✳
それからの私は、ほんの少しだけ、意識して大崎くんと距離をとるようになった。
《花ちゃん、明日のバイト、時間変わってもらってもいい?》
麻衣さんのLINEに、私はすぐ「大丈夫です」とだけ返して、スマホを伏せた。
前なら、「何かありましたか?」なんて気にして聞いていたかもしれない。
けれど今は、誰にも踏み込まないまま、静かにやり過ごすことを選んでいた。
踏み込んで何かでてくるのが_____怖かった。
バイト中も、必要以上に大崎くんに話しかけないようにした。
目が合いそうになると、先に逸らした。
笑いかけられても、返すタイミングを一拍だけ遅らせる。
きっと、彼にはもう気づかれている。
彼の仮面の下を覗こうと、興味本位で近づいた私。
思っていたよりもしんどくて、これ以上彼に近づくのが怖くなった。
——彼にとって“特別”だったのは私じゃない。
麻衣さんを想っていた時間に、私は勝てない。
「青崎、最近ちょっとよそよそしい?」
そう言われたのは、ある日のシフト終わり。
私の名前を呼ぶその声に、思わずぎゅっと手を握る。
「……そんなことない。たぶん、疲れてただけ」
そう返す私の声が、自分でも嘘くさいことに気づいていた。
でも、それでもいい。このままでいいんだと、心のどこかで思った。
「そっか」
大崎くんは、それ以上は何も聞かずに、それでもやっぱり笑ってくれた。
優しい人だと思った。
だからこそ、ずるいと思った。
誰にでも優しいその姿に、私はどこまで救われて、どこまで期待していたんだろう。
——こんなにも好きになってしまったくせに。
目が合いそうになると、先に逸らした。
笑いかけられても、返すタイミングを一拍だけ遅らせた。
——これ以上好きにならないように、これ以上私が傷つかないように。
夕焼けに染まったカフェの窓から見えた彼の後ろ姿が、やけに遠く感じた。
もう、隣に並びたくなんてない。
そうやって自分に言い聞かせながら、私は今日も少しずつ、彼との距離を広げていった_____。
✳
その日も、私は必要最低限の仕事だけをこなして、バイトを終えた。
「おつかれさま」
更衣室で着替えながら、麻衣さんがふと声をかけてくる。
「……おつかれさまでした」
笑おうとして、うまくいかなかった。目を合わせることもできなくて、私はロッカーのドアばかり見ていた。
「花ちゃん、最近ちょっと元気ない?」
その一言に、思わず手が止まる。
「……麻衣さんって、すごいですよね」
「え?」
「強くて、綺麗で、誰にも媚びなくて……私、憧れてます。ずっと」
唐突だった。
だけど、口をついて出たその言葉は、どこかでずっと言いたかったものだった。
麻衣さんは少し驚いたような顔をしたあと、くすっと笑った。
「なにそれ、告白?」
「ち、ちがいます!」
「冗談だって。でも、ありがと。そう言ってもらえるの、ちょっと嬉しいかも」
麻衣さんはロッカーに寄りかかりながら、少しだけ真面目な顔になった。
「でもね、強いってのはたぶん、間違ってるよ」
「……え?」
「私、全然強くない。むしろ弱いよ」
「そんなこと……ないように見えます」
「んー、じゃあ、人生の先輩として、この先うまく生き抜くヒント、教えてあげようか」
そう言って、麻衣さんのその綺麗な口元が緩む。
私は反射的に頷いた。
「寄りかかれるものをたくさん見つけるの。例えば、疲れたときに誰かと話すとか、好きな音楽を聴くとか、なんでもいいんだよ。そんな"逃げ道"をたくさん持っておくの。そうなると“ここじゃなくても生きられる”って思える。すると、人はちょっとだけ強くなれる」
「逃げ道?」
その言葉が胸に響く。
「そう。 たとえ何かにぶつかって嫌になって、逃げたくなるときが来ても別のモノ、コト、人が支えてくれるから。だから、ゆっくりさ、探していきな。そうすると不思議とね、味方が増えたようなそんな気がして、踏み込めなかったことに踏み込める。自分ことがクリアに見えてくる」
麻衣さんはどうやら着替えは終わったようで、バタンとロッカーの扉を閉めた。
確かに身に覚えはあった。
あの逃避行に夜。大崎くんとの思い出が私の背中を押した。言えなかった気持ちをちゃんと伝えることができた。
「ちなみに今元気がないのは……恋煩い?」
ぐさり、と心に刺さった。
「……どう、ですかね。よくわかんないです」
「じゃあ、わかるようになるまで考えてみな。ただ、考えすぎには気をつけなよ」
麻衣さんの言っていることはめちゃくちゃで、少し笑みが溢れた。
「お、笑ったね」
「だって、麻衣さん。考えろってゆったり、考えすぎるなって言ったり。どっちなのかなって思って」
「あー、だって花ちゃん。真面目でしょ、きっと」
その声がまっすぐ届いて、私は少し自分より身長の高い麻衣さんを見上げた。
「何事も"適当"がいいの。だけど、若いうちはその量を間違える。まじめな子ほど"過度"になる。だから、"余白"が大事。その"余白"が、答えをくれることだってあるから」
そう言って麻衣さんはふっと笑った。
麻衣さんのその言葉は、やさしいけど、強く私の胸に落ちた。
私はきっと、麻衣さんの“強さ”そのものに憧れていたんじゃない。
自分の芯をいつも通っていて、凛としてるその姿勢に憧れたんだ。
私は、ずっと目を逸らしていた。静かにやり過ごすことを選んだ。心の中で、誰かに踏み込まれるのが怖かったから。でも、それじゃ何も変わらない。
「……ありがとう、ございます」
まだ、何をどうすればいいかなんてわからない。 けれど少なくとも、逃げたままではいたくないと思えた。
✳
その夜、私はスマホを握りしめたまま、深く息を吐いた。
彼のことを、もう一度、ちゃんと考えてみよう。
——好きになったのは、私だから。
そしてもし、その気持ちが“ちゃんと”だと胸を張って言えるなら。
——そのときは、もう一度だけ、素直になってみよう。逃げてばかりだった昨日の自分より、ほんの少しだけでも。
「…‥強く、なりたいな」
ベッドの上、天井を見上げたまま、そっと私は小さくつぶやいた。
夜の静けさの中、ほんの少しだけ、胸の奥があたたかくなっていた。
それからの私は、ほんの少しだけ、意識して大崎くんと距離をとるようになった。
《花ちゃん、明日のバイト、時間変わってもらってもいい?》
麻衣さんのLINEに、私はすぐ「大丈夫です」とだけ返して、スマホを伏せた。
前なら、「何かありましたか?」なんて気にして聞いていたかもしれない。
けれど今は、誰にも踏み込まないまま、静かにやり過ごすことを選んでいた。
踏み込んで何かでてくるのが_____怖かった。
バイト中も、必要以上に大崎くんに話しかけないようにした。
目が合いそうになると、先に逸らした。
笑いかけられても、返すタイミングを一拍だけ遅らせる。
きっと、彼にはもう気づかれている。
彼の仮面の下を覗こうと、興味本位で近づいた私。
思っていたよりもしんどくて、これ以上彼に近づくのが怖くなった。
——彼にとって“特別”だったのは私じゃない。
麻衣さんを想っていた時間に、私は勝てない。
「青崎、最近ちょっとよそよそしい?」
そう言われたのは、ある日のシフト終わり。
私の名前を呼ぶその声に、思わずぎゅっと手を握る。
「……そんなことない。たぶん、疲れてただけ」
そう返す私の声が、自分でも嘘くさいことに気づいていた。
でも、それでもいい。このままでいいんだと、心のどこかで思った。
「そっか」
大崎くんは、それ以上は何も聞かずに、それでもやっぱり笑ってくれた。
優しい人だと思った。
だからこそ、ずるいと思った。
誰にでも優しいその姿に、私はどこまで救われて、どこまで期待していたんだろう。
——こんなにも好きになってしまったくせに。
目が合いそうになると、先に逸らした。
笑いかけられても、返すタイミングを一拍だけ遅らせた。
——これ以上好きにならないように、これ以上私が傷つかないように。
夕焼けに染まったカフェの窓から見えた彼の後ろ姿が、やけに遠く感じた。
もう、隣に並びたくなんてない。
そうやって自分に言い聞かせながら、私は今日も少しずつ、彼との距離を広げていった_____。
✳
その日も、私は必要最低限の仕事だけをこなして、バイトを終えた。
「おつかれさま」
更衣室で着替えながら、麻衣さんがふと声をかけてくる。
「……おつかれさまでした」
笑おうとして、うまくいかなかった。目を合わせることもできなくて、私はロッカーのドアばかり見ていた。
「花ちゃん、最近ちょっと元気ない?」
その一言に、思わず手が止まる。
「……麻衣さんって、すごいですよね」
「え?」
「強くて、綺麗で、誰にも媚びなくて……私、憧れてます。ずっと」
唐突だった。
だけど、口をついて出たその言葉は、どこかでずっと言いたかったものだった。
麻衣さんは少し驚いたような顔をしたあと、くすっと笑った。
「なにそれ、告白?」
「ち、ちがいます!」
「冗談だって。でも、ありがと。そう言ってもらえるの、ちょっと嬉しいかも」
麻衣さんはロッカーに寄りかかりながら、少しだけ真面目な顔になった。
「でもね、強いってのはたぶん、間違ってるよ」
「……え?」
「私、全然強くない。むしろ弱いよ」
「そんなこと……ないように見えます」
「んー、じゃあ、人生の先輩として、この先うまく生き抜くヒント、教えてあげようか」
そう言って、麻衣さんのその綺麗な口元が緩む。
私は反射的に頷いた。
「寄りかかれるものをたくさん見つけるの。例えば、疲れたときに誰かと話すとか、好きな音楽を聴くとか、なんでもいいんだよ。そんな"逃げ道"をたくさん持っておくの。そうなると“ここじゃなくても生きられる”って思える。すると、人はちょっとだけ強くなれる」
「逃げ道?」
その言葉が胸に響く。
「そう。 たとえ何かにぶつかって嫌になって、逃げたくなるときが来ても別のモノ、コト、人が支えてくれるから。だから、ゆっくりさ、探していきな。そうすると不思議とね、味方が増えたようなそんな気がして、踏み込めなかったことに踏み込める。自分ことがクリアに見えてくる」
麻衣さんはどうやら着替えは終わったようで、バタンとロッカーの扉を閉めた。
確かに身に覚えはあった。
あの逃避行に夜。大崎くんとの思い出が私の背中を押した。言えなかった気持ちをちゃんと伝えることができた。
「ちなみに今元気がないのは……恋煩い?」
ぐさり、と心に刺さった。
「……どう、ですかね。よくわかんないです」
「じゃあ、わかるようになるまで考えてみな。ただ、考えすぎには気をつけなよ」
麻衣さんの言っていることはめちゃくちゃで、少し笑みが溢れた。
「お、笑ったね」
「だって、麻衣さん。考えろってゆったり、考えすぎるなって言ったり。どっちなのかなって思って」
「あー、だって花ちゃん。真面目でしょ、きっと」
その声がまっすぐ届いて、私は少し自分より身長の高い麻衣さんを見上げた。
「何事も"適当"がいいの。だけど、若いうちはその量を間違える。まじめな子ほど"過度"になる。だから、"余白"が大事。その"余白"が、答えをくれることだってあるから」
そう言って麻衣さんはふっと笑った。
麻衣さんのその言葉は、やさしいけど、強く私の胸に落ちた。
私はきっと、麻衣さんの“強さ”そのものに憧れていたんじゃない。
自分の芯をいつも通っていて、凛としてるその姿勢に憧れたんだ。
私は、ずっと目を逸らしていた。静かにやり過ごすことを選んだ。心の中で、誰かに踏み込まれるのが怖かったから。でも、それじゃ何も変わらない。
「……ありがとう、ございます」
まだ、何をどうすればいいかなんてわからない。 けれど少なくとも、逃げたままではいたくないと思えた。
✳
その夜、私はスマホを握りしめたまま、深く息を吐いた。
彼のことを、もう一度、ちゃんと考えてみよう。
——好きになったのは、私だから。
そしてもし、その気持ちが“ちゃんと”だと胸を張って言えるなら。
——そのときは、もう一度だけ、素直になってみよう。逃げてばかりだった昨日の自分より、ほんの少しだけでも。
「…‥強く、なりたいな」
ベッドの上、天井を見上げたまま、そっと私は小さくつぶやいた。
夜の静けさの中、ほんの少しだけ、胸の奥があたたかくなっていた。



