九月。
 小鳥は相も変わらず部室で稽古に励んでいた。次に覚えたいのは、<金明竹>だ。
 文化祭では、<ちりとてちん>を披露した。首尾よく詰まらずに言えたので、自分でも少し自信がついた。

 「そこまで」

 小髷が、小鳥の稽古を止める。

 「今日は、ここまでにしよう」
 「はい」

 小鳥が、お向かいに座っていた小髷に礼をして「ありがとうございました」と挨拶をした。
 小髷は、少し黙った後、だしぬけに小鳥に話しかけた。

 「時に、小鳥や」
 「……?はい」
 「今度の休み、一緒に寄席にいかないか」

 〇


 小鳥は驚いた。驚いて目玉が飛び出しそうになった。

 そのまま小髷と連絡先を交換しあった後も、まだ目をまんまるくしていたくらいだ。

 寄席当日、小鳥は和装して待ち合わせ場所にやって来た。
 小髷は先について待っていた。いつもの髷に和装の姿だ。

 「お待たせしました」
 「いや、待ってはいないよ」

 二人は連れだって歩き出した。
 並んで、ゆっくりと草履で歩く。

 (これって、何かデートみたいだな……)

 ふとそんな考えが頭に浮かんで、小鳥は頭を振った。
 これはデートではない。あくまでも小髷は、後輩の知見を広げるために寄席に連れて行きたいだけだろう。
 下心なんてあろうはずもない。ちょっと期待してしまった自分を恥じて、小鳥は下を向いた。

 (期待って、何を期待するんだ……俺のバカバカっ!)

 小鳥が、自分の拳でぽかりと頭を叩く。小髷が、不思議そうに小鳥の方を向いた。
 それから、ふっと笑って、小鳥の手首を掴んで降ろし、彼に尋ねた。

 「ん……?どうした……?」
 「い、いえっ!」

 カッと、小鳥の顔が赤くなる。小髷のこう言う優しさや気遣いには、だいぶ慣れたつもりでいたが、やっぱりいちいち反応してしまう。そんな自分が恥ずかしかった。

 「ついたぞ」

 小髷が手を離して、指をさす。
 新宿八百万亭は、木造二階建ての提灯や幟旗や看板などで飾られた、昔ながらの寄席だ。
 木戸の周りはタイル張りで、看板が立てられている。
 左側に、次の席の主な出演者の予告である、黒字と赤字の名前が書かれていた。

 「寄席はな、昔は落語だけを聴く場所だったが、今は漫才、神楽、髪切り、奇術、音曲など、色物も公演されている。入場券を買って、中へ入ろう」
 寄席に入ると正面が高座だ。真ん中には椅子席があった。
 桟敷席の上に提灯が並んでいて、いかにもという感じだ。
 二人は、スタッフに案内されて、前方の席に案内された。
 座ると、高座が良く見えた。
 お座敷をイメージしているであろう高座は、頭上に額が飾られており、「和気満堂」と書かれていた。
 向って左側には、床の間が作られており、右側には宴者の名前を表示する名札と、障子の窓がる。
 正面にはライトとマイクが置いてあった。
 席につくと、小髷がプログラムを広げて見せてくれた。

 「今はお中入り……休憩の時間だ。初めての寄席で、長時間はきついだろうから、途中から入った。ここから落語を三つと曲芸を一つ観る。始まるぞ」

 言う間に、客席がぼんやりと暗くなり、出囃子が鳴り響き始めた。
 着物の噺家がしずしずと高座の正面に歩いてくる。彼は座布団の上に座ると、囁く様に喋り始めた。

 「えー、お集まりいただきありがとうございます……」

 語られたのは<権助魚>と言う演目だった。
 ある大店のおかみさんは、旦那さんの浮気を疑っている。そこに勤める権助さんは、おかみさんに一円を握らされ、旦那さんのお供について行くことに。旦那さんはおかみさんのたくらみと察して、権助に二円を渡す。権助はすぐ忠義替えする。
 旦那さんは、おかみさんに「隅田川で網打ちをした」と虚偽の報告をするように権助にいいつけ、自分は行ってしまう。権助は旦那さんのアリバイを作るために魚屋に向かうが、隅田川にいる魚がわからずメザシやニシンやスケソウダラを買ってしまう……家に戻った権助をおかみさんが待ち構えていて、そんなものはここら一円では取れないと言う。権助は一円で買ったと返事をする……というお噺だ。
 この噺は、権助さんがずーずー弁でかなり愛嬌があってよかった。メザシたちが目に藁を刺すシーンなんか思わず声をあげて笑ってしまったくらいだ。

 演者が去って行き、座布団がひっくり返される。

 次は<犬の目>と言う演目が語られた。
 犬の目は不思議な噺で、ある医者の所に目を患った男が診察に訪れるのだが、なんと目をくり抜かれて洗われてしまう。その目を再度入れようとするとふやけて大きくなりすぎ元の場所に入らない。縁側に干して置いたら犬が食べてしまうので犬の目を変わりに入れるという噺だ。
 荒唐無稽な噺だが、何だか不思議な温かみのある噺だった。目をくり抜く時の音が小気味よく耳に残る。

 演者が去り、マイクが下げられる。小髷が、そっと小鳥に耳打ちした。

 「次がひざがわり。曲芸だ」

 曲芸は奇術だった。江戸時代から続く和の手品……手妻《てづま》が、華やかに披露される。
 白い半紙で出来た蝶に風を送り、まるで生きているように舞わせる胡蝶の舞、お椀を巧みに返しながら玉を隠す、お椀と玉。紙で出来た人形が独りでに動くヒョコ。

 「うわぁ……!」

 詰めていた息を吐き出して、小鳥が感嘆の声と一緒にため息をつく。
 なるほど、長い寄席の時間、客は必ず飽きてくる。びざがわりで客の集中力を舞台に戻すのだ。
 そして、最後の演者……トリの番がやって来る。