髷に惚れた俺が髷のために髷噺を書く話

 「お前が、好きだ」

 もう一度、小髷の声が静かな公園に響いた。その言葉は、小鳥の心の奥底に、鋭いナイフのように突き刺さって、染みこんで浸透していった。

 「え……?」

 小鳥は、意味を理解できず、呆然と小髷を見つめ返した。彼の口から紡がれた言葉が、現実のものとして受け止められない。

 好きだ。

 その言葉が、まるで呪文のように、小鳥の頭の中を駆け巡った。

 小髷の瞳は、一点の曇りもなく、小鳥を見つめ続けている。
 彼の相貌には、微かな赤みが差しているのが分かった。バニラのような香りが、ふわりと鼻腔をくすぐる。その香りが、いつもは心地よいはずなのに、今は、心が激しく乱される。

 (どうして?)

 どうして、そんなことを言うんだ。
 俺にとって、あなたは、憧れで……尊敬する部長で……落語の師匠で……そして、何よりも「推し」だったのに。

 頭の中が真っ白になる。

 鼓動が、異常な速さで鳴り響く。ドクン、ドクン、ドクン。

 全身の血が、一気に沸騰したかのように熱くなる。
 視界が揺らぎ、公園の街灯が滲んで見えた。

 「十二(とうじ)……」

 小髷が、ゆっくりと、しかし確かな感情を込めて、もう一度小鳥の名前を呼んだ。その声が、小鳥のパニックをさらに加速させた。

 (俺は、ただ)

 小鳥は、小髷の落語が好きで、彼が落語を噺している姿が好きだった。

 (ああ、そうか)

 自分は、彼を推している自分が好きなだけだったのだ。
 それを気づかされてしまった。突きつけられてしまった。

 小髷は、小鳥を好きだという。
 それは、「推し」と「推す」関係の終焉に他ならなかった。
 今まで、「推し」てさえいれば、幸せだった。
 その関係は、ここで終わる。

 「あ、う……っ!」

 口から、苦しみの音が漏れる。
 あの、心底安心できていた、小髷を推している時間。何もかも忘れて、満たされていた距離感が目の前で崩壊していく。

 告白されたことの驚きと、崩壊していく関係。

 それが怖かった。

 小髷の両眼が、熱を帯びて小鳥を見つめている。

 (そんな目で俺を見ないで)

 小髷の真剣な眼差しから、逃れたい。
 この場から、一刻も早く、消え去りたい。

 この感情に、どう向き合えばいいのか、全く分からない。

 混乱と動揺の波が、小鳥を飲み込んでいく。
 思考は、もはや働いていなかった。

 「あ、の……っ」

 何か言葉を発しようとしたが、喉が張り付いたように動かない。
 立ち上がらなければ。
 ここから、逃げなければ。

 ガタン、と音を立てて、小鳥はベンチから立ち上がった。まるで、何かに突き動かされるように、反射的に立つ。

 「十二(とうじ)!?」

 小髷の声が、背後から聞こえた。
 その声に、さらに加速させられるように、小鳥は走り出した。
 公園の入り口に向かって、無我夢中で駆け出した。
 後ろは振り向かない。
 振り向いてしまったら、きっと、もっと混乱してしまう。
 もっと、この感情から逃げられなくなってしまう。

 街灯の光が、走る小鳥の影を長く伸ばす。
 夜風が、頬を冷たく叩いた。
 息が上がる。肺が痛い。
 しかし、止まることなどできなかった。

 ただひたすらに、走り続けた。
 小髷の「好きだ」という言葉から。
 自分の理解できない、この心の混乱から。

 そして、このどうしようもない、甘くて苦い、初めての感情から。

 遠ざかる公園の街灯が、点滅するように見えた。
 小髷の姿は、もう、そこにはない。
 小鳥の頭の中は、今、ただ一つの言葉で埋め尽くされていた。

 好きだ。
 好きだ。
 好きだ。

 その言葉の響きが、小鳥を追いかけ、どこまでも、どこまでも、追い詰めてくるようだった。