十二月。
 冬本番を迎え、北風が肌を刺すようになった。街ではすっかり葉を落とした木々が、灰色の空を背景に枝を伸ばしている。
 小鳥遊十二は、菊花屋の二階、小髷……雨水の自室にた。温かいココアの湯気が立ち上るマグカップを挟んで、二人はローテーブルに向かい合って座っている。テーブルの上には、十二が書き上げた新作落語「髷恋道中」の原稿が広げられていた。

 「この登場人物の掘り下げは、もう少しできるな」
 「はい。僕も、もう少し膨らませた方がいいかなって考えてました」

 雨水と十二は、顔を突き合わせ、真剣な表情で原稿を読み込んでいた。
 鉛筆で書き込みを入れ、時には意見を交わし、時に黙り込んで考え込む。二人きりの空間に、紙をめくる音と、鉛筆が走る音だけが響く。

 新作落語を書き上げて以来、十二は頻繁に雨水の部屋を訪れるようになっていた。
 あの部室でのキス以来、二人の間には、より深く、温かいものが芽生えつつあった。
 部室で顔を合わせるだけでなく、こうして雨水の部屋で二人きり、落語について語り合う時間が、十二にとって何よりも大切なものになっていた。雨水の部屋は、ふんわりとバニラの香りがした。そこにいるだけで心が落ち着くのだ。
 十二が腕を組み、唸る。その隣で、雨水が、ポン、と原稿の特定の一節を指差した。

 「例えば、この部分。もう少し、主人公の『好き』という感情を具体的に描いてみたらどうだ? それが、最終的にサゲに繋がるように」

 雨水はそう言いながら、自身の指を原稿の上で滑らせた。十二も、身を乗り出してその指先を目で追う。

 「あ、なるほど……」

 思わず、十二の指が、雨水の指にそっと触れた。
 ピクリ、と雨水の指が震える。
 十二の心臓が、ドキン、と大きく跳ねた。
 触れ合った指先から、ぬくもりがほどばしって、体を満たして行く。
 二人の間に、一瞬の静寂が訪れた。

 十二は、はっと顔を上げた。雨水も、ゆっくりと顔を上げ、十二の瞳を見つめる。
 彼の切れ長の目元が、いつになく熱を帯びていた。
 その視線に、十二の頬が熱くなるのを感じた。
 バニラの香りが、一層強く鼻腔をくすぐる。

 雨水は、ゆっくりと十二の頬に手を伸ばした。彼の指先が、十二の頬を優しく撫でる。

 「……十二」

 雨水の声が、吐息のように十二の耳に届いた。
 十二は、目を閉じた。

 唇と唇が、そっと触れ合う。
 ぬくもりが全身を駆け巡る。満足感で、頭の芯が痺れてくる。
 ゆっくりと、そして深く、二人の唇が重なる。
 雨水の温かさが、十二の全身に染み渡っていく。
 まるで、乾いた土壌に水が注ぎ込まれるかのように、十二の心は満たされていった。

 名残惜しそうに唇が離れ、雨水が十二の額に自身の額をそっと合わせた。

 「この新作落語、俺に高座でやらせてくれないか」

 雨水が、優しい声で呟いた。十二は、目を開き、彼の顔を見上げた。

 「え……?」
 「俺の、卒業寄席で」

 雨水の言葉に、十二は目を見開いた。卒業寄席は、部長である雨水にとって、落語研究会での最後の高座となる、非常に重要な寄席だ。そこで、自分の書いた新作落語を披露してくれるというのか。

 「いいんですか……!?」
 「ああ。お前が俺のために書いてくれた噺だ。俺が、これを最初にお客様に届けたい」

 雨水は、十二の手を優しく握りしめた。

 「お前の『好き』が詰まった噺。それを、俺が、お客様に届ける。そして、俺からも、お前に……」

 雨水は、十二の握った手に、そっと力を込めた。言葉にはしなかったが、その手から伝わる温かさと、彼の真剣な眼差しが、何よりも雄弁に物語っていた。

 「雨水さん……!」

 十二の瞳に、喜びの涙が滲んだ。自分の想いが、雨水に届いた。
 そして、その想いを、彼が最高の形で表現してくれる。
 十二は、雨水の手に、自分の手を重ねた。