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 週一のバイトは、最初こそ緊張の連続だったが、少しずつ私は店の空気に馴染んでいった。
 カフェの空間には、家庭でも学校でも味わえない、やわらかな温もりが満ちていた。誰もが自然体でいられて、けれど決して無関心ではない——そんな場所だった。
 
 そしてそんなある日。
 私はただ、その姿に目を奪われていた。

 「ね、花ちゃん。大丈夫?」

 麻衣さんに声をかけられて、我に返る。

 「す、すみません! つい見惚れてしまって……」

 思わず本音が出てしまい、麻衣さんがくすりと笑う。

 「わかるー。玲央って、接客のときは特にかっこいいもんね」

 その言葉に、私はまた胸の奥がくすぐったくなるような気持ちになる。

 ここで働いて、私の決めたことの一つが達成されそうになる時がある。
 カフェで働いている時、大崎くんの仮面の下が見え隠れすることが増えてきた。

 「俺さ、ここにいるときだけ、ちゃんと自分でいられる気がするんだよね」

 どんな会話でそんな話が出てきたかは覚えてはいないが、締め作業を2人でしていたとき、そう、大崎くんがこぼすのが聞こえた。

 「自分で、って?」
 「……まあ、深くは語らないけど」

 はぐらかすように笑うその姿に、欲が出てきたのか私は少しずつ「もっと知りたい」と思うようになっていた。

 彼の笑顔の裏側や、仮面をかぶっているときの寂しさ、ふと見せる何かを諦めたような目——そんな姿が、気づけば私の胸を締めつけていた。

 ——それていて、彼はやさしい。

 その“やさしさ”に、私はずっと助けられてきた。

 気づけば私は、大崎玲央のことを考える時間が一日の中に自然と混じるようになっていた。
 LINEの既読がつくだけで嬉しかったり、返信がこなければ落ち込んだり、会えた日はそれだけで嬉しかったり。

 それって、つまり、恋なんじゃないか。

 はじめてその言葉が頭に浮かんだとき、私は少しだけ怖くなった。
 彼のことが好きだと認めてしまったら、この距離も、今の関係も、変わってしまう気がした_______。




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 「はーなー!」

 初夏を通り過ぎ、夏休み目前のこの時期。
 蝉の音が私の睡眠を邪魔する。
 うとうとと、授業の後半寝て、昼休みに入ったことに気が付かず、文乃の声で目が覚めた。

 「あー、ごめん。寝てた」
 「何々、寝不足? 塾大変なの?」

 文乃は私の前の席に座って淡々と弁当を私の前で広げだす。

 「いや、塾は別に」
 「ふーん。……やっぱり、なんか王子様関係してる感じ
 ?」
 「え?」

 私も鞄から弁当を取り出そうとしたところで、文乃のその言葉に手が止まった。

 「大崎くん。やっぱりなんかあったんじゃないの?」

 そして、文乃はそうやって、さらに確信をついてこようとする。
 勘の鋭い文乃をこれ以上ごまかすのは正直限界だった。

 あの夜の逃避行のことは秘密だけど、バイトのことは秘密にすると言うことは約束していない。

 「実は_____」

 私は観念して、文乃にアルバイトを始めたこと、アルバイト先にたまたまあの大崎くんがいて今一緒に働いていることを伝えた。
 途中、文乃がびっくりしすぎて大声を出したときは、口を押さえるのに私は必死になった。

 話せる部分を全て話し終わると、しばらく広げた弁当には手を付けず、考え込む彼女。

 そして、虚空を見つめてからゆっくりと私に目線を合わせてきた。

 「なんか、最近花変わったなーって思ってはいたんだよね」

 そう、言葉を選びながら彼女は訥々と話し出す。

 「悪口とかじゃないんだけど、花の家ってすごくかっちりしてるじゃん? だから、たまに花が息苦しそうだなって思ってたことは何度かあったんだよね」
 「そう、なんだ……気づかれてたんだね」

 隠していたつもりだったが、文乃には気づかれていた。
 それがなんだか恥ずかしくて、だけど少し嬉しかった。

 「でも、最近、なんか目が違うっていうか。ちゃんと何かを見てる目になってきたような気がする」

 そういって、彼女は子供っぽく笑った。

 「ごめん、なんか気を使わせてたかも」

 私がそういうと、文乃は少し口元をきゅっと結ぶ。

 「そういうとこだよ。いいんだよ、気を使わせて。花はもう少し我儘になったほうがいい」

 文乃はそう言って、止まっていた箸を動かし、弁当を食べだす。

 静かな凪だった心にひとつ、ふたつとあたたかな何かが落ちて、波打つのがわかる。
 今はまだゆっくりと混ぜている途中で、どんなものが出来上がるかはまだわからない。

 だけど、今はそんな余白も楽しみだとそう思えていた。

 「文乃」
 「ん?」
 「ありがとう」

 私の言葉に、また文乃は口角をきゅっとあげて、子供っぽく笑った。




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 その夜。
 私はベッドの中で、天井を見上げながら自分の胸にそっと問いかけた。
 彼の何気ない優しさが、いつの間にか、私の毎日を彩っていた。
気づけば、その一言に一喜一憂している——それが恋じゃなかったら、なんだというのだろう。

 「私……大崎くんのこと、好きだ」

 その言葉が、ようやく心の奥底で、静かに、でも確かに、答えを持った瞬間だった_____。




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 バイト終わり、私は更衣室にスマホを忘れたことに気づいて店に引き返した。

 裏口のドアの隙間から、ぬるい夜風が吹き抜ける。遠くで誰かの笑い声と、カランと空き瓶が転がる音がした——そんな静けさの中に、ぽつり、ぽつりと混ざる声。

 「——てか、まだ好きなの? 私のこと」

 麻衣さんのその問いに、私は思わず立ち止まった。
 聞いてはいけない、と頭ではわかっていた。でも足が動かなかった。

 「……たぶん、少しは。尊敬、って言えばきれいに聞こえるかもだけど、正直まだ整理ついてなくて」

 大崎くんの声は、いつもの飄々とした調子じゃなかった。その声に、私の心は音を立てて揺れていた。

 「ふーん。相変わらずガキだね、玲央は」
 「うっ、辛辣。でも、麻衣さんのそういうとこ、前から好きでしたよ」
 「やめなって、そういうの。軽く聞こえるから。ほら、あんた今、別に誰か好きな子とかいないの?」
 「……どうですかね。誰かを“ちゃんと”好きになるって、意外とむずいんですよ。昔の麻衣さんに抱いた気持ちが、たぶん最初で最後くらいに本気だったのかもって、最近思います」
 「はー、ガチやん。めんどくさ」

 麻衣さんの笑い混じりの声。でも、どこか優しかった。

 「でもさ、そうやっていつまでも昔の憧れ引きずってちゃ、目の前のもん見逃すよ。高校生でしょ? 今がいちばん、そういう恋しとく時期じゃん」
 「……うーん、ですよね。ほんとは、誰かのことちゃんと見たいんですけど」

 私は、スマホを取りに来ただけだったはずなのに、そのまま引き返していた。

 足取りは、なぜか重かった。

 ——憧れ、なのかな。
 ——でも、“本気だった”って。

 遠くに見えていた彼の笑顔も、LINEのやり取りで浮かれていた自分も、全部がひどくちっぽけに思えてきた。

 私は、彼の中の“誰か”になんて、きっと最初からなれていなかったのかもしれない。

 制服の胸元をぎゅっと握りしめる。

 「……バカだな、私。勝てるわけないのに」

 それでも、彼のことを好きになった気持ちだけは、消えなくて。

 静かな夜に、鼓動の音だけが妙に響いていた。