Ⅰ 天才少年(side:潤)

 雪下潤(ゆきした じゅん)は五歳で近所のピアノ教室に入った。ピアノは面白くて直ぐにのめり込んだ。楽譜の黒い音符を音にして曲を組み立てるのが楽しかった。これほど夢中になれるものはこれまでになく、ピアノが大好きになった。

 ピアノを弾く事が楽しいと、人の音にも興味が出た。先生の音と潤の音は違う。一つの楽譜でも弾く人により沢山の音が出来上がる。同じ音の曲はない。空気に触れて音が弾ける。溶け込むように消えていく音もある。それら全てが心地よくて、潤は音楽に没頭した。

 そんな潤の人生が変わったのは、中学一年のときだ。
 中学一年になると、潤は国内のジュニアコンクールに出て上位に食い込むようになった。ピアノに真剣に向かうようになっていた。音をどう組み立てるか、煌かせるか、心がワクワクすることで満たされていた。ピアノのプロになってみたいな、と憧れと夢が出来始めていた。

 幼少期から通っているピアノ教室の発表会は毎年秋に開催される。教室に通っている全員がソロ演奏を披露する。
 幼い子のつたない音、少し指が固そうな子の音、嫌々やっている子の音、どれも潤の楽しみだった。いつの間にか教室の期待の星のようになっていて最終のトリが毎回自分だった。

 それを当然のように受け入れていた。上手いとか下手とか嫉妬とか考えたことが無く、自分がその対象にされていたなんて気が付いていなかった。 

 演奏が終わってキラキラした空気に高揚した気持ちで椅子から立ち上がろうとしたとき、ステージ裾から駆けて来た男の子に潤は突き飛ばされた。油断していてピアノの椅子から転げ落ちた。

 その時、右手が身体の下に入ってしまい、手首からグキっと嫌な音が鳴った。潤は痛みで悲鳴を上げた。その時のことは何だったのか、どうなっていたのか、良く覚えていない。

 潤は右手首の骨折をした。手首から親指側につながる靭帯と神経の損傷もあり、骨折の完治後もピアノを長く弾けなくなった。普通の曲なら十五分程度、難曲は十分程度が限界となった。

 もっと弾きたいと願っても、手の痛みとしびれで右手が動かなくなる。コンクールの課題曲一つも弾ききれない。それに潤の組み立てる音が変わってしまった。

 普段の生活に問題はないけれど、ピアノのプロになる夢は絶望的だと医師から言われた。とても受け入れられない現実に、潤の目の前は真っ暗になった。

 親と共に潤に謝りに来たのは、小学六年の男の子だった。もともとは潤のピアノが好きだったようだけれど、なかなか上手く弾けなくて悔しくて突き飛ばした、と母親が説明してきた。

 子供を後ろに隠し「幼い子のしたことだから許してあげてね」と言ってくる態度に、潤は腹が立った。一歳しか違わないじゃないか、と心で叫んだ。聞いていたくなかった。

「もう、いいよ」
 潤は下を向いて、そう言うしかなかった。

 潤が許しても許さなくても、潤の手は元に戻らない。心がときめく音やキラキラした中にいた潤の音楽が全て無くなってしまった。

 それなのに悪びれてもなく謝られると、余計に潤の心がザワザワした。潤は、この真っ暗な気持ちと向き合うことで手いっぱいだった。彼らに潤の世界に関わって欲しくなかった。

『許せるはずがないだろう! もう、僕の視界に二度と入ってくるな!』
 本当は、潤はそう叫びたかった。消え去って欲しかった。

 潤は音楽教室を辞めた。弾けないから仕方ない。潤の気持ちはなかなか立て直せなかった。悔しくて悲しくて、怒りさえ感じていた。

 何とか自宅のピアノを弾いて、真っ暗な潤の心に音を響かせた。自分の音を組み立てることに専念した。弾く時間は限られていて、前ほどの満点の星空のような輝きじゃなかった。でも徐々に心がキラリとする何かが出来てきた。そう思えた時に涙が流れた。

――そうか、小さな流れ星だ。
 ピアノの音が流れ星のように走って消える。一瞬の輝きだ。

 これは潤にとって貴重な発見だった。家のピアノで、この限られた時間の輝きを大切にした。誰のためでもない自分のための音だ。音の楽しさが戻ってくると、心の暗闇がすこし晴れたように感じた。

 でも、どう頑張ってもプロを狙えるほどには回復しなかった。


 大学は音大には行かず外国語学部に進んだ。潤はピアニストになりたくて音楽の歴史も外国語も学んでいた。その頃の興味が大学の現在につながっている。

 普通に大学卒業して働いていく、と自分の道を決めたけれどピアノはやめたくなかった。

 一人暮らしの部屋は完全防音ピアノ可の部屋にした。家賃が少し高いけれど親に頼み込んだ。ピアノは搬送してもらった。潤のワガママに付き合ってくれる両親に心から感謝した。

 そんな時にユーチューブのストリートピアノ投稿を見つけた。見た瞬間に、潤の心に火が付いた。

(これくらいの五分くらいなら僕でも弾ける!)
 そう思うとワクワクした。世間のピアノブームが後押しとなり、市内でもストリートピアノを設置している場所がある。

 部屋で自分のためだけに弾いていたピアノを、外で弾いてみようかな、と思い始めた。良く分からない期待で潤の心がドキドキした。

 大学一年の初夏、初めて駅構内のグランドピアノを弾いた。何度かストリートピアノに足を運んで、勇気が出ずに見つめるだけで帰る日を繰り返し、やっとこの日に奮起できた。

 潤が気にするほど周囲の人はグランドピアノを気にしていないのが救いだ。椅子に潤が座っても誰も見てこないことに安堵した。

 目の前の鍵盤に心がドキリとする。試しに和音をポーーンと響かせると、上品な音が生まれた。音を聞いてワクワクした。良いピアノなのは直ぐに分かった。嬉しくて頬が緩んだのが自分で分かった。

 気分が高揚して、リストの「ラ・カンパネラ」を弾いた。丁寧に潤の音を作り上げた。

 部屋で弾くより響きが違う。どこまでも潤の音が拡散していく。鐘の音が空に届くように、音の響きを立体像のようにして曲を組み立てた。潤にとって夢中になる五分だった。楽しくて心地良かった。

 緊張していたのか、いつもより右手がしびれるのが早かった。でも弾ききったことに達成感があった。

 感動のままに席を立つと、パチパチと小さな拍手が潤の耳に届いた。見渡せば、ピアノの周りに五人ほどの人が足を止めていた。

 彼らの視線から、心が潤に向いているのが分かった。身震いする感動だった。自分の音が誰かに伝わったと思うと目の奥が熱くなった。
 ペコリと頭を下げると、潤の目から涙がこぼれた。

 それから潤は、毎週のように駅のピアノを弾きに行った。そのたびに人が足を止めてくれた。徐々に観客が増えた。拍手をもらえて、さらに楽しくなった。こんな達成感は久しぶりだった。

 大学一年の秋には、ユーチューブに投稿を始めた。潤でも出来るのか不安だったが、スマホの撮影動画でも簡単に投稿できた。

 顔は出さずに手元や後姿の動画だ。面白くはないだろうと思っていたが、再生回数が伸び、大学二年になるころには登録者数が一万人となった。

 そうなると、少しでも動画に変化を持たせようと、少し遠くのストリートピアノも弾きに行くようになった。場所やピアノを変えるくらいが自分の精一杯の努力だった。

(僕でもピアノで出来る事があった)
 そんな思いで潤の心が救われたように軽くなった。
 ピアノと大学生活を両立できて、自分なりの満足な日々を過ごしていた。


 大学二年の七月、潤はいつものように駅構内ストリートピアノに向かった。暑いなぁと思いながら長袖シャツをパタパタ扇いだ。潤が夏でも長袖なのは右手首に残る手術痕を隠すため。

 今日はジブリメドレーを演奏する。夏の時間を楽しめますように、と思いを込めて明るい曲にした。歩く人に潤の気持ちが届くように軽快に高速で演奏した。

 五分少しの演奏を終えると、体格がいい男の人が微笑みながら近寄ってきた。初めての事に潤は驚いて目を見開いた。

「すぐにどきます」
 小さな声に出して退席しようとしたが、そっと左腕を掴まれた。大きな手を腕に感じて、潤の身体がビクリと反応した。

「連弾、お願いできますか?」
 低く通る声が聞こえた。ドキリとする。

(これ、乱入だ!)
 他の人の動画で見たことがある。だが潤は初めてだ。右手は、まだ大丈夫そうだ。潤は嬉しくて「はい」と返事をした。

「エチュード、いけます?」
 隣に座った男性が声を掛けてくる。座って分かるが、身体が厚くてがっしりしている人だ。
「はい」
 ショパンの連弾曲エチュード十メドレーを懐かしく思い出す。これは難曲だ。もともと生徒と先生の連弾練習用に作成された曲で、昔ピアノ教室で先生と弾いた。

 演奏に五分はかかる。手は大丈夫だろうか、と考えるうちに彼が鍵盤に手を置く。座った位置からして、潤は高音パートのプリモだ。エチュードは低音パートのセコンドのほうが手の動きが少ない。パートチェンジを言い出そうとしたが彼が弾き始めてしまう。観衆もいて拍手しているし、やるしかない。

 できたら右手の負担が少ないセコンドが良かったと思いながら演奏を始めた。

 彼との連弾は弾きやすかった。初めの音から潤と相性がいいと分かった。隣の彼は手が大きく鍵盤の上を舐めるように動く。触れただけで音が作り出される。鍵盤を叩いていない。撫でるように音を作っている。

 潤は水面で妖精が飛び回るような手の動きと言われたことがある。鍵盤の上を軽やかに踊る潤の手と、這うような彼の手が対照的だ。

 ペダルはセコンド任せだけど響きの調整も完璧だ。テクニックに頼りすぎず曲の表現が上手い。潤の長い指の手と、手掌全体が大きな彼の手。二つの手から不思議なきらめく音が作られる。

 これは、楽しい。心がぞくぞくする。速くてもお互い一音も外さない。楽譜を尊重している、潤と似ているタイプの奏者だ。楽しすぎて夢中になっていた。

 あと少しで演奏が終わるのに、潤の右手が痛みだした。指先の感覚がなくなっている。夢中になりすぎたことを反省しながら、潤は唇を噛みしめて我慢した。

 もうすぐ、せめて最後まで、と痛みに耐えた。弾き終えた時、鍵盤の上から手を降ろせなかった。潤は震える右手を左手で押さえた。

 こちらの様子に気が付いた彼が、心配そうに潤を見た。潤は座ったまま周囲の拍手にお辞儀をした。痛みがひどくてすぐに立てなかった。

「あ、速すぎましたか? すみません」
 慌てている彼に潤は何とか言葉を返した。
「違います。大丈夫です。もともと右手が少し不自由なんです。休めば平気です」

 痛みにしびれる右手を左腕で抱きかかえて席を立った。ストリートピアノは次に弾く人がいるから、すぐに撮影機器を回収しなくてはいけない。痛みに震える潤に代わって、彼が動いた。

「これ、脚立もあなたのもので間違いないです? 録画止めますね。荷物はこれだけ?」
 青い顔で頷く潤の肩を抱えて、彼が駅のコーヒーショップに誘導するように入った。潤の荷物は全て持ってくれた。ちょっと座って休みたかったから潤は助かった。

 カフェの席に座って手を休める間に、アイスカフェラテとホットカフェラテを持って彼が戻った。温かい方を受け取った。
「すみません。無理をさせました」
「動かしすぎると、いつもこうなります。慣れています。今日は楽しかったです。ありがとうございました。僕はしばらく休んでいきますので、どうぞ先にお帰りください」

 彼に帰宅を促した。動かしすぎた時の神経痛は骨の奥に響くズキズキする痛みだ。今はしびれも出て腕全体が動かせなくなっている。

 良くなるまで耐えるか、改善しなければ熱を持つこともあるので早めに鎮痛剤を飲まなくてはいけない。初対面の彼に気を遣うことが辛いから、潤は出来たら一人になりたかった。

「いつからですか?」
 彼が青い顔で心配そうに質問した。

「中一の時の骨折後遺症です。これのせいでピアニストの夢も諦めました。十分から十五分が演奏の限界なんです」
「え? 中学の時、ですか? その時の後遺症が、今も?」

「はい。神経と靭帯の損傷をしてしまい。日常生活は大丈夫になりましたが、ピアノは趣味程度になりました。骨折でピアニストの夢が途絶えてから、人と連弾なんてしてなかったので今日は本当に楽しかったです。僕は落ち着いたら帰りますから、どうぞお帰りください」

 そうですか、と帰って欲しいのに、彼は青い顔をして動かなかった。
 連弾は気が合ったのに、言いたいことが伝わらないタイプか、と潤は残念に思った。

「ひとつだけ、教えてください。その、右手の骨折を負った状況を知りたいんです」
 声を震わせて聞いてくる彼に首を傾げながら応えた。
「中一のピアノ教室の発表会でした。演奏を終えた時に、突き飛ばされて椅子から落ちて骨折しました」
 よく分からない人だ、と少し警戒した。この人が去らないなら、まだ痛いけど潤が帰ろうと思った。ちょっと危ない感じがする。

 左手でバックの中の財布を探る。コーヒー代を出し、テーブルに置いた。チャリンと小銭の音がして、下を向いて考えていた彼が、はっと顔を上げた。
「じゃ、お先に」
「まって。まだ、手が痛みますよね。送ります」

 遠慮しようとしたが、彼が潤の荷物を全て持ってしまった。潤は彼の気が済むようにさせて、家の近くで別れようと思った。
 だけど彼は潤の家までついてきた。途中で断ろうとすると「家まで送る」と言い張り、荷物を返してくれない。仕方なくマンション前まで送ってもらった。

「え? ここですか?」
「はい。もう結構です。ありがとうございました」
「俺もココです。防音でピアノも演奏できるから」
「あぁ、近くの音大生ですか」
「はい。ピアノ科の一年です。あなたは?」

 音大生ならばピアノの音が輝いているのにも納得だ。羨ましいとも思ってしまい、潤は少しモヤッとした。

 同じマンションと聞いて、これからも続く関係に小さくため息をついた。

「僕は、右手に問題があるので音楽の道は諦めています。少し距離がありますが、M大外国語学部に通っています」
 潤の言葉に彼が悲しそうな顔をした。さっきから彼の反応が理解できない。 

 結局荷物を玄関先まで運んでもらい、彼と別れた。玄関を閉めるまで彼は心配そうに潤を見つめていた。潤は部屋で痛み止めを飲み、一息ついて気が付いた。

 潤は、彼の名前も部屋も何も知らない。