Ⅸ 選択(side:潤)

 冬始まりの十一月、温かい紅茶飲料販売開始と共に新CMが流れた。
 映像の最後に潤の演奏する姿が横顔で映っていて驚いた。用意された燕尾服のような服で髪の毛もセットして音源収録したのはこのためだったのか、と驚いた。

 正面以外なら顔出しも承諾していたけれど、見る人が見たら潤だと分かりそうだ。

 曲は思ったより綺麗に弾けていた。美しい女性モデルが暗い様子で溜息とともに紅茶を飲むと、キラキラと彼女の中から輝きが生まれる。飲み進めていくと身体の中から光が満ちてくる。「木枯らし」の音楽と雰囲気ばっちり。モデルが微笑んで「よし!」と前を向き歩き出す内容だ。

 CM放送開始と共に春野の企業SNSで「リミット ファイブ ピアノ」の他の収録曲や収録風景が流れ始めた。特典で紅茶飲料のQRコードを読み取ると潤の「木枯らし」の演奏が再生できる。
 その影響で潤のユーチューブ閲覧数が跳ね上がっている。CM効果すごいな、と潤は他人事のように考えていた。

 テレビやSNSでCMが流れ始めてすぐの週末に春野が来た。
「会いたかったよ」
 大人の余裕が見える微笑みで春野が囁くから、何と言っていいのか分からずに赤面してしまう。

「あの、CM、僕が映っていました」
「うん。正面じゃないから契約違反にはならないかな。あまりに綺麗な音を生み出す可憐な潤君をアピールしたかった。結果、大成功だよ」
 告白が頭を過って、恥ずかしくて春野を見られない。

「……メイキング画像も僕の横顔までばっちり出ています」
「なにか生活に支障があった?」

「いえ。特に、ないです」
「何かあれば俺が守る。潤君を俺の腕の中に閉じ込めて大切にするから」

 そう言われて潤は首を傾げた。動画コメントにはCM感想が多く来ている。どれも温かい言葉で嫌な気分になっていない。それどころか潤のほうが励ましてもらっている。

「大丈夫そうです。今のところ」
 正直な現状を伝えると、春野は苦笑いをした。
「俺には魅力がないのかな……」
 呟く一言に潤は驚いた。

「春野さんは男前で魅力あります。周囲の誰もが夢中になる人です」
 真剣に答えたのに、また苦笑いされた。何か間違ったのだろうか。春野は大人すぎるから、潤には理解できないのだと思った。

 夕食を外で一緒に食べて潤の家に帰宅した。今日は泊っていいか、と春野に聞かれて「はい。どうぞ」と答えた。いつもと同じ感覚だった。

 二人でゆっくりテレビを見た。紅茶飲料のCMが流れて、照れくさくて二人で笑った。春野が笑いながら「二人で見られて、嬉しいな」と言った。一緒の気持が嬉しかった。その時。

 急に肩を抱き込まれた。どうしたのかと春野を見上げた。その一瞬だった。後頭部を固定されて貪るようなキスが降って来た。
 上向きにされていて拒否できない。身体に覆いかぶさるように陣取られて逃げられない。潤の口に春野の舌が入り込む。グゥっと喉で音が鳴った。

(息が、息が苦しい!)
 必死で厚い胸板をドンドンと叩いた。苦しさに涙が流れた。力の抜けた潤の身体をベッドに引きずり上げられた。

 酸欠の頭で、獣のような春野を『怖い』と感じていた。怖くて潤の身体が震える。抵抗する両腕を頭の上で縫い留められた。

 潤はパニックになり息が上がった。荒い呼吸とともに涙がボロボロ溢れた。唇が震えるばかりで悲鳴も声も出ない。春野から目が離せなかった。

「怖い?」
 春野に聞かれて、コクコクと頷いた。すると春野は急に潤を解放した。優しい顔で「ごめんね」と潤の服を整えてくれた。だが、そんな優しさを見せられても恐怖は消えない。

「性欲を丸出しにしたら、俺はもっと怖いと思う。でも、これも俺だ。潤君にしっかり知って欲しい。俺は優しいだけじゃない。潤君を食べつくしたい欲望もある。全部を含めて、俺と恋人になる事を考えて欲しい」

 にこやかに話す春野に潤は何も言うことが出来なかった。
 春野の中に、優しい大人な春野と性欲を秘めた怖い顔の春野がいる。

 その日は、春野が「ホテルに泊まるよ」と言い、帰って行った。
 次の日、潤の家に来た春野はいつもの優しい笑顔だった。デパートで一緒に買い物して、ストリートピアノを一曲弾いて、夕方に東京に帰る春野を見送った。

 いつもと変わらない休日だが、潤は複雑な気持ちだった。


 翌週土曜日、駅のストリートピアノを弾きに行った。いつもより人が多かった。だが、声をかけられるわけでもなく潤の生活は変わっていない。

 春野は仕事の都合で今週は来ない。春野が来ない事に安堵している自分がいる。そして晃はコップ割り事件から姿を見せない。
 今日は流行りの曲を二曲弾いた。歌謡曲とゲーム挿入歌だ。寒くなってきた風に負けずに休日を楽しんで、と思いを込めて弾いた。弾いていると潤も明るい気持ちになった。

 ピアノに励まされているなぁと潤は思った。弾き終わって片づけをしていると人が近づいてきた。

「ね、君さ紅茶CM曲のピアノやっているリミット ファイブだろ?」
 急に三人の男性に囲まれた。潤が手を止めて見上げると、携帯で顔の写真を何回か撮られた。驚いて「やめてください」と拒否の姿勢を示した。

「いいじゃん。一緒に写真とってよ。スゲー、有名人発見だ」
 急に肩を抱かれて強制的に写メをとられる。

「困ります。離して。やめてください」
 何度か震えながら声にするが全く通じない。男性の力の強さに抵抗できず、心臓がバクバクし始める。

「おい! 何しているんだ! やめろ!」
 大きな声がした。

 潤の腕が引かれて厚い胸に抱き込まれた。まるで守るように腕で包まれる。大切なものを包み込むような優しい抱擁と、潤の写真を撮っていた人たちへの厳しい非難の態度が対照的だった。

 そのギャップが彼そのものだと潤は思う。相反するものを内に秘めている。そんなところに前ほどに嫌な気がしない。春野の二面性を知ったからだろうか。こんな二面性はきっと誰もが持つものなのかもしれない。

 潤は懐かしい晃の匂いを吸い込んだ。

 気が付いたら潤は肩を抱かれて帰路についていた。荷物は全て晃が持ってくれている。ぼんやり見上げると目が合った。
「潤、大丈夫? 潤に気が付いている人がいるから、気を付けないと」
「……うん」

「あいつは? 春野」
「CM解禁になって忙しくなっているから来ていないよ」

「そうか。春野、あいつスカウトかなんか?」
「うん、まぁそう。CM曲を担当してほしいって会いに来てくれた、飲料メーカー広報の人だよ」

「恋人、とかじゃない?」
 すぐに返答ができない。一呼吸置いて下を向いて応える。

「恋人になりたい、とは言われている、けど……」
 肩を抱く腕の力が強まる。それ以上、会話が続かず無言で歩いた。潤に合わせた歩幅だ。隣で支えてくれる時の晃は徹底して優しい。

 潤の部屋に一緒に帰宅した。置きっぱなしにしていたペンギンとシャチのマグカップを出す。このカップを見ると懐かしさと共に、コップを割ったときの晃を思い出し複雑な気持ちになる。

「コーヒーでいい?」
「うん」
 晃の前にシャチのカップを置く。晃がカップをじっと見つめる。

「この間、カップ、ごめん」
 静かな声が聞こえた。

「あの時、片付けも行こうとしたんだ。だけど、どうしても一歩が出なくて。潤が一人で片付けるのを見ていた。ただ、見ていた。俺は、俺が情けない。いつも何も出来なくてゴメン。本当に、ゴメン」

 晃の身体が震えている。晃は抑えられない自分の感情に苦しんでいるのかもしれない。これも晃なのだな、と潤は思った。アンバランスな心を抱えきれずに晃も辛いのだろう。

「もう、いいよ」
 一言を伝えて、うなだれている晃の頭に触れてみた。晃に優しくすると、あぁ、これでいいんだ、と安堵する潤がいる。

 優しくできる自分に温かな気持が込み上げる。互いに抱えたトゲだらけの心を許せたらいいのかもしれない。優しい晃も、目の前の不安定な晃も、全てが一人の高木晃だ。

 うなだれたままの晃の肩が震えていた。

「潤、好きだ」
 突然、凛と通る声がした。

 その言葉が潤の心にドクンと響く。潤が欲しかった晃の本心を聞けた気がした。ジワリと心が温まる。

「潤、俺がこれから潤を支えていきたい。傍に俺を置いてほしい。俺に出来ることを探す。俺の悪いところも正す。潤のために変わっていくから。俺を選んで。俺を、恋人にして」

 いつのまにか泣き止んだ晃が潤の手を握っている。

「春野を、選ばないで。俺を捨てて行かないで。お願い」
 晃が震えながら訴えた。

 潤は晃の広い背中にそっと腕を回した。
 大きな身体に腕を回して潤の中に抱き込む。なだめるように背中をポンポンすると、堪えきれない様子で晃が嗚咽を漏らした。

――苦しむコウを受け入れよう。

 自然とそう思えた。

 春野も晃も、心に沢山の感情を抱えている。春野はそれを隠すのが上手なのだろう。晃は隠せずに心がむき出しだ。
 それに晃との拗れを正すには、潤が晃の事を許すか許さないかの簡単な事じゃなかった。

 潤が晃を受け入れる覚悟をすること、それが大切だったのだと分かった。潤の脳裏に春野の顔が浮かぶ。でも、潤は晃が大切だ。潤の心に浮かび上がる気持ちを言葉にする。

「コウ、僕もコウが好きだよ」
 腕の中の晃がビクっと震える。

「え? は? 潤が、俺を好き? うそ、だ。俺、夢でも見てんのか……」
 泣き止んでポカンとする晃を見て、笑いが漏れてしまう。そんな潤の頬に大きな手が触れる。そっと晃の顔が近づいた。触れるだけのキスをした。優しいキスだ。唇から晃の気持が注がれるようだった。

「春野さんとするのは怖かった。でも、コウは怖くない。嫌じゃない。心臓がドキドキする。やっと分かった。これは僕がコウを好きだから、だ。裏切られたと思うのも辛くて、僕の中から切り捨てられなくて苦しかったんだ」

 丁寧に気持ちを伝えたのに晃は目を見開いた。その反応の意味が分からず潤は首を傾げた。

「まて、待て! 春野と、したのか?」
 潤はハッとした。つい、余分なことまで伝えてしまった。
 途端に色々と思い出して恥ずかしくなる。晃がじっと見つめてくる。耐えられなくて視線を外した。

「あいつと、何したの?」
 潤に覆いかぶさるようにして晃が問う。

「あんまり、言いたくないよ。えっと、ちょっと抵抗できなくて。……情けないよね、男なのに逃げられないなんて」
 精一杯伝えたのに、晃が無言になる。少しも動かない晃を見上げた。

「コウ?」
 晃は泣きそうな青い顔をしていた。
「ゴメン。嫌な事を思い出させて。春野、あいつ次に会ったらぶん殴ってやる」

「ダメだって。コウは少し感情を抑えるべきだよ。一緒に居るなら、僕のために直してよ」
 潤の言葉に晃が息を飲んで項垂れた。

「そうだよな、ごめん。こうゆうところが潤の負担になるって分かっている。俺の感情的な所は直していく。潤が一緒に居てくれるためなら、何でもできる。努力する」
 潤の意見を受け入れてくれる晃の姿勢が嬉しかった。自分に逃げずに向き合っている。これが全部、潤のためだと思うと心が満たされた。


 翌日、潤は春野に電話した。晃と付き合うことになったことを伝えた。潤が苦しかった時に春野が支えてくれたことへの感謝を伝えた。
 春野は大切な人だったことを丁寧に言葉にした。電話向こうの春野さんは泣いていた、と思う。

 潤のピアノが好評だから、これからも仕事は付き合いをしよう、と言ってもらえて嬉しかった。兄貴分として支えていくよ、と優しく約束もしてくれた。
 そんな春野の優しさに触れて潤は泣いた。


 潤と付き合い出して、晃がバイトを始めた。晃は音楽の道には進まないから社会の勉強を始めると言い出した。実家の家業を継いでいくためにも必要な事を自分で学びたいと前向きになった。

「音楽をやりたいのは俺の祖母や母であって俺がしたい事ではない。だけど音楽が好きなのは確かだ」
 晃はそう言っている。

 色々な迷いがなくなって晃の気持が安定してきているのが分かる。潤と居て暴走することも無くなった。
 落ち着いて余裕が出た晃はカッコ良くなっている。潤には変わらず優しくて包み込むような愛情を向けてくれる。潤もコウを温めるように愛情を返している。

 そんな幸せな気持ちで弾くピアノの音は、これまでとは違った輝きを放つ。潤は優しい穏やかな時間を街の人に届けるようにストリートピアノを弾く。


 時々、春野が潤のところに来てくれる。
 次の春バージョンのCM曲も潤が担当することになり、その打ち合わせもあるからだ。

 春野と晃と潤で食事することもある。春野は晃と気が合うようで、いつの間にか仲良くなっていた。

「コウと何を話すんですか?」
 潤は春野に聞いてみた。

「詳しく言えないけど、コウ君は君のために成長したいんだよ。コウ君は大人の欲に振り回されて生きて来た、ある意味哀れな子供時代だったと言えるかな。金銭的な苦労はなかっただろうけれどね。潤君との出会いで、いろいろ気が付いて前進しようとしている。そういう若者は応援したくなるんだ」

 優しく笑う春野をすごいと思った。潤と付き合っている晃を受け入れている。なかなか出来ない事だと潤は思う。

「春野さんは素敵な人ですね」
 一言を伝えた。

「じゃ、俺と恋人になろう」
 すかさず春野に茶化された。そう言いながらも、潤に向ける春野の目線にもう色恋が無いのは分かっている。時々寂しそうな視線が混じるだけだ。でも、潤はそれに気づかないフリをする。

(この人に温かい恋人ができますように)
 潤はそっと心で祈った。