それから数日後。
 カフェのバイトについては麻衣さんの承諾を得て、そして私は私の両親の承諾を得た。
 両親が出した条件は、週に1度の土曜日の日中のみであれば許すとのこと。
 土曜日は、平日よりも早く店を閉めるとのことで、私は12時から閉店の18時までの勤務が決まった。

 「おはようございます」

 アルバイトの初日、意を決してドアをくぐる。
 カウベルの音とともに店内に入った私に、カウンター内から大崎くんがにこっと笑いかけた。

 「おはよ。制服、似合ってるじゃん」

 軽やかで柔らかなその一言に、緊張がほんの少しだけほどけた。

 けれど——

 その数分後、私は自分の立場を痛感することになる。

 「アイスラテ、ワン」
 「了解でーす」

 大崎くんの声が響いたかと思えば、流れるような手つきでグラスを取り、氷を入れ、ミルクとエスプレッソを注ぐ。 ラテアートすら軽々と描き出して、笑顔のままカウンターへ差し出す。

 「どうぞ、お待たせしました」

 目の前のお客さんがぱっと笑顔になるのを見て、私はなんだか胸がぎゅっとなった。

 ——私、こんな風にできるんだろうか。

 そのあとも、彼の手際の良さに私は圧倒されっぱなしだった。

 常連のお客さんの名前をすらすらと呼び、好みのドリンクを事前に準備し、 足の悪いおばあちゃんにはさりげなく椅子を引き、 迷っている人には、軽やかにおすすめを提案する。

 どれも自然で、演技なんかじゃないのが伝わってきた。

 「……すごいなあ」

 思わず、漏れた言葉に気づかれたのか、大崎くんがくるっとこちらを振り向いた。

 「ん? どうかした?」
 「ううん……なんでもない」

 私は慌てて視線をそらし、目の前の任されたグラスを洗うことに集中する。
 心の中は、言いようのない焦りでいっぱいだった。

 私も笑っているけれど、それは本当に「笑顔」だろうか?
 私の声は、きっとまだぎこちなくて、目も泳いでいて、動きもたどたどしい。

 ふと、大崎くんの横顔を見る。

 彼は、自然体のまま人と接することができる人だ。 誰にでも同じように優しくて、気が利いて、しかもそれを特別なことだと思っていない。

 ——なのに、私は。

 「青崎さん、お冷、お願い」

 麻衣さんの声に我に返って、私は急いでグラスを持った____。





 *




 なんとか洗い物や下げ物をこなし、ようやく初めての勤務が終わった頃。
 店内の照明が落とされ、閉店作業に入ったときだった。

 「花ちゃん、ちょっとこっち来てくれる?」

 カウンターの奥で伝票をまとめていた麻衣さんが、ふっと優しい声で私を呼んだ。

 「はい!」

 緊張しながら返事をし、慌てて手を拭きながらカウンターの裏側に入る。

 「初日、おつかれさま。がんばってたね」

 微笑む麻衣さんの言葉に、思わず胸がいっぱいになって、かすかに目元が熱くなるのを感じた。

 「ありがとうございます……。でも、全然うまくできなくて……」
 「そりゃそうだよ。今日が初めてなんだもん。大事なのは、失敗しないことじゃなくて、次にどうしようって思えるかどうかじゃない?」

 麻衣さんの声は、不思議と私の中の焦りや不安をやさしく溶かしていく。

 「それにね、私も初日どころか最初のうちは何にもできなかったんだよ? 今や店長だけど」
 「……麻衣さんが?」
 「うん。初日は緊張しすぎて、お皿割ったし、お釣り間違えるし、アイスラテの『ラテ』を入れ忘れたこともあるし」

 それってもうアイスミルクじゃん……と思ったら、思わず笑ってしまって、麻衣さんも楽しそうに笑い返してくれた。

 「だから、焦らなくて大丈夫。花ちゃんはちゃんとできてたよ。声もちゃんと出てたし、笑顔もすごくよかった」
 「……ありがとうございます」

 ほんのひとこと。でもその言葉が、今日一日の自分を認めてもらえたような気がして、心がふっと軽くなる。

 「それに、玲央がちゃんと見てたよ?」
 「えっ?」
 「今日ずっと、花ちゃんのこと、さりげなくフォローしてたじゃない? 言わなくても、ああやって動けるの、あの子のいいところなの」

 言われてみれば、グラスをうまく洗えなかったとき、さっと替わってくれたこと。注文を聞き逃しそうになったとき、自然に繰り返してくれたこと——全部、大崎くんだった。

 「あの子ね、人に甘えられるのはあまり得意じゃないけど、誰かを支えるのはすごく得意なのよ」

 麻衣さんはふっと優しく笑った。

 「だから、花ちゃんがこれからここで頑張ってくれるの、私も嬉しいし、たぶん玲央も——」

 そこまで言ったところで、大崎くんが「片付いたー」と言いながらカウンターの奥から顔を出す。

 「……おっと、これは聞かれちゃまずいやつだね」
 「え、なになに、今の」
 「秘密だよ。ね、花ちゃん?」

 ウィンク混じりにそう言われて、私は小さく笑いながら頷いた。

 この場所に来てよかった。そう思える、初日の終わりだった。

 ——だけど、このときの私は、まだ知らなかった。
自分が“見ていた景色”が、どれほど手の届かないものだったかを。