Ⅲ 友達関係(side:潤)

 潤と連弾を一緒にした音大の男子学生は、名前を『コウ』と名乗った。

 コウは同じ賃貸マンションの住人だ。もともと右手は不自由だからいいと伝えても、変な責任感で大学の送迎や食事の世話をしようとする。

 夕食を潤の部屋で一緒に食べるのも日常になってしまった。あまりの必死さに好きにさせている。

 毎日タクシーはお金もかかるから、せめて一緒にバスで行くことを提案した。コウはなぜか潤に献身的で、こそばゆくて笑いがこみ上げる人だ。少し変な人だと思う。

 潤の言動をものすごく真剣な顔で聞いて、何でもしようとする。
 潤の気分的には大型犬を連れて歩いているような気分だ。ちょっと距離が近い友達だと思う。

 潤は手の怪我以降、自分の内面や暗い気持ちに向き合うことに全力を費やしていて、友達がいなかった。一人で立つことが精一杯すぎて余裕がなかったから。

 不思議な出会いで距離感の近い人だけど、コウは初めての友人だと思っている。変な所を理解すればコウの隣は居心地が良い。


 今日も潤の大学から一緒に帰宅する。コウには「自分の大学をサボるな」と伝えているが、音大は専攻実技授業が週に一回だから大丈夫と言われた。課題をそれまでにやることが授業のようだ。

 他にも外国語や音楽歴史、一般教養の講義もあるが、ほぼ自己練習時間らしい。それなら自分の練習をしろと言ったが、やっているから潤との時間は息抜きだ、と返された。
 これ以上は潤が言うことでも無いから放っているが、せっかくの音大で学ぶ時間だから大切にしてほしいなぁ、とため息がでる。

「今日は何?」
「幻想曲さくらさくら、からのポップス系でどうでしょう?」
「いいね。超速?」
「正解。ちょっとアレンジしてつなげるよ」
 潤は帰宅すると十五分ほどピアノに向かう。
 自宅のストレスのない状況なら十五分は弾くことが出来る。一日の疲れを癒す心地いい時間だ。

 最近は一緒に帰宅するコウが聞きたがる。コウは頬を染めて潤のピアノを聴くから照れくさい。そのうっとりした表情を見ると、ストリートピアノを弾いた後のような喜びが生まれる。

「コウも弾く?」
「いや、俺は良いよ」
「聴きたいけどな」
「聴かせるほど上手くないって」
「音大生が何言っているんだよ。音大の課題曲は?」
「ミスばっかりで恥ずかしいから。俺の平凡なピアノはいいんだ。潤のピアノを聴いた余韻が消えてしまう。もったいない」
「平凡なんてこと無いと思うけど。でも、わかった。気が乗らないなら仕方ないけど、たまには聴かせてよ」
「まぁ、そのうち」
 コウは毎回笑ってごまかす。連弾して以降、コウは潤の前では一回も弾いていない。

 連弾したときには人前で演奏することに抵抗なさそうだった。あの時は演奏を楽しんでいたように見えた。今はきっと何か思い詰めている時期なのかもしれない。

 演奏家にはスランプがつきものだ。こんな時は、弾きたくなるのを待つほうがいい。
 潤は弾き終えたピアノの蓋を静かに閉めた。

 米を早炊きして、帰りにスーパーで買った豚肉を焼く。今日のメインは生姜焼きだ。キャベツの千切りを添えて、豆腐とキノコの味噌汁も作る。これに買ってきたキムチを足す。

 コウと一緒に食事するようになって二週間になる。夕食を一緒に取りたがるコウと相談して、食事は当番制にした。一日交替で担当する。

 コウは料理が全然できない。弁当か総菜、外食が全て。潤はこれでは生活費が持たないと思う。
 カロリー的にも栄養的にも心配になり、潤が当番の日は自炊、コウの当番の日はお弁当や外食になった。

 バイトをしていないのにお金は心配していない様子で、コウは金持ちの家庭だと分かった。潤の送迎にタクシー使うくらいだから、自分とは金銭感覚が違いそうだと感じている。

 ここのところ、潤の作ったご飯を美味しそうに食べるコウがだんだん可愛くなってきている。大型犬がいるみたいだ、と思うと潤の頬が緩んだ。


 土曜日、潤は一週間ぶりにストリートピアノを弾きに来た。
「ここからも撮るね」
 コウに声をかけられて、コクリと頷く。

 潤は「リミット ファイブ ピアノ」の名前でユーチューブに動画をアップしている。限られた時間での演奏投稿だからリミット ファイブだ。

 今日は「情熱大陸」を弾く。四分ほどの曲を超速にせず弾こうと思っている。今日は音を譜面通りに組み立てたい気分だから。コウのピアノへの情熱が戻るように願いを込めたい。

 コウはせっかく音大に入ったのだ。潤が願ってもかなわない夢が手に入るはずだ。ピアノを弾く情熱を思い出してほしい。
 潤が弾き終わると、周囲に観客ができていた。そして、コウが泣いていた。それを見て(僕の思いは届いたかな)と考える。

 撮影の器具を回収しているとコウが手伝いに来てくれた。
「ありがとう」
 そっと囁いてくれるコウの一言が嬉しかった。

 潤の動画投稿は、あまり編集をしないで、五分から十分ほどの画像に曲名と弾いている季節や状況などをテロップで差し込んで投稿する。このパソコンでの作業もコウが手伝ってくれるようになった。並んで作業するうちに、二人で密着するのも慣れた。

 コウはスキンシップが多い。いや、潤が知らなかっただけで、友達ってこうゆうモノなのかも、と考えている。
 後ろから抱きしめられて、首後ろを嗅がれたり、耳を甘噛みされたり。可笑しくて笑いながら潤が逃げる。
 逃げると正面から抱き寄せられる。コウは時々、潤の右手の手術痕にそっとキスをする。

 そんなコウは、何か苦しみを抱えていそうで突き放せない。抱き締められると厚い胸から心臓の鼓動が響いてくる。
 コウの大きな体や、逞しい腕に、その匂いに、潤の心臓はドキッと反応してしまう。

(コウが抱えている何かを、いつか相談してくれればいいけど。僕には言えないのかな)

 そう考えるとズキリと潤の身体のどこかが痛む。こんなに密着するコウの心が、少し遠くに感じてしまう。

 友達の距離って難しい、と潤は思う。


 夏休みもほとんどコウと過ごした。
 名古屋と東京のストリートピアノが置いてある場所を一緒に旅行した。これまで遠方のストリートピアノを弾くときには日帰りだった。それでも自分には十分だと思っていたけれど、コウと観光しながらピアノを弾くのは最高に楽しかった。コウとの関係はかなり距離が縮まった。今はすごく親しい友人だと思う。

 でも、コウは潤の前ではピアノを弾かない。連弾をしたときの潤の手の痛みは気にする事ではないのに。

 潤はコウの音が聴きたいのに、柔らかく断られ続けている。コウの優しい顔が時々悲しそうに潤を見る。
(長期のスランプ、かな?)
 潤に言えない事だと考えると胸の奥がキリっと痛んだ。


 十月になった。まだ暑い日が続いている。ストリートピアノを弾くときには右手の傷を隠すために夏でも長袖だけど、普段の潤は半袖を着ている。でも半袖を着るとコウの目が右手首の傷ばかり見る。だから長袖を羽織るようにした。コウの目に傷が見えないように。

 夏休み中にコウと話し合い、潤の送迎はやめることを約束させた。女子じゃないし、右手はこの状態でこれまで生きて来たから大丈夫、と押し切った。

 それでも朝に潤の顔を見たいというコウが可愛くて、毎日バス停まで一緒に歩いてから、互いの大学に向かうことになった。夜は帰宅したらラインで連絡している。二人そろって潤の家で夕食をとる。この生活スタイルで落ち着いていた。

 いつものようにコウと家を出てバスに乗り、大学についてカバンの中を見て驚いた。コウの楽譜が潤の教科書に混ざっていた。昨日一緒にレポートをやったからだ。

 今日はコウのピアノ専攻授業日だ。教授とマンツーマンでのレッスンのはず。週一のこの時間は絶対に休めない貴重な時間、と言っていた。この楽譜がないと困るだろう。

 潤は時間を確認した。いま届ければ間に合う。今まで講義を休んだことは無いけど、今日は仕方ないと割り切った。

 潤はすぐにコウの音大に向かった。向かう途中でコウにラインしたけれど既読がつかない。
(どうしよう。連絡つかなかったら、どうやって届けたら良いんだろう)
 不安が頭を過ったが、とにかく音大まで行かなくてはいけないと思い道を急いだ。

 潤は音大の正門にきたが、どこに向かえばいいか分からなくてウロウロしている。ここに着くまでに何度か連絡したが、コウとは連絡が取れないままだ。初めての場所にドキドキする。緊張して中に入れない。

「ねぇ、君、どうかした?」
「見学でもしたい?」
 急に三人の男性に声をかけられた。振り向けば三人の男性がいた。潤は見た目が高校生に間違えられることがある。彼らにも見学に来た高校生に間違われているのだと思った。

「違います。見学ではなくて。あの、ピアノ科一年のコウ君に楽譜を届けたいんですが」
 そこまで言って、潤はコウの苗字を知らないことを思い出した。これでは怪しい人になってしまう。変な汗が出てきて下を向いた。

「俺らもピアノ科の一年だよ。コウって、高木晃だろ?」
「俺らが渡しといてもいいけど、一緒に行く? 音大、見てみる?」
 優しく声を掛けてくれる彼らの言葉が潤の頭を通り過ぎる。彼らが言ったコウの名前が潤の頭に響いていた。確かめなくてはいけないのに、確認するのに声が震えた。

「コウって、ピアノ科の一年の背が高い、少し茶髪の人ですよね? コウは、高木晃と言うのですか?」
「あぁ、あいつ名前の音読みでコウってあだ名だよ。知らなかった? 間違っていると悪いから、中まで一緒に行こうよ」
 ちょっと強引に学内に入ることを勧めてくる。潤は混乱して返事も出来ずその場に固まってしまった。

「ピピピピ……ピピピピ……」
 潤の携帯が鳴った。スマホを見れば、コウから折り返しの電話だ。潤は震える手で通話ボタンを押した。
「はい……」
『潤? どうした?』
「あの、ライン入れたけど、楽譜が僕のカバンに入っていて、それで届けに来たんだけど……」
『え? 音大に来ているの? どこ?』
「正門。同じピアノ科の人に会ったから預けとく」
『ちょっと待って。すぐに行くから』
「いいよ。来なくていい」
『潤?』
 電話向こうのコウの声が怪訝そうに揺れた。潤は深呼吸をして、尋ねた。

「コウは、高木晃、なの?」
『……』
 電話向こうのコウが息を飲んだ。緊張が伝わってくる。

――そうか。全て分かった。

 潤の背中がズンと重くなった。そのまま通話を切った。目の前がガンガンと揺れた。

「これ、高木晃さんに届けてください」
「え? ちょっと……」
 潤は三人の男性に楽譜を押し付けて、音大に背を向けた。

 堪えても涙が流れた。潤の心が真っ黒な波に飲み込まれたようだった。