九月一日。
空気はまだ蒸し暑いのに、教室の窓から入り込む風に、ほんの少しだけ秋の匂いが混じっていた。
「おはよー」
「日焼けしてない?海行ったんでしょ?」
「てかさ、夏課題出し忘れたんだけど終わった?」
そんなふうに、あちこちで久しぶりの再会に声が弾む。
夏休みが終わっても、教室の空気はまだどこか浮ついていて、完全に日常が戻ってきたとは言いがたかった。
私はいつもの席に座りながら、さっきまで話していた友達の笑い声を、なんとなくぼんやりと聞いていた。
正直、休み明けはちょっと苦手。久々に会うから、何を話せばいいか探り合う空気とか、誰がどこにいたかでちょっと上下関係が変わったりとか。私たちはこの夏で私、朱里、理子、春日の「4人」がしっくりくる形になった。
それはちょっとした安心感で、ちょっとした優越感だった。
「え、今さら転校生?」
朝のSHR前、理子が机に頬杖をつきながらぽつりとつぶやいた。
「もう9月なのにね。珍しくない?」
確かに、この時期に転校って、ちょっとズレてる。
学年が変わる4月とか、期末を終えた三学期のタイミングならまだ分かるけど。
そんな転校生の話で盛り上がる中、教室のドアが開いた。
「みんな席についてー。転校生を紹介します」
担任のその言葉に、教室中の目が一斉にドアへ向けた。
そして現れたのは――
パッと空気を明るくするような、笑顔の女の子だった。
「橘結衣です。よろしくお願いします!」
それは、なんというか、“絵になる子”だった。
笑顔がはっきりしてて、声もよく通る。日焼けした腕、まだ新しい制服、肩にかかる髪がふわっと揺れる。
まるで、夏の映画から抜け出してきたみたいな存在。
「え〜!可愛い〜!」
「よろしくねー!」
前の席の子が声をあげると、それに続いて教室がパッと華やぐ。
誰もが、初対面の彼女を“歓迎モード”で受け入れていくのがわかる。
私はまだ、何も言えなかった。
「じゃあ......席は莉音の隣、空いてたよな。そこに座って」
担任に促され、結衣がこっちに歩いてくる。
自然体で、でも堂々としてて、どこか“主役”みたいな雰囲気をまとってた。
「莉音ちゃん? 今日からよろしくね!」
私を見て、目を輝かせながら名前を呼ぶ。
初対面なのに、ずっと前から友達だったかのような口ぶり。
びっくりするくらい、すっと距離を詰めてきた。
その目が、まっすぐすぎて、ちょっとだけ、ぞわっとした。
「うん、よろしくね」
「莉音って、呼んでもいい?」
......うまいな、って思った。
初対面なのに、距離を詰めるタイミングが絶妙。
わざとらしさはないのに、まっすぐ懐に入ってくるような、そんな感じ。
明るくて、いい子で、社交的で。
誰にでも優しくて、きっとすぐに人気者になるんだろうって、思った。
──そして、たぶん、そのとおりになるんだろう。
「ねぇねぇ、どこから来たの?」
「前の学校どうだった?」
「部活入るの?てか、めっちゃ焼けてるね!」
気がつけば、周りの子たちがどんどん彼女に話しかけている。
それからお弁当の時間になり私は席をたった。
「ねぇ、莉音!」
後ろから声をかけられて私は嫌な予感をしながら振り返る。
「ん、どうした?」
「私も一緒に食べていいかな?」
結衣は明るく笑いかけてきた。そんなの断れるわけないじゃん。
「全然いいよ」
自然に笑い返したつもりだったけど、心の中はざわついていた。
――どうして私なの?
さっき他にも、話しかけてくれてた子がいたはずなのに。
結衣は嬉しそうに「ありがとう」と私に駆け寄ってくる。
私は結衣引き連れていつもの窓側の席に座った。
「あれっ、結衣ちゃんじゃん」
「私も入れてもらってもいいかな」
「いいよ、いいよ!」
朱里も、理子も、春日も。
この夏でやっと固まった“わたしたち”の中に、結衣は何の違和感もなく入り込んでいく。
まるで、最初からそこにいたみたいに。
「――なにそれウケる! 結衣ちゃん、おもしろい!」
「呼び捨てでもいい?」
「私もー!」
あっという間に、教室の中心が動いていく。
私の中で、何かが、静かにきしんだ。
でも、それはまだ、音にもならない。ほんの少し、靴擦れのような、ささいな違和感。
ただ――夏が終わって、空気が落ち着いたはずのこの教室に、もう一度、“何か”が流れ込んできた気がした。
***
気づけば、結衣は私たちのグループに自然と溶け込んでいた。
初めて一緒に昼ごはんを食べたのも、放課後にコンビニに寄ったのも、全部"流れ”の中にあった。たぶん、あのとき誰も止める理由を持ってなかった。
結衣は明るくて、気配りができて、少しドジで、でも話題も豊富でーーほんと、完璧だった。だからだろうか。
気づかないうちに、彼女が”中心”になっていったのは。
「え、莉音知らなかったの?これ流行ってるよ?」
その一言に、結衣が笑う。
何でもない会話。でも、棘みたいな何かが心に刺さる。
「あ、ごめん!馬鹿にしたわけじゃなくて!」
慌ててフォローする結衣の笑顔が、余計に私を置いていく。
最近、写真を撮るときのポジションが、少しずつ変わってきた。
今まで真ん中にいたのは、私と朱里だった。
でも今は、結衣と朱里。その隣に理子、春日がきて私は端っこ。
「莉音、こっち来て一!」って言われても、それは形だけで、誰も私の顔を見てない。
「なんかさ、莉音って最近ピリピリしてない?」
誰かが言ったその言葉に、私はその場で笑ったふりをした。
「え、そんなことないよ?」
でも、心の中では、何かが大きくずれる音がした。
「そーだよね!莉音ってちょっとクールっていうか!」
笑いに変えたのは結衣だった。
場を和ませたのかもしれないけど、私はそれにイライラが隠せなかった。
「そーだよね」って何?
私の何を知ってるの?
それから、些細なことが積み重なっていった。
私たちは文化祭が近ずき、5人で装飾係になった。
誰が担当するかで少し揉めたとき、朱里が自然な顔で言った。
「莉音、やってよ!」
何気ないその一言に、私はうなずけなかった。
「なんでいつも私ばっかなの? 分担するって言ってたじゃん」
言ってから、自分の声のトーンに驚いた。
空気がピシ、と凍る。
「え......ごめん、そんなつもりじゃ――」
「そういうの、地味に積もるんだよ」
自分でもびっくりするくらい、攻撃的な言葉が口からこぼれた。
そしてすぐに、後悔が喉の奥を詰まらせた。
「莉音、ちょっと......言い方キツくない?」
春日が眉をひそめる。
「別に、間違ったこと言ってないけど?」
そう返したけれど、もう誰もこっちを見ていなかった。
代わりに、結衣がちょっと困ったように笑いながら「じゃあ私、やるよ」と言った。
その笑顔に、なぜか腹が立った。
「......そういうとこ、ずるいよ」
本音が出てしまった。みんなの視線が一斉に集まる。自分がどんどん孤立していくのが肌で感じまた。
......なにそれ。結局、全部いい子でまとめて、みんなから“好かれる側”の言葉ばっかり。
私だけが、悪者みたいに。
***
頭の中で、ザァアッ……と音がした。
まただ。また、こうやって、私は“外されて”いく。
家に帰って布団にもぐったけど、涙は出てこなかった。
ただひたすら、頭の中で過去の映像が繰り返された。
いじめられていた頃。
机に落書きされて、持ち物を隠されて、誰も味方がいなかった日々。
そこから抜け出すために、どれだけ“努力”したと思ってるの?
髪型も、メイクも、話し方も、全部変えて、やっと“可愛い私”になったのに。
なのに――結局、“何も変わってなかった”の?
「......ふざけんなよ」
唇を噛んだ。
翌朝、鏡に向かって笑顔を作ってみたけど、いつもみたいにうまくできなかった。
教室に入っても、誰も私に話しかけてこなかった。
唯一声をかけてきたのは、結衣だった。
「莉音、大丈夫? 昨日、ちょっとみんな言い過ぎてたと思うんだ」
その優しさに、私はなぜか泣きそうになった。
でも、そのあとすぐに、裏腹な気持ちが浮かんできた。
......ねえ、どうしてそんな顔で私を見れるの?
“奪った側”のくせに、“救う側”みたいな顔しないでよ。
「ありがと」
口ではそう言った。
でも心の中では、言葉と真逆の感情が渦を巻いていた。
——この子がいなければ。
現実が、もう限界だった。
だから私は、逃げるように絵に没頭した。
キャンバスの上だけが、私の居場所だった。誰に邪魔されることもない。誰にも値踏みされない。
線を引くたび、色を重ねるたびに、自分が"ここにいる”と確かめられる気がした。
何十回も描いた。寝る間も惜しんで描いた。
その中で、一枚だけーー"自信作”ができた。これはきっと、認められる。この絵だけは、誰にも奪わせない。
そう思って、私はその絵を大きなバッグに入れた。
ちょっとドキドキしながら学校に向かった。
教室に入ろうとした瞬間、耳に入ったのは、自分の名前だった。
「......莉音ってさ、最近ちょっとめんどくさくない?」
それは、理子の声だった。
「うん......わかる。なんか、常にピリピリしてるっていうか」
結衣が同意して、春日が頷く。
「朱里もそう思うよね?」
「めんどくさいっていうか.......ちょっと疲れちゃうかな」
共感を求められた朱里はあくまでみんなの意見を肯定して、完全の悪口ではなかった。
「やっぱ、朱里は優しすぎるよー」
隣でみんなも笑ってた。
みんな、私のいないところで、私の話をしていた。
ーバリッ、と何かが心の中で裂けた。
「......そういうの、聞こえてるんだけど」
静かな声で言ったはずなのに、空気が凍りついた。
全員の動きが止まる。
「莉音......違うよ、そういうつもりじゃなくてーー」
「そういうつもりじゃないなら、どういうつもりなの?言ってみてよ。私が“ピリピリしてる”って?"めんどくさい?あー、最近"疲れる”とか言ってたよね?よかったね、全員同じ意見じゃん」
「......莉音、そんな言い方――」
「うるさい」
言葉が止まる。自分でも驚くくらい、冷たくて、刺すような声だった。
「結局、みんなそうだったんだ。私のこと、顔色うかがってたくせに、陰でコソコン馬鹿にして。口では仲良し~とか言って、裏じゃ悪口。あーあ、薄っぺら」
「は?なにそれ。自分は違うみたいな......私たちだって、ずっと気を遣ってたよ!」
春日が眉をひそめて言い返す。
「空気悪くなりそうなとき、フォローしてたの、誰だと思ってんの?」
「フォロー?"私のミス"を、あんたたちでカバーしてあげてた、って言いたいんだ?」
「ていうかさ、被害妄想すごいよ、莉音。誰もそこまで言ってないじゃん」
理子がぽつりと呟いた。
「ねえ、なんでそんなに全部"敵”って決めつけるの?そういう全部、被害者みたいな、困るんだけよね」
「じゃあ、何?私が加害者だって言いたい訳?私がどれだけ努力してきたと思ってんのっ!」
「努力した?知らないよ、そんなの」
春日が言った。
「私は莉音のこと、ちゃんと友達だと思ってたし。なのに、いつからか無視されてる感じがして......すごく寂しかった」
結衣が小さく口を開く。
「......あんたが"奪ったんだよ、全部」
空気が変わった。
「私が積み上げてきた関係も、居場所も、“可愛い
”ってラベルも......全部。お前が全部奪ったんだろ!」
「私そんなこと......」
「偽善者ぶるなよ!」
机を思いきり叩いた。教室に音が響く。
「被害妄想すごっ......そういうところだってわかんないの?マジでめんどくさいよ、最近の莉音」
理子の鋭い声。莉音の眉がピクリと動く。
「はあ?めんどくさいってなにそれ。今まで我慢してきていざ本音言ったらそれ?」
「"我慢”っていうけど、それを勝手にやってたのは莉音じゃん!誰が頼んだの?それでうまくいかなくなったら"被害者”ですか?」
春日の声には、いつになく強い棘があった。
理子が乾いた笑いを漏らす。
「自分勝手にキレ散らかして、周り責めて、それを“本音”って言われても、こっちは困るんだけど」
「.....はあ。そっちが勝手に仲良しごっこしてただけじゃん。私が合わせなきゃいけない理由なんてどこにあんの?」
「それを“友達”って言うんじゃないの?」
朱里の声には、冷たさがにじんでいた。
「......もういい。わかった。あんたたちは、あんたたちだけで仲良くやってなよ」
「そうするつもりだけど?」
ガタン、と机が揺れる音。空気が裂けるような沈黙。
「.....っざけんな」
私は絵を抱えて教室を飛び出した。
逃げるように向かったのは、美術室だった。
誰もいない、その空間が、唯一の避難所だった。
バッグから、自信作の絵を取り出そうとしてーーふと、視界に入った別の絵に目が吸い寄せられた。壁に立てかけられていた、大きなキャンバス。光の差し込み方、人物の輪郭、滲むような色彩、そしてーー"感情”。
それは、私が描きたくて描けなかったものだった。
一目でわかった......朱里の絵だ。
あんなの、私には描けない。
どれだけ頑張っても、届かない。
本物”なんだ、あの子は。
悔しい。羨ましい。殺したいほどに。
気づけば手が動いていた。
指で、絵の具をこそぎ落とす。
近くにあった筆を掴んで叩きつけた。赤。青。黒。めちゃくちゃに絵の具をぶちまけて、床まで汚れていく。
「なんで......! なんで、なんでなんで......!」
喉が裂けるほど叫んだ。
でも何も変わらなかった。
その絵の中に宿っていた“何か”は、まだそこにあった。
消えてくれなかった。私の中の、劣等感みたいに。
振り向いた瞬間、心臓が止まった。
朱里がいた。
いつからそこにいたのか、わからない。でも、その目はすべてを見ていた。
私の、最悪な、壊れ方を。
けれど朱里は、怒らなかった。
泣かなかった。
ただ、壊された絵を見ていた。
壊した私じゃなくて。
ーーそのことが、なにより堪えた。
「......なんで黙ってんの?」
「怒ればいいじゃん......! ひどいって、言えよ......!」
震える声で叫んだ。
なのに、朱里は瞬きひとつしない。
まるで、何も感じていないような顔で。
その無表情が、私を突き刺した。
なんでそんな顔できる。
「......謝んないから」
自分でもよくわからないことを言った。でも、謝る気はなかった。できなかった。
朱里は最後まで何も言わなかった。
ただ、静かに壊れた絵を見ていた。
私はそのまま、何も言わずに美術室を出た。
そして、その日は早退した。
外の空気は、やけにまぶしくて、でも遠くて。
世界から完全に浮いているような気がした。
私は、いったい何をしたかったんだろう。
誰に勝ちたかったんだろう。
......何に、勝てるつもりだったんだろう。
空気はまだ蒸し暑いのに、教室の窓から入り込む風に、ほんの少しだけ秋の匂いが混じっていた。
「おはよー」
「日焼けしてない?海行ったんでしょ?」
「てかさ、夏課題出し忘れたんだけど終わった?」
そんなふうに、あちこちで久しぶりの再会に声が弾む。
夏休みが終わっても、教室の空気はまだどこか浮ついていて、完全に日常が戻ってきたとは言いがたかった。
私はいつもの席に座りながら、さっきまで話していた友達の笑い声を、なんとなくぼんやりと聞いていた。
正直、休み明けはちょっと苦手。久々に会うから、何を話せばいいか探り合う空気とか、誰がどこにいたかでちょっと上下関係が変わったりとか。私たちはこの夏で私、朱里、理子、春日の「4人」がしっくりくる形になった。
それはちょっとした安心感で、ちょっとした優越感だった。
「え、今さら転校生?」
朝のSHR前、理子が机に頬杖をつきながらぽつりとつぶやいた。
「もう9月なのにね。珍しくない?」
確かに、この時期に転校って、ちょっとズレてる。
学年が変わる4月とか、期末を終えた三学期のタイミングならまだ分かるけど。
そんな転校生の話で盛り上がる中、教室のドアが開いた。
「みんな席についてー。転校生を紹介します」
担任のその言葉に、教室中の目が一斉にドアへ向けた。
そして現れたのは――
パッと空気を明るくするような、笑顔の女の子だった。
「橘結衣です。よろしくお願いします!」
それは、なんというか、“絵になる子”だった。
笑顔がはっきりしてて、声もよく通る。日焼けした腕、まだ新しい制服、肩にかかる髪がふわっと揺れる。
まるで、夏の映画から抜け出してきたみたいな存在。
「え〜!可愛い〜!」
「よろしくねー!」
前の席の子が声をあげると、それに続いて教室がパッと華やぐ。
誰もが、初対面の彼女を“歓迎モード”で受け入れていくのがわかる。
私はまだ、何も言えなかった。
「じゃあ......席は莉音の隣、空いてたよな。そこに座って」
担任に促され、結衣がこっちに歩いてくる。
自然体で、でも堂々としてて、どこか“主役”みたいな雰囲気をまとってた。
「莉音ちゃん? 今日からよろしくね!」
私を見て、目を輝かせながら名前を呼ぶ。
初対面なのに、ずっと前から友達だったかのような口ぶり。
びっくりするくらい、すっと距離を詰めてきた。
その目が、まっすぐすぎて、ちょっとだけ、ぞわっとした。
「うん、よろしくね」
「莉音って、呼んでもいい?」
......うまいな、って思った。
初対面なのに、距離を詰めるタイミングが絶妙。
わざとらしさはないのに、まっすぐ懐に入ってくるような、そんな感じ。
明るくて、いい子で、社交的で。
誰にでも優しくて、きっとすぐに人気者になるんだろうって、思った。
──そして、たぶん、そのとおりになるんだろう。
「ねぇねぇ、どこから来たの?」
「前の学校どうだった?」
「部活入るの?てか、めっちゃ焼けてるね!」
気がつけば、周りの子たちがどんどん彼女に話しかけている。
それからお弁当の時間になり私は席をたった。
「ねぇ、莉音!」
後ろから声をかけられて私は嫌な予感をしながら振り返る。
「ん、どうした?」
「私も一緒に食べていいかな?」
結衣は明るく笑いかけてきた。そんなの断れるわけないじゃん。
「全然いいよ」
自然に笑い返したつもりだったけど、心の中はざわついていた。
――どうして私なの?
さっき他にも、話しかけてくれてた子がいたはずなのに。
結衣は嬉しそうに「ありがとう」と私に駆け寄ってくる。
私は結衣引き連れていつもの窓側の席に座った。
「あれっ、結衣ちゃんじゃん」
「私も入れてもらってもいいかな」
「いいよ、いいよ!」
朱里も、理子も、春日も。
この夏でやっと固まった“わたしたち”の中に、結衣は何の違和感もなく入り込んでいく。
まるで、最初からそこにいたみたいに。
「――なにそれウケる! 結衣ちゃん、おもしろい!」
「呼び捨てでもいい?」
「私もー!」
あっという間に、教室の中心が動いていく。
私の中で、何かが、静かにきしんだ。
でも、それはまだ、音にもならない。ほんの少し、靴擦れのような、ささいな違和感。
ただ――夏が終わって、空気が落ち着いたはずのこの教室に、もう一度、“何か”が流れ込んできた気がした。
***
気づけば、結衣は私たちのグループに自然と溶け込んでいた。
初めて一緒に昼ごはんを食べたのも、放課後にコンビニに寄ったのも、全部"流れ”の中にあった。たぶん、あのとき誰も止める理由を持ってなかった。
結衣は明るくて、気配りができて、少しドジで、でも話題も豊富でーーほんと、完璧だった。だからだろうか。
気づかないうちに、彼女が”中心”になっていったのは。
「え、莉音知らなかったの?これ流行ってるよ?」
その一言に、結衣が笑う。
何でもない会話。でも、棘みたいな何かが心に刺さる。
「あ、ごめん!馬鹿にしたわけじゃなくて!」
慌ててフォローする結衣の笑顔が、余計に私を置いていく。
最近、写真を撮るときのポジションが、少しずつ変わってきた。
今まで真ん中にいたのは、私と朱里だった。
でも今は、結衣と朱里。その隣に理子、春日がきて私は端っこ。
「莉音、こっち来て一!」って言われても、それは形だけで、誰も私の顔を見てない。
「なんかさ、莉音って最近ピリピリしてない?」
誰かが言ったその言葉に、私はその場で笑ったふりをした。
「え、そんなことないよ?」
でも、心の中では、何かが大きくずれる音がした。
「そーだよね!莉音ってちょっとクールっていうか!」
笑いに変えたのは結衣だった。
場を和ませたのかもしれないけど、私はそれにイライラが隠せなかった。
「そーだよね」って何?
私の何を知ってるの?
それから、些細なことが積み重なっていった。
私たちは文化祭が近ずき、5人で装飾係になった。
誰が担当するかで少し揉めたとき、朱里が自然な顔で言った。
「莉音、やってよ!」
何気ないその一言に、私はうなずけなかった。
「なんでいつも私ばっかなの? 分担するって言ってたじゃん」
言ってから、自分の声のトーンに驚いた。
空気がピシ、と凍る。
「え......ごめん、そんなつもりじゃ――」
「そういうの、地味に積もるんだよ」
自分でもびっくりするくらい、攻撃的な言葉が口からこぼれた。
そしてすぐに、後悔が喉の奥を詰まらせた。
「莉音、ちょっと......言い方キツくない?」
春日が眉をひそめる。
「別に、間違ったこと言ってないけど?」
そう返したけれど、もう誰もこっちを見ていなかった。
代わりに、結衣がちょっと困ったように笑いながら「じゃあ私、やるよ」と言った。
その笑顔に、なぜか腹が立った。
「......そういうとこ、ずるいよ」
本音が出てしまった。みんなの視線が一斉に集まる。自分がどんどん孤立していくのが肌で感じまた。
......なにそれ。結局、全部いい子でまとめて、みんなから“好かれる側”の言葉ばっかり。
私だけが、悪者みたいに。
***
頭の中で、ザァアッ……と音がした。
まただ。また、こうやって、私は“外されて”いく。
家に帰って布団にもぐったけど、涙は出てこなかった。
ただひたすら、頭の中で過去の映像が繰り返された。
いじめられていた頃。
机に落書きされて、持ち物を隠されて、誰も味方がいなかった日々。
そこから抜け出すために、どれだけ“努力”したと思ってるの?
髪型も、メイクも、話し方も、全部変えて、やっと“可愛い私”になったのに。
なのに――結局、“何も変わってなかった”の?
「......ふざけんなよ」
唇を噛んだ。
翌朝、鏡に向かって笑顔を作ってみたけど、いつもみたいにうまくできなかった。
教室に入っても、誰も私に話しかけてこなかった。
唯一声をかけてきたのは、結衣だった。
「莉音、大丈夫? 昨日、ちょっとみんな言い過ぎてたと思うんだ」
その優しさに、私はなぜか泣きそうになった。
でも、そのあとすぐに、裏腹な気持ちが浮かんできた。
......ねえ、どうしてそんな顔で私を見れるの?
“奪った側”のくせに、“救う側”みたいな顔しないでよ。
「ありがと」
口ではそう言った。
でも心の中では、言葉と真逆の感情が渦を巻いていた。
——この子がいなければ。
現実が、もう限界だった。
だから私は、逃げるように絵に没頭した。
キャンバスの上だけが、私の居場所だった。誰に邪魔されることもない。誰にも値踏みされない。
線を引くたび、色を重ねるたびに、自分が"ここにいる”と確かめられる気がした。
何十回も描いた。寝る間も惜しんで描いた。
その中で、一枚だけーー"自信作”ができた。これはきっと、認められる。この絵だけは、誰にも奪わせない。
そう思って、私はその絵を大きなバッグに入れた。
ちょっとドキドキしながら学校に向かった。
教室に入ろうとした瞬間、耳に入ったのは、自分の名前だった。
「......莉音ってさ、最近ちょっとめんどくさくない?」
それは、理子の声だった。
「うん......わかる。なんか、常にピリピリしてるっていうか」
結衣が同意して、春日が頷く。
「朱里もそう思うよね?」
「めんどくさいっていうか.......ちょっと疲れちゃうかな」
共感を求められた朱里はあくまでみんなの意見を肯定して、完全の悪口ではなかった。
「やっぱ、朱里は優しすぎるよー」
隣でみんなも笑ってた。
みんな、私のいないところで、私の話をしていた。
ーバリッ、と何かが心の中で裂けた。
「......そういうの、聞こえてるんだけど」
静かな声で言ったはずなのに、空気が凍りついた。
全員の動きが止まる。
「莉音......違うよ、そういうつもりじゃなくてーー」
「そういうつもりじゃないなら、どういうつもりなの?言ってみてよ。私が“ピリピリしてる”って?"めんどくさい?あー、最近"疲れる”とか言ってたよね?よかったね、全員同じ意見じゃん」
「......莉音、そんな言い方――」
「うるさい」
言葉が止まる。自分でも驚くくらい、冷たくて、刺すような声だった。
「結局、みんなそうだったんだ。私のこと、顔色うかがってたくせに、陰でコソコン馬鹿にして。口では仲良し~とか言って、裏じゃ悪口。あーあ、薄っぺら」
「は?なにそれ。自分は違うみたいな......私たちだって、ずっと気を遣ってたよ!」
春日が眉をひそめて言い返す。
「空気悪くなりそうなとき、フォローしてたの、誰だと思ってんの?」
「フォロー?"私のミス"を、あんたたちでカバーしてあげてた、って言いたいんだ?」
「ていうかさ、被害妄想すごいよ、莉音。誰もそこまで言ってないじゃん」
理子がぽつりと呟いた。
「ねえ、なんでそんなに全部"敵”って決めつけるの?そういう全部、被害者みたいな、困るんだけよね」
「じゃあ、何?私が加害者だって言いたい訳?私がどれだけ努力してきたと思ってんのっ!」
「努力した?知らないよ、そんなの」
春日が言った。
「私は莉音のこと、ちゃんと友達だと思ってたし。なのに、いつからか無視されてる感じがして......すごく寂しかった」
結衣が小さく口を開く。
「......あんたが"奪ったんだよ、全部」
空気が変わった。
「私が積み上げてきた関係も、居場所も、“可愛い
”ってラベルも......全部。お前が全部奪ったんだろ!」
「私そんなこと......」
「偽善者ぶるなよ!」
机を思いきり叩いた。教室に音が響く。
「被害妄想すごっ......そういうところだってわかんないの?マジでめんどくさいよ、最近の莉音」
理子の鋭い声。莉音の眉がピクリと動く。
「はあ?めんどくさいってなにそれ。今まで我慢してきていざ本音言ったらそれ?」
「"我慢”っていうけど、それを勝手にやってたのは莉音じゃん!誰が頼んだの?それでうまくいかなくなったら"被害者”ですか?」
春日の声には、いつになく強い棘があった。
理子が乾いた笑いを漏らす。
「自分勝手にキレ散らかして、周り責めて、それを“本音”って言われても、こっちは困るんだけど」
「.....はあ。そっちが勝手に仲良しごっこしてただけじゃん。私が合わせなきゃいけない理由なんてどこにあんの?」
「それを“友達”って言うんじゃないの?」
朱里の声には、冷たさがにじんでいた。
「......もういい。わかった。あんたたちは、あんたたちだけで仲良くやってなよ」
「そうするつもりだけど?」
ガタン、と机が揺れる音。空気が裂けるような沈黙。
「.....っざけんな」
私は絵を抱えて教室を飛び出した。
逃げるように向かったのは、美術室だった。
誰もいない、その空間が、唯一の避難所だった。
バッグから、自信作の絵を取り出そうとしてーーふと、視界に入った別の絵に目が吸い寄せられた。壁に立てかけられていた、大きなキャンバス。光の差し込み方、人物の輪郭、滲むような色彩、そしてーー"感情”。
それは、私が描きたくて描けなかったものだった。
一目でわかった......朱里の絵だ。
あんなの、私には描けない。
どれだけ頑張っても、届かない。
本物”なんだ、あの子は。
悔しい。羨ましい。殺したいほどに。
気づけば手が動いていた。
指で、絵の具をこそぎ落とす。
近くにあった筆を掴んで叩きつけた。赤。青。黒。めちゃくちゃに絵の具をぶちまけて、床まで汚れていく。
「なんで......! なんで、なんでなんで......!」
喉が裂けるほど叫んだ。
でも何も変わらなかった。
その絵の中に宿っていた“何か”は、まだそこにあった。
消えてくれなかった。私の中の、劣等感みたいに。
振り向いた瞬間、心臓が止まった。
朱里がいた。
いつからそこにいたのか、わからない。でも、その目はすべてを見ていた。
私の、最悪な、壊れ方を。
けれど朱里は、怒らなかった。
泣かなかった。
ただ、壊された絵を見ていた。
壊した私じゃなくて。
ーーそのことが、なにより堪えた。
「......なんで黙ってんの?」
「怒ればいいじゃん......! ひどいって、言えよ......!」
震える声で叫んだ。
なのに、朱里は瞬きひとつしない。
まるで、何も感じていないような顔で。
その無表情が、私を突き刺した。
なんでそんな顔できる。
「......謝んないから」
自分でもよくわからないことを言った。でも、謝る気はなかった。できなかった。
朱里は最後まで何も言わなかった。
ただ、静かに壊れた絵を見ていた。
私はそのまま、何も言わずに美術室を出た。
そして、その日は早退した。
外の空気は、やけにまぶしくて、でも遠くて。
世界から完全に浮いているような気がした。
私は、いったい何をしたかったんだろう。
誰に勝ちたかったんだろう。
......何に、勝てるつもりだったんだろう。



