「行ってらっしゃい」

母が、いつものように玄関から声をかけてくれた。

「行ってきます」

私はそう返して、ドアに手をかける。けれど、ふと足が止まった。

「......お母さん、いつもありがとう」

言い終わるやいなや、恥ずかしさをごまかすように急いでドアを閉めた。
でも――閉まる直前にちらりと見えた、母の驚いたような、でもすごく嬉しそうな顔が、いつまでも頭に残って離れなかった。
私は、今日も学校に向かって歩いている。
空は少し霞んでいて、冬の匂いがしていた。
でも、うつむかずに歩けるようになった。ちゃんと前を向いて。
あの日、壊れたキャンバスの前で、結衣と朱里とぶつかり合った。
あれから、全部が劇的に変わったわけじゃない。
私の噂はしばらく消えず、廊下を歩けば視線を感じたし、笑い声が耳に刺さることもあった。
でも私は、逃げなかった。
毎日、ちゃんと学校に来た。

「整形くらい今どき普通じゃん」

「私もやってみたいなー」

そんな言葉が聞こえ始めたのは、二ヶ月目に入った頃だった。人の関心は、案外あっけなく移ろう。
戻してくれたのは、皮肉にも“私が取り繕うのをやめたから”だったのかもしれない。
結衣も同じだった。
あの事件を境に、彼女は“繕う”のをやめた。
理子や春日は離れていったけど、結衣は少しも取り繕わなかった。

「よかったの? ふたりと離れて」

そう聞いた私に、結衣はさらりと言った。

「いいよ。これが私だから」

その言葉に、私は少し救われた気がした
朱里は相変わらず“完璧”なままだったけど、私の前では仮面をつけない。
私たちは毎日一緒にいるわけじゃない。たまに会って、少しだけ話す。それくらいの距離感。
でも、それでちょうどいい。
私は今でもスキンケアを怠らないし、可愛い服も好きだ。でも今は、誰かに好かれるためじゃなくて、私自身のためにそうしている。
不思議なことに、それだけで息がしやすくなった。
今は、ゆっくり空を見上げながら歩ける。
風の匂いや季節の移り変わりに、ちゃんと気づける。
――私たちは、もう元の関係には戻れない。
でも、違う形でちゃんと繋がっている。
朱里も、結衣も、私と同じように「何か」を抱えていた。私がずっと羨ましがってた彼女たちだって、迷って、悩んで、誰にも言えない孤独を抱えていた。
きっと、誰だってそうだ。
何も抱えていない人なんていない。それでも、他人の人生はいつもキラキラして見える。だって私たちは、他人の“表面”しか知らないから。
今の私は、前より少しだけ、自分のことが好きだ。弱さを見せられた自分も、弱さを見せてくれた誰かも、ちゃんと“人間”なんだと思えるから。
みんな、誰かに嫌われるのが怖くて、完璧を演じてる。だから人はぶつかるし、壊れるし、傷つけ合ってしまう。
それでも誰かを求めるのは、やっぱり一人じゃ生きていけないからだ。
不器用なやり取りの先でしか、人と人は繋がれないのかもしれない。
それが、17年間生きた私が出した、たったひとつの答えだ。
私たちが出した、壊れたあの絵は――なんと、大賞を取った。
1万を超える応募の中で、あの不完全で不格好な作品が、選ばれた。なぜ選ばれたのか、私にも理由はよくわからない。
でも、審査員のコメントには「テーマとのマッチング性」と「他にない色彩の表現」が高く評価されたと書かれていた。

タイトルは――『綺麗ごとじゃない青春』

私たちは綺麗じゃないし、優しくもなかった。だけど私は、誰かに本音をぶつけ、誰かの弱さを知って、確かに心が揺れた。生きてると実感した。
あれはたしかに、嘘じゃない。

私たちだけの青春だった。