*
大崎くんが私の席を離れた後。
この先、どうしようか。現実味のない考えばかりが、泡のように浮かんでは消えていった。
「青崎。俺、帰るけど……帰る?」
ぼんやりと窓の外を眺めていた私に、背後から声がかかる。
はっとして時計を見ると、もう夜の9時。
店には私以外のお客さんはもう誰もいなかった。
人生初の”家出”をしてから、既に2時間以上。
これ以上無断で家を空けると、親が何をしでかすかわからない。
冷めきったコーヒーを一気に飲み干し、帰ろうと思ったその時。
「玲央、帰る?って何よ。女の子をこの時間に一人で返すなんてどんな神経してたらその選択肢でてくるの。あなたが送っていきなさい!」
力強い声がキッチンのほうから聞こえたと思い、思わず振り返る。
______この人、噂になっていた人だ。
学校で、“綺麗な人が働いている”って話題になっていた。
透き通るような白い肌に、艶やかな黒髪。すらりとした長身。まるでスクリーンから抜け出してきたようで、どこか現実感がなかった。
そして、そんな綺麗な人が今、眉間にしわを寄せてこちらを睨んでいる。
「ちょ、麻衣さん。そんな美人が台無しな顔しないでって。ほら、もし彼氏とかいたら別の男に送られるの嫌かなとか思ってさ」
「そんな男いたら、さっさと振っちゃいなさい。器の小さい男なんて、この先付き合っててもろくなことないから」
「いやいや、全人類がそんな麻衣さんみたい割り切れるタイプじゃないから……」
テンポ良く繰り広げられるふたりの言い合い。
その空気は、なぜかあたたかかった。
思わず、口元が緩む。
「わりぃ、青崎。麻衣さん少し口が荒っぽくてさ。んで、どうする?」
そう言って彼は選択を私に委ねる。
ここで「大丈夫」と首を振ったら、麻衣さんの眉間のしわがもう一段深くなりそうだった。
「じゃあ……お願いしようかな」
私はそういって、コーヒーのお代である500円を彼に差し出した。
彼は少し「ごめんな」と小さく言ってそれを受け取り、麻衣さん手渡した。
麻衣さんは満足げに「お疲れ」と言ってキッチンの中へまた消えていった。
私は急いで荷物をまとめ、彼はカウベルの鳴る扉を開け私を待つ。
外に出ると、初夏の生ぬるい風が私の頬をかすめた。
「青崎って、家どこだっけ?」
外に出て彼は立ち止まり、スマートフォン片手に私のそう聞いてくる。
「吉祥寺」
「おっけ。じゃあまず駅だからあっちか」
彼はそういって、初夏の夜道を歩きだす。
私もその背中に続く。
彼は自然と車道のほうを歩き、歩幅を私に合わせてくれる。
_____噂通りに人だと、そう思った。
「大崎くんってさ」
「ん?」
「……よく、"優しい"って言われるでしょ?」
私の問いに、彼はふっと笑った。
街灯に照らされて、その横顔がかすかに緩むのが見えた。
「うん、そうだね。よく言われる」
そして、そういってから少し彼の視線が落ちた。
「でも、本当は、あんまり優しくなんかないよ」
そういった彼の横顔は少し悲しげだった。
「”優しい”って言われるのは慣れているし、嬉しくないわけじゃないけど……。なんかうわべだけって感じであんまり好きな言葉じゃないんだよね。昔から、人の顔色見て動くのが癖になっててさ。気づけば、“優しい”って言葉だけが残ってた」
そう言ってから、彼が無理に笑うのが分かる。
彼とちゃんと話すのは今日が初めてだけど、不思議と彼の心の輪郭が見えた気がした。
彼にとってこの笑顔は……自分の身を守るための”仮面”なのだろう。
その仮面の下にある素顔を、夜風みたいに、そっと覗いてみたくなった。
「さっきさ」
ぽつりと、言葉を私はこぼす。
「”今日はどうした?”って聞いてくれたよね」
さっき彼に言われた言葉を繰り返す。
「うん、そうだね。言ったね」
「私ね……家出してきたの」
私の言葉に彼は特に反応せず、「うん」とだけ相槌を打ったのが分かった。
「私ってさ、自分でいうのも変な話なんだけど。割と”当たり”の家に生まれたとは思ってるの。生活するにしても何不自由なくて。欲しいものは大体手に入る。両親も健康で私のことかわいがってくれていることはすごく伝わってくる」
「うん」
「だから私は”幸せ者なんだ”って。そういう風に周りから言われてきたし、自分でもそう思ってた」
「うん」
「だけど、ふと思ったの。両親が引いてきたレールの上をただただ何の疑問もなく歩んできた私は、一体誰の人生をを行きているんだろうって」
「うん、そっか。それで、今日出てきたの?」
「うん、そう。初めて母親に反抗したの」
私の言葉に少し彼が笑ったのが分かった。
「なんて言ったの?」
「んーなんだったかな。”どうして、私の将来を、勝手に決めるの?”とかだったと思う」
「それは親もびっくりしただろうね」
「……くだらないかな……?」
私のその問いに、彼は足を止めた。
しばらく沈黙が流れ、夜の風が私たちの間を吹き抜けた。
足を止めてはじめて、そこはもう駅であることに気が付く。
「くだらなくなんかない。それでしんどくなって、今日出てきたんでしょ?」
そう、目を細めて笑う彼はやっぱり優しい人だと、そう思った。
「おめでとう」
そして、彼はそういって口角を上げて笑う。
何に対してのおめでとうなのか、私にはわからず思わず首をかしげる。
「親に本音言うことってなかなか難しいけど、やってのけたんだね。青崎は頑張ったじゃん。初反抗記念日だね」
そういって、彼は踵を返し、改札のほうへ向かう。
私も置いて行かれまいと彼の背中を追いかける。
彼は慣れた足取りで電車のホームへと向かう。
そこでちょうど目当ての電車が着て、私たちはその電車に乗り込んだ。
大崎くんが私の席を離れた後。
この先、どうしようか。現実味のない考えばかりが、泡のように浮かんでは消えていった。
「青崎。俺、帰るけど……帰る?」
ぼんやりと窓の外を眺めていた私に、背後から声がかかる。
はっとして時計を見ると、もう夜の9時。
店には私以外のお客さんはもう誰もいなかった。
人生初の”家出”をしてから、既に2時間以上。
これ以上無断で家を空けると、親が何をしでかすかわからない。
冷めきったコーヒーを一気に飲み干し、帰ろうと思ったその時。
「玲央、帰る?って何よ。女の子をこの時間に一人で返すなんてどんな神経してたらその選択肢でてくるの。あなたが送っていきなさい!」
力強い声がキッチンのほうから聞こえたと思い、思わず振り返る。
______この人、噂になっていた人だ。
学校で、“綺麗な人が働いている”って話題になっていた。
透き通るような白い肌に、艶やかな黒髪。すらりとした長身。まるでスクリーンから抜け出してきたようで、どこか現実感がなかった。
そして、そんな綺麗な人が今、眉間にしわを寄せてこちらを睨んでいる。
「ちょ、麻衣さん。そんな美人が台無しな顔しないでって。ほら、もし彼氏とかいたら別の男に送られるの嫌かなとか思ってさ」
「そんな男いたら、さっさと振っちゃいなさい。器の小さい男なんて、この先付き合っててもろくなことないから」
「いやいや、全人類がそんな麻衣さんみたい割り切れるタイプじゃないから……」
テンポ良く繰り広げられるふたりの言い合い。
その空気は、なぜかあたたかかった。
思わず、口元が緩む。
「わりぃ、青崎。麻衣さん少し口が荒っぽくてさ。んで、どうする?」
そう言って彼は選択を私に委ねる。
ここで「大丈夫」と首を振ったら、麻衣さんの眉間のしわがもう一段深くなりそうだった。
「じゃあ……お願いしようかな」
私はそういって、コーヒーのお代である500円を彼に差し出した。
彼は少し「ごめんな」と小さく言ってそれを受け取り、麻衣さん手渡した。
麻衣さんは満足げに「お疲れ」と言ってキッチンの中へまた消えていった。
私は急いで荷物をまとめ、彼はカウベルの鳴る扉を開け私を待つ。
外に出ると、初夏の生ぬるい風が私の頬をかすめた。
「青崎って、家どこだっけ?」
外に出て彼は立ち止まり、スマートフォン片手に私のそう聞いてくる。
「吉祥寺」
「おっけ。じゃあまず駅だからあっちか」
彼はそういって、初夏の夜道を歩きだす。
私もその背中に続く。
彼は自然と車道のほうを歩き、歩幅を私に合わせてくれる。
_____噂通りに人だと、そう思った。
「大崎くんってさ」
「ん?」
「……よく、"優しい"って言われるでしょ?」
私の問いに、彼はふっと笑った。
街灯に照らされて、その横顔がかすかに緩むのが見えた。
「うん、そうだね。よく言われる」
そして、そういってから少し彼の視線が落ちた。
「でも、本当は、あんまり優しくなんかないよ」
そういった彼の横顔は少し悲しげだった。
「”優しい”って言われるのは慣れているし、嬉しくないわけじゃないけど……。なんかうわべだけって感じであんまり好きな言葉じゃないんだよね。昔から、人の顔色見て動くのが癖になっててさ。気づけば、“優しい”って言葉だけが残ってた」
そう言ってから、彼が無理に笑うのが分かる。
彼とちゃんと話すのは今日が初めてだけど、不思議と彼の心の輪郭が見えた気がした。
彼にとってこの笑顔は……自分の身を守るための”仮面”なのだろう。
その仮面の下にある素顔を、夜風みたいに、そっと覗いてみたくなった。
「さっきさ」
ぽつりと、言葉を私はこぼす。
「”今日はどうした?”って聞いてくれたよね」
さっき彼に言われた言葉を繰り返す。
「うん、そうだね。言ったね」
「私ね……家出してきたの」
私の言葉に彼は特に反応せず、「うん」とだけ相槌を打ったのが分かった。
「私ってさ、自分でいうのも変な話なんだけど。割と”当たり”の家に生まれたとは思ってるの。生活するにしても何不自由なくて。欲しいものは大体手に入る。両親も健康で私のことかわいがってくれていることはすごく伝わってくる」
「うん」
「だから私は”幸せ者なんだ”って。そういう風に周りから言われてきたし、自分でもそう思ってた」
「うん」
「だけど、ふと思ったの。両親が引いてきたレールの上をただただ何の疑問もなく歩んできた私は、一体誰の人生をを行きているんだろうって」
「うん、そっか。それで、今日出てきたの?」
「うん、そう。初めて母親に反抗したの」
私の言葉に少し彼が笑ったのが分かった。
「なんて言ったの?」
「んーなんだったかな。”どうして、私の将来を、勝手に決めるの?”とかだったと思う」
「それは親もびっくりしただろうね」
「……くだらないかな……?」
私のその問いに、彼は足を止めた。
しばらく沈黙が流れ、夜の風が私たちの間を吹き抜けた。
足を止めてはじめて、そこはもう駅であることに気が付く。
「くだらなくなんかない。それでしんどくなって、今日出てきたんでしょ?」
そう、目を細めて笑う彼はやっぱり優しい人だと、そう思った。
「おめでとう」
そして、彼はそういって口角を上げて笑う。
何に対してのおめでとうなのか、私にはわからず思わず首をかしげる。
「親に本音言うことってなかなか難しいけど、やってのけたんだね。青崎は頑張ったじゃん。初反抗記念日だね」
そういって、彼は踵を返し、改札のほうへ向かう。
私も置いて行かれまいと彼の背中を追いかける。
彼は慣れた足取りで電車のホームへと向かう。
そこでちょうど目当ての電車が着て、私たちはその電車に乗り込んだ。



