鳴り響いた。
気が付いたら潤はバスに乗っていた。潤の大学に向かうバスに揺られて、習慣ってすごいと思った。気持ちが沈んでも時間の感覚があやふやでも、やることは身体がこなしている。いつもの日常を繰り返している。
だけど潤は、駅のストリートピアノで「マゼッパ」を弾いてからピアノは弾けていない。あれほど毎日の習慣だったピアノに、向きあうことが出来なくなっていた。
土曜日、潤はふらふらと駅のストリートピアノに向かった。暗い気持ちを吐き出すようにピアノを弾いた。
荒波のような心のままにベートーベン「熱情」第三楽章を弾く。弾いていて潤の目から涙が流れた。
――この虚無感が嫌だ。暗闇が嫌だ。
ストリートピアノを弾きながら(大丈夫。僕はまだピアノが弾ける)そう自分に声をかけた。崩れそうな潤の心をどうにか自分で励ました。それでも相反する黒い心が邪魔をする。
――この音が響いて。届いて。……でも、どこに? 誰に?
多くの拍手で潤は我に返った。ピアノは弾き終えていた。
慌てて椅子から立ち上がってお辞儀をすると、目の前が暗転した。とっさに骨折したときの恐怖が蘇る。潤は自分の両手を守るように抱きしめた。手は怪我をしたくなかった。
そのまま倒れるかと思ったけれど、誰かに抱き留められた。そこで潤の意識がプツリと途切れた。
潤は気が付いたら病院で点滴されていた。ベッドの傍らに知らない男性がいた。頭が働かなくて、ぼんやりとスーツ姿の人を見つめると、そっと頭を撫でられた。優しい手だった。潤はそのまま眠気に身を任せた。
はっきりと潤の目が覚めたのは夕方だった。潤の傍には、まだあの男性が居た。誰なのか分からない。潤の知り合いではない。じっと見つめると、その人がふわりと微笑んだ。
「大丈夫ですか?」
落ち着いた低い声が聞こえた。
「……はい」
「脱水と低栄養のようですね。ストレスですか? ピアノ演奏の後、倒れたのは覚えていますか?」
「……いえ、覚えていません。すみません。あの、ご迷惑おかけしました」
「点滴が終われば帰っていいようですが、少し体調が心配なので送りますよ」
この人とは、初対面だと潤は思う。それなのに親切すぎる。怪しくてすぐに返答が出来ない。
「警戒しなくて大丈夫です。私はリミット ファイブ ピアノさんに会いに来ました。まぁ、スカウトです」
潤にはこの人の言っている意味が理解できなかった。
「あなたのピアノを直接聞いて決めました。ぜひ話をしませんか? それには、まず体調を整えましょう」
信じてはいけないだろう。こういう話は乗ってはいけない。
「結構です」
潤は防衛本能が働き顔を強張らせた。
「断るにはまだ早いと思いますよ。ほら、点滴が終わります。ドクターからの話もありますし、会計の手続きなど面倒なことは私がやりますよ」
潤の不安を分かっているとでも言いそうな穏やかさだ。その大人な雰囲気に、今は一人では不安だし居てもらえたら助かるかも、と頼りたくなった。迷いが生じて、潤はもう一度彼を見つめた。
「頑張っていたんだね。切羽詰まる演奏だった。何か抱えているんだね」
ヨシヨシと頭を撫でられる。幼子にするような態度に潤は面食らってしまう。潤は成人している。振り払って良いのだろうか。
「あの、僕は大学二年生です。成人しています」
「ん? 知っているよ? 一応スカウト前に下調べするし」
それならどうして潤を撫でる手を止めないのだろう。これ以上、潤は何も言えなかった。
結局、潤は家まで送ってもらった。一日お世話になってしまい、邪険にも出来ず、自宅に招き入れた。
この人は人をサポートするのが慣れている。スムーズに潤を支えてくれた。これが大人かと潤は感心した。
帰宅のタクシー車内で簡単に自己紹介をしてくれた。彼の名前は春野豊、三十二歳。大手飲料メーカーの広報の人らしい。新コマーシャルのために潤を採用したいと言ってきた。
夢のような話で潤は怪訝な顔しか返せなかった。春野が言うには、今話題のユーチューバーでストリートピアノ奏者という話題性もあるから選ばれたようだ。
潤のピアノの音と商品イメージがぴったりだと言われる。だから、クラシックでいいから潤が弾いた数曲を音源に持って帰りたいそうだ。
コンクールも出られない潤でいいのか聞くと、大きなステージに立たないからこそ良いらしい。良い状態で音源を撮りたいから体調が良くなるまで世話をすると押し切られてしまった。いつの間に購入していたのかオニギリとチンするだけの豚汁を出してくれる。
晃以外が部屋にいる。不思議な感覚だった。
「おはよう。朝はパン?」
目が覚めると、春野がキッチンにいた。狭い潤の部屋に泊まったのだろうか。不思議で見つめると、春野が潤に近づきそっと頭を撫でてきた。潤の身体がビクっと反応してしまう。
「おはよう、ございます」
「うん。寝起きも可愛いね」
撫でられた頭を触り、寝癖がすごいことに気が付く。潤は慌てて洗面とトイレに向かった。
「うちに、泊ったんですか?」
「まさか。ココじゃ狭いから、近くのホテル。合い鍵借りたよ。下駄箱の上に置きっぱなしで危ないよ? ホテルのパンを買ってきたから一緒に食べよう」
机の上に並ぶ良い匂いのパンを見つめた。スープもつけてくれている。朝から豪華だ。普段はシリアルで済ませているからそそられる。
「いただきます」
柔らかいミルク食パンを口に入れて、潤はしっかり食べるのが久しぶりだと気づいた。
温かいコーンスープを口にして、ほっと一息をつく。このスープ、インスタントではないだろう。濃厚さが本格的だ。
「ホテルのスープですか?」
「そう。テイクアウトがあったから。口に合ったようでよかった」
正面で優しい笑顔を浮かべる春野を見つめた。この人、世話好きなのかな、と考える。ちょっと距離感が分からない。ふと潤の頭に晃の不思議な距離感が過る。晃の事を考えて、潤は眉をひそめて大きく深呼吸をした。
「どうかした?」
「なんでも、ないです。ちょっと色々と、思い出して……」
食べる手を止めていると、またポンポンと頭を撫でられる。
「冷めちゃうよ。今は目の前の食事に集中」
誰かと食事など久しぶりだ。春野の雰囲気は大人の落ち着きだろうか。居心地の良い人だと潤は思った。
昨日から食べて眠って、ここのところ欠けていた生きるエネルギーを補給できたように感じる。普通のことだけど、それだけで潤の心が軽くなる。
「ごちそうさまでした。昨日から色々とすみません」
「いいよ。君を見て、君のピアノを聴いて、人が君の何に惹かれるか分った気がする。君は天才的な音を作り出す才能がある。それに加えて、その真っすぐな心。君の心の苦悩や思いがむき出しのまま音に織り込まれている。我慢をして生きている人にとって、その感情の音は心の芯に響くんだ。生で聴いてみて、俺は君に惹かれた。潤君はすごいよ。あのピアノの周囲で君を待つ人の気持ちが分った」
春野が何を言っているのか分からず潤は首を傾げた。
「ちょっと、あまり理解できません」
褒められた気がして恥ずかしくなる。彼を直視できなかった。
「俺は、君が欲しいよ」
潤は驚いて春野を見ると、真剣な顔で潤を見つめていた。なんて答えたらいいのだろう。急に心臓がドキッと跳ねた。
「可愛い」
すっと春野が近づき、慌てて潤が身体を引こうとすると大きな手でヨシヨシと頭を撫でられた。驚いて言葉にならない。
「潤君、食べて寝てみたら気持ちが少しだけスッキリしただろう? 落ち込んだ時や悩んだ時こそ食べる、寝るは大切にしなくてはいけない。まだ若い潤君にはそれが難しいと思う。少しの間、俺が支えてもいいいかな?」
柔らかい笑顔に吸い寄せられるように潤はコクリと頷いていた。
潤は晃を信じられなくなった。
晃が潤の傍にいたのは結局のところ、彼自身のためだ。贖罪したかっただけだ。本名を隠して、罪を隠して、自己満足のためだけの贖罪だ。
長い時間をかけて乗り越えたと思っていた黒い気持ちが潤を飲み込む。裏切られて流れる涙が、怒りなのか悲しみなのか分からなかった。
部屋の中の晃のモノは全て玄関の外に出した。欲しければ持っていけばいい。そのままなら捨てる。
潤のペンギンカップは割ってしまいたかったのに、どうしても割ることが出来なかった。悔しいけれど、紙に包んで目につかない棚の奥にしまいこんだ。
翌日玄関の外を見ると、出したモノは無くなっていた。
潤は一人で駅のストリートピアノに来た。自分の部屋で弾くと晃を思い出して心が苦しくなるから。
真っ暗でザワザワ揺れる心のままにリストの「マゼッパ」を弾いた。弾きながら涙が流れた。
潤の中の何かをぶつけるように弾いた。言葉に出来ない激情を音にした。
弾いた後に脱力して動けなかった。いつもなら聞こえてくる拍手も耳に届かなかった。数秒の静寂が長く感じた。潤が席を立つと、パラパラと拍手が起きて、徐々に大きくなった。
潤は下を向いたままお辞儀をした。
録画機材回収をしながら、こんな時でも動画撮影をしていた自分に少し笑った。動画して投稿するのが癖になっているのだと思った。
この時の演奏動画の再生数は、いつもの一・五倍だった。
潤が晃と会わなくなり一週間が過ぎた日。朝に玄関を出ると晃が居た。その姿を潤は冷めた目で見た。
晃の大学に楽譜を届けてから、潤はラインも電話もしていない。晃からも連絡が無いままだった。
その逃げるような姿勢に潤は腹が立っていた。だから晃を見ても前のような温かい気持ちにならない。晃はただ下を向いて立っている。ため息をついて潤が話す。
「中学の時にピアニストの夢を諦めて、真っ暗な世界から立ち直るのに苦労した。やっと僕なりのピアノがある生活が安定してきたのに、またお前が壊す。中学の怪我の後にもコウは母親に隠れていただけ。今だって自分から何も言わない。逃げてばかり。何も知らない僕と仲良くして、罪滅ぼしか? コウは、ずるい」
顔を見ずに、刺すような言葉を放った。潤は自分が言っていると思えなかった。ただ黒い気持ちが口から溢れているのは分かった。潤の心臓がバクバクと鳴り響いた。
気が付いたら潤はバスに乗っていた。潤の大学に向かうバスに揺られて、習慣ってすごいと思った。気持ちが沈んでも時間の感覚があやふやでも、やることは身体がこなしている。いつもの日常を繰り返している。
だけど潤は、駅のストリートピアノで「マゼッパ」を弾いてからピアノは弾けていない。あれほど毎日の習慣だったピアノに、向きあうことが出来なくなっていた。
土曜日、潤はふらふらと駅のストリートピアノに向かった。暗い気持ちを吐き出すようにピアノを弾いた。
荒波のような心のままにベートーベン「熱情」第三楽章を弾く。弾いていて潤の目から涙が流れた。
――この虚無感が嫌だ。暗闇が嫌だ。
ストリートピアノを弾きながら(大丈夫。僕はまだピアノが弾ける)そう自分に声をかけた。崩れそうな潤の心をどうにか自分で励ました。それでも相反する黒い心が邪魔をする。
――この音が響いて。届いて。……でも、どこに? 誰に?
多くの拍手で潤は我に返った。ピアノは弾き終えていた。
慌てて椅子から立ち上がってお辞儀をすると、目の前が暗転した。とっさに骨折したときの恐怖が蘇る。潤は自分の両手を守るように抱きしめた。手は怪我をしたくなかった。
そのまま倒れるかと思ったけれど、誰かに抱き留められた。そこで潤の意識がプツリと途切れた。
潤は気が付いたら病院で点滴されていた。ベッドの傍らに知らない男性がいた。頭が働かなくて、ぼんやりとスーツ姿の人を見つめると、そっと頭を撫でられた。優しい手だった。潤はそのまま眠気に身を任せた。
はっきりと潤の目が覚めたのは夕方だった。潤の傍には、まだあの男性が居た。誰なのか分からない。潤の知り合いではない。じっと見つめると、その人がふわりと微笑んだ。
「大丈夫ですか?」
落ち着いた低い声が聞こえた。
「……はい」
「脱水と低栄養のようですね。ストレスですか? ピアノ演奏の後、倒れたのは覚えていますか?」
「……いえ、覚えていません。すみません。あの、ご迷惑おかけしました」
「点滴が終われば帰っていいようですが、少し体調が心配なので送りますよ」
この人とは、初対面だと潤は思う。それなのに親切すぎる。怪しくてすぐに返答が出来ない。
「警戒しなくて大丈夫です。私はリミット ファイブ ピアノさんに会いに来ました。まぁ、スカウトです」
潤にはこの人の言っている意味が理解できなかった。
「あなたのピアノを直接聞いて決めました。ぜひ話をしませんか? それには、まず体調を整えましょう」
信じてはいけないだろう。こういう話は乗ってはいけない。
「結構です」
潤は防衛本能が働き顔を強張らせた。
「断るにはまだ早いと思いますよ。ほら、点滴が終わります。ドクターからの話もありますし、会計の手続きなど面倒なことは私がやりますよ」
潤の不安を分かっているとでも言いそうな穏やかさだ。その大人な雰囲気に、今は一人では不安だし居てもらえたら助かるかも、と頼りたくなった。迷いが生じて、潤はもう一度彼を見つめた。
「頑張っていたんだね。切羽詰まる演奏だった。何か抱えているんだね」
ヨシヨシと頭を撫でられる。幼子にするような態度に潤は面食らってしまう。潤は成人している。振り払って良いのだろうか。
「あの、僕は大学二年生です。成人しています」
「ん? 知っているよ? 一応スカウト前に下調べするし」
それならどうして潤を撫でる手を止めないのだろう。これ以上、潤は何も言えなかった。
結局、潤は家まで送ってもらった。一日お世話になってしまい、邪険にも出来ず、自宅に招き入れた。
この人は人をサポートするのが慣れている。スムーズに潤を支えてくれた。これが大人かと潤は感心した。
帰宅のタクシー車内で簡単に自己紹介をしてくれた。彼の名前は春野豊、三十二歳。大手飲料メーカーの広報の人らしい。新コマーシャルのために潤を採用したいと言ってきた。
夢のような話で潤は怪訝な顔しか返せなかった。春野が言うには、今話題のユーチューバーでストリートピアノ奏者という話題性もあるから選ばれたようだ。
潤のピアノの音と商品イメージがぴったりだと言われる。だから、クラシックでいいから潤が弾いた数曲を音源に持って帰りたいそうだ。
コンクールも出られない潤でいいのか聞くと、大きなステージに立たないからこそ良いらしい。良い状態で音源を撮りたいから体調が良くなるまで世話をすると押し切られてしまった。いつの間に購入していたのかオニギリとチンするだけの豚汁を出してくれる。
晃以外が部屋にいる。不思議な感覚だった。
「おはよう。朝はパン?」
目が覚めると、春野がキッチンにいた。狭い潤の部屋に泊まったのだろうか。不思議で見つめると、春野が潤に近づきそっと頭を撫でてきた。潤の身体がビクっと反応してしまう。
「おはよう、ございます」
「うん。寝起きも可愛いね」
撫でられた頭を触り、寝癖がすごいことに気が付く。潤は慌てて洗面とトイレに向かった。
「うちに、泊ったんですか?」
「まさか。ココじゃ狭いから、近くのホテル。合い鍵借りたよ。下駄箱の上に置きっぱなしで危ないよ? ホテルのパンを買ってきたから一緒に食べよう」
机の上に並ぶ良い匂いのパンを見つめた。スープもつけてくれている。朝から豪華だ。普段はシリアルで済ませているからそそられる。
「いただきます」
柔らかいミルク食パンを口に入れて、潤はしっかり食べるのが久しぶりだと気づいた。
温かいコーンスープを口にして、ほっと一息をつく。このスープ、インスタントではないだろう。濃厚さが本格的だ。
「ホテルのスープですか?」
「そう。テイクアウトがあったから。口に合ったようでよかった」
正面で優しい笑顔を浮かべる春野を見つめた。この人、世話好きなのかな、と考える。ちょっと距離感が分からない。ふと潤の頭に晃の不思議な距離感が過る。晃の事を考えて、潤は眉をひそめて大きく深呼吸をした。
「どうかした?」
「なんでも、ないです。ちょっと色々と、思い出して……」
食べる手を止めていると、またポンポンと頭を撫でられる。
「冷めちゃうよ。今は目の前の食事に集中」
誰かと食事など久しぶりだ。春野の雰囲気は大人の落ち着きだろうか。居心地の良い人だと潤は思った。
昨日から食べて眠って、ここのところ欠けていた生きるエネルギーを補給できたように感じる。普通のことだけど、それだけで潤の心が軽くなる。
「ごちそうさまでした。昨日から色々とすみません」
「いいよ。君を見て、君のピアノを聴いて、人が君の何に惹かれるか分った気がする。君は天才的な音を作り出す才能がある。それに加えて、その真っすぐな心。君の心の苦悩や思いがむき出しのまま音に織り込まれている。我慢をして生きている人にとって、その感情の音は心の芯に響くんだ。生で聴いてみて、俺は君に惹かれた。潤君はすごいよ。あのピアノの周囲で君を待つ人の気持ちが分った」
春野が何を言っているのか分からず潤は首を傾げた。
「ちょっと、あまり理解できません」
褒められた気がして恥ずかしくなる。彼を直視できなかった。
「俺は、君が欲しいよ」
潤は驚いて春野を見ると、真剣な顔で潤を見つめていた。なんて答えたらいいのだろう。急に心臓がドキッと跳ねた。
「可愛い」
すっと春野が近づき、慌てて潤が身体を引こうとすると大きな手でヨシヨシと頭を撫でられた。驚いて言葉にならない。
「潤君、食べて寝てみたら気持ちが少しだけスッキリしただろう? 落ち込んだ時や悩んだ時こそ食べる、寝るは大切にしなくてはいけない。まだ若い潤君にはそれが難しいと思う。少しの間、俺が支えてもいいいかな?」
柔らかい笑顔に吸い寄せられるように潤はコクリと頷いていた。

