十月。肌寒い風が吹き、キャンパスの木々は色づき始めていた。部室の窓から見えるケヤキの葉は、もう半分以上が鮮やかな赤や黄に染まっている。けれど、俺の心は、そんな美しい秋の風景とは裏腹に、凍えるように冷え切っていた。

 部室の扉は開いたままだ。夕暮れの光が差し込み、埃の舞う様がやけに鮮明に見える。普段なら、この時間、誰かしら部員がいるはずだ。特に、あいつなら。

 小鳥遊十二。
 今はもう、「小鳥」と呼ぶことすら、躊躇われる。

 あの日、九月の、あの告白から、十二は部室に姿を見せない。
 連絡もつかない。電話も、メッセージも。
 まるで、あいつが最初から存在しなかったかのように、日常から忽然と消え去ってしまった。

 俺は、なんて馬鹿なことをしたんだろう。
 あの瞬間まで、俺と十二の間には、確かに「落語」という共通の熱量があった。
 俺が先輩で、あいつが後輩。俺が部長で、あいつが部員。
 そして、何よりも、俺が「推し」で、あいつが「推し」てくれる存在。
 その距離感が、心地よかった。いや、心地よいと、自分に言い聞かせていた。

 『お前のことが、好きだ』

 あの時、俺は、何を考えていたんだろう。
 十二の顔が、みるみるうちに強張り、困惑に満ちていくのを、俺はただ見ていることしかできなかった。
 そして、彼は何も言わず、その場を立ち去った。
 それっきりだ。

 もう、二度と会えないのだろうか。
 俺は、十二を傷つけてしまったのかも知れない。
 もし、この告白が、彼の落語への情熱を奪ってしまったのなら。
 もし、俺のせいで、彼が落語から離れてしまうのなら。
 それは、あまりにも、小髷にとって、耐えがたいことだ。

 部室に響くのは、自分の呼吸の音だけだった。
 この部屋に、もう、あの朗らかな声と、少しだけ緊張をはらんだ噺が響くことはないのだろうか。

 冷え切った秋風が、開いた扉から吹き込んでくる。
 その風は、小髷の頬を、まるで十二のいない現実を突きつけるかのように、冷たく撫でていった。

 「お疲れ様です」

 そこへ、パーリィがやって来た。
 彼は、普段の陽気さは影を潜め、どこか真剣な面持ちだ。

 「部長、ちょっとええですか?」

 パーリィは、珍しく改まって小髷の正面に座った。

 「なんだい、パーリィ」
 「小鳥のこと、まだ気にしとるんですか」

 核心を突かれ、小髷の心が大きく揺れる。隠しているつもりはなかったが、部員たちにまで心配をかけているのかと思うと、胸が苦しくなった。

 「……ああ」
 「毎日、部室に来て、待っとるんでっしゃろ? 小鳥が顔を出すのを」

 雨水は何も言わず、ただ窓の外に目をやった。枯れ始めた葉が、風に揺れている。

 「部長は、焦りすぎなんじゃよ」

 パーリィの言葉に、小髷はわずかに眉をひそめた。

 「焦りすぎ?」
 「はい。部長、小鳥に何かしましたよね?告白でもしたんですか?」
 「そうだ……」

 パーリィの言葉に、小髷が返す。パーリィは、「やっぱりね」と言いながら天を仰いだ。

 「そりゃあ、部長が小鳥を好きじゃっていう、部長自身の気持ちですよね?」
 「そうだ。それが……」
 「小鳥がどう思うたか、考えてみたことありますか?」

 パーリィの問いに、小髷は言葉に詰まった。もちろん、考えなかったわけではない。

 だが、あの時の十二の困惑した顔しか思い出せない。

 「きっと、小鳥は部長の気持ちに、全然気づいてなかったんだと思いますよ。普段から、部長と小鳥は仲良かったし、小鳥にとっては、部長は憧れの存在で、信頼できる先輩だったじゃから」

 パーリィは、訥々と語り始めた。

 「部長は、小鳥にとっての“推し”だったんです。その“推し”から突然、好意を向けられて、しかもそれが恋愛感情だなんて。そりゃ、小鳥だって戸惑いますよ。パニックになってもおかしゅうない」
 「……」
 「小鳥は、部長が思ってるよりも、ずっと純粋で、真っ直ぐな奴じゃ。じゃからこそ、自分の気持ちが分からんで、どうしていいか分からんで、部活に来られないんじゃと思います」

 パーリィの言葉は、小髷の胸に深く突き刺さった。確かに、自分は自分の気持ちを押し付けるばかりで、十二の気持ちを考えることを怠っていたのかもしれない。

 「どうしたら……そうだ、十二に謝って……!」
 「待つんじゃ、部長」

 パーリィは真っ直ぐに小髷を見つめて言った。

 「座して待つんじゃ!」
 「待つ? このまま……?」
 「そうです。部長が動いて、小鳥のとこにいっちゃうのは、逆効果です」
 「だが……」
 「落語が好きで、部長を尊敬している小鳥のことじゃ。落語から、そう簡単に離れられるはずがねえ。それに、部長のことだって、嫌いになったわけじゃねえ。ただ、今は、部長からの突然の感情を受け止めきれてないだけじゃよ」

 パーリィは、優しく続けた。

 「部長は、焦って関係を進めようとしすぎたんじゃ。でも、今回は、部長が待つ番じゃ。小鳥が自分の気持ちと向き合って、自分で答えを出すまで、そっと見守ってあげてつかあさい」
 「……見守る、か」
 「はい。いつもの部長でいてください。部室に来た時、変わらない部長がいたら、小鳥も安心するはずじゃ。焦らず、急かさず、ただ、そこにいる。それが、今の部長にできる一番のことだと思うけえ」

 パーリィの言葉に、小髷はハッとした。自分が十二を追い詰めていたのかもしれない。自分の感情を押し付け、十二に考える時間を与えていなかった。

 「……ありがとう、パーリィ」

 小髷は、感謝を込めて呟いた。パーリィは、にこりと笑うと立ち上がった。

 「ええってええって。ただ、心配だったんじゃよ。それに、小鳥がいなくて、一番寂しいのは部長じゃろ?」

 パーリィはそう言うと、部室を出て行った。

 一人残された小髷は、もう一度窓の外を見た。
 風に揺れる枯れ葉。
 焦っても、自然の流れに逆らうことはできない。

 待つ。

 そうだ、待つ男になる。
 焦らず、急かさず。ただ、そこにいる。
 十二が、またこの部室の扉を開ける日まで。
 その時まで、俺は、変わらず落語と向き合い、変わらず部長として、この部室に居続けよう。

 (静かに、彼の帰りを待とう)

 小髷の心に、じんわりと温かい光が灯った気がした。