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夏の夜。
ひぐらしの声が遠くで鳴いていた。
昼間の熱気をまだ残しながらも、夜風が頬にあたると少しだけ心が落ち着く。
私はカフェ「月灯」の前で、立ち止まっていた。
1年ぶり。……でも、こうして来るのは、なんだかもっと昔のことみたいな気がする。
扉の奥からは、温かい光が漏れている。あのときと同じ、オレンジ色の照明。木製のドアに手をかけると、かしゃん、と小さなベルが鳴った。
「いらっしゃ……って、花ちゃんじゃん!」
真っ先に声をあげたのは、やっぱり麻衣さんだった。
エプロン姿のまま、帳簿を置いてカウンターから出てくる。
「おおおい、連絡くらいしなさいよ! 一年音沙汰なしで、忘れられたかと思ったんだけど?」
「……ごめん。受験で、いっぱいいっぱいで」
「まあそれなら許すわ。元気そうだしね」
麻衣さんは口では乱暴だけど、目がちゃんと優しい。
その後ろで、大崎くんが少し驚いたような顔で私を見ていた。
「久しぶりだな、青崎。……元気だった?」
「うん、元気。今日ね……報告があって来たの。その前に、大崎くん」
「ん?」
「コーヒーもらっていい?あの時と同じ、ホットコーヒーください」
私がそう言うと、大崎くんは少し驚いた顔をしてから「了解」と言ってあの八重歯の見える笑顔で笑った。
麻衣さんはそっと私に背を向けてキッチンへ戻る。
私はあの時と同じ。
窓際のカウンターに腰掛けた。
あの時は、ただただがむしゃらに走ってここにたどり着いた。
親との向き合い方がわからなくて、しどろもどろしていたあの時はもう一年以上前のこと。
「おまたせしました。冷めないうちにどうぞ」
夏の夜にもかかわらず私の前にコトッと置かれるホットコーヒー。
あまりの季節外れ感に思わず笑ってしまう。
コーヒーを持ってきた大崎くんはそれ以上何も言わず私の隣に座った。
私はあの時と同じようにゆっくりとカップを持ち上げ、コーヒーを一口飲んだ。
「どう?」
「やっぱり、苦いね」
私がそう言うと、大崎くんはそっと砂糖とミルクを差し出した。
私は、それらを受け取りミルクと砂糖を入れてゆっくりとかき混ぜてからまた一口飲む。
「うん、やっぱり私にはまだ早かったみたい」
口元が緩む。
大崎くんはそんな私を見て、ふっと笑った。
私は、バッグの中から封筒を取り出す。
差出人には、ある大学の名前が印刷されている。
「実はね……合格、したの。第一志望」
一瞬、店内の空気が止まった。
「……っしゃあああ! やったじゃん、花ちゃーん!!」
キッチン裏にいたはずの麻衣さんがいつの間にか後ろに立っていて、後ろからぐっと抱きしめられた。
「わ、ちょ、汗でベタベタ……!」と抗議しながらも、笑いがこぼれてしまう。
「いやあ、ほんとにすごいよ、花ちゃん。やっぱ根性あるわ」
大崎くんも隣で、少し照れくさそうに笑ってくれた。
「おめでとう。……すごいよ、青崎」
「ありがとう」
私は二人の顔を順に見て、胸の奥から湧き上がる気持ちを、ひとつひとつ言葉に変えた。
「この店で働いた日々も、麻衣さんの言葉も、大崎くんのまっすぐさも……全部が、私の支えだった。ひとりじゃ、きっと届かなかった」
麻衣さんが鼻で笑う。
「……ま、私のおかげってわけね。まあ、感謝してくれて当然?」
「うん、ほんとに……感謝してる」
大崎くんと目が合った。
あのときの切なさも、涙も、全部抱きしめて前に進めたから、今の私がいる。
「大学はちょっと遠くなるけど……また、帰ってきたときは、顔出してもいい?」
「当たり前でしょ」と麻衣さんは腕を組んで言った。
「むしろ、手伝わせるから覚悟しときな」
「ふふ……うん、喜んで」
大崎くんは相変わらず多くは語らなかったけど、ただ「待ってるよ」と静かに言ってくれたその声が、なんだか嬉しかった。
店を出ると、夜の風が涼しくて、思わず大きく息を吸った。
見上げた空には、星がぽつぽつとまたたいている。
私の夏が、また一歩前に進む。
止まっていた季節が、ようやく動き出したような——そんな気がした。
カラン、とドアベルが背後で鳴った音に、振り返った。
「……青崎!」
大崎くんの声だった。
振り返ると、店内の光を背に、大崎くんのシルエットが浮かび上がっていた。
飛び出してきた彼は、ちょっとだけ息を切らしていた。
「どうしたの?」
思わず笑って聞き返すと、大崎くんは額の汗を手でぬぐって、少しはにかんだ顔で言った。
「いや、……言いそびれるところだった」
そう言って、私の前に立つ。
「俺さ、専門、行くことにした」
「……え?」
驚いて声が漏れた。
大崎くんは進学よりもカフェでの仕事を続けると思っていたから。
「今までは、ずっと“ここ”で生きてくつもりだった。でも……お前が頑張ってるの見てて、自分も何か変えたくなったんだ」
夜風が、大崎くんのシャツを揺らす。街灯に照らされたその顔は、どこか照れくさそうで、それでもまっすぐだった。
「来年、調理の専門に進もうと思う。ちゃんと学んで、自分の力で、料理で勝負したい。……この店に、ちゃんと戻ってくるために」
私はしばらく黙って、大崎くんの目を見つめていた。
それから、心の奥からじんわりあたたかい何かが湧いてきて、そっと笑った。
「……かっこいいじゃん」
大崎くんが少しだけ目をそらして、鼻をかいた。
「そうでもねぇよ。……お前には敵わないし」
「そんなことないよ。……すごい、大崎くん。応援する。めちゃくちゃ、応援してるから」
私の言葉に、大崎くんはようやく少しだけ照れくさそうに笑ってくれた。
「ありがとな、青崎。……また、どこかで」
「うん。またね」
ふたりで軽く手を振って、大崎くんはゆっくりと店に戻っていった。
私はもう一度、夜空を見上げる。
遠ざかっていく足音が、どこか未来の約束みたいに、静かに響いていた_______。
だってここは、私にとって大切な帰る場所だから



