それから、十二は、文字通り、寝る間も惜しんで新作落語を書き始めた。
 授業の合間も、寝る前も、シャワー中も、常に頭の中は新作落語のことでいっぱいだった。

 推しが恋に変わってもいい。
 その言葉が、十二の心に温かい光を灯した。そうか、俺が小髷先輩に感じていたこの胸のときめきは、ただの憧れだけじゃなかった。もっと、もっと深く、彼を求めていたのだ。

 そして、その感情を、どうにかして彼に伝えたい。
 言葉では、うまく伝えきれないだろう。逃げてしまった弱虫な自分に、そんな勇気があるはずがない。
 でも、落語なら。
 落語なら、きっと伝えられる。

 十二は、レポートを放り出し、パソコンを引っ張り出した。メモ帳のページを開くと、真っ白な画面が、まるで彼の心を映すかのように広がっていた。

 何を書こうか。
 頭に浮かぶのは、やはり小髷先輩のことばかりだ。
 彼の涼やかな目元。
 真っ直ぐに伸びた髷。
 そして、あの、バニラのような香り。
 彼の落語。人を惹きつけ、魅了する、その噺。

 キーボードに指をかざし、まずタイトルを書き込んだ。
 『髷恋道中』
 「髷」と「恋」。

 時設定は江戸時代。場所は神田。
 主人公は、若き旅髪結い、鳥治《とりじ》。
 十二自身の、不器用で、ちょっと引っ込み思案な部分を投影したキャラクターだ。
 鳥治は、腕利きの髪結師になるという夢を抱きながらも、なかなか上手くいかない下剃り仕事にため息をついている。

 「今日も今日とて、髪結いの道は険しい……」

 そんな書き出しから、物語は始まる。
 そして、運命の出会い。
 昼なお暗い裏長屋の辻に立つ、ひとりの美しい男。
 名を雨の介。

 「その男、背筋は天を突かんばかりに伸び、きっちりと結い上げられた髷を誇らしげに揺らしながら、まるで風のような色気を纏っていました」

 あの時、初めて部長の髷を見た時の衝撃を、そのまま文字にしよう。そう思った。

 「この髷を、俺が結いたい……!」

 鳥治の心の声が、十二自身の心の声と重なる。そう思った瞬間から、鳥治の髷への恋が始まるのだ。
 雨の介を追いかけ、髷に近づこうとしては振られる。コミカルなやり取りの中に、切ないほどの片想いの感情を織り交ぜていく。

 「お許しください、この鳥治、髪結いの道一筋に生きて参りましたが、この御仁の髷ばかりは、どうしても放っておけませぬ!」
 「ならぬ! この髷に触れれば、お主は二度と髪結いの道を歩めまい!」

 そんな、少し大げさな、落語らしいやり取りを想像しながら、十二はキーボードを叩き続ける。

 しかし、次第に鳥治の心は、髷だけではなく、雨の介そのものに傾いていく。ここが、十二自身の変化を表す重要な部分だ。

 「不思議だねえ。最初はあの髷に魅せられたはずが、いつしか、その髷を揺らすお方の、その瞳に、その声に、その佇まいに、心惹かれるようになっちまった……」

 そして、雨の介が隠していたある秘密。

 「……俺は、髷そのものを司る存在だ。結びは誇り、ゆるみは裏切り」

 雨の介は、髷を結うこと自体を司る神だったのだ。“髷の流儀”を護る者。これは、落語に真摯に向き合い、その伝統を大切にする部長の姿を象徴している。彼の揺るぎない信念。

 恋と髷の間で揺れ動く鳥治。果たして彼は、髷と恋心の本当の“結び目”を見出せるのか。
 サゲは、こうだ。

 「……俺は、主張を曲げられねえ」

 これを雨の介に言わせる。このサゲで、部長が自分の気持ちに気づいてくれるだろうか。いや、気づいてほしい。

 夜遅くまで、十二は書き続けた。授業とレポートの合間を縫って、食事も忘れるほど集中した。指先はしびれ、肩は凝り固まっていたが、十二の心は満足感で満たされていた。

 この噺には、小髷先輩への、自分の全ての感情が詰まっている。
 憧れ、尊敬、戸惑い、そして、今確かに芽生え始めた「恋」という感情。
 面と向かっては伝えられない、もどかしいほどのこの想い。
 想いを、全てこの新作落語に込めた。

 書き終えた時、空は白み始めていた。十二は、原稿の最後の行を見つめ、深呼吸をした。
 これで、小髷先輩に会える。
 この新作落語を、彼に読んでもらおう。
 そして、今度こそ、自分の言葉で、自分の気持ちを伝えよう。
 キーボードから手を離した十二の顔には、はっきりとした決意が宿っていた。

 (もう、逃げない)

 この新作落語は、小髷への、今の自分の答えだ。
 書き上げた時、十二は、再び部室の扉を開ける決意を固めていた。