どくんと、十二(とうじ)の胸が高鳴る。次が捲られて、「目黒のさんま」という題名が目に飛び込んでくる。
 ピィーと笛の音がして、三味線と太鼓の音がする。お囃子と一緒に、金屏風の後ろからスウッと芳月亭が姿を現した。
 芳月亭は、軽い足取りで高座に上がる。なんていい姿勢だろう。正座をして片手で着物の膝をあつらえる。その手つきが、なんともこなれていて美しかった。


 「ご存知とは思いますが、士農工商で一番偉いのがお侍さん。天下の往来を侍がえばって歩いているわけです。ですがこのお侍さん、庶民と比べましたら残りの三パーセントしかいませんですからもうごくわずか……」

 芳月亭の声が、ホールに響き渡る。

 「そういう江戸を大多数の庶民がみんなひしめき合いながら歩いたわけですな」

 「さらに特権階級と言われたお殿様、いわゆるお大名と言われている方たちは、さぞいい暮らしをしていたとお思いになるでしょうが、ところが決してそんなことはない。我々が思う以上に窮屈な暮らしをしていたと伺います」

 「ご飯もしょっちゅう同じものが出てきます。鯛なんか出ますと……お毒見役がちょっとつっついて冷たくなったのが、干からびて出てくる。こういうことが365日出てきますと、飽きます。町人は違って……」

 町人は違って、脂っこいものを食べたい時は脂っこいものを食べられる……と言う話が続く。

 「そう言った大名のお話しでありますけれども……これ金也!金也!」

 そう言うと、芳月亭は滑るように殿様の表情になる。殿様が家来を呼んで、良い日だと言う。

 「心持がよい!どうじゃ?紅葉狩りなといたそうかな?」
 「そう言う訳でしたら、武芸鍛錬の為にも遠乗りがよろしいかと」
 「うむ、久しゅう行っておらなんだ。遠乗りなら、いっても良いか?」
 「は、よろしゅうございます」
 「馬引けい!後へ続け!」

 そう言うと殿様は、一目散に目黒へ駆けて行った。
 びっくりした御家来衆は、慌てて馬の仕度をする暇もなく後ろをついて駆けていく。

 「心地よい所じゃのう。随分と空腹を覚えた。弁当を持て!」

 と言ったところ全員駆けてきたものだから弁当を持って来ていない。

 「殿、恐れながら申し上げます。この度火急のことゆえ、弁当を持参しておりません……!」
 「何!余は空腹であるぞ……!」

 お殿様が悔し気に腹をさする。ふふふ、と笑いが起きる。

 「なにとぞご辛抱を……!」

 そうしていると何処からか香ばしい匂いがしてくる。さんまか何かを焼いている。

 「金也!なんじゃこの異なる匂いは!」
 「さんまを焼く匂いかと……さんまいわしと言うものは下魚にございまして、高貴な殿のお口にあわぬと……」
 「あい構わん!さんまとやら!さんま!」

 芳月亭が声を張る。

 「目通り許す!」

 その格好の良いこと!さんま相手に目通り許すなんて大げさなことを言っているのだけれど、髷も相まって本当に殿様のように見える。
 殿様の前にさんまが運ばれてきて、芳月亭が、扇子を持って……芳月亭の持ち方は箸のそれだ。膝元にあるのは、さんまだ。

 (あ……っ)

 胸がきゅーっと切なくなるのを、十二は感じた。殿様が、箸を持ってさんまを食べている。

 (あっあっあ……っ)

 箸がさんまの身を崩し、それを殿様が口に運ぶ。見るからに美味しそうだ。本当にさんまを食べているみたいだった。ちゅっちゅっと小さく吸うような音がするが、下品ではなく、こちらの食欲さえそそられる。匂いまでこちらに伝わってきそうだった。

 (ああっ、あっ)

 そしてお殿様が、骨を口から摘まんで出す。その仕草の健気なこと。必死さがこちらまで伝わる。さんまは平らげられた。頭と骨としっぽだけ残して。

 (ああ~……っ!)

 体がむずむずした。何だか、自分が骨まで啜られたさんまになった気持ちだ。

 お殿様、屋敷に帰ってからというものの毎日の食事にも飽きているから、鯛を見ても、さんまが恋しい。

 「なんじゃこの色は……それに比べて、あのさんまのつぶらな瞳……長やかなる黒い身体……脂の香り……」

 お殿様が夢見るようにさんまを思い出している。何だかそんなに思ってもらえると気恥ずかしくなる。十二はすっかりさんま気分で噺を聞いていた。

 「お殿様、すっかりさんまに恋焦がれて……」

 恋い!?恋してくれたんですか!?俺に!十二の頬が、我知らず紅潮する。嬉しいやらはずかしいやら。そんなに美味しかったんだね……。

 「寝ては夢、起きては夢のまぼろしの……」

 でもそれは秘めたる恋だ。さんまが美味しかったと、お殿様は周囲にふれて回れなかった。だって、さんまなんてものを食べさせたと御家来衆が上方に知られたら、腹を切らねばならないそうだ。ううむ。厳しい。そこで、お殿様は、外に活路を見出した。
 親戚筋の大名に呼ばれた食事会。何でも好きなものを食べられると言われて、さんまを出してと頼んだのだ。
 でも、こんな脂っこいものを食べさせて、お殿様がお腹を壊したらいけないから、大名の台所番のみんなが考えた。蒸して脂を落として、骨もあったらいけないから、骨も毛抜きで採っちゃった。
 ぐすぐすになったさんまを目の当たりして殿様がしょんぼりした顔をする。会場から、わははと笑い声があがる。
 ああ、これは俺じゃない。このさんまは俺じゃない。
 それを食べた殿様は、家来に聞く。

 「これはどこのさんまじゃ?」
 「は、本場房州で獲れましたものにございます……」
 「それはいかん!さんまと言うのはな」

 殿様がゆっくりと笑顔になる。その朗らかな顔。さんまとの出会いを思い出しているみたいだった。

 「目黒にかぎる」

 ドンとお囃子が鳴って、芳月亭が頭を下げてお辞儀した。
 十二は、思わず両手を叩き合わせて、割れんばかりの拍手をしていた。ホールから拍手が上がる。わあという切れ切れの歓声と一緒に、拍手は長く続いた。
 ようやく十二が我に返った時、ホールには、彼が一人残っているばかりになっていた。