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 それからの私は、ほんの少しだけ、意識して大崎くんと距離をとるようになった。

 《花ちゃん、明日のバイト、時間変わってもらってもいい?》

 麻衣さんのLINEに、私はすぐ「大丈夫です」とだけ返して、スマホを伏せた。

 前なら、「何かありましたか?」なんて気にして聞いていたかもしれない。
 けれど今は、誰にも踏み込まないまま、静かにやり過ごすことを選んでいた。
 踏み込んで何かでてくるのが_____怖かった。

 バイト中も、必要以上に大崎くんに話しかけないようにした。
 目が合いそうになると、先に逸らした。
 笑いかけられても、返すタイミングを一拍だけ遅らせる。

 きっと、彼にはもう気づかれている。

 彼の仮面の下を覗こうと、興味本位で近づいた私。
 思っていたよりもしんどくて、これ以上彼に近づくのが怖くなった。

 ——彼にとって“特別”だったのは私じゃない。
 麻衣さんを想っていた時間に、私は勝てない。

 「青崎、最近ちょっとよそよそしい?」

 そう言われたのは、ある日のシフト終わり。
 私の名前を呼ぶその声に、思わずぎゅっと手を握る。

 「……そんなことない。たぶん、疲れてただけ」

 そう返す私の声が、自分でも嘘くさいことに気づいていた。
 でも、それでもいい。このままでいいんだと、心のどこかで思った。

 「そっか」

 大崎くんは、それ以上は何も聞かずに、それでもやっぱり笑ってくれた。

 優しい人だと思った。
 だからこそ、ずるいと思った。

 誰にでも優しいその姿に、私はどこまで救われて、どこまで期待していたんだろう。

 ——こんなにも好きになってしまったくせに。
 目が合いそうになると、先に逸らした。
 笑いかけられても、返すタイミングを一拍だけ遅らせた。
 ——これ以上好きにならないように、これ以上私が傷つかないように。

 夕焼けに染まったカフェの窓から見えた彼の後ろ姿が、やけに遠く感じた。

 もう、隣に並びたくなんてない。
 そうやって自分に言い聞かせながら、私は今日も少しずつ、彼との距離を広げていった_____。




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 その日も、私は必要最低限の仕事だけをこなして、バイトを終えた。

 「おつかれさま」

 更衣室で着替えながら、麻衣さんがふと声をかけてくる。

 「……おつかれさまでした」

 笑おうとして、うまくいかなかった。目を合わせることもできなくて、私はロッカーのドアばかり見ていた。

 「花ちゃん、最近ちょっと元気ない?」

 その一言に、思わず手が止まる。

 「……麻衣さんって、すごいですよね」
 「え?」
 「強くて、綺麗で、誰にも媚びなくて……私、憧れてます。ずっと」

 唐突だった。
 だけど、口をついて出たその言葉は、どこかでずっと言いたかったものだった。

 麻衣さんは少し驚いたような顔をしたあと、くすっと笑った。

 「なにそれ、告白?」
 「ち、ちがいます!」
 「冗談だって。でも、ありがと。そう言ってもらえるの、ちょっと嬉しいかも」

 麻衣さんはロッカーに寄りかかりながら、少しだけ真面目な顔になった。

 「でもね、強いってのはたぶん、間違ってるよ」
 「……え?」
 「私、全然強くない。むしろ弱いよ」
 「そんなこと……ないように見えます」
 「んー、じゃあ、人生の先輩として、この先うまく生き抜くヒント、教えてあげようか」

 そう言って、麻衣さんのその綺麗な口元が緩む。
 私は反射的に頷いた。

 「寄りかかれるものをたくさん見つけるの。例えば、疲れたときに誰かと話すとか、好きな音楽を聴くとか、なんでもいいんだよ。そんな"逃げ道"をたくさん持っておくの。そうなると“ここじゃなくても生きられる”って思える。すると、人はちょっとだけ強くなれる」

 「逃げ道?」

 その言葉が胸に響く。

 「そう。 たとえ何かにぶつかって嫌になって、逃げたくなるときが来ても別のモノ、コト、人が支えてくれるから。だから、ゆっくりさ、探していきな。そうすると不思議とね、味方が増えたようなそんな気がして、踏み込めなかったことに踏み込める。自分ことがクリアに見えてくる」

 麻衣さんはどうやら着替えは終わったようで、バタンとロッカーの扉を閉めた。

 確かに身に覚えはあった。
 あの逃避行に夜。大崎くんとの思い出が私の背中を押した。言えなかった気持ちをちゃんと伝えることができた。

 「ちなみに今元気がないのは……恋煩い?」

 ぐさり、と心に刺さった。

 「……どう、ですかね。よくわかんないです」
 「じゃあ、わかるようになるまで考えてみな。ただ、考えすぎには気をつけなよ」

 麻衣さんの言っていることはめちゃくちゃで、少し笑みが溢れた。

 「お、笑ったね」
 「だって、麻衣さん。考えろってゆったり、考えすぎるなって言ったり。どっちなのかなって思って」
 「あー、だって花ちゃん。真面目でしょ、きっと」

 その声がまっすぐ届いて、私は少し自分より身長の高い麻衣さんを見上げた。

 「何事も"適当"がいいの。だけど、若いうちはその量を間違える。まじめな子ほど"過度"になる。だから、"余白"が大事。その"余白"が、答えをくれることだってあるから」

 そう言って麻衣さんはふっと笑った。
 麻衣さんのその言葉は、やさしいけど、強く私の胸に落ちた。

 私はきっと、麻衣さんの“強さ”そのものに憧れていたんじゃない。
 自分の芯をいつも通っていて、凛としてるその姿勢に憧れたんだ。

 私は、ずっと目を逸らしていた。静かにやり過ごすことを選んだ。心の中で、誰かに踏み込まれるのが怖かったから。でも、それじゃ何も変わらない。

 「……ありがとう、ございます」

 まだ、何をどうすればいいかなんてわからない。 けれど少なくとも、逃げたままではいたくないと思えた。






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 その夜、私はスマホを握りしめたまま、深く息を吐いた。

 彼のことを、もう一度、ちゃんと考えてみよう。
 ——好きになったのは、私だから。

 そしてもし、その気持ちが“ちゃんと”だと胸を張って言えるなら。

 ——そのときは、もう一度だけ、素直になってみよう。逃げてばかりだった昨日の自分より、ほんの少しだけでも。

 「…‥強く、なりたいな」

 ベッドの上、天井を見上げたまま、そっと私は小さくつぶやいた。

 夜の静けさの中、ほんの少しだけ、胸の奥があたたかくなっていた。