翌々日の夕方、学校からの帰り道。
 買い物帰りの母と、偶然すれ違った。

 「花、ちょっと手伝って」

 そう言って差し出された買い物袋を、私は素直に受け取った。

 買い物袋の重さより、ふたりの間に流れる沈黙のほうが、ずっと重たく感じた。

 けれど——昨日とは少しだけ違う。私は、心の中に一つだけ灯った言葉を、しっかりと抱えていた。

 あの公園で、大崎くんがくれた「俺は味方だよ」という言葉。

 誰か一人でも、自分を信じてくれる人がいるなら、もう一度向き合ってみたいと思えた。

 家に着くと、母はキッチンで夕飯の支度を始めた。私は袋の中の野菜を冷蔵庫にしまいながら、ぽつりと口を開いた。

 「……昨日、ごめんね。言い方、きつかったかもしれない」

 包丁の音が一度だけ止まって、またすぐに再開された。

 「別に怒ってたわけじゃないの。ただ、心配なのよ。夢だけじゃ、生きていけないって知ってるから」
 「うん、わかってる。……でもね」

 私は、自分の手をぎゅっと握りしめた。

 「夢だけじゃない。“学びたい”って気持ちが、ちゃんとあるの。昔から歴史や美術が好きで……もっと深く知りたいし、誰かに伝えられる人になりたいって、思ってる」

 母は、しばらく無言だった。
 私は言葉を続けた。

 「現実が厳しいのはわかってる。就職も難しいかもしれない。……でも、それでも挑戦したい。だって、自分の人生を諦めたくないから」

 切ったにんじんを鍋に入れる音が、静かに響いた。

 「誰かが、“夢って、自分だけのもんじゃない”って言ってた。だけど、私は、自分の夢を“自分のものにする”ために、努力したいって思ったの」
 「……誰?」

 母が不意に聞いた。
 私は少し戸惑ってから、目をそらすように笑った。

 「ううん、ちょっと話をした人。……でも、その言葉に救われたの」

 母は何も言わなかった。

 だけど、その沈黙は昨日と違って、怒りではなく、考えるためのもののように思えた。

 「私、ちゃんと調べてみる。学芸員になるために必要なこと、大学のこと、就職のこと……全部自分で調べて、整理して、また話す。だからもう一度だけ、話を聞いてほしい」

 しばらくして、母は火を止めて、私のほうに振り返った。

 「……わかった。話して。それを聞いてから、もう一度、家族でちゃんと考えよう」

 私は小さくうなずいた。

 それは、完全な賛成じゃない。でも、拒絶でもなかった。
 言葉は、届くことがある。たとえ、すぐじゃなくても。
 そのことを、大崎くんが教えてくれた。

 私は心の中で、もう一度彼に「ありがとう」とつぶやいた。

 母と夕飯を作り終えたころ、父が帰宅した。

 「ただいま」
 「おかえり。お風呂、わかしてあるよ」

 母のいつも通りの声に、私は胸の奥がほんの少しだけ軽くなるのを感じた。
 食卓に三人がそろった頃には、少しだけ初夏の夜風が窓を揺らしていた。

 昨日と同じように、味噌汁の湯気が立っている。けれど、空気は、少し違っていた。

 私は箸を置いて、顔を上げた。

 「……もう一度だけ、話を聞いてほしい」

 父が一瞬だけ動きを止める。母は静かに頷いた。

 「夢だけじゃない。“学びたい”って気持ちがあるの。学芸員っていう仕事を通して、歴史や美術を伝えたいって、心から思ってる」

 昨日と同じ言葉。でも、今度はちゃんと前を見て言えた。

 「現実が甘くないのは分かってる。でも、やってみたい。挑戦して、それでもダメだったら、その時また考える。……だから、進路希望に、“学芸員を目指す”って書かせてほしい」

 沈黙が落ちた。

 テレビもついていない、箸の音もない、ただ時計の秒針だけが部屋を進めていく。

 父はしばらく無言だったが、ふっと小さくため息をついた。

 「……頑固だな、お前も」

 その声は、昨日のように冷たくはなかった。

 「正直、心配はあるよ。将来のことを考えて、安定した道を歩いてほしいと思うのは、親なら当然だ」

 「うん」

 「でも、お前がそこまで言うなら、もう俺たちがとやかく言うことじゃないな」

 その言葉が、信じられないくらいゆっくり胸に落ちてくる。

 「……ほんとに、いいの?」

 「まぁ、言ったからには簡単に諦めるなよ。後悔したって戻れないんだからな」

 「うん。ありがとう」

 自然と、涙がにじんでいた。母も、そっと笑った。

 「それに……」と父が続けた。

 「人に何かを伝える仕事って、悪くないかもしれないな。昔、美術館で“この絵の作者、実は—”って小学生に話してたスタッフを見たとき、なんだかいい仕事だなって思ったこと、ちょっとだけ思い出したよ」

 私は思わず笑った。

 「……お父さん、そんなこと考えるんだ」

 「たまにはな」

 父は照れくさそうに咳払いをした。

 母も、優しい声で言った。

 「花が、自分で選んだ道なら、私たちは応援するよ。これから大変だと思うけど……一緒に頑張っていこうね」

 私は深く、何度も頷いた。

 ——夢を語ることは、もう罪じゃない。
 そう思えた夜だった。

 窓の外、遠くに見える夏の星が、ひとつだけ、強く瞬いていた。