この時間帯の上り電車はすいていたため、私たちは自然と横並びで座席に座った。

 「なんかさ」

 電車が発車して、しばらく沈黙が続いた後、彼が口を開いた。

 「俺、小学校の時に一回だけ、まじで家出しようと思ったことがあるんだよね」

 「え、そうなの?」

 意外過ぎて、思わず笑いそうになる。
 でも彼の顔は真剣で、冗談ではないとすぐに分かった。

 「家族と喧嘩したとかじゃなくって……なんていうか、ここにいても意味ないなって、ふと思っちゃったんだよね」

 「……そっか」

 彼の言葉は、どこか私の気持ちと重なっていて、胸の奥が少しだけチクリとした。

 「でも、結局、コンビニでおにぎり買って、近くの公園で食べて帰った。全然ドラマみたいな展開じゃなかったけど」
 「何それ、かわいい」

 思わず口元が緩む。
 彼も「だろ?」と少し照れたように笑った。

 「でも今思えば、それでも少しだけ、自分で何か決めたって感じがしてさ」

 「うん」

 「俺にとってはそれがちょっとした”始まり”だった気がするんだよね」

 窓の外を見ながら彼がそうつぶやく。

 流れていく街の明かりが、まるで過ぎていく今日の出来事をなぞっているみたいだった。
 窓に映る自分の顔は、少しだけ違って見えた。
 その隣に、彼が静かに座っている。

 「……ねえ、大崎くん」
 「何?」

 少し勇気を出して、私は口を開く。

 「今日のこと、誰にも言わないでくれる?」

 彼になら、少なくとも私の仮面の下は見せてもいいかな。そう思った。

 「もちろん」

 彼は私の問いに対して、優しく笑う。

 「ありがとう」

 彼は一瞬だけいたずらっぽく目を細めて、「秘密の共有だね」と、軽くウィンクしてみせた。
 私の中の”家出”は、きっと今日限りのものだけど。
 何かが少しだけ変わった気がした。

 今まで通りの私じゃない。
 でも、これからの私もまだ知らない。

 でも____

 「……今日が”始まり”なら、いいな」

 そう心の中で呟いた時。
 電車が吉祥寺駅に到着した。

 電車が止まり、ドアが開いた。

 「こっち?」

 彼の問いかけに頷くと、彼は改札へと歩きだす。
 自動改札を通ると、駅前の人の気配はすっかり減っていて、静かな夜がそこにはあった。

 「……ごめんね、付き合わせちゃって」

 私がそういうと、彼は軽く首を振った。

 「別に。こういう日があってもいいじゃん。俺は割と好きだよ、夜の散歩」

 そう言って、彼はポケットからイヤフォンを取り出すと、片方を私に差し出した。

 「……聴く?」

 一瞬、胸の奥がくすぐったくなる。
 誰かと音楽を“分け合う”なんて、たぶん初めてだった。しかも、男の子と。


 「何が流れてるの?」
 「さあ、適当にシャッフルしてるから。でも、大体、ゆるいやつ」

 私は受け取ったイヤフォンを恐る恐る耳に差さす。
 少しだけ古びた音が流れ始めた。どこか懐かしくて、あたたかい。

 「……なんか意外。てっきり、もっと今どきのとか聴いているかと思った」
 「よく言われる。でもこっちのほうが、余白があって落ち着くんだよね」

 ”余白”という言葉が何だか耳に残る。
 道すがら、家近くのコンビニの明かりがちらほらと見えてくる。

 「ねえ、大崎くん」
 「何?」
 「少し、遠回りなんてしていい?」
 「もちろん。じゃあさ、曲がり角が来たとき、どこに進むかは一緒に決めよう。俺はどっちが青崎の家かはわからないから完全に勘だけど。なんとなくこっちに曲がりたいと思ったら、そっちに曲がって進んでいこう」
 「……何それ。そういうのあり?」
 「ありでしょ」

 その一言が妙にあたたかかった。

 そして私たちは曲がり角が来るたびに、右!左!なんて言いながら、夜道を練り歩く。
 だけど、着々と私の家には近づいていて、いつまでも続けばいいと思っていた時間は、終わりを迎えようとしていた。

 「ここでいい?」

 数時間前に出ていった家が目の前にある。
 別れ際、イヤフォンを外した耳に、夜の風がひやりと通り、現実へと私を押し戻す。

 「うん、ありがとう。……ほんとうに、ありがとう」

 私がそういうと、彼は「どういたしまして」と言って、手を軽く振った。

 ここから先は、私ひとりの時間だ。
 甘くなんてない。でも、苦さごと受け止める覚悟くらい、今の私にはある。

 意を決して玄関の扉を開く。
 ふと、振り返るも、もうそこに彼の姿はなかった_____。