Ⅱ 罪を抱えたまま(side:晃)
高木(たかぎ)晃(あきら)は三歳からピアノを始めた。
地方スーパーを数店舗経営する家庭に生まれ、裕福だった。
祖母が音楽好きで、晃を音楽家にしたいと熱望したからピアノを始めた。晃の母は祖母に頭が上がらない。
小学校に入るとピアノがどうして上手くならないのか、母に責められるようになった。母は祖母から「晃のピアノが教室で一番に慣れないのは母親の教育が悪いから」と毎日言われていた。その鬱憤が全て晃にぶつけられるようになっていた。
ひたすら練習の厳しい日々にストレスがたまった。
晃は上手くなっていた。だけど、ピアノ教室には怪物的にピアノが上手い一つ年上の男の子がいた。
彼のピアノは音が格別だった。これは天性のモノだと晃は分かった。嫌々音楽をやっている晃とは違う。練習でどうにかなるレベルではない。
練習室から聞こえる音に涙を流さずにはいられなかった。テクニックはもちろん凄い。だけど彼の魅力は澄んだ音が妖精の舞のように空間を支配すること。晃はその音に魅了された。そして努力で追いつけないモノに嫉妬した。
母から「なぜ音楽教室でトップになれないの!」と責められることに疲れていた。
晃が小六の音楽発表会でのことだった。気が付いたら演奏を終えた彼を突き飛ばしていた。彼の悲鳴と泣き顔に、どうしよう、と震えた。
「大丈夫。転んだだけよ。大げさなのよ!」
晃は母にすぐにその場から離された。発表会の終わりを待たずに家に帰宅した。
「あの人の怪我は? 大丈夫なの?」
心配で仕方がなくて、晃は母に何度も聞いた。
「転んだだけのかすり傷ですって。大丈夫よ」
それしか教えてもらえなかった。
晃は一度だけ彼の家に謝りに行った。あの発表会から二か月が経っていた。悪いことをしてしたのは確かだが、時間が経ちすぎている申し訳なさから、彼の顔が見られなかった。
「ごめんなさい」
母の後ろで小さく頭を下げた。彼は、晃のことも晃の母のことも見なかった。下を向いたままの姿に、どうしていいのか分からず、晃は終始母の後ろに隠れたままだった。
そのまま彼はピアノ教室をやめた。
「軽いケガなのにピアノ教室を辞めるなんて弱虫なのよ。これであなたが教室の一番になれるわね」
そう母が笑っていた。晃は綺麗な音がもう聞けないのかとガッカリした。
そのあと、国内ジュニアコンクールで上位に入っていた彼は、どこにも出てこなかった。天才だったから留学でもしたかもしれない。いつか会えるといいな、と思いながら晃はピアノを続けた。
憧れていた彼の音を目指して練習するうちに、徐々に上達して音大にも入れた。
大学に入ってすぐ、噂で天才的なストリートピアノの男性がいると聞いた。友人と見たユーチューブの動画に心臓が飛び跳ねた。
これは、晃が突き飛ばした彼だ。音の輝きが飛びぬけている。
顔が映っていないけれど間違いない。晃の心が高鳴った。久しぶりの素晴らしい音。細く白い長い指。動画の全てが綺麗だった。すぐにチャンネル登録して何回も聞いた。感動で晃の目から涙が流れた。
彼の音は昔と少し違った。キラキラするだけじゃなく、大人の落ち着きがある。これは、ほのかな色気だろうか。晃は彼の音を直接聞きたくなった。
少ない動画の情報から、もしかしたら同じ街かもしれないと思い、駅のストリートピアノに何回も足を運んだ。
やっと彼の演奏に立ち会えた時には、彼に抱き着きたくなるほどの感動を覚えた。この演奏者は、やっぱり彼だった。
彼はジブリのパレードを超速弾きにして輝きとワクワク感をかきたてている。場の空気を支配している。
この人を惹きつける力は相変わらずだ。テクニックも上達している。一音のミスもない。伸びやかな空に届くような音楽が響く。
湧きあがる感動のままに、連弾を希望した。彼がよく弾いていたショパンの連弾エチュードだ。これならいけるだろうと提案した。
彼は超速弾きにも完璧についてきた。晃だってかなりレベルアップしたと思ったのに、彼には全く敵わないと思った。
それどころか彼の音に巻き込まれる。楽しくて心が跳ねる。心の底から(ピアノって素晴らしい!)という喜びが湧いた。子どものような楽しさが晃の心を占めた。
あっという間の連弾が終わった。高揚して彼を見ると、様子がおかしい。右手を押さえている。
よく見ると彼の右手が震えていた。表情から察すると、痛いか辛いかのどちらかだ。とにかく彼を休める場所に誘導した。
移動するときに支えた彼の身体の薄さに、晃の心臓がドキリと鳴った。
そして、彼から知らされた真実に、晃の心臓が嫌な動きをしていた。全身がゾワゾワする恐怖を感じた。
母からは、「彼の怪我はかすり傷」と聞いていた。だが実際は、晃が突き飛ばしたことが彼の音楽人生を奪ったのではないか。どうして晃に知らされていなかったのか。そんな怒りが晃の心に湧きあがった。
あの天才的な彼が音楽を諦めて、平凡な才能の晃が音大生をしている。そうしたのが自分のせいかもしれないと思うと、苦しくて涙が溢れた。色々な混乱で晃は声をあげて泣いた。
涙が引いたころ、母に電話をした。当時の事を確認した。
『今更なによ。過ぎたことじゃない』と渋る母を問いただした。渋々と話した母の言葉に晃は衝撃をうけて言葉を失った。
彼があの時に骨折をして、神経の損傷をしたためにピアノの道を断念したのは事実だった。
「あなたのために黙っていたのよ!」
母はそう捲し立てた。聞きたくなくて電話を切った。
知らなかった自分が情けなくて悔しくて、テーブルを何度も叩きつけた。彼の綺麗な音と痛そうな青白い顔が、晃の脳に浮かんでいた。
自分は彼にどうやって償えばいいのだろう。いや、償っていかなくてはいけない、と唇を噛みしめた。
辛くて申し訳なくて、晃の身体の中心が痛かった。遅過ぎるかもしれないけれど、自分にできる事をしなければいけない。
晃の心に熱い思いがこみ上げていた。
「潤、俺が持つよ」
晃は連弾の翌日から毎朝、潤の迎えに来ている。
「だから、いいって。コウ、お前、自分の大学に行けよ」
控えめに笑う潤は優しい笑みを浮かべる。その顔を見て晃の心はズキリと痛んだ。
潤は右手首をサポーターで保護している。連弾で無理したせいだろう。
「いつものことだから」と遠慮する潤の荷物をすべて持ち、バスの道のりをタクシーで送り、帰りの時間を教えないと大学に電話して聞き出すと言い張り時間を聞き、送迎を始めて今日に至る。
傍から見たら変な行動だ。自分でもそう思う。ただ、こうでもしないと晃は罪の意識に潰されそうだった。
そんな晃に「コウの気が済むなら、それでもいいけど」と潤が言ってくれた。過剰な行動を受け入れてもらえただけで、晃の心は少し楽になっている。
そして晃は自分の罪がバレるのが怖くて本名が言えなかった。コウと名乗っている。
晃と書いてアキラと読むが、昔からあだ名が音読みのコウだった。彼も「潤」と名前だけで名乗ったから都合が良かった。
どうか潤がコウの正体に気づきませんように。この控えめな柔らかい笑顔が、ずっと自分に向けられますように。晃はそう願っていた。
高木(たかぎ)晃(あきら)は三歳からピアノを始めた。
地方スーパーを数店舗経営する家庭に生まれ、裕福だった。
祖母が音楽好きで、晃を音楽家にしたいと熱望したからピアノを始めた。晃の母は祖母に頭が上がらない。
小学校に入るとピアノがどうして上手くならないのか、母に責められるようになった。母は祖母から「晃のピアノが教室で一番に慣れないのは母親の教育が悪いから」と毎日言われていた。その鬱憤が全て晃にぶつけられるようになっていた。
ひたすら練習の厳しい日々にストレスがたまった。
晃は上手くなっていた。だけど、ピアノ教室には怪物的にピアノが上手い一つ年上の男の子がいた。
彼のピアノは音が格別だった。これは天性のモノだと晃は分かった。嫌々音楽をやっている晃とは違う。練習でどうにかなるレベルではない。
練習室から聞こえる音に涙を流さずにはいられなかった。テクニックはもちろん凄い。だけど彼の魅力は澄んだ音が妖精の舞のように空間を支配すること。晃はその音に魅了された。そして努力で追いつけないモノに嫉妬した。
母から「なぜ音楽教室でトップになれないの!」と責められることに疲れていた。
晃が小六の音楽発表会でのことだった。気が付いたら演奏を終えた彼を突き飛ばしていた。彼の悲鳴と泣き顔に、どうしよう、と震えた。
「大丈夫。転んだだけよ。大げさなのよ!」
晃は母にすぐにその場から離された。発表会の終わりを待たずに家に帰宅した。
「あの人の怪我は? 大丈夫なの?」
心配で仕方がなくて、晃は母に何度も聞いた。
「転んだだけのかすり傷ですって。大丈夫よ」
それしか教えてもらえなかった。
晃は一度だけ彼の家に謝りに行った。あの発表会から二か月が経っていた。悪いことをしてしたのは確かだが、時間が経ちすぎている申し訳なさから、彼の顔が見られなかった。
「ごめんなさい」
母の後ろで小さく頭を下げた。彼は、晃のことも晃の母のことも見なかった。下を向いたままの姿に、どうしていいのか分からず、晃は終始母の後ろに隠れたままだった。
そのまま彼はピアノ教室をやめた。
「軽いケガなのにピアノ教室を辞めるなんて弱虫なのよ。これであなたが教室の一番になれるわね」
そう母が笑っていた。晃は綺麗な音がもう聞けないのかとガッカリした。
そのあと、国内ジュニアコンクールで上位に入っていた彼は、どこにも出てこなかった。天才だったから留学でもしたかもしれない。いつか会えるといいな、と思いながら晃はピアノを続けた。
憧れていた彼の音を目指して練習するうちに、徐々に上達して音大にも入れた。
大学に入ってすぐ、噂で天才的なストリートピアノの男性がいると聞いた。友人と見たユーチューブの動画に心臓が飛び跳ねた。
これは、晃が突き飛ばした彼だ。音の輝きが飛びぬけている。
顔が映っていないけれど間違いない。晃の心が高鳴った。久しぶりの素晴らしい音。細く白い長い指。動画の全てが綺麗だった。すぐにチャンネル登録して何回も聞いた。感動で晃の目から涙が流れた。
彼の音は昔と少し違った。キラキラするだけじゃなく、大人の落ち着きがある。これは、ほのかな色気だろうか。晃は彼の音を直接聞きたくなった。
少ない動画の情報から、もしかしたら同じ街かもしれないと思い、駅のストリートピアノに何回も足を運んだ。
やっと彼の演奏に立ち会えた時には、彼に抱き着きたくなるほどの感動を覚えた。この演奏者は、やっぱり彼だった。
彼はジブリのパレードを超速弾きにして輝きとワクワク感をかきたてている。場の空気を支配している。
この人を惹きつける力は相変わらずだ。テクニックも上達している。一音のミスもない。伸びやかな空に届くような音楽が響く。
湧きあがる感動のままに、連弾を希望した。彼がよく弾いていたショパンの連弾エチュードだ。これならいけるだろうと提案した。
彼は超速弾きにも完璧についてきた。晃だってかなりレベルアップしたと思ったのに、彼には全く敵わないと思った。
それどころか彼の音に巻き込まれる。楽しくて心が跳ねる。心の底から(ピアノって素晴らしい!)という喜びが湧いた。子どものような楽しさが晃の心を占めた。
あっという間の連弾が終わった。高揚して彼を見ると、様子がおかしい。右手を押さえている。
よく見ると彼の右手が震えていた。表情から察すると、痛いか辛いかのどちらかだ。とにかく彼を休める場所に誘導した。
移動するときに支えた彼の身体の薄さに、晃の心臓がドキリと鳴った。
そして、彼から知らされた真実に、晃の心臓が嫌な動きをしていた。全身がゾワゾワする恐怖を感じた。
母からは、「彼の怪我はかすり傷」と聞いていた。だが実際は、晃が突き飛ばしたことが彼の音楽人生を奪ったのではないか。どうして晃に知らされていなかったのか。そんな怒りが晃の心に湧きあがった。
あの天才的な彼が音楽を諦めて、平凡な才能の晃が音大生をしている。そうしたのが自分のせいかもしれないと思うと、苦しくて涙が溢れた。色々な混乱で晃は声をあげて泣いた。
涙が引いたころ、母に電話をした。当時の事を確認した。
『今更なによ。過ぎたことじゃない』と渋る母を問いただした。渋々と話した母の言葉に晃は衝撃をうけて言葉を失った。
彼があの時に骨折をして、神経の損傷をしたためにピアノの道を断念したのは事実だった。
「あなたのために黙っていたのよ!」
母はそう捲し立てた。聞きたくなくて電話を切った。
知らなかった自分が情けなくて悔しくて、テーブルを何度も叩きつけた。彼の綺麗な音と痛そうな青白い顔が、晃の脳に浮かんでいた。
自分は彼にどうやって償えばいいのだろう。いや、償っていかなくてはいけない、と唇を噛みしめた。
辛くて申し訳なくて、晃の身体の中心が痛かった。遅過ぎるかもしれないけれど、自分にできる事をしなければいけない。
晃の心に熱い思いがこみ上げていた。
「潤、俺が持つよ」
晃は連弾の翌日から毎朝、潤の迎えに来ている。
「だから、いいって。コウ、お前、自分の大学に行けよ」
控えめに笑う潤は優しい笑みを浮かべる。その顔を見て晃の心はズキリと痛んだ。
潤は右手首をサポーターで保護している。連弾で無理したせいだろう。
「いつものことだから」と遠慮する潤の荷物をすべて持ち、バスの道のりをタクシーで送り、帰りの時間を教えないと大学に電話して聞き出すと言い張り時間を聞き、送迎を始めて今日に至る。
傍から見たら変な行動だ。自分でもそう思う。ただ、こうでもしないと晃は罪の意識に潰されそうだった。
そんな晃に「コウの気が済むなら、それでもいいけど」と潤が言ってくれた。過剰な行動を受け入れてもらえただけで、晃の心は少し楽になっている。
そして晃は自分の罪がバレるのが怖くて本名が言えなかった。コウと名乗っている。
晃と書いてアキラと読むが、昔からあだ名が音読みのコウだった。彼も「潤」と名前だけで名乗ったから都合が良かった。
どうか潤がコウの正体に気づきませんように。この控えめな柔らかい笑顔が、ずっと自分に向けられますように。晃はそう願っていた。

