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 放課後、校舎裏のベンチには、大崎くんが先に来ていた。
 制服のシャツの袖を少しだけまくり、頬に風を受けながら、どこか遠くを見ていた。

 「待たせた?」

 声をかけると、大崎くんはゆっくり振り返り、穏やかに笑った。

 「ううん、俺も今来たばっか」

 使い古されたその言葉に、思わず笑ってしまう。
 私は隣に腰を下ろし、少しの沈黙のあと、口を開いた。

 「……親に、話したよ。ちゃんと」

 大崎くんの表情が少しだけ変わった。目が、私をまっすぐに見つめる。

 「うん。最初はやっぱり反対された。でも、私、本気だって言ったの。歴史が好きで、誰かに伝えたいって。その気持ちを、諦めたくないって」
 「……そっか」

 大崎くんは、ゆっくりと頷いた。

 「お父さんも、最後は『後悔するなよ』って言ってくれて。お母さんも、『一緒に頑張ろう』って……なんか、信じられないくらい、ちゃんと伝わった」

 それを口にして、ようやく実感が湧いてきたのか、私の目元が少し熱くなる。

 大崎くんは優しい眼差しで、静かに言った。

 「よかった。青崎の夢が、ちゃんと届いて」
 「大崎くんが背中を押してくれたからだよ」

 そう言って、私はベンチの縁を指でなぞった。心臓が少しだけうるさい。

 けれど、今なら言える。伝えたいと思った、ずっと前から。

 「……ねぇ、大崎くん」
 「ん?」
 「ありがとう、って言いたかったのは、夢のことだけじゃないの。ずっと……私ね、大崎くんのことが、好き」

 さっきまで吹いていた風が、嘘みたいに静かになった。
 空気が、一瞬だけ、時間の中で凍りついたようだった。

 「最初は、自分でもわからなかった。でも、誰かを想うって、こういうことなんだって気づいたときには、もう止められなかった」

 言葉がないまま、大崎くんの目がただ伏せられていた。

 「……ごめん」

 低く、苦しげに、大崎くんが口を開いた。

 「俺……麻衣さんのことが好きなんだ」

 胸の奥が、ひどく冷たくなった気がした。

 じっとりとした夏の夕暮れ。セミの声が遠くで鳴き、茜色に染まる空に、入道雲がゆっくり形を変えている。

 大崎くんは、何も言わずにうつむいたまま。

 私は並んで座るベンチで、膝の上に置いた手を強く握った。風はぬるく、頬に張りついた前髪を少しだけ揺らした。

 「大崎くんが麻衣さんのこと好きなの……気づいてた」

 言いながら、胸の奥がじわりと痛む。でも、不思議と涙は出なかった。そして、何とか私は無理やり口角を上げた。

 「それでも、自分の気持ちに、ちゃんと区切りをつけたかったの。……中途半端なまま、何も言えないまま、大人になるのはイヤだったから」

 セミの声が、ひときわ大きく聞こえた。

 大崎くんの肩が、ゆっくりと動いた。

 「……ごめん。青崎のこと、傷つけたくなかった」
 「ううん。謝らなくていいよ」

 私は笑った。少し無理やりだったけど、それでも言葉に嘘はなかった。

 「ちゃんと伝えられてよかった。ありがとう」

 大崎くんが、少し驚いたように顔を上げた。
 私は、その視線をまっすぐ受け止める。

 「私これからも麻衣さんのカフェで働くつもり。だって、あの場所が好きなんだ。麻衣さんも、大崎くんも、私にとって大事な人だから」
 「……いいの?」
 「うん。片想いが終わったからって、全部を失うわけじゃないって、今なら思えるから」

 風鈴の音が、どこかの家から微かに聞こえてきた。

 私は立ち上がって、大きく背伸びをした。
 夏の空気が肌にまとわりついて、夕陽が世界をオレンジに染めている。

 「振られたからって関係は終わらないんだよね」

 大崎くんはしばらく黙っていたけど、やがて、小さくうなずいた。

 「……青崎、ありがとう」
 「ううん。私のほうこそ。あと、あの言葉はこれからも継続でいいよね」
 「あの言葉……?」
 「これからも、私の味方でいてくれるんだよね」

 大崎くんは、返事の代わりにあの八重歯の見える笑顔で私に微笑む。それだけで、私はもう十分だった。

 「また今度ね。カフェで」

 私がそう言って笑うと、大崎くんも、少し照れたように口元を緩めた。

 夏の夕暮れに響くセミの声のなか。
 私の恋は終わった。でも、大切な人との関係は、きっとこれからも続いていく。少しだけ大人の形に変えて、歩き出した。