夕飯の最中、母の「大学のパンフレット取り寄せておいたからね」の一言に、私の箸が止まった。
またその話か_____。胸の奥がきゅっとなる。夕飯のたびに聞かされるその言葉は、今日で何度目だっただろう。
「どうして、私の将来を、勝手に決めるの?」
その一言が、口をついて出た瞬間、母の表情が固まった。
リビングには、静かな緊張が走る。
いつもなら、にこやかに受け流してくれるはずの母が、その日ばかりは、はっきりと眉をひそめた。
「勝手に、って……花ちゃんのためを思って言ってるのよ」
「私の“ため”って、何? 私の気持ちなんて、一度でも聞いたことある?」
その声が、いつもより大きかったことに、自分でも驚いた。
母の口が動きかけて、でも言葉は出てこなかった。
静寂の中で、私は立ち上がる。
鞄をつかんで、乱暴に玄関を出た。
「おい、待て。花!」という父の声が背中越しに飛んできたけど、もう聞きたくなかった。
制服のまま、駅へ向かう。
涙が出るはずなのに、出てこなかった。感情のスイッチが壊れたみたいに。ただ、心の中で何かが弾けていた。
こんな家、もう知らない。
行き先も決めずに飛び乗った電車の中。
家にも帰れない、でもどこに行けばいいのかも分からない。
車窓に映る自分を見ながら、ふと頭に浮かんだのは――学校近くの、あのカフェだった。
同じクラスの子が雰囲気が落ち着いていて、夜遅くまでやっていると言っていた場所。
私も何度か友人と学校帰りに行ったことがある場所。
逃げ場所になんて思っていなかった。でも、気づいたら足が向いていた。
カラン。
ドアを開けた瞬間、カウベルの音が響き、コーヒーの香りがふわっと鼻をくすぐった。
店内には柔らかいジャズが流れていて、街灯の光が優しく窓にきらめく。
「いらっしゃいませー」
「……っ!」
聞き覚えのある声に、肩がすくんだ。
そっと踵を返し、違う場所に移ろうとしたとき
「……あれ、同じ学校の子だよね?」
軽く茶色がかった髪、どこか掴みどころのない笑顔。
同じクラスの大崎玲央が、私に話しかける。
学校では有名な存在だったけど、彼と話すのはこれが初めてだった。
なんで、こんな場所に。
彼の言葉を遮るように私はそっと振り返り、私はポツリとつぶやいた。
「……コーヒー、ください」
彼は一瞬驚いた顔をしたがやがて、口角を少し上げ、「お好きなお席におかけになってお待ちください」と店員らしく振舞い、私に踵を返した。
もう後に引けなくなった私は、とりあえず店内に視線を向けないような窓際のカウンターを選択し、腰を下ろした。
夕食時の時間帯。
軽食までしか出してないこのカフェは、この時間帯閑散としていて静かだった。
ゆったりとしたジャズの音が、先ほどまで高ぶっていた私の気持ちを、やさしくなでてくれているような、そんな気がした。
ポケットに入れていたスマートフォンが先ほどから激しく揺れている。
思わずため息が漏れ、私はそっとスマートフォンを取り出し、そのまま電源を切った。
これでもう、私を邪魔するものは何もない。
「お待たせしました」
ふと後ろから聞こえた声にびくっと肩を震わせる。
振り返る間もなく、私の目の前に真っ白なティーカップに入れられたホットコーヒーが優しく置かれた。
コーヒーのいい匂いが胸いっぱいに広がるのを感じ、思わず目を細める。
まずは一口飲んでから、これからのことを考えよう。
そう思い、コーヒーカップに手を伸ばそうとしたとき。
コーヒーを持ってきた人物が、一瞬ためらったような仕草のあと、私の隣の席に腰を下ろした。
「……え」
思わず、そう声に出すと、彼はその特徴的な八重歯を見せて笑う。
「まあ、まず冷めないうちに飲んでよ」
「そんなに見られていると飲みづらいんだけど」
「……しょうがないなー」
彼はそういって渋々カウンターの席を回し私に背を向ける。
その間に私は先ほど伸ばしかけた手でコーヒーカップを持ち、ゆっくりと一口飲んだ。
大人な苦さが口いっぱいに広がる。
「……どう?」
彼は私が飲むのを見計らったように、再度席を回転させ、私のほうへ視線を向ける。
「……苦い」
思わず苦笑した私に、彼はまたあの八重歯をのぞかせた。
いつも朝は甘いカフェラテ。
カフェに行っても頼むのは必ず砂糖やミルクがたっぷり入った甘い飲み物だった。
「だろうね。青崎さ、いつもここ来て頼むの甘いものだから。珍しいなーと思って」
彼はそういってカウンターに体重を預け私のほうを見ながら、人懐っこく笑った。
言えない。
大人を象徴するホットコーヒーに惹かれてつい頼んでしまったなんで、そんなの言えない。
「大崎くんは……、ここで働いているの?」
私はコーヒーカップを一度置き、ごまかすようにそう彼に尋ねる。
「うん。でも、夕方はここの学校の人お客さんでよく来るからキッチンにほとんどいる。夜はこうやって出てきてるけど」
「そっか。……大変?」
「んー、楽ではないけど。よくしてもらってるし、自分のためにやってるから。大変ってほどではないよ」
そう言って笑いながら自分のことを離す彼が私にはまぶしくて、ぐっと胸が締め付けられるのを感じ思わず彼から目をそらした。
そしてごまかすように、その苦いコーヒーを一口口に含む。
「言いたくないならいいけどさ。今日は、どうした?」
私の様子を見てか、彼はそう私にやさしく問いかける。
一瞬だけ、何もかも言ってしまおうかと思ったが、同じクラスメイトかつあの”大崎玲央”にこんな私のこの状況を伝えることに引け目を感じ、私はゆっくりと首を横に振った。
彼はそれ以上は何も詮索してこず、「そっか」と優しく笑ってゆっくり席を立つ。
「俺、21時上がりだから。もし、それくらいに帰るなら送ってく」
彼はそう私の背中にそう言い残して、キッチンのほうへと向かっていった。
苦いコーヒーの余韻が、私の胸の奥にじんわり残っていた。_____まるで、少しだけ大人になったみたいに。
またその話か_____。胸の奥がきゅっとなる。夕飯のたびに聞かされるその言葉は、今日で何度目だっただろう。
「どうして、私の将来を、勝手に決めるの?」
その一言が、口をついて出た瞬間、母の表情が固まった。
リビングには、静かな緊張が走る。
いつもなら、にこやかに受け流してくれるはずの母が、その日ばかりは、はっきりと眉をひそめた。
「勝手に、って……花ちゃんのためを思って言ってるのよ」
「私の“ため”って、何? 私の気持ちなんて、一度でも聞いたことある?」
その声が、いつもより大きかったことに、自分でも驚いた。
母の口が動きかけて、でも言葉は出てこなかった。
静寂の中で、私は立ち上がる。
鞄をつかんで、乱暴に玄関を出た。
「おい、待て。花!」という父の声が背中越しに飛んできたけど、もう聞きたくなかった。
制服のまま、駅へ向かう。
涙が出るはずなのに、出てこなかった。感情のスイッチが壊れたみたいに。ただ、心の中で何かが弾けていた。
こんな家、もう知らない。
行き先も決めずに飛び乗った電車の中。
家にも帰れない、でもどこに行けばいいのかも分からない。
車窓に映る自分を見ながら、ふと頭に浮かんだのは――学校近くの、あのカフェだった。
同じクラスの子が雰囲気が落ち着いていて、夜遅くまでやっていると言っていた場所。
私も何度か友人と学校帰りに行ったことがある場所。
逃げ場所になんて思っていなかった。でも、気づいたら足が向いていた。
カラン。
ドアを開けた瞬間、カウベルの音が響き、コーヒーの香りがふわっと鼻をくすぐった。
店内には柔らかいジャズが流れていて、街灯の光が優しく窓にきらめく。
「いらっしゃいませー」
「……っ!」
聞き覚えのある声に、肩がすくんだ。
そっと踵を返し、違う場所に移ろうとしたとき
「……あれ、同じ学校の子だよね?」
軽く茶色がかった髪、どこか掴みどころのない笑顔。
同じクラスの大崎玲央が、私に話しかける。
学校では有名な存在だったけど、彼と話すのはこれが初めてだった。
なんで、こんな場所に。
彼の言葉を遮るように私はそっと振り返り、私はポツリとつぶやいた。
「……コーヒー、ください」
彼は一瞬驚いた顔をしたがやがて、口角を少し上げ、「お好きなお席におかけになってお待ちください」と店員らしく振舞い、私に踵を返した。
もう後に引けなくなった私は、とりあえず店内に視線を向けないような窓際のカウンターを選択し、腰を下ろした。
夕食時の時間帯。
軽食までしか出してないこのカフェは、この時間帯閑散としていて静かだった。
ゆったりとしたジャズの音が、先ほどまで高ぶっていた私の気持ちを、やさしくなでてくれているような、そんな気がした。
ポケットに入れていたスマートフォンが先ほどから激しく揺れている。
思わずため息が漏れ、私はそっとスマートフォンを取り出し、そのまま電源を切った。
これでもう、私を邪魔するものは何もない。
「お待たせしました」
ふと後ろから聞こえた声にびくっと肩を震わせる。
振り返る間もなく、私の目の前に真っ白なティーカップに入れられたホットコーヒーが優しく置かれた。
コーヒーのいい匂いが胸いっぱいに広がるのを感じ、思わず目を細める。
まずは一口飲んでから、これからのことを考えよう。
そう思い、コーヒーカップに手を伸ばそうとしたとき。
コーヒーを持ってきた人物が、一瞬ためらったような仕草のあと、私の隣の席に腰を下ろした。
「……え」
思わず、そう声に出すと、彼はその特徴的な八重歯を見せて笑う。
「まあ、まず冷めないうちに飲んでよ」
「そんなに見られていると飲みづらいんだけど」
「……しょうがないなー」
彼はそういって渋々カウンターの席を回し私に背を向ける。
その間に私は先ほど伸ばしかけた手でコーヒーカップを持ち、ゆっくりと一口飲んだ。
大人な苦さが口いっぱいに広がる。
「……どう?」
彼は私が飲むのを見計らったように、再度席を回転させ、私のほうへ視線を向ける。
「……苦い」
思わず苦笑した私に、彼はまたあの八重歯をのぞかせた。
いつも朝は甘いカフェラテ。
カフェに行っても頼むのは必ず砂糖やミルクがたっぷり入った甘い飲み物だった。
「だろうね。青崎さ、いつもここ来て頼むの甘いものだから。珍しいなーと思って」
彼はそういってカウンターに体重を預け私のほうを見ながら、人懐っこく笑った。
言えない。
大人を象徴するホットコーヒーに惹かれてつい頼んでしまったなんで、そんなの言えない。
「大崎くんは……、ここで働いているの?」
私はコーヒーカップを一度置き、ごまかすようにそう彼に尋ねる。
「うん。でも、夕方はここの学校の人お客さんでよく来るからキッチンにほとんどいる。夜はこうやって出てきてるけど」
「そっか。……大変?」
「んー、楽ではないけど。よくしてもらってるし、自分のためにやってるから。大変ってほどではないよ」
そう言って笑いながら自分のことを離す彼が私にはまぶしくて、ぐっと胸が締め付けられるのを感じ思わず彼から目をそらした。
そしてごまかすように、その苦いコーヒーを一口口に含む。
「言いたくないならいいけどさ。今日は、どうした?」
私の様子を見てか、彼はそう私にやさしく問いかける。
一瞬だけ、何もかも言ってしまおうかと思ったが、同じクラスメイトかつあの”大崎玲央”にこんな私のこの状況を伝えることに引け目を感じ、私はゆっくりと首を横に振った。
彼はそれ以上は何も詮索してこず、「そっか」と優しく笑ってゆっくり席を立つ。
「俺、21時上がりだから。もし、それくらいに帰るなら送ってく」
彼はそう私の背中にそう言い残して、キッチンのほうへと向かっていった。
苦いコーヒーの余韻が、私の胸の奥にじんわり残っていた。_____まるで、少しだけ大人になったみたいに。



