十一月。
 冬の足音が聞こえ始めていた。朝晩の冷え込みが、肌を刺す。大学構内の木々は、ほとんどの葉を落とし、乾いた冷たい風が吹き抜けていく。
 小鳥遊十二は、大きな決意を胸に、落語研究会の部室へと向かっていた。手には、ホチキスで止められた、真新しいA4用紙の束が握られている。
 この一ヶ月、福々に背中を押され、夜なべして書き上げた新作落語の原稿だ。

 部室の扉は、いつも通り開け放たれていた。

 中を覗くと、誰もいない。
 十二はホッとすると同時に、少しだけ肩を落とした。やはり、今日は誰も来ていないか。そう思って、くるりと踵を返した矢先だった。

 「十二」

 低い、セロのような声が、部室の奥から聞こえた。

 聞きなれた、優しい声。振り返ると、そこにいたのは小髷だった。
 彼は部室の火鉢の隣に、いつものように和装姿で座っていた。
 小髷の目が見開かれ、その顔に、微かな驚きと、そして安堵の表情が浮かんだ。

 「こ、小髷先輩……」

 十二の声は、上ずった。あの九月の公園での出来事以来、顔を合わせるのは初めてだった。心臓が、まるでマラソンを終えた直後のように激しく鼓動する。

 小髷は、ゆっくりと立ち上がった。
 彼の視線は、真っ直ぐに十二を捉えている。彼の醸し出すバニラのような香りが、ふわりと部室に広がり、十二の嗅覚を刺激した。

 「来てくれたのか……」

 彼の声には、安堵の色が滲んでいた。十二は、その声に、少しだけ勇気づけられた気がして、上向いた。

 「はい……その、ご心配おかけして、すみません」

 十二は、深々と頭を下げた。

 「いや。お前が無事でよかった。連絡も取れないから、心配していたんだ」

 小髷が、一歩、また一歩と十二に近づいてくる。その距離が縮まるたびに、十二の緊張は高まっていった。

 「あの……その、先輩に、お話があって」

 十二は、ぎゅっと原稿を握りしめた。

 「俺もだ。お前に、話がある」

 小髷が、十二の目の前で立ち止まった。二人の間には、腕一本分の距離しかない。

 「俺から、先に……」

 十二は、意を決して切り出した。小髷の、射抜くような視線とぶつかる。

 「俺、あの夜先輩に言われたこと、ずっと考えてました。あの、九月の公園で……」

 小髷は、黙って十二の言葉を待っていた。

 「俺、その時、すごくびっくりして、混乱して、それで、逃げてしまって……」

 十二は、深く頭を下げた。

 「本当に、ごめんなさい」

 小髷の声が、ゆっくりと降って来る。

 「いや、あれは俺が悪かった。お前を困らせてしまった」
 「違います! 俺が、自分の気持ちに気づかなかっただけなんです!」

 十二は、顔をさっと上げた。そして、手にした原稿を小髷に差し出した。

 「これ、部長に言われた後、ずっと書き続けてた、新作落語なんです」

 小髷は、不思議そうに原稿を受け取った。表紙には、『髷恋道中』と書かれている。

 「俺、先輩の落語が一番好きで、小髷先輩のことを、ずっと『推し』だと思っていました。でも、福々先輩に言われたんです。『推しが恋に変わってもいいんだよ』って。それで……」

 じっと視線を合わせて、十二は小髷を見つめる。

 「俺、自分の気持ちと向き合いました」

 必死に言葉を紡ぐ。

 「俺、部長のことが、好きです」

 十二の言葉に、小髷の目が大きく見開かれた。彼の顔に、みるみるうちに赤みが差していく。


 「ただの『推し』じゃなくて、一人の人として、好きです。その気持ちを、この噺に全部込めました」
 「……十二」

 小髷の声が、震えている。彼は、ゆっくりと原稿から目を離し、再び十二の瞳を見つめた。その瞳が、驚きで揺れている。
 そして、瞳の色は、深い、十二への愛に染まっていた。

 「俺は、お前が部活に来ない間、ずっと後悔していた」

 小髷は、十二の頬にそっと手を伸ばした。

 「あの告白が、お前を落語から遠ざけてしまったんじゃないかと思った。ただ、お前の帰りを、待つことしかできなかった」

 彼の指先が頬に触れる。十二の体中に電流が走ったような感覚が走る。

 「俺は、お前が初めて高座に上がった時から、お前の真っ直ぐさに惹かれていた。落語に夢中になるお前を見て、もっと傍にいたいと思った。お前が俺を『推し』だと言ってくれるたびに、ただの部長で終わるのが、嫌になった」

 雨水の親指が、十二の頬を優しく撫でる。

 「お前の『好き』が、俺への『恋』に変わってくれて、嬉しい。これ以上、嬉しいことはない」
 「俺、もう『推し』と『推される側』の関係じゃなくて、小髷先輩と、対等な恋人になりたいです」

 十二の真剣な言葉を聞いて、小髷の口元に優しい笑みが浮かぶ。

 「一方的に尊敬するだけじゃなくて、俺も先輩を支えて、一緒に色々なことを経験して、一緒に成長していきたい」

 小髷は、ゆっくりと十二の顔を自分の方へと引き寄せた。

 「……ああ。もちろんだ、十二。俺も、それが一番嬉しい」

 二人の距離が、近づいて行く。
 バニラのような香りに、全身を包まれる。
 十二が、瞼を薄く閉じた。
 小髷の唇が、十二の唇に、そっと触れた。

 それは、優しく、甘く、そして、どこまでも温かいキスだった。

 初めてのキス。
 初めての、触れ合う温もり。
 十二の心の中で、何かが音を立てて弾け、そして、新しい光が差し込むように、温かい感情が満ち溢れていった。

 ゆっくりと、小髷の唇が離れていく。
 小髷は、愛おしそうに十二の頬に手を添えたまま、そっと額を合わせた。

 「おかえり、十二」

 小髷の優しい声が、十二の耳元で響いた。
 その言葉に、十二の目から、喜びの涙が溢れ出した。

 「ただいま、雨水さん」

 十二は、震える声でそう答えた。彼の口から、初めて雨水を本名で呼ぶ声がこぼれ落ちた。
 十一月の、肌寒い部室で、二人の心は、確かな温かさで満たされていた。