誰かが笑われていた。
楽しそうに、無邪気に。残酷に。
その笑い声は、誰かを傷つけるためだけに響いていた。
視線が集まる。
教室の真ん中にうつむいた女の子。髪はぼさぼさで、制服は少しよれていて、肩をすぼめるようにして立っている。
笑い声。ひそひそ声。ひたすらに注がれる視線。
ーーあぁ、かわいそうに。
誰も何も言っていないのに、空気がはっきり拒絶している。
あんたはここにいちゃいけないって。
その場にいるだけで、悪者扱い。
私は、離れた場所からそれを見ていた。まるで映画を見てるみたいに、感情のない視線で。
あまりに情けなくて、哀れで、息が詰まった。
どうして、あの子は何も言い返さないの?
どうして、ただ黙って耐えているの?
そんな苛立ちにも似た気持ちが渦巻いて、けれどそのとき、彼女がふと顔を上げた。
不意打ちのように、私の目とぶつかる。
なにも言わないその視線が、心の奥をじわじわと焼いていく。
助けてって言わないくせに、誰よりも強く助けを求めていた。
......あぁ。この子は、昔の私だ。
あの日、殺したはずの昔の私。
醜くて哀れで。
なにも言わないのに、あの目だけが、私を責めた。
「あなたも、あのときのあたしと同じでしょ」って。
――その瞬間、アラームが鳴った。
私は、はっとして目を開けた。いやな電子音が、鼓膜を突き刺す。
息が荒い。心臓がうるさいくらいに脈打ってる。
あの笑い声も、教室のざわめきも、もうどこにもない。
さっきまでの世界が嘘みたいに、部屋の中は静まり返っていた。
ただ朝の光だけが淡く差し込んでいる。
夢だったんだ、と気づくのに少し時間がかかった。でも胸の奥には、まだ焼け残ったような痛みがあって、それだけが、さっきまでの世界の名残みたいに残っていた。
スマホの画面には「5:24」の文字。
アラームより一分だけ早く、体が自然に目を覚ました。
私の朝は早いのだ。
窓の外ではまだ灰色で、街は息をひそめている。
私はこの時間が好き。誰も見ていないから、自分を作る準備ができる。
肌のコンディションも、体型の維持も、毎日の積み重ねがすべてだから。
夜更かしも、朝寝坊も、そんなものに付き合ってる暇はない。
洗面台の前に立ち、冷たい水で顔を洗う。
その感触が、夢の残り香を洗い流してくれる気がした。
鏡の中の自分に、笑いかけてみる。作り物の笑顔は、よくできていた。
化粧水、美容液、乳液。順番を守って丁寧に馴染ませる。無意識のうちに覚えた順番と量。
肌に触れる指先は、もう職人のようだった。
昔は時間のかかったカラコンも巻き髪だって今では10分あればできるようになった。
最後に仕上げのリップ。目立ちすぎない控えめの桃色。
“可愛い子”の輪郭を崩さないための毎日だ。
クローゼットを開けて、制服に手を伸ばす。今どき珍しい白のセーラーに、紺のライン。一度はブレザーを着てみたかったなと思いながら私は腕を通した。
少しだけウエスト位置を上げて、足を綺麗に見せるバランスにする。
形を整えて、最後に鏡の中の自分を見つめた。
誰にも嫌われないように、誰かに選ばれるように、努力で作りあげた“理想の女の子”だった。
私がリビングに降りると、母がキッチンでビニール袋をがさがさとあさっている。
「昨日のうちに買っといたの。朝ごはん、これね」
無造作に差し出された袋の中には、菓子パンが二つ。カロリー爆弾みたいなチョココロネと、砂糖まみれのデニッシュ。
「......いらない。食べたくない」
母は少しだけ間を置いて、「そう......?」とだけ返した。
私は一歩も近づかず、冷蔵庫の扉を開けた。でも、あるはずのものがなかった。ヨーグルト。朝のルーティンが、ぽっかり抜け落ちている。
「ヨーグルトって言ったよね?」
声が自然と硬くなる。
母は振り返って、あっけらかんと笑った。
「買い忘れちゃって、それにヨーグルトだけじゃお腹すいちゃうでしょ」
「......だからって」
「そう思って、代わりにパン買ったんだけど......。りんちゃんこれ好きだったでしょ?」
無邪気にパンの袋を揺らす母。
......何も、わかってない。
私は冷蔵庫の扉を閉め、手を強く握りしめた。
「もういい。朝ごはんいらないから」
「ちょっと、食べないとダメよ」
「カロリーやばいって言ってるじゃん、毎回!」
叫ぶつもりなんてなかった。でも、口から勝手に言葉が飛び出していた。
「私がどれだけ気にしてるか、知ってて買ってくるとか、マジで意味わかんないから」
母の顔に、少しだけ影が差した。
それでも、柔らかく笑って言う。
「だって、りんちゃんは、もう十分可愛いよ。そんなに気にしなくても―――」
「やめて!!」
母の声は優しい。いつも、変わらない。昔から、何をしても怒らなかった。ただ受け止めてくる人だった。
それが、逆にしんどい。
全部わかってる風な顔で、「そういう年頃だから」ってラベリングされる感じがして。
私の気持ちはもっと複雑で、もっとぐちゃぐちゃなのに。
母の優しさは、まるで透明なビニールみたいに私を包んで、息苦しくする。
可愛い? どこが?
“可愛い”なんて、気安く言わないで。
私がどれだけ、その言葉に執着してきたか。
どれだけ自分の顔を、体を、嫌い続けてきたか。
しかも、その“可愛い”って、自分に似てるからなんでしょ?一人娘の私は可愛い、可愛いと言われて育てられてきた。
私が何のために早起きして、肌を整えて、メイクをしてると思ってるの?
あんたの顔を、受け継いだからだよ。
何回も言われた。“そっくりだね”って。それがずっと嫌だった。
私は母の顔を見る。ぼんやりとした目元、丸い輪郭。
そのすべてが、私の“過去の自分”を思い出させた。
太っていて、自信がなくて、写真に映るのが嫌だった私。
だから乗り越えようとして、努力した。
それでも母は、“可愛い”なんて一言で、私の積み重ねたものをぐちゃぐちゃにする。
私は鞄を手に取ると母の横を通り過ぎた。
「......行ってくる」
それだけ言って、リビングを出た。
「気をつけてね」
母は相変わらず、優しい声でそう言った。私は背を向けたまま、返事をしなかった。
外に出るとすでに夏の匂いがし始めていた。
ふと見上げると、空は馬鹿みたいに青い。真っ白な雲が遠くのほうにぽつりぽつりと浮かんでいる。駅までの道には、咲きかけの紫陽花がちらほら。
改札を抜けると、いつもの場所で立ち止まった。ホームの一番端のベンチ。私たちは、毎朝ここから一緒に電車に乗る。
私は鏡を取り出し前髪を整える。
風が吹くと涼しいが、日差しがじりじりと肌を焼いていた。夏になりかけの、この中途半端な季節がいちばん苦手。制服は合服。長袖は暑いけど、日焼け止めを何度も塗り直すのはめんどくさい。
私は当たりを見渡した。
朱里はいないがまあ、珍しくもない。
朱里が時間どおりに来る方がレア。待つことには慣れてる。
私は特に焦るでもなく、スマホも見ないまま、ぼんやり線路を見つめる。
電車が来るまであと二分なのに......朱里はまだ来ない。
さすがに遅くてもいつもならそろそろ来てるんだけどな。
駅のアナウンスと、制服のスカートが風に揺れる音だけが静かに響いてる。
電車の接近音が近づいてくる。
「あー......もう来ちゃうじゃん」
そう呟いたときだった。
「やばい、待ってーーっ!」
電車のドアが開いた瞬間、駅の向こうから、制服のリボンを手に持ったまま朱里が走ってきた。
「はあ......まじで寝坊した......死ぬかと思った......!」
「また寝坊したの?今日はさすがに間に合わないかと思ったよ」
「アラームかけたはずなのに。なんか全然鳴らなくて......てか、鳴ったけど無視してたかも?」
軽く笑うその顔は、無防備で、どこまでも可愛かった。
まったくメイクもしてないはずなのに、肌はきれいで、まつげは長くて、唇の色も自然で映えてる。
「でもすっぴんで来ようかと思ったけど、さすがに眉毛だけは描いた!えらくない?」
「私だったら眉毛より涙袋を選ぶけどね」
「うっそー!絶対眉毛は命だよ」
私たちは思わず笑って、肩を軽くすくめる。
「それにしても莉音は今日も完璧だね。髪ツヤツヤ~!」
「私は朱里とちがって、5時半に起きからね!」
「まじ!?女子力高~~!」
私はあんたみたいな"天然の可愛い”じゃないから。
「朱里は何もしてなくても可愛いじゃん」
自分でも、棘が入ってしまったのがわかった。
朱里は「えー?」って笑って受け流す。
本気で言ってないことくらい、朱里もわかってる。だから、笑って終わらせられる。
朱里の横顔が、ガラスに映ってる。
すっぴんなのに、透明感があって、羨ましいくらい綺麗だった。
せめて性格でも悪かったたらよかったのに。
――朱里は、小学校の頃に同じ学校だった。
けれど、クラスも違ったし、特に話したこともなかった。
唯一ある接点と言えば、同じ美術部ってことだ。
今思えば、あの頃から朱里は変わってない。私みたいな地味な子にも、分け隔てなく話しかけてくれた。
無理してる感じも、下心みたいなものもなくて。ただ、本当に「そういう人」なんだと思った。
中学、高校と進むにつれて、朱里はどんどん目立つ存在になっていった。
可愛くて、明るくて、天然っぽいのにちゃんと気も遣えて、誰とでも仲良くできる。
男子からはもちろんモテて、女子からも変に嫌われたりしない。
それってすごいことだ。普通、どっちかだけでも嫌われるのに。
でも朱里は違う。
たぶんー"作られてない”から。
何かを取り繕ったり、誰かの気を引こうとしたりしてない。
そういうのが見えないから、みんな自然と惹かれる。
.....私は、どうだろう。
「努力」って、バレた瞬間に冷められる気がして。
だから隠してる。努力してる自分を、なるべく見せないようにしてる。
可愛くなろうとしてるのに、「もとから可愛い子」みたいに見せたくて。
滑稽だなって、自分でも思うときあるけど。
私は中学一年のときに転校した。それ以来、朱里とは会っていなかった。
もともと特別仲が良かったわけでもない。ただの同じ小学校で、美術部が一緒だっただけの関係。だから、離れたことを惜しむでもなく、忘れていった。
ーーけど、私は覚えていた。
誰も私のことを知らない場所に行きたくて、家から遠い高校を選んだ。
過去の自分と断絶するために。
もう、あの頃の「私」には戻らないと、決めていた。
しかし、再会はあっさりとやってきた。
春のはじめ、人で溢れる新入生オリエンテーション。見覚えのある横顔を見つけたとき、心臓が跳ねた。
変わってなかった。いや、変わらず可愛いかった。
その瞬間朱里と目が合い、終わったと思った。
"昔の私”を知っている、唯一無二の存在。
秘密の扉をこじ開ける鍵を持つ人間。
でも、朱里は私を見つけても、なにも言わなかった。懐かしいねとも、覚えてるよとも。
あの頃のことに、一切、触れなかった。
朱里だからだと思った。あの子は、そういう子。
自分から誰かを傷つけるようなことはしないし、過去を掘り返して相手を困らせるようなことは絶対にしない。
だから私は、今もこうして"可愛い”を続けられている。
誰にもバラされず、誰にも嫌われず、ちゃんと友達がいて、ちゃんと「今の自分」として生きていけてる。
朱里は、私にとって脅威であると同時に、守り神みたいな存在でもあった。
でもだからこそ、私は朱里と友達になることに決めた。
.....都合がよかったから。
周りから見ても“可愛い子同士”って思われるし、なにより私がちゃんと監視できる。
あの子が、いつ”あの頃”のことを口にするか、見張っていられるから。
友達として隣にいれば、裏切られる前に気づける。
私はもう、あの頃みたいに無防備な自分でいるつもりはない。
でもーーもしも、万が一、あの頃の話が誰かの耳に入ったら。
私が今ここで築いている全部が、ひと瞬きで壊れる。
だから私は、朱里の隣にいる。
今の「私」が壊されないために。
楽しそうに、無邪気に。残酷に。
その笑い声は、誰かを傷つけるためだけに響いていた。
視線が集まる。
教室の真ん中にうつむいた女の子。髪はぼさぼさで、制服は少しよれていて、肩をすぼめるようにして立っている。
笑い声。ひそひそ声。ひたすらに注がれる視線。
ーーあぁ、かわいそうに。
誰も何も言っていないのに、空気がはっきり拒絶している。
あんたはここにいちゃいけないって。
その場にいるだけで、悪者扱い。
私は、離れた場所からそれを見ていた。まるで映画を見てるみたいに、感情のない視線で。
あまりに情けなくて、哀れで、息が詰まった。
どうして、あの子は何も言い返さないの?
どうして、ただ黙って耐えているの?
そんな苛立ちにも似た気持ちが渦巻いて、けれどそのとき、彼女がふと顔を上げた。
不意打ちのように、私の目とぶつかる。
なにも言わないその視線が、心の奥をじわじわと焼いていく。
助けてって言わないくせに、誰よりも強く助けを求めていた。
......あぁ。この子は、昔の私だ。
あの日、殺したはずの昔の私。
醜くて哀れで。
なにも言わないのに、あの目だけが、私を責めた。
「あなたも、あのときのあたしと同じでしょ」って。
――その瞬間、アラームが鳴った。
私は、はっとして目を開けた。いやな電子音が、鼓膜を突き刺す。
息が荒い。心臓がうるさいくらいに脈打ってる。
あの笑い声も、教室のざわめきも、もうどこにもない。
さっきまでの世界が嘘みたいに、部屋の中は静まり返っていた。
ただ朝の光だけが淡く差し込んでいる。
夢だったんだ、と気づくのに少し時間がかかった。でも胸の奥には、まだ焼け残ったような痛みがあって、それだけが、さっきまでの世界の名残みたいに残っていた。
スマホの画面には「5:24」の文字。
アラームより一分だけ早く、体が自然に目を覚ました。
私の朝は早いのだ。
窓の外ではまだ灰色で、街は息をひそめている。
私はこの時間が好き。誰も見ていないから、自分を作る準備ができる。
肌のコンディションも、体型の維持も、毎日の積み重ねがすべてだから。
夜更かしも、朝寝坊も、そんなものに付き合ってる暇はない。
洗面台の前に立ち、冷たい水で顔を洗う。
その感触が、夢の残り香を洗い流してくれる気がした。
鏡の中の自分に、笑いかけてみる。作り物の笑顔は、よくできていた。
化粧水、美容液、乳液。順番を守って丁寧に馴染ませる。無意識のうちに覚えた順番と量。
肌に触れる指先は、もう職人のようだった。
昔は時間のかかったカラコンも巻き髪だって今では10分あればできるようになった。
最後に仕上げのリップ。目立ちすぎない控えめの桃色。
“可愛い子”の輪郭を崩さないための毎日だ。
クローゼットを開けて、制服に手を伸ばす。今どき珍しい白のセーラーに、紺のライン。一度はブレザーを着てみたかったなと思いながら私は腕を通した。
少しだけウエスト位置を上げて、足を綺麗に見せるバランスにする。
形を整えて、最後に鏡の中の自分を見つめた。
誰にも嫌われないように、誰かに選ばれるように、努力で作りあげた“理想の女の子”だった。
私がリビングに降りると、母がキッチンでビニール袋をがさがさとあさっている。
「昨日のうちに買っといたの。朝ごはん、これね」
無造作に差し出された袋の中には、菓子パンが二つ。カロリー爆弾みたいなチョココロネと、砂糖まみれのデニッシュ。
「......いらない。食べたくない」
母は少しだけ間を置いて、「そう......?」とだけ返した。
私は一歩も近づかず、冷蔵庫の扉を開けた。でも、あるはずのものがなかった。ヨーグルト。朝のルーティンが、ぽっかり抜け落ちている。
「ヨーグルトって言ったよね?」
声が自然と硬くなる。
母は振り返って、あっけらかんと笑った。
「買い忘れちゃって、それにヨーグルトだけじゃお腹すいちゃうでしょ」
「......だからって」
「そう思って、代わりにパン買ったんだけど......。りんちゃんこれ好きだったでしょ?」
無邪気にパンの袋を揺らす母。
......何も、わかってない。
私は冷蔵庫の扉を閉め、手を強く握りしめた。
「もういい。朝ごはんいらないから」
「ちょっと、食べないとダメよ」
「カロリーやばいって言ってるじゃん、毎回!」
叫ぶつもりなんてなかった。でも、口から勝手に言葉が飛び出していた。
「私がどれだけ気にしてるか、知ってて買ってくるとか、マジで意味わかんないから」
母の顔に、少しだけ影が差した。
それでも、柔らかく笑って言う。
「だって、りんちゃんは、もう十分可愛いよ。そんなに気にしなくても―――」
「やめて!!」
母の声は優しい。いつも、変わらない。昔から、何をしても怒らなかった。ただ受け止めてくる人だった。
それが、逆にしんどい。
全部わかってる風な顔で、「そういう年頃だから」ってラベリングされる感じがして。
私の気持ちはもっと複雑で、もっとぐちゃぐちゃなのに。
母の優しさは、まるで透明なビニールみたいに私を包んで、息苦しくする。
可愛い? どこが?
“可愛い”なんて、気安く言わないで。
私がどれだけ、その言葉に執着してきたか。
どれだけ自分の顔を、体を、嫌い続けてきたか。
しかも、その“可愛い”って、自分に似てるからなんでしょ?一人娘の私は可愛い、可愛いと言われて育てられてきた。
私が何のために早起きして、肌を整えて、メイクをしてると思ってるの?
あんたの顔を、受け継いだからだよ。
何回も言われた。“そっくりだね”って。それがずっと嫌だった。
私は母の顔を見る。ぼんやりとした目元、丸い輪郭。
そのすべてが、私の“過去の自分”を思い出させた。
太っていて、自信がなくて、写真に映るのが嫌だった私。
だから乗り越えようとして、努力した。
それでも母は、“可愛い”なんて一言で、私の積み重ねたものをぐちゃぐちゃにする。
私は鞄を手に取ると母の横を通り過ぎた。
「......行ってくる」
それだけ言って、リビングを出た。
「気をつけてね」
母は相変わらず、優しい声でそう言った。私は背を向けたまま、返事をしなかった。
外に出るとすでに夏の匂いがし始めていた。
ふと見上げると、空は馬鹿みたいに青い。真っ白な雲が遠くのほうにぽつりぽつりと浮かんでいる。駅までの道には、咲きかけの紫陽花がちらほら。
改札を抜けると、いつもの場所で立ち止まった。ホームの一番端のベンチ。私たちは、毎朝ここから一緒に電車に乗る。
私は鏡を取り出し前髪を整える。
風が吹くと涼しいが、日差しがじりじりと肌を焼いていた。夏になりかけの、この中途半端な季節がいちばん苦手。制服は合服。長袖は暑いけど、日焼け止めを何度も塗り直すのはめんどくさい。
私は当たりを見渡した。
朱里はいないがまあ、珍しくもない。
朱里が時間どおりに来る方がレア。待つことには慣れてる。
私は特に焦るでもなく、スマホも見ないまま、ぼんやり線路を見つめる。
電車が来るまであと二分なのに......朱里はまだ来ない。
さすがに遅くてもいつもならそろそろ来てるんだけどな。
駅のアナウンスと、制服のスカートが風に揺れる音だけが静かに響いてる。
電車の接近音が近づいてくる。
「あー......もう来ちゃうじゃん」
そう呟いたときだった。
「やばい、待ってーーっ!」
電車のドアが開いた瞬間、駅の向こうから、制服のリボンを手に持ったまま朱里が走ってきた。
「はあ......まじで寝坊した......死ぬかと思った......!」
「また寝坊したの?今日はさすがに間に合わないかと思ったよ」
「アラームかけたはずなのに。なんか全然鳴らなくて......てか、鳴ったけど無視してたかも?」
軽く笑うその顔は、無防備で、どこまでも可愛かった。
まったくメイクもしてないはずなのに、肌はきれいで、まつげは長くて、唇の色も自然で映えてる。
「でもすっぴんで来ようかと思ったけど、さすがに眉毛だけは描いた!えらくない?」
「私だったら眉毛より涙袋を選ぶけどね」
「うっそー!絶対眉毛は命だよ」
私たちは思わず笑って、肩を軽くすくめる。
「それにしても莉音は今日も完璧だね。髪ツヤツヤ~!」
「私は朱里とちがって、5時半に起きからね!」
「まじ!?女子力高~~!」
私はあんたみたいな"天然の可愛い”じゃないから。
「朱里は何もしてなくても可愛いじゃん」
自分でも、棘が入ってしまったのがわかった。
朱里は「えー?」って笑って受け流す。
本気で言ってないことくらい、朱里もわかってる。だから、笑って終わらせられる。
朱里の横顔が、ガラスに映ってる。
すっぴんなのに、透明感があって、羨ましいくらい綺麗だった。
せめて性格でも悪かったたらよかったのに。
――朱里は、小学校の頃に同じ学校だった。
けれど、クラスも違ったし、特に話したこともなかった。
唯一ある接点と言えば、同じ美術部ってことだ。
今思えば、あの頃から朱里は変わってない。私みたいな地味な子にも、分け隔てなく話しかけてくれた。
無理してる感じも、下心みたいなものもなくて。ただ、本当に「そういう人」なんだと思った。
中学、高校と進むにつれて、朱里はどんどん目立つ存在になっていった。
可愛くて、明るくて、天然っぽいのにちゃんと気も遣えて、誰とでも仲良くできる。
男子からはもちろんモテて、女子からも変に嫌われたりしない。
それってすごいことだ。普通、どっちかだけでも嫌われるのに。
でも朱里は違う。
たぶんー"作られてない”から。
何かを取り繕ったり、誰かの気を引こうとしたりしてない。
そういうのが見えないから、みんな自然と惹かれる。
.....私は、どうだろう。
「努力」って、バレた瞬間に冷められる気がして。
だから隠してる。努力してる自分を、なるべく見せないようにしてる。
可愛くなろうとしてるのに、「もとから可愛い子」みたいに見せたくて。
滑稽だなって、自分でも思うときあるけど。
私は中学一年のときに転校した。それ以来、朱里とは会っていなかった。
もともと特別仲が良かったわけでもない。ただの同じ小学校で、美術部が一緒だっただけの関係。だから、離れたことを惜しむでもなく、忘れていった。
ーーけど、私は覚えていた。
誰も私のことを知らない場所に行きたくて、家から遠い高校を選んだ。
過去の自分と断絶するために。
もう、あの頃の「私」には戻らないと、決めていた。
しかし、再会はあっさりとやってきた。
春のはじめ、人で溢れる新入生オリエンテーション。見覚えのある横顔を見つけたとき、心臓が跳ねた。
変わってなかった。いや、変わらず可愛いかった。
その瞬間朱里と目が合い、終わったと思った。
"昔の私”を知っている、唯一無二の存在。
秘密の扉をこじ開ける鍵を持つ人間。
でも、朱里は私を見つけても、なにも言わなかった。懐かしいねとも、覚えてるよとも。
あの頃のことに、一切、触れなかった。
朱里だからだと思った。あの子は、そういう子。
自分から誰かを傷つけるようなことはしないし、過去を掘り返して相手を困らせるようなことは絶対にしない。
だから私は、今もこうして"可愛い”を続けられている。
誰にもバラされず、誰にも嫌われず、ちゃんと友達がいて、ちゃんと「今の自分」として生きていけてる。
朱里は、私にとって脅威であると同時に、守り神みたいな存在でもあった。
でもだからこそ、私は朱里と友達になることに決めた。
.....都合がよかったから。
周りから見ても“可愛い子同士”って思われるし、なにより私がちゃんと監視できる。
あの子が、いつ”あの頃”のことを口にするか、見張っていられるから。
友達として隣にいれば、裏切られる前に気づける。
私はもう、あの頃みたいに無防備な自分でいるつもりはない。
でもーーもしも、万が一、あの頃の話が誰かの耳に入ったら。
私が今ここで築いている全部が、ひと瞬きで壊れる。
だから私は、朱里の隣にいる。
今の「私」が壊されないために。



