私は結衣が出ていったドアを見つめていた。
「じゃあね、莉音」
私も帰ろうとして、ふと足を止める。
なんとなく、あそこにいる気がした。根拠なんてない。でも、そんな予感がして仕方がなかった。
私は、校舎の奥にある美術室へ向かう。部活は今日は休みのはずだ。けれど、扉を開けた瞬間、胸の奥がかすかに跳ねた。
......いた。
朱里が、壊れた絵の前に立っていた。私が、自分で壊したあの絵だ。
朱里がこちらを振り返り、ふわりと笑った。
「待ってた」
その言葉に、私はまっすぐ歩み寄る。もう、仮面なんていらなかった。
今までみたいに取り繕った私じゃなくて、ちゃんと“莉音”として、朱里と向き合いたかった。
「......私、朱里のこと嫌いだった」
唐突だったかもしれない。でも、あふれてしまった言葉を止められなかった。
「努力しなくても、なんでも持ってて......私がどんなに頑張って手に入れたものも、朱里は簡単に手にしてた」
喉の奥がぎゅっと詰まる。でも、言わなきゃと思った。ちゃんと、自分の気持ちをぶつけたかった。
「でも......絵、壊してごめん」
その瞬間だった。
朱里が、ふいに腹を抱えて笑い出した。
「......何それ、今の莉音、超好き」
目尻に涙を浮かべながら笑うその姿は、今までの彼女とは少し違って見えた。
「絵のことなら、いいよ。私もさ、自分のために結衣に莉音の写真売ったし。......お互い様ってことでいーじゃん」
「......やっぱり、写真......朱里が」
私は思わず呟いていた。あの流出した写真。クラスで私だけが晒されて、みんなにコソコソ笑われて、裏で何が起きてるのかもわからなかった。
朱里は軽く肩をすくめる。
「私はあくまで“脅された”からやっただけで、こんなこと別に望んでなかったよ」
「......脅された?」
私の問いに、朱里はゆっくりと表情を変えた。そして少しだけ寂しそうに笑って言った。
「うん。莉音だけ暴露されて可哀想だから、教えてあげる」
そのあとに続いた言葉は、私の胸を冷たく締めつけた。
「私、パパ活してんの」
静かな美術室の空気が、一瞬で凍りついた気がした。
「......は?」
言葉の意味がすぐには理解できなかった。朱里は、笑っていた。いつものように、どこか無邪気で、でもどこか壊れたみたいな笑い方で。
「そう。で、ホテルから出てきたところを結衣に写真撮られてさ。“晒されたくなかったら莉音の写真と交換”って。まあ、そういう取引だったわけ」
そう前置きしてから、彼女はぽつりぽつりと話し始めた。
「ちゃんとしてなきゃって、ずっと思ってた。期待に応えて、笑って、いい子でいなきゃって。......でも、誰も『やめていいよ』なんて言ってくれないんだよね。親も、先生も、友達も」
その声には、微かな疲れが滲んでいた。朱里は窓の外を見つめる。夕日が、壊れたキャンバスに赤く滲んでいた。
「でもさ、みんなから好かれて、仲良くしてても、誰にも心の奥までは踏み込まれなくて。私は誰の一番にもなれなかった」
それは、あまりにも静かな告白だった。
「......そんな時だった。おじさんに声かけられて、試しに会ってみたの。最初は怖かったけど、なんか......楽しかったんだよね」
私は言葉を失ったまま、朱里の話をただ聞いていた。
「自分のこと、思い通りに弄て遊べるのが楽しくして、優しくしてあげればお金くれるし、ちょっとしたことで褒められる。罪悪感もあったけど......背徳感って言うのかな?それすら癖になった。ああ、私、裏切ってるんだって。“可愛いくて優しい朱里ちゃん”が、実はこんなことしてるって、知ったらみんな幻滅するんだろうなって......想像するだけで、ゾクッとした」
朱里は口元を歪めた。その笑いは、自嘲にも近かった。
「......でもね。どこか空っぽなの。お金を受け取るたび、笑うたびに心が少しずつ冷たくなっていく感じがした。"私、何やってんだろ”って思いながら、止まれなかった」
その姿は、私の知ってる朱里じゃなかった。いや、本当はこれが、ずっと隠されてた彼女の一面なのかもしれなかった。
「今の莉音は、なんか前よりいいなって思ったの。ズルくて、嫉妬深くて、でもちゃんと自分で話してる。......ねえ、私たちさ、似てるよね」
その瞬間、私は初めて朱里の"毒”を見た気がした。人から望まれ、好かれ、綺麗に整った朱里の裏側。彼女もまた、壊れそうな自分を抱えて、笑っていたのだ。
「......わかるよ。いや、全部じゃないかもしれないけど......」
私は朱里のそばまで歩き、隣にしゃがんだ。
「私も、いい子ぶってた。誰かの隣にいれば、可愛くしてれば、足りない自分をごまかせるって思ってた。全部嘘だったのにね」
目が合う。朱里の瞳が、少し揺れた。
「でもさ、そんなもんだよ。みんな、何か隠してて、どこか歪んでて、ズルくて、弱くて......でもそれでいいんじゃない? それで、生きてるんだし」
朱里は、何か言いかけて、でも言葉が出てこないようだった。
「......朱里が今、こうやって話してくれてよかったって思うよ。そうやって弱さとか毒とか、全部出してくれて、ありがとう」
私は少し照れながら笑った。
「私ね、今の朱里の方が、ちゃんと人間って感じする。私、そういうの、嫌いじゃない」
しばらくの沈黙のあと、朱里が小さく息を吐いた。
ふと朱里が、壊れかけたままのキャンバスを見つめながら言った。
「ねえ、この絵、応募してみない?」
「......え?」
思わず聞き返した私に、朱里は少しだけ口元を緩めて言った。
「ふたりの共同作品として、さ」
私は目を瞬かせる。その一言のあと、私はただ絵を見つめていた。
どこか歪んで、壊れて、だけど確かに”残った”絵。
朱里の言葉が、じわじわと胸に染み込んでいくのを感じていた。
「こんなの出してどうするつもり?めちゃくちゃだよ?」
「うん、めちゃくちゃ。でも、それがいいの」
朱里の声には不思議な軽さがあった。まるで重い荷物を降ろした人みたいに。
「私ね、この描いてたあの絵一一正直、全然気に入ってなかった。上手に見せようとしてただけで、あんなの私らしくなかった」
そう言いながら、朱里は筆先でキャンバスの欠けた部分に触れる。
「これがいいの。歪んでて、途中で壊れてて、それでも......ちゃんと残ってる。傷つけ合ったけど、ちゃんと向き合った証拠」
言葉が、胸の奥に落ちていく。
「きっと私たちらしいよ、こっちの方が」
私たちらしいーーその言葉が、妙にあたたかくて。気づけば、私は朱里の隣に立って、同じようにそのキャンバスを見つめていた。もとの人物の顔は崩れたままだが、代わりに涙を流しているような色のにじみが残されている。
教室の窓の外だけが明るく、そこに「2つの影」が滲むようになっていた。
ぐちゃぐちゃで、綺麗なんかじゃない。だけど、そこには私たちの"全部”が詰まっていた。
「落ちても文句言わないでよ?」
私はそっと笑う。
「それはどうかな〜」
私たちは笑い合う。
「タイトルどうしようね」
朱里がキャンバスから一歩離れて、全体を見渡す。
「なんかいい案ある?」
朱里がこちらを振り返った。
「うーん」
私はしばらく並んでからまっすぐきキャンバスを見つめて口を開いた。
「じゃあさ」
「じゃあね、莉音」
私も帰ろうとして、ふと足を止める。
なんとなく、あそこにいる気がした。根拠なんてない。でも、そんな予感がして仕方がなかった。
私は、校舎の奥にある美術室へ向かう。部活は今日は休みのはずだ。けれど、扉を開けた瞬間、胸の奥がかすかに跳ねた。
......いた。
朱里が、壊れた絵の前に立っていた。私が、自分で壊したあの絵だ。
朱里がこちらを振り返り、ふわりと笑った。
「待ってた」
その言葉に、私はまっすぐ歩み寄る。もう、仮面なんていらなかった。
今までみたいに取り繕った私じゃなくて、ちゃんと“莉音”として、朱里と向き合いたかった。
「......私、朱里のこと嫌いだった」
唐突だったかもしれない。でも、あふれてしまった言葉を止められなかった。
「努力しなくても、なんでも持ってて......私がどんなに頑張って手に入れたものも、朱里は簡単に手にしてた」
喉の奥がぎゅっと詰まる。でも、言わなきゃと思った。ちゃんと、自分の気持ちをぶつけたかった。
「でも......絵、壊してごめん」
その瞬間だった。
朱里が、ふいに腹を抱えて笑い出した。
「......何それ、今の莉音、超好き」
目尻に涙を浮かべながら笑うその姿は、今までの彼女とは少し違って見えた。
「絵のことなら、いいよ。私もさ、自分のために結衣に莉音の写真売ったし。......お互い様ってことでいーじゃん」
「......やっぱり、写真......朱里が」
私は思わず呟いていた。あの流出した写真。クラスで私だけが晒されて、みんなにコソコソ笑われて、裏で何が起きてるのかもわからなかった。
朱里は軽く肩をすくめる。
「私はあくまで“脅された”からやっただけで、こんなこと別に望んでなかったよ」
「......脅された?」
私の問いに、朱里はゆっくりと表情を変えた。そして少しだけ寂しそうに笑って言った。
「うん。莉音だけ暴露されて可哀想だから、教えてあげる」
そのあとに続いた言葉は、私の胸を冷たく締めつけた。
「私、パパ活してんの」
静かな美術室の空気が、一瞬で凍りついた気がした。
「......は?」
言葉の意味がすぐには理解できなかった。朱里は、笑っていた。いつものように、どこか無邪気で、でもどこか壊れたみたいな笑い方で。
「そう。で、ホテルから出てきたところを結衣に写真撮られてさ。“晒されたくなかったら莉音の写真と交換”って。まあ、そういう取引だったわけ」
そう前置きしてから、彼女はぽつりぽつりと話し始めた。
「ちゃんとしてなきゃって、ずっと思ってた。期待に応えて、笑って、いい子でいなきゃって。......でも、誰も『やめていいよ』なんて言ってくれないんだよね。親も、先生も、友達も」
その声には、微かな疲れが滲んでいた。朱里は窓の外を見つめる。夕日が、壊れたキャンバスに赤く滲んでいた。
「でもさ、みんなから好かれて、仲良くしてても、誰にも心の奥までは踏み込まれなくて。私は誰の一番にもなれなかった」
それは、あまりにも静かな告白だった。
「......そんな時だった。おじさんに声かけられて、試しに会ってみたの。最初は怖かったけど、なんか......楽しかったんだよね」
私は言葉を失ったまま、朱里の話をただ聞いていた。
「自分のこと、思い通りに弄て遊べるのが楽しくして、優しくしてあげればお金くれるし、ちょっとしたことで褒められる。罪悪感もあったけど......背徳感って言うのかな?それすら癖になった。ああ、私、裏切ってるんだって。“可愛いくて優しい朱里ちゃん”が、実はこんなことしてるって、知ったらみんな幻滅するんだろうなって......想像するだけで、ゾクッとした」
朱里は口元を歪めた。その笑いは、自嘲にも近かった。
「......でもね。どこか空っぽなの。お金を受け取るたび、笑うたびに心が少しずつ冷たくなっていく感じがした。"私、何やってんだろ”って思いながら、止まれなかった」
その姿は、私の知ってる朱里じゃなかった。いや、本当はこれが、ずっと隠されてた彼女の一面なのかもしれなかった。
「今の莉音は、なんか前よりいいなって思ったの。ズルくて、嫉妬深くて、でもちゃんと自分で話してる。......ねえ、私たちさ、似てるよね」
その瞬間、私は初めて朱里の"毒”を見た気がした。人から望まれ、好かれ、綺麗に整った朱里の裏側。彼女もまた、壊れそうな自分を抱えて、笑っていたのだ。
「......わかるよ。いや、全部じゃないかもしれないけど......」
私は朱里のそばまで歩き、隣にしゃがんだ。
「私も、いい子ぶってた。誰かの隣にいれば、可愛くしてれば、足りない自分をごまかせるって思ってた。全部嘘だったのにね」
目が合う。朱里の瞳が、少し揺れた。
「でもさ、そんなもんだよ。みんな、何か隠してて、どこか歪んでて、ズルくて、弱くて......でもそれでいいんじゃない? それで、生きてるんだし」
朱里は、何か言いかけて、でも言葉が出てこないようだった。
「......朱里が今、こうやって話してくれてよかったって思うよ。そうやって弱さとか毒とか、全部出してくれて、ありがとう」
私は少し照れながら笑った。
「私ね、今の朱里の方が、ちゃんと人間って感じする。私、そういうの、嫌いじゃない」
しばらくの沈黙のあと、朱里が小さく息を吐いた。
ふと朱里が、壊れかけたままのキャンバスを見つめながら言った。
「ねえ、この絵、応募してみない?」
「......え?」
思わず聞き返した私に、朱里は少しだけ口元を緩めて言った。
「ふたりの共同作品として、さ」
私は目を瞬かせる。その一言のあと、私はただ絵を見つめていた。
どこか歪んで、壊れて、だけど確かに”残った”絵。
朱里の言葉が、じわじわと胸に染み込んでいくのを感じていた。
「こんなの出してどうするつもり?めちゃくちゃだよ?」
「うん、めちゃくちゃ。でも、それがいいの」
朱里の声には不思議な軽さがあった。まるで重い荷物を降ろした人みたいに。
「私ね、この描いてたあの絵一一正直、全然気に入ってなかった。上手に見せようとしてただけで、あんなの私らしくなかった」
そう言いながら、朱里は筆先でキャンバスの欠けた部分に触れる。
「これがいいの。歪んでて、途中で壊れてて、それでも......ちゃんと残ってる。傷つけ合ったけど、ちゃんと向き合った証拠」
言葉が、胸の奥に落ちていく。
「きっと私たちらしいよ、こっちの方が」
私たちらしいーーその言葉が、妙にあたたかくて。気づけば、私は朱里の隣に立って、同じようにそのキャンバスを見つめていた。もとの人物の顔は崩れたままだが、代わりに涙を流しているような色のにじみが残されている。
教室の窓の外だけが明るく、そこに「2つの影」が滲むようになっていた。
ぐちゃぐちゃで、綺麗なんかじゃない。だけど、そこには私たちの"全部”が詰まっていた。
「落ちても文句言わないでよ?」
私はそっと笑う。
「それはどうかな〜」
私たちは笑い合う。
「タイトルどうしようね」
朱里がキャンバスから一歩離れて、全体を見渡す。
「なんかいい案ある?」
朱里がこちらを振り返った。
「うーん」
私はしばらく並んでからまっすぐきキャンバスを見つめて口を開いた。
「じゃあさ」



