玄関のドアを開けた瞬間、ひやりとした空気が肌にまとわりつく。まるで家全体が怒りを抱えて沈黙しているようだった。

 「おかえりなさい」

 リビングから聞こえた母の声は静かだった。
 静かで、けれどどこか怒りを押し殺したような響きを持っていた。

 私は靴を脱ぎながら、心の中でカウントダウン始めた。

 3、2、1___

 「どういうつもりなの?」

 やっぱり来た。
 振り返れば、母がリビングのドアの前に立っていた。
 腕を組み私をじっと見据えるその視線は、普段のやさしさのベールを完全にはぎ取っていた。

 「電話もLINEも無視して……どこにいたの? こんな時間まで……!」
 「……外」
 「ふざけないで。心配して、どれだけ……!」

 母の声が震えている。
 怒りよりも、感情の渦に吞まれて、泣き出す寸前のように。
 私は一瞬たじろぐも、今日の出来事がそっと私の背中を押した。

 「心配かけたのはごめんなさい。だけど、私だって……苦しい」
 「苦しい? 何が?」

 母は眉を顰め、少し身を乗り出す。

 「お母さんは、私のためにっていろいろしてくれるだろうけど……全部、決めつけだから」
 「決めつけ?」
 「将来のこと、学校のこと……私の”好き”とか”やりたいこと”とか聞いてくれたこと、あった?」

 母はその場に立ち尽くしたまま、何も言わなかった。
 私は構わず続けた。

 「良かれと思ってっていうのはわかってる。でも私は親の引いたレールの上を走っているだけだったから、自分がどこに向かっているのかわからなくなって、急に怖くなったの。だから、今日初めて自分の意志で立ち止まった。考えたの、自分のこと」
 「……そんなの、相談してくれればよかったじゃない……」

 母が絞り出すようにそういった。

 「言えなかったよ。だって、言ったら”そんなことよりも勉強しなさい”ってそうなるでしょ。いつも、そうだったじゃん」

 静まり返るリビング。
 時計の針の音がやけに耳についた。

 「私、間違ってるのかな?」

 そう問いかけると、母はふっと目を伏せた。そして少しだけ震える声で、答えた。

 「……間違ってない。でも、怖いの。あなたが自分の選んだ道で、傷ついたり、後悔したりするのが」
 「それでも、自分で選びたいの」

 その言葉が部屋の空気を変えたのが分かった。
 母は深く息を吐き、ゆっくりと頷いた。

 「……わかった。全部じゃなくてもいい。少しずつ、話してくれる?」

 母は少し目を赤くしながら、それでもまっすぐ私を見つめて言った。
 私は目を見開き、ふと笑みが溢れた。

 「……うん」

 初めて母と衝突した。
 だけど、”始める”と決めて自分の意志でぶつかって壊れなかった。

 大崎くん___
 私もどうやら始められた気がするよ。

 今頃、あの”余白”いっぱいの音楽を聴きながら夜道を歩いている彼に向かって、私はそっとそう心の中で呟いた。