Ⅳ 晃の恋心(side:晃)

 晃は夏休みが楽しみで仕方がなかった。七月にはストリートピアノを弾くついでに観光旅行しようと潤を誘った。頬を染めて、行きたいと潤が言ってくれた。

 潤の澄んだ瞳を思うと晃の胸がキュンとする。笑うと綺麗に上がる口角を思い出すと、頬が緩む。細くて長い首、綺麗な顎の細いライン、黒い髪の襟足が映える後姿、その全てが可愛くて仕方がない。

 最近は自分の鼓動が漏れていないか不安になるほど潤にドキドキする。潤がいると心が温かい。晃の行動も気持ちも潤は包み込んでくれる。晃が隠している事にも触れてこない。きっと何か感づいていると思うけれど。

(潤は優しくて可愛いのに凛としていて、俺だけの潤ならいいのに!)

 潤を愛おしいと思う気持ちが強くなるほど、晃の罪は絶対にバレてはいけないと思った。胸がドキドキするほど、心の底でズキズキと痛む部分が出来ていた。

 晃が潤を意識し始めたのは出会って一週間経ったころだ。初めはただ罪の意識で尽くしていた。そうしないと自分の中の罪悪感に飲み込まれてしまいそうだったから。

 そんな晃を潤は柔らかく受け止めてくれた。

 何か潤のためにしなければ、と焦りが空回りしていた。タクシーで送迎はやりすぎたと思う。

 毎日外食を奢ったり、ちょっと高めの弁当を買ったりした。晃は家事ができないし、こうするしか思いつかなかった。
 変な行動をしている晃を深く探らず拒否もせず、じゃあこうしよう、と潤が妥協策を出してくれた。その度に晃の心が救われた。徐々に潤が輝いて見えた。
 その内に晃の心臓がドキドキしはじめた。

 潤の音楽は潤そのものだ。潤が素敵な人だから音楽がキラキラ綺麗に光る。

 そして潤に惹かれるほど自分のした罪が大きなものだと心に圧し掛かった。
 きっと、いつかは言わなくてはいけない。罪を告白しなくては。
 だけど、潤を失いたくない。嫌われたくない。潤の夢を奪ったのは晃だ。その晃が潤の夢だった音大に通っている。

 潤が苦しむ時間を知らずに、のうのうと生きていた晃を潤は許すだろうか。それを思うと怖くて考えたくもなかった。晃はこの幸せな時間のままで居たいと思った。

 晃の名前がバレないように自分の部屋には潤を入れていない。郵便物やちょっとしたモノにから本名がバレてしまうかもしれない。

―――コウが高木晃だと潤に知られたら……。
 それを考えると怖くて心が痛くて、晃の目から涙が零れた。


「こら、くすぐったい」
「もう少し」
「夏だし、汗かいていて臭いって」
「全然臭くない。潤のいい匂い」
 晃は洗い物をしている潤に後ろから抱きついている。潤がクスクス笑っている。長い首に鼻をすりつけて匂いを嗅いだ。うなじが目に入ると(舐めたい)と欲望が湧きあがる。

 百八十センチの晃が抱きしめるのにちょうどいい潤の身長。十センチ違いなのに、潤が白くて細いから十五センチは身長差があるように錯覚してしまう。
「だめだって、泡がつくだろ?」
 笑いながら優しく拒否された。

 潤の綺麗な手をとり、ザーッと水で流す。そっとタオルで拭きとり右手の手術痕にキスを落とした。
(潤、ごめん)
 心の中でそっと言葉を注ぎ込む。そして潤を正面から抱きかかえる。

 こんな時、潤はいつも晃の肩に頭を寄せてじっとしている。抱きしめているのは自分だけれど、潤の大きな優しさに包み込まれている安心感がある。
(潤、大好きだ。絶対に失いたくない)
 晃はこの毎日がずっと続くように願った。


 八月上旬、名古屋駅構内のストリートピアノに潤と来た。ここには日本画の描かれたグランドピアノを含め四台が設置されている。

 一泊だけどすべて弾きたい、と潤がつぶやいた。到着後と夕方、翌日午前と夕方に分散させたらどうだろうと提案した。潤は、二日目の夕方に弾くと帰りが辛くなるのが困る、と悩んでいた。

 晃は潤に内緒で二泊目のホテルを確保している。夜景の綺麗なスイートルームだ。いつも料理を作ってくれる潤へのサプライズプレゼントだ。

 潤はホテル代も割り勘、ときっちりしている。潤が選んだ一泊目のホテルはツインルームのビジネスホテルだった。奢ってでも高級旅館や高級ホテルのスイートに潤を宿泊させたかった。

 潤は自分のユーチューブ動画で得たお金で旅費をやりくりしている。晃が使っている金は親の金だ。その違いに、また晃の心がズキリとする。だが、今は気づかないふりをする。晃には考えることが多すぎるから。

 名古屋について二日目、午前のストリートピアノ演奏の終了後に港水族館に来た。
「わ! コウ、見て。ペンギンが泳いでいる!」
「うん。水の中を飛んでいるみたいだ」
「気持ちよさそう」
「潤、さっきのシャチのとこでも同じ感想だった」
「いいんだよ。気持ちよさそうだ」
 晃は小さく笑う潤と並んで歩いた。

 相変わらず潤の演奏は空間を支配した。いつもと違う場所なのに、人が足をとめ、うっとり聞き惚れる。それは晃が何度も見ている光景だ。潤の音の輝きは凄いから。

 その後、右手の様子を見ながら一休みしようと水族館に誘った。潤は「いいね」と同意してくれた。誘いに乗ってもらえて飛び上がるほど嬉しかった。

 だから晃の中では今、まさに心躍るデートの最中だ。そんなことを考えて一人にやけていると、ペンギンの水槽で足を止めた潤が話しかけてきた。

「僕、中学まではピアノが一番心惹かれるものだった。友達を作ることに興味なかった。ちょっとズレた子供だったんだろうね。中学でピアノが出来なくなってからは、自分の苦しい気持ちと向き合うことで精一杯だった。一人で立つことだけで、生きることで精一杯になった。友達って作るタイミングが無かった。だから、コウと出会えて嬉しい。コウといると楽しい。皆が友達を作る気持ちが分ったよ。僕はコウといて満たされる。コウ、ありがとう」

 聞いていて胸が痛んだ。
(違うんだ。潤、ゴメン。俺そんなにいい奴じゃない。隠している事がある。全部俺のせいなんだ)

 晃は口に出せない謝罪を心で繰り返した。潤の歩んだ苦しみを思い、じわりじわりと滲む涙がバレないように水槽を見つめた。

「俺も、潤に会えて良かった。潤は俺の宝物だよ。何より、大切だ」
 そっと一言を伝えた。

 大好きとは言わない。自分の罪が大きすぎて都合よく「好き」とだけ告白できない。そんな晃に潤が優しく微笑んだ。

 愛おしさに心臓が高鳴る。
(潤、俺を嫌わないで。お願い。大好きだよ。)
 晃は自分より低い位置にある頭をそっと撫でた。

 水族館を静かに見て回り、最後のお土産コーナーに到着した。
「色々あるね。見てコウ、シャチがある」
「見終わって売店入ると買いたくなるな。販売戦略だろうな。俺たちも思い出に買ってくか」
「今日の思い出、か。それなら何か買いたいね」
 少し笑いあった。潤の見ているシャチのぬいぐるみを触る。触り心地がいい。

 触りながら晃はシャチの水槽のことを思い返した。
 潤はシャチの大きさに驚いていた。黒くて怖そうなのに人間とショーをしている姿を見て、不思議だね、と呟いた。
『ライオンなどの猛獣ショーのように人間が鞭を持っているわけじゃないのに、自分より小さなトレーナーの指示に従うって何かな。信頼なのかな。分からないね』と笑っていた。
 そして、シャチはコウみたいだ、と言った。

「コウ、これ買おうよ」
 ぬいぐるみコーナーで止まっていた晃に声がかかる。潤がマグカップを持っている。シャチの絵とペンギンの絵の二つだ。
「夕食で使おう。毎日水族館を思い出せるよ」
 潤の言葉に一気に晃の心が浮き上がった。
「うん、最高だ。毎日が楽しくなる」
 恋人かよ、と笑う潤を抱き締めてキスしたかった。恋人になりたい、と言いたかった。

 二つとも晃が買おうとしたのに、自分の分は自分で、と潤が会計に向かってしまった。手元のペンギンの絵のマグカップを見て、晃はちょっぴり寂しさを感じた。
 
 水族館を出て、タクシーで名古屋駅方面に戻る途中、景色を見ていた晃の腕をトントンと潤が叩いた。何かと潤を見れば、ニコリと笑みが返ってくる。

「はい」
 潤がマグカップの包みを渡してきた。
「なに? 重かった?」
 手の上に乗せられた包みの意味が分からなかった。

「違うよ。マグカップ持てないなんて、僕の事どれだけひ弱に思っているんだよ。コレはお互いへのお土産だよ。僕が買ったのはコウにあげる。コウが買ったのは僕が貰うんだ。で、一緒に使おう」

 潤の言葉に、先ほどの会計での「自分の分は自分で買おう」の真意がわかり、心臓が跳ね上がった。感動して泣きそうになり、目の奥がジンとした。

「それから、ありがとう。楽しく旅行できた。嬉しい。こんなの初めてだよ。僕のやりたいことをいつも優先してくれて、助けてくれてありがとう」

 頬を染めて晃を見る潤が天使に見えた。晃は胸がいっぱいで言葉が出なかった。コクコクと頷いて、流れる涙をグイっと拭いた。

 晃は自分の買ったマグカップを潤に渡した。ニコリと潤が受け取った。幸せだ。

 タクシーの運転手に泣いているのがバレないように、晃はそっと窓外を見た。


 名古屋駅構内のストリートピアノで、せっかくだから四台目のピアノも制覇しようと潤に声を掛けた。帰りを心配する潤に、せっかく来たのだから、と念を押した。

 少し悩んで、「そうだね」と潤が演奏した曲は、モーツアルトの「きらきら星変奏曲」だった。
 通常テンポなら六分はかかる。速弾きにして緩急を自在に操り五分以内にまとめていた。本当に星が降り注ぐような素晴らしさだった。

「手は大丈夫?」
「うん。連続して弾いてないし、これで全部のピアノ弾けた。すごく嬉しい」
 演奏し終わり紅潮した潤の顔が子供のようだ。楽しさが溢れている。潤は天才だよ、と晃は心で呟いた。

「じゃ、二泊目のホテルとったから向かおう」
「え? 今から?」
「うん。実は予約しておいた。サプライズプレゼント」
 潤は驚きながらも素直についてきてくれた。断られなくて安堵した。

 高級ホテルのスイートルームと知り、部屋の代金が、と気にする潤に「いつも食事作ってくれるプレゼントだから」と伝えた。「じゃ、せっかくだから楽しもうよ!」と潤が部屋を探検し始めた。

「ジャグジー風呂だ! コウ、入ってみよう」
 部屋のジャグジー風呂は景色が一望できるように一面がガラス張りの造りで、まるで天空風呂だ。
「一緒に?」
「男同士だろ? 暑くて汗かいたし、夕焼けが綺麗だ」
 抵抗なく潤が脱衣所で服を脱いだ。裸になると背筋を伸ばした姿勢の良さが際立つ。晃はドキドキして目を白黒させた。

「先に入るよ」
 潤がこちらを見てニコリと笑い、ジャグジーに向かった。晃は精一杯自分に言い聞かせた。

(潤はただ男子同士の入浴をするつもりだ! 変に意識したらダメだ! 男子との銭湯と一緒だって!)
 色っぽい潤のどこを見て良いのか分からず、心臓がドキドキしっぱなしだ。

 潤がシャワーをしている隙に服を脱ぎ、かけ湯をしてジャグジー風呂に先に入った。
 下からの気泡とジャグジーで湯の中がはっきり見えないのが救いだ。

「入れて~~」
 丸い円形の風呂に潤が入ってきた。濡れた肌が光っている。直視出来ずに晃の心臓が跳ねあがった。

「はぁ~気持ちいい~~」
 隣で目を閉じる潤をちらりと見て、顔が熱くなった。出来るだけ外を見て晃は気持ちを落ち着かせた。かなり必死だった。

「なぁ、コウはなんでピアノ弾かなかったの? もったいないじゃん。せっかく来たのに」
 晃の邪な気持ちに全く気が付いていない様子の潤の声だ。焦りながらも晃は平静を装う。

「俺はいい。俺、潤のピアノ聴ければいい。俺の音を鳴らしたら、綺麗な潤の音楽が汚れてしまう」

「え? 汚れるって、そんな風に思っていたの? ピアノの音を聴くと、どうやって生きて来たのか、どんな気分なのか何となく見えるよ。人の生き方や性格は優劣が付けられないだろ? それと音楽は同じだと思う。だから僕はコウのピアノも聴きたいけどな。コウのピアノ、僕のと似ていたし。できたら、その、またコウと連弾、したいし」

 最後のほうは少し照れていた。晃の心臓がどきりとした。
 潤の音に似ていたのは、憧れていたから。晃は後ろめたくて一緒に弾けないだけだ。

 だけど、また連弾したいと潤に言ってもらえた。嬉しくて裸なのも忘れて抱きしめていた。抱きしめてみて、あまりの心地よさに身体を密着させた。直接触れる肌の感覚に心が高鳴った。

「あ、あの……コウ」
 困惑した潤の声にはっと我に返った。

「あぁ、ゴメン! 感極まってしまって。ヤバいな、俺。ちょっと、おかしいよな」
 慌てて言い訳を並べて潤から離れた。どうフォローしていいのか、晃の全身に冷汗が垂れた。

 抱き着いてしまった反省で潤と距離をとっていたが、急に潤がふらついた。
「潤!?」
「あ~~、うぅ、目が、回る……」
「のぼせたか! すぐ出よう!」

 力の抜けた潤を抱き上げて風呂を出た。バスタオルで潤を包み、ソファーに座らせ水分を飲ませた。晃はもう邪な考えを持たないように完全自制を心がけた。理性の全てを総動員した。

「びっくりした……。これが裸の付き合いってやつ?」
「あ、いや、普通は裸で抱きしめたり、しない、かな。ゴメン。ちょっと暴走して」
「そうだよね」
 頭にぬれタオルを乗せてぐったりしたままの潤が薄く笑った。

 もう一度水分を取らせ、髪の水分を拭き上げているうちに潤がスース―寝息を立てた。今日は疲れたはずだ。身体が冷えないように掛物をして、頭を撫でる。潤はもともと幼い顔をしているけれど、こうして寝ていると高校生のようだ。二十歳超えているとは思えなくて晃は笑いがこみ上げた。

 寝顔が可愛くて柔らかい頬を撫でてみた。そっとピンクの唇に指先で触れた。その刺激に潤の呼吸が深くなる。何度かフニフニ触って潤に触れるだけのキスをした。

(潤、大好きだ)
 晃の身体を駆け巡るその思いに、心臓がキュンと鳴った。

 翌週の東京旅行も楽しく過ごせた。東京の旅行は一泊で帰った。
 最高の夏休みだった。


 旅行後から夕食の時に必ず水族館で買ったマグカップを使っている。机にシャチとペンギンが並ぶのを見ると、晃の頬が緩んだ。
 このまま、罪を隠したまま恋人になれるかもしれない。晃に淡い期待が芽生えていた。

 十月のある日、晃の目の前が真っ暗に塗り替わった。

――コウが高木晃だと、潤にバレた。

 心臓が氷つくような震えが晃の全身を駆け抜けた。

 晃は怖くて潤に連絡できなかった。いつものように潤から連絡が入らないかと期待していたのに、スマホは鳴らなかった。

 恐る恐る潤の部屋に足を向けた。玄関の外に、透明のビニール袋に入れられてシャチのマグカップと晃が使っていた食器類が出されていた。晃の部屋着もまとめて出されている。それらを呆然と見つめた。

 悲しみに涙がボタボタこぼれた。晃の心が悲鳴を上げていた。